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2023.4滋賀 延暦寺西塔・横川を歩く

2024年03月30日 | 旅行

 2023.4 滋賀 比叡山延暦寺 西塔・横川を歩く

 比叡山ドライブウェイは、東塔を過ぎると奥比叡ドライブウェイに名を変える。東堂から奥比叡ドライブウェイを北に数分走ると、西塔の駐車場に着く。
 木立のあいだの坂道を東に下り、突き当たりで釈迦堂、常行堂・法華堂の案内に従って左=北に折れる。弁財天の石鳥居の先は左手に石垣が築かれていて、親鸞聖人ご修行の地、真盛上人修学之地の碑が立つ。山深いこの地で親鸞(1173-1262、浄土真宗の宗祖)、真盛(1443-1495、天台宗真盛派の祖)を始め多くの僧が仏道を究めようと修行したようだ。
 木立のなかを道なり北に進むとにない堂が行く手を遮る(写真、重要文化財)。左が阿弥陀如来を本尊とし、常行三昧の修行をする常行堂、右が普賢菩薩を本尊とし、法華三昧の修行をする法華堂で、高床の廊下でつながっている。
 になう=担うで、伝説では弁慶が天秤棒をかつぐように廊下を肩に乗せ左右の二堂を担いだとされ、「にない堂」と呼ばれている。説明板には1595年に建てられたと書かれているが、武蔵坊弁慶は平安時代末期、源義経の郎党として活躍した僧侶だから年代があわない。伝説が生まれたように古くから常行堂+高廊下+法華堂が建っていて、織田信長の焼き討ちで焼失し1595年に再建されたということであろう。
 常行堂、法華堂ともに間口5間、奥行き5間、トチ葺き宝形屋根で、常行堂は西正面に、法華堂は東正面に奥行き1間の向拝をつける。廊下は間口4間、奥行き1間である。非公開なので、常行堂、法華堂の向拝前で一礼する。
 
 にない堂の高廊下をくぐり、石段を下る。途中の恵亮堂という小さな堂を過ぎ、石段を下りきると広い境内の先の基壇の上に釈迦堂が壮大に構えている(次頁写真、重要文化財)。西塔の中心となる堂で、正式名称は転法論堂(てんぽうりんどう=説法の堂の意味)で、伝教大師最澄が彫った釈迦如来を本尊とすることから釈迦堂と呼ばれる。
 最澄の付嘱を受け円澄(えんちょう)が834年に創建したが、織田信長の焼き討ちで焼失したのち、豊臣秀吉が1596年に圓城寺=三井寺の金堂を移築させのがいまの釈迦堂である。三井寺金堂は1347年の建立で、織田信長の焼き討ちで延暦寺の堂宇が焼失したため、釈迦堂が最古の建築になる。
 間口7間、奥行き7間、銅板葺き入母屋屋根で、移築後に根本中堂と同じ内陣の本尊と外陣の参拝者が同じ高さになる天台造に改修されたそうだ。内陣は通常非公開なので、基壇を上がり、釈迦如来をイメージしながら合掌する。
 境内が広々しているのは、かつては堂宇が建っていたが焼き討ち後に再建されなかったからであろう。西斜面の上に建つ鐘楼を見上げ、石段を上り、にない堂を抜け、車に戻る。

 西塔から横川に向かう途中に見晴らしのいい食事処がある。東塔にも食事処があったが、琵琶湖の眺望を選んだ(写真)。比叡山の修行者は深山で瞑想し、琵琶湖の遠大な風景を眺めて天上天下の真理に達しようとしたのではないだろうか。凡人は、雄大な眺めを楽しみながら食事を済ませた。

 奥比叡ドライブウェイを北に少し下ると横川(よかわ)の駐車場に着く。延暦寺・横川と書かれた木柱のあいだの参道を下る。木立を背にして根本如法塔が建つ(次頁写真)。慈覚大師円仁(794-864)が書写した法華経を納める宝塔を建てたことから、横川発祥の聖跡として根本如法塔と呼ばれる。宝塔は織田信長の焼き討ちで焼失し?、1925年に現在の塔が寄進されたそうだ。
  うっそうとした木立の山道を下ると、元三大師堂が建つ(写真、重要文化財)。慈恵大師=元三大師良源(912-985)の住居跡と伝えられ、春夏秋冬それぞれの季節に法華経の論議を行ったことから、四季講堂とも呼ばれる。
 元三大師堂を拝観する。984年、疫病が流行り、大勢が全身を冒された。疫病から人々を救おうと元三大師が鏡の前で目を閉じ坐禅すると、鏡のなかの元三大師が夜叉の姿に変わった。弟子の阿闍梨が夜叉の姿を写し、それをもとに夜叉の札を作り、元三大師が開眼して角大師(写真web転載)として人々に配り、この角大師札を戸口に貼ると病魔が恐れをなして退散し人々は厄難から逃れることができた、と伝えられる。
 商家、農家の戸口に貼られているのをよく見かける。厄除けと聞いていたが、角大師と呼ばれ、元三大師による疫病退散が始まりとは知らなかった。科学的には札に疫病退散の効能はないが、角大師札を見て、外出に注意し、手洗い、うがいなどを心がけるきっかけになれば、ウィルスなどの予防になろう。

 元三大師堂を出て右に折れた先に横川鐘楼が建つ(次頁写真web転載、重要文化財)。1687年の造営で、1間四方に瓦葺き切妻屋根を乗せる。山あいの荘厳な鐘の響きを聞いた鹿や猪や狐や鳥などの動物たちは、釈迦涅槃図に描かれたように信仰心が芽生えるのかも知れない。

 横川鐘楼で右に折れ、さらに山道を上ると、石垣の上に横川中堂が現れる(写真)。横川中堂は首楞厳院(しゅりゅうごんいん)と呼ばれる横川の中心の堂である。848年、慈覚大師円仁が創建し、その後何度か再建され、1942年に落雷で焼失したのち、1971年、鉄筋コンクリート造で当時の面影を残し再建された。

 慈覚大師円仁作と伝えられる本尊・聖観世音菩薩は災禍を逃れ、国の重要文化財に指定されている。
 石垣下から見上げると、懸造の構造がよく分かる。懸造は舞台造とも呼ばれ、横川を紹介したwebでは舞台造と説明している。石段を上り、東正面(写真)の外陣から内陣のおぼろに見える聖観世音菩薩に合掌する。根本中堂、西塔の釈迦堂と同じ、内陣の本尊と外陣の参拝者が同じ高さになる天台造である。
 比叡山延暦寺東塔、西塔、横川の参拝を終え、横川駐車場に戻る。

 延暦寺と前後して近江神宮、日吉大社、日吉東照宮、滋賀院門跡を参拝、参観して、琵琶湖に面した雄琴温泉の宿にチェックインした。露天温泉に身を委ね、雄大な琵琶湖の風景を眺めているといっときだが信心深くなり、般若心経を唱える。 (2024.3)

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