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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

雲の日記

2017年07月22日 | 「新エッセイ集2017」

小学生の頃の夏休みに、雲の日記というものに挑戦したことがある。
絵日記を書く課題があったのだが、その頃は絵も文章も苦手だったので、雲を描写するのがいちばん簡単だと考えたのだった。
たしかに雲の写生は簡単だった。白と灰色のクレヨンがあればよかった。日本晴れの日は雲がない。何も描かなくていい、やったあ、だった。
それでも1週間も続かなかった。やはり簡単で単純なものは面白くないのだった。

午後は、日が暮れるまで川にいた。
湧き水が混じっているので冷たかった。泳いでいて体が冷えきってくると岸に上がり、熱した砂に腹ばって温まる。熱くなると、また川に飛び込む。
夏休みは毎日、それの繰り返しだった。

砂地に寝転がってぼんやり空を見つめていると、頭の中がとほうもない空のようにからっぽになった。
雲が流れていた。ああ、雲が流れているなあと思った。それ以外に思考は広がらなかった。
空腹になると、クルミの木の高い茂みに石を投げて実を落とす。かたい種を河原の石で砕き、白い実を取り出して食べる。実と殻と砂が口の中でじゃりじゃりするので、舌先で固いものだけを避けては、吐き出し吐き出しして食べた。

お盆の頃になると、河原は無数のトンボが飛び交いはじめる。
トンボには仏さんが乗っているから、殺生してはいけないと大人に言われた。でも子どもは、禁じられたことはすぐに忘れてしまう。というより、やってみたくなる。
細い竹の棒をふりまわして、飛んでくるトンボをつぎつぎに叩き落とす。空中でバシッという手ごたえを残して、トンボは翅を広げたまま川面に落ちる。
トンボが笹舟のように、揺れながら流れていくのが痛快だった。生贄となったトンボの翅が次第に川面を埋めつくしてゆく。無為なるぼくらの夏を、いっとき満たしてくれる祭典だった。

いくどかの夏をやり過ごす。簡単で単純なことにも挫折はあった。
その挫折感とともに雲の日記を思い出す。空には雲が、川面にはトンボの翅が、悔恨の影を落として漂っている。
今のぼくには、雲はたいそう複雑な表情をしているようにみえる。
雲というものを、なんの変哲もない単純なものだと思っていた、遠い日の不思議な少年は、いまも河原に取り残されているようだ。


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ひとはなぜ、絵を描き始めたのだろうか

2017年07月19日 | 「新エッセイ集2017」

先日、近くの大阪府立弥生文化博物館に行ってきた。
およそ2千年前の弥生時代の土器や銅鐸に線描きされた絵は、見ているとどれも妙に懐かしいものがあった。
どこかで見たことがあるような懐かしさだ。それは幼児が初めて描く絵と似ている。ひとは誰でも、幼い頃そんな絵を描いていたにちがいない。
身近にある物のかたちを写し取ることができた喜びを、親子で味わった瞬間があると思うが、絵というものを初めて認識したときの、そんな懐かしい感覚が呼び覚まされるような気がした。

弥生時代に描かれた絵には、鹿、鳥、魚、人物や建物、舟などがあるが、なかでも、いちばん多く描かれているのは鹿のようだ。
当時は、鹿は身近に多くいた動物だったのだろうか。鹿は四季の移ろいに合わせて体毛や角の色が顕著に変化する動物だそうで、とくに春から秋への変態は、稲作農耕の田植えから収穫へのサイクルと、ちょうどマッチしていたのではないかと考えられている。
弥生人にとって、鹿は動く暦だったのだろうか。生長してゆく稲や鹿の色や形の移り変わりを、弥生人は大きな自然の変遷として見つめていたのかもしれない。

鹿の絵の中には、背中に矢が刺さったものもある。弥生人たちは鹿を狩猟して、その肉を食用にしていたようである。
飢饉や天災と戦っていたであろう彼らにとって、鹿は命をつなぐ大切な糧であり、農耕の指針であったが、また一方で、ひとは生きるための神の啓示も鹿に求めていたのだった。
彼らは鹿の骨を焼いて吉凶を占ったらしく、黒く焼けた鹿の骨も多く出土している。彼らは、さまざまな予測できない未知なるものに取り囲まれていたのだろう。

