風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

小さな花の国から

2020年05月09日 | 「新エッセイ集2020」

 

いつもの、170センチの視界ではなく、
たまには30センチほどの、膝下の視界に下りてみる。
いまはそこも、花ざかりの国だった。
名も知らぬ小さな花、花、花。ぼくの知らない花ばかりだ。
均整のとれた6枚の花びらがある。拡大することができれば、ユリの花にも負けないかもしれない。
などと、ぼんやり見つめていたら、
「その花、ニワゼキショウっていうんですよ」と、通りがかった人がその花の名前を教えてくれた。

「ニワゼキショウ?」
こんな見過ごしてしまいそうな小さな花に、誰がそんな立派な名前を付けたんだろう。
よく見ると、あたり一面に同じ花の顔があった。これだけ群生していたら、名前が付いてても不思議ではない存在感だった。
ぼくが知らないだけで、どんな雑草でも名前はあるのだった。そして、名前を知ることによって、あらためて花も草も存在しはじめるものなのだった。
その時ぼくの国では、ニワゼキショウの花がやっと咲きはじめたところだった。

花の名前をひとつ覚えて、いつもの視界にもどると、スイカズラの白い花が甘い香りを放っている。
高い木のてっぺんでは、ニセアカシアの花がにぎやかに咲き、ヤマボウシもひっそりと咲いている。
普段は花にそれほど関心があるわけではないが、きゅうに花ばかり気になるのだった。
目の治療をして、細かいところまで見えるようになったからかもしれない。かつて見なれていた風景が、また戻ってきたような新鮮な喜びだった。

小さなニワゼキショウの花から、大きなユリの花を連想する。すると花から花への幻想が広がっていく。
「ユリの花に火をつけて、茎をキセルのように深く吸いこむと、それは麻薬のように私たちを不思議な国へ案内してくれる」という。
寺山修司の詩だか短文だかの一節が浮かぶ。
「ただ、だれもそのことを知らないので、ためしたことがないだけなのです」という。


   
  京うちわで疫病退散

 

 

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