2018.1 メキシコの旅5の1 2日目 プエブラ/メキシコ中部地震 カモテ タラベラ焼き
9:20、バスに戻り、プエブラに向かう。プエブラPueblaはメキシコシティの南東120km、活火山のポポカテペトル山の東40km、ポポカテペトル山の裾野に位置する街である。
1521年にアステカ王国を滅ぼしたスペインは、間髪を入れず未開の地であったこの土地に本国から農民たちを移住させてスペイン風の街をつくった。それがプエブラで、植民地時代の街並みが世界遺産に登録された
標高は2100mほどの高原で、メキシコシティの標高2300mほどと余り変わらない。高原はイベリア半島を思い出させるらしい。プエブラも発展を続け、現在の人口はおよそ150万人、メキシコ第4の都市になっている。
2017年9月、プエブラの南55kmを震源とするマグニチュード7.1のメキシコ中部地震が発生した。死者は360人を越え、負傷者は4700人に及んだ。
メキシコは、これまでも1985年のメキシコ地震、2003年・2012年のメキシコ南部地震、2017年のチアパス地震など大地震が発生して大きな被害を受けている。
今回の世界遺産を巡るメキシコツアーは、当初、2日目にクエルナバカ市内+ソチカルコ遺跡の見学だったが、メキシコ中部地震の被災修復のため大聖堂などの見学ができなくなった。そこで、2日目はプエブラ市内+ポポカテペトル山中腹に点在する修道院見学に変更になった。
どちらも世界遺産であり、コース変更には異論は無い。一刻も早い復興、再建を期待したい。私たちのツアー費用が復興支援の一助になれば幸いである。
メキシコ自治大学を出て間もなくすると、茶色みの強い畑地の風景になる。林の向こうに民家が点在する。山裾も見えてくる。バスはポポカテペトル山を最高峰とする山塊を上り、3000mほどの丘陵を超え、やがて下りになる。
再び、畑地と小さな街の風景を繰り返し、途中トイレ休憩を挟み、次第に街の風景が多くなってきて、12:00ごろプエブラに着いた。世界遺産に登録されている旧市街は大型バスが入れないので、市バス停留所近くでバスを降りた。市バスが頻繁に停まる。乗り降りが多い。商店街を行く人も多い。活気を感じる。
ガイドが菓子店に入り、伝統菓子camotesカモテを指さした。サツマイモはメキシコが原産で、camoteと呼ばれるが、プエブラではサツマイモ菓子もカモテと呼ばれて、人気だそうだ。
太さ2cm、長さ10cmほどの棒状になっていて、オレンジ、レモン、マンゴ(写真)などの味付けがされている。かけら状のカモテもあり、店員が試食用に小さく切ってくれた。甘く味の付いた乾燥芋のような感じだった。何人かがさっそく買い求めていた。
次にタラベラ焼きの店に入った。このあたりに良質の粘土が産出し、先住民は質のいい焼き物を作っていたらしい。スペインがメキシコを支配下に置いてほどなく、マヨルカ焼きがメキシコにもたらされた。
プエブラが開発され、良質の粘土が産出することから、タラベラでマヨルカ焼きが行われ、タラベラ焼きと呼ばれた。先住民の陶工も手伝わされたであろうから、先住民の技巧も加味されたはずだ。
元を正すと、イベリア半島を支配したイスラム教徒がアラブの陶芸技法を持ち込み、ポルトガルではアズレージョ、スペインではアスレホと呼ばれる単色の上薬をかけたタイルが生まれた。
レコンキスタ国土回復後、スペインに住み着いたイスラム教徒=ムーア人陶工による上薬をかけた焼き物がマヨルカ島を経由してイタリアに輸出された。ルネサンス期、イタリアで錫釉で多彩色の陶器が生産されるようになり、マヨルカ焼きと呼ばれた。
イタリア製マヨルカ焼きは、彩りの豊かな絵付けが評判でヨーロッパ中に広まっていった。だから、タラベラ焼きは、スペイン・ムーア人、イタリア人、メキシコ先住民の技術の混成形といえよう。
メキシコを植民地としたスペインは各地に巨大な教会堂、聖堂の建設を始めたのでタイルの需要が高まり、タラベラ焼きが大量に生産されたこともタラベラ焼き普及の要因になった。
タラベラ焼きの店の奥ではガラス越しに、職人が絵付けをしていた。手前に絵付けの行程を示す皿が並んでいた。店内に陳列されているタラベラ焼きは、植物文様、幾何学紋様、単色、多彩色、皿、器、壺など多様で、見ているだけでも楽しめる。ただ、焼き物はけっこう重い。まだ見学が始まったばかりなので、見るだけにして店を出た。