ところで、土器などになぜ鹿や鳥の絵が描かれたのだろうか。
それは、伝達するという意味があったという。伝達といっても人から人へではなく、神への伝達だったと考えられている。豊穣を神に願っての農耕儀礼だったのだ。
弥生人にとって、鹿は特別に神聖な動物とされていたようだが、鳥もまた神すなわち精霊が住む空を飛ぶところから、神への使い、あるいは死者の魂を天に運ぶ生き物と考えられていた。
四季に合わせて変容する鹿を追い、空を舞う神の鳥を見つめていた弥生人の宇宙は、豊かで広大なものだったかもしれない。

やがて弥生時代の後期になると、弥生人の描く絵はそれまでの具象画から、線や円といった記号が多くなり抽象化してゆく。これは、弥生人たちの間でそれまで伝承されてきた、農耕祭祀の意義が次第に薄らいでいったからではないか、と考えられている。
ひとが集団で生活を始め、米などの食料や農具や刃物などの鉄器が蓄えられるようになると、集落間の略奪などが起こり、さらには戦争へと進展していく。
鹿や鳥への素朴な崇拝から、銅矛(どうほこ)や銅戈(どうか)をかたどった祭器が作られるようになり、急速に武力崇拝へと移っていったようである。

鹿や鳥をはじめ、トンボやカメ、トカゲやクモなどが描かれていた時代は、動物や昆虫とヒトが、さらには死と生と、悪霊と神とが同居していた、ひとときの平和な時代だったのかもしれない。



どこかにいい国があるかな

2017年07月15日 | 「新エッセイ集2017」

ヒグラシの声を久しく聞いていない。

    また蜩(ヒグラシ)のなく頃となった
    かな かな
    かな かな
    どこかに
    いい国があるんだ
                 (山村暮鳥『ある時』)

ぼくの住んでいるあたりでも、かつては車で1時間ほども走ると、里山ではヒグラシが盛んに鳴いていた。
谷あいを細い川が流れ、瀬音に混じってカジカの鳴き声も聞くことができた。
清流の石ころに巣食っている川虫をとり、釣り針の先に刺して岩陰の落ち込みめがけて竿を振ると、ぐぐっと竿先が引き込まれる。回りの木や雑草を気にしながら竿を引き寄せると、美しいヤマメが宙を舞って手元に飛び込んでくる。冷たくてぬめっとした手触りと、揃えて並べたような青い側斑が美しかった。

ヤマメとの出会いに鼓動を早くしながら、瀬から瀬を上ってゆくうちに疲れて、流れのそばに開けた砂地で寝ころがっていると、両側に迫った山には、早くも薄暮のかげが深く落ち始めている。
その頃には、ヒグラシの声が山肌を突き抜けて降ってくるのだった。
ヒグラシがかなかなと鳴いている、そんないい国にいながら、ほかにも、どこかにいい国があるように思えるひとときだった。

それから後に、里山の入口には広い駐車場ができ、川原は水遊びやバーベキューで賑わうようになった。そして、ヒグラシの声もしだいに山奥へ追いやられていった。
いい国は、だんだん遠くなってゆくのだった。

その日は夏休みの最後の日だったかもしれない。
すこしずつ暗くなってゆく山あいの空に、ひとつふたつと点を打つように星が輝き始める。それらの星を縫うように、小さな星がゆっくりと流れていった。銀色に光る人工衛星だった。
ひとの手は星にまで届いていたのだ。
静止した星々の中で、ひとつだけ音もなく遠ざかってゆく星は、美しい星座の神話を、宇宙に新しく書き加えているようだった。ひとが作った小さな星が、どこかのいい国を目指して飛行しているようにみえた。

いま、どこかにいい国があるだろうか、と考える。
地球上のいたるところで、いきなり爆弾がどかんと炸裂する。地上から離れた高層ビルだろうと、アフリカ大地溝帯のど真ん中だろうと、選ばれた神のメッカだろうと、どこであろうと、一瞬にして廃墟になってしまう現実がある。
本当にいい国は、どこかにあるのだろうか。

人と人との、国と国との争いは幾千年も続いて、いまだに終りそうもない。
いい国はどこにあるのか。とほうもない光の世紀を超えて、はるか冥王星の彼方ほどの遠くに、その国はあるのだろうか。
記憶の中のヒグラシの声が、ときに首をかしげて鳴いているように聞こえる。
どこかにいい国があるかな? かな? かな? かな? と。


