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ダーチャと日本の強制収容所

2015-12-09 17:16:20 | 読書
友人からお借りした本です。

明日、お返ししなくてはならないので急いで読後感を簡単に記します。



筆者の望月紀子さんはイタリア文学の翻訳者です。

ダーチャというのはダーチャ・マライーニというイタリアの作家・詩人・劇作家で、ノーベル文学賞候補に挙がったこともあります。

ダーチャは民俗学者の父フォスコ・マライーニとともに戦前一家で来日し、2歳から9歳までを日本で過ごしました。

終戦までの約2年間、愛知県天白村にあった松坂屋デパートの社員保養所「天白寮」を接収した抑留所に収容されました。

歴史の授業で学んだ日独伊の三国同盟が記憶にあったので、始めは「何故、同盟国イタリアの人々が収容所へ?」と疑問に思いました。

この本で初めて知ったのですが、当時ファシズム大評議会で独裁者ムッソリーニが罷免され、新政権は1943年9月8日に連合軍との休戦を発表したのだそうです。

そして日独伊三国同盟から離脱したためにイタリアは日本にとって一挙に友邦国から敵国に、それで在留イタリア人は敵国人になったのです。

しかし、その時、罷免され幽閉されていたムッソリーニは早くも9月12日にはドイツ軍に救助され、ドイツの傀儡政府サロー共和国が樹立されたのです。
日本政府は9月27日に早速新政府を承認しました。

在日イタリア人にはこのファシスト新政府への宣誓が求められたのですが、それを拒否した人々が収容所に送られたのです。

日本を裏切った以前の同盟国の人々に対して特高の取り締まりは特に厳しく、収容所での待遇はとても苛酷だったようです。

食糧はほとんど配給されず、飢えのためゴミ箱を漁っては果物の皮などを食べたりもしたそうです。

ダーチャの母親トパーツァはシチリア島の貴族の出身で宮殿で優雅に暮らしてきました。

日本に来た当初は同盟国の留学生ということで待遇も良く、確かに北海道で夫がアイヌ研究をしていた頃は北海道の寒さに驚いたようですが、

後に京都に滞在した折は京都の美しい四季の風景に感動し、冬は志賀高原でスキー、夏は軽井沢で避暑という暮らしをしていたのですから、

天白村の収容所生活は本当に大変だったようです。

ダーチャにとっても辛い収容所暮らしだったことでしょう。

特高の目を盗んで食べ物を運んできてくれた親切な農家の方々もいたということが

日本人の読者にとっては少し慰めになります。



コメント (2)
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