ヤマモモの実がたわわになっている。
赤く熟れた実をみると取って食べたくなる。飢えていた子どもの頃からの習性だろうか。というよりも、ぼくらの子ども時代は木の実をとって食べるのが本能みたいなものであり、遊びでもあったのだ。
木の実はたいがい酸っぱさと渋み、それにわずかな甘みがある。子どもの頃に甘みに敏感だった舌は、成長するにつれて酸味や苦みへの反応が増していくみたいで、子どもの頃の味の記憶は忘れかけている。
木の実の甘酸っぱさは、いくどもの夏が濾過されたノスタルジックな味ともいえる。くりかえし季節を食べたという実感と、舌先にざらざらと何かが残る食感。少年の日の悔恨のようにかすかに跡を残している。さほど美味いものではないが、ただ食べてみた。そんな悔いのようなものだ。大人になって初めて味わう感覚かもしれない。
ヤマモモの実は、ジャムにしても適度の酸味がパンによく合うらしい。リカーに漬けたらおいしい果実酒ができると聞いた。
手元に飲みかけの佐藤という鹿児島の焼酎がある。これに漬けてみようかとも考えている。お遊びだから氷砂糖は入れない。完璧な果実酒を作るほどの思い入れはない。どんなものができるのかわからない。
佐藤は果実酒にしてしまうにはもったいない酒なのだ。とりあえず色だけを楽しんでみたい。
無色の酒が、どのような赤に染まっていくものなのか。
その赤いしずくを舌にのせる。体の芯の芯まで滴っていき、やがて冷たく蒼ざめた灯心に赤い炎が燃え移る。
重たい梅雨空を振り払って、ヤマモモの酔いは遠い記憶の、その先まで辿りつけるものだろうか。想いばかりが、しずかに時を待っている。