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むらさきいろさくかも

2017年07月12日 | 「新エッセイ集2017」

ことしもアサガオが咲いた。
種から種を引き継いできたから、咲く花の形も色もいつもと同じだ。今年もまた、いつもの夏の顔に会うことができた、といった懐かしさがある。
もう何年つづいているだろうか。もともとは、孫のいよちゃんから種をもらったものなので、たしかブログに記録が残っていると思って、ブログの中のアサガオを検索してみた。
早いものだ、十年一日の如し、10年前の記録が残っていた。
アサガオの花は、きょう一日を咲いているけれど、ひとは今日一日に10年の歳月を重ねることもできるのだった。その一日に戻ってみる。

***

7月に入ったばかりの朝、最初のアサガオの花が咲いた。
小学1年生のいよちゃんが、学校から種を持ちかえって植えた、そのあと余った種をもらったものだ。学校で習ってきたのだろう、ときどき管理の仕方を、あれこれと電話してくる。このアサガオはやはり、いよちゃんのアサガオの分身なのだ。

わが家でアサガオを見るのは久しぶりだ。
一時期、毎年アサガオを植えていたことがある。アサガオの花がそばにある生活が憧れだった。
新婚の友人の家に泊った夏の朝、窓を開けたらアサガオが咲いていた。ああ、いいなあ、と小さな感動をした。自分にも、いつかそんな朝があるだろうかと思った。
ぼくは結核の療養中で、大学も休学していた。ぼくに将来があるかどうかもわからなかった。紫色のアサガオの花が、幸せの象徴のように、確かな残像となって焼き付いたときだった。

いよちゃんに報告のため、咲いたばかりのアサガオの写真を写して、パソコンから娘のケータイに送った。いよちゃんはケータイを持っていないが、先日、娘に送ったメールの返事が、いよちゃんから届いたことがある。ひらがなばかりで「おかあさんはひるねしてます」というものだった。それで彼女もケータイを操作できることを知ったのだった。

しばらくして、レスが来た。
「いよちゃんのむらさきいろさくかも けど ピンクさくかも けど いよちゃんはむらさきいろがいいな~」
最近は、何を読んでも詩の言葉にみえてしまう。

***

10年前の、そんな夏の一日があったのだ。
きようは、アサガオの言葉が聞こえる。
「ムラサキイロさくかも けど ピンクさくかも けど ムラサキイロがいいかな」。 



木にやどる神

2017年07月09日 | 「新エッセイ集2017」

クリスチャンではないので、ふだん教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会には魅せられた。建物にみせられたのだ。
思わず教会の中に入ってしまったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。
周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、信仰を超えて、木の温もりの中に神が宿っていそうだった。
それは柔らかくて優しい神だった。

「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」
と規定される西洋の神よりももっと古い、言葉よりももっと古い神が、木には宿っているような気がするし、ぼくらが慣れ親しんでいる神も、そのような木の神に近いものだと思う。
そんな親しみのある神が、この木の教会には、柱の陰などにひっそりと隠れているような気がした。

正面の十字架の後ろには四角い窓があり、眩い外光が室内のⅩ字型に組まれた木の柱や木の椅子に、やわらかい影を投げかけている。山小屋や農家の納屋にいるような、厳粛さなどとはちがった、もっと和やかで愉しい空気に包まれる。
やはり木は優しいのだ。木は建物の一部になっても生きつづける。折々に触れた人々の汗と油を吸収し、艶となって鈍く輝いている。静かに昔語りをする老人のようだ。

いつか四国の古い芝居小屋で感じた、あの独特のくつろいだ雰囲気を思い出した。
そこには晴れやかに人々が集う日と、がらんとして静まりかえっている日があり、その繰りかえしの隙間に、人々を日常の外へと誘い出す、神のようなものがそっと潜んでいるようだった。信仰の神というよりも、芸能の神に近いもので、その場にいると、常よりも気分を高揚する何かがあるのだった。

旧軽井沢の聖パウロカトリック教会。
そこは、いろいろな神の近くにいるような、あるいは夢幻の領域に引き込まれようとしているような、そんな不思議な感覚の中で、しばらくは時を忘れることができる空間だった。
ゼウスの神とミューズの神が、仲よく共存していそうな、やさしい木の棲家だった。