風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

その空は水と光にみちているか

2019年07月28日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(7)山寺は夏へ    


見上げると、はるか崖の上に堂宇が見える。
「山形領に立石寺(りっしゃくじ)と云ふ山寺あり」(『奥の細道』)と。
その山形には、これまで馴染みがなかった。はじめての山形の、雨上がりの湿った空気を深く吸い込みながら、千段の石段をのぼる。
木々も岩も垂直に立っている。雨の里を離れて、登るほどに空が青く澄みわたっていく。いつのまにか梅雨の雲を突き抜けたのだろうか。

ひたすら石段をのぼる苦役は、楽しい旅の感覚をとっくに失っている。あくせくする汗の日常に引き戻されるようだ。体が重い、足が重い、呼吸が重い。はたして千段もの石段を登りきることができるのだろうか、と不安がよぎる。登りきったところに何があるのか、わからないから石段が尽きるまで登ってみたくなる。
「慈覚大師の開基にして、ことに清閑の地なり。一見すべきよし」と地元の人に勧められて、芭蕉もこの山を登ったとされる。

「岩に巌(いはお)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(ふり)、土石老いて苔滑(なめらか)に、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩を這(はひ)て、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ」(『奥の細道』)。
   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声 (芭蕉)
この地を芭蕉が訪ねたのは、いまの7月の半ば頃だったらしい。いまはウグイスとホトトギスの鳴き声だけが聞こえる。澄み渡った大気と静寂の中で、鳥の姿もくっきりと目に見えるようだった。

息も汗も使いきって、やっと石段を登りきった。
この山には、修行の岩場と呼ばれる場所もあるという。釈迦のみもとに通じようとする行場だが、俗世の欲を捨てきれない修行者たちが、しばしば岩場から転落したという。当然ながら、われわれ欲まみれの俗人は立ち入ることは禁じられている。
五大堂は崖から突き出した展望台になっていて、そこからの眺めはすばらしかった。まさに佳景寂寞。この旅行ではじめて、澄み渡った美しい景色を見ることができて、千段の石段の疲れもいっきに吹きとんだ。

眼下には、山があり川があり、道があり線路があり、集落がある。このたびの旅の情景が集約されてそこにあり、すべて俯瞰されるようだった。
下界を突き抜けたさらなる高みに、久しぶりの晴れ渡った空があり、まばゆい太陽があった。いまここから、やっと東北の夏が始まろうとしているのかもしれなかった。





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