風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

吾亦紅(ワレモコウ)

2017年11月10日 | 「新エッセイ集2017」

 

学生の頃、東京ではじめて下宿した家の、ぼくの部屋には鍵がなかった。
だから、ときどき2歳になるゲンちゃんという男の子が、いきなりドアを開けて飛び込んできたりする。
そのたびに、気配を察した奥さんが慌ててゲンちゃんを連れ戻しにくるのだが、そのときに、いつも何気ないひと言を残していくのだった。

「玄関のお花、ワレモコウっていうのよ」
ぼくの部屋は玄関わきにあったので、ドアを開けると下駄箱の上の花が正面に見えた。
花にあまり関心がなかったぼくには、ワレモコウの花は花だか実だか曖昧な花だった。ぼくが気のない相槌を打つと、
「吾もまた紅(くれない)って書くのよ。すてきな名前でしょ」と奥さん。
花の名前にしてはあまりにも文学的だった。花そのものよりも名前の方が印象に残った。そのとき、ぼくの貧弱な花の手帳に、なにげない花がなにげなくセーブされたのだった。

奥さんは詩を書く人だった。仲間で同人雑誌を発行していて、ぼくも誘われていたのだが、気後れがして加わることができなかった。
たまたま奥さんから借りた村野四郎の『体操詩集』という詩集を読んだりしていたのだが、ぼくには詩というものがよく解らなかったのだ。
詩というものを書く人たちは言葉の曖昧な領域にいて、吾も紅、吾も紅と、それぞれが紅い個性で咲き誇っているようにみえた。ワレモコウという花の名前に感じたまぶしさは、詩というもの、詩人というものへの近づきがたい戸惑いでもあった。
吾も紅、と集まっている人たちの中へ入っていっても、ぼくはとても紅には染まれないだろうし、吾は紅などといえる自信も情熱もなかった。

だがその花は、ぼくの記憶の中で咲きつづけていたようだった。
ずっと後に信州へ家族旅行した時に、蓼科高原の草むらの中でその花を見つけたのだった。それは花のようであり花のようでもなかった。記憶の中のひとつの目印のようだった。
ぼくは心の中で古い花の手帳をそっと開いた。ワレモコウという花の名前が浮かんだ。花の名前というより人の名前を思い出したように感動した。懐かしい人と懐かしい歳月に出会ったようだった。
その花は言葉だった。
若い日に語られなかった言葉の数々が、風となって花の幹を揺らしてきた。吾もまた紅などと口からでてきた言葉に、おもわず涙が出そうになった。
詩というものを忘れていた長い年月が、いっきに引き戻された。
花は紅、吾もまた紅、体じゅうが熱くなって、すこしだけ紅の詩の世界に近づけたようだった。ぼくにも詩が書けるかもしれないと、一瞬だけ思った。

それからまた、詩を忘れたかなりの年月が過ぎた。
ふたたび、ワレモコウのことを思い出したのはいつだったろう。
ある日、花が言葉になった。
悲しみが、喜びが、苦しみが、言葉になった。
花のような実のような、よくわからない曖昧な言葉の領域を手探りしながら、ぼくは詩のようなものを書き始めていた。熱く燃えたい、紅になりたい、という欲求がよみがえってきた。吾もまた紅になれるかもしれない、と思いながら言葉と向き合った。
そのようにして、また長い年月が過ぎた。
花の言葉を語るということは、詩を書くということは、大いなる妄想にも似ていた。

 

 


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2 コメント

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吾亦紅 (お母ちゃんの徒然)
2017-11-15 10:42:47
おはようございます
吾亦紅 和文字で書くと文学が生まれそう
吾亦紅への追憶 文章の優しさに触れました
山間の草原にちょっと大きめのマッチ棒のよう
大好きな山野草をこんなに美しい文章で表現
惹きつけられます 有難うございます

イメージと違うかも すぎもとまさとさんの吾亦紅 好い曲です
https://youtu.be/yL2BKffsRcE
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よろしくお願いします
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われも紅に (yo-yo)
2017-11-15 15:49:10
お母ちゃんの徒然さん
丁寧なコメント、ありがとうございました。
動画の紹介もありがとうございます。

吾亦紅――
いろんな想いを誘発される花の名前ですね。
草原に咲いているのを見たのは、一度きりでしたけど。
それだけに強く印象に残っています。

あ、読者登録もありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。

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