ブログに文章や写真をアップするのは、さほど複雑な作業ではない。
感じたことや考えたことなど、キーボードを打ちながら言葉にしていけば、それなりの記事となってきれいなフォントで表示される。手軽だし、文章で何かを表現したいという、一応の欲求は満たされる。
けれども、そのままで永久に残るというものではない。うっかりデリートキーを押しても消えてしまうし、電気的なトラブルでもあっけなく消滅する。
また、ブログとしてアップしたものでも、ブログサービスが廃止されてしまえばネットからは消えてしまう。ぼくは念のためハードディスクに保存しているが、器械だから電源がなければ表示されない。最後は紙にプリントアウトするか板切れに墨書するしかない、ということにもなりかねない。
考えてみれば、文字とは言葉とは儚いものだ。
10年ほど前に、1300年以上も昔の文字が発見されたというニュースがあった。
大阪の難波宮跡から、万葉仮名で記された7世紀中ごろの木簡が出土したのだった。
解読のために招かれた日本古代史の先生が、「一字一音だ」といって息をのんだそうだ。「万葉仮名の成立時期の通説もさかのぼる。これは大変なことになる」と、新聞の記事で読んだ記憶がある。
木簡は、難波宮造営のための埋立地から発見されたことから、難波宮の完成(652年)よりも古いと推定された。
土の中から見つかった木片(長さ約18cm、幅約3cm)を、水洗いして浮んできた文字は、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と墨書された漢字11文字で、これは「春草のはじめのとし」と読めるという。まさに一字一音だ。
「春草の」は、万葉集で枕詞として使われていることや、五七調の調子から、和歌の一節である可能性が高いとみられた。
万葉仮名は、漢字の音の当て字で表現されたものだが、のちにカタカナやひらがなへと発展してゆく、日本語の文字表記の原型ともいえる。
中国の古い史書『隋書倭国伝』には、日本のことを「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於いて仏教を求得し、始めて文字あり」と書かれているように、それまでのわが国には文字はなく、漢字を用いるしかなかったのだが、異国の文字を習得することは、いつの時代でも容易なことではなかったことが推測できる。
その頃の事情を、大野 晋の『日本語の歴史』からみてみると、
「古墳時代に、朝鮮から渡って来た多くの人々は、文字を自由に使いこなしていたであろう。ヤマトの人々は、文字――自己の思想や感情を音声で現わし、耳で聴く他に、表現を、目で見る形に変える新しい技術――を、畏敬の念と好奇の感情で捉えたであろう。人々は自己の言語を、その特性のままに、自由に、たやすく、早く表記したいと欲したであろう。この欲求こそが、仮名文字を発達させ仮名文を創り出した基本的なささえである。この欲望がどのようにして達成されていったかということが、即ち日本の文字の歴史となる。しかし、この欲望はたやすく成就したものではなかった」と述べられている。
先人たちは、外国語である漢文と悪戦苦闘したようだ。
なんとかして自分たちの言語で、自由に書きたいという強い欲求があったのだろう。漢字の音や日本風の読みを混ぜて使ったり、一字一音の表記法を考え出したり、そうやって生まれてきたものが、仮の文字ともいわれる万葉仮名だった。
そんなことを考えると、木簡に記された11文字には、日本語で歌を書き残すことの、苦しみと喜びの初々しい感情が込められているような気がする。
26字のアルファベットを組み合わせて言葉を綴っているヨーロッパ人が、何千語もある漢字のことを、悪魔の文字と呼んだそうだが、いま、ぼくたちは26字のアルファベットを使って、悪魔の文字を操作しているのかもしれない。
パソコンで文字を打つとき、まず頭の中に言葉があり、それをキーボードでローマ字で打ち込み、さらに漢字やかなに変換する。
このローマ字にあたる部分が、万葉仮名の漢字だったといえるかもしれない。万葉仮名の漢字やローマ字そのものには、言葉の意味は含まれていない。意味から意味へ橋渡しする単なる記号なのだ。
キーボードを打ちながら、1300年以上も昔の万葉人たちが、苦労して文字を操っていた思いが、ふと頭をよぎったりする。日本人は昔も今も、悪魔の文字と闘いながら、苦しみや喜びを綴っているようだ。