
遠つ川の山桜の花が散るころ
はらはらはらと
道と空との境界があいまいになって
両手をまっすぐに伸ばしたひとは
山桜の木になってしまったそうですね
ひとの腕は折れやすいから
風が強いと心配です
季節がゆっくり移ってくれればいいのですが
ひとは鳥に追いつけるでしょうか
しずかな声で渡ってゆきます
山の稜線をていねいになぞっていた
あれは古い山桜の話です
遠つ川の山は深くて
風のゆくえもわかりません
どんな色合いに山が染まろうとも
古い約束は風化するばかり
もう花の山を見ることはできないから
はらはらはらと
遠くの声に耳をすますのです
こんな季節のあとには
ひとの想いも風になります
はらはらはらと
ハーブのお茶が飲みたくなるのです
深い谷から山の上へ
背中ばかりに花びらが散って
からだの奥を白い風が吹きぬけてゆく
そんな味のミントティーを
(2004)

正面から夕日がさしてくる
ひさしぶりの道で
ぼくは体があつくなった
釘で引っかいた土塀の落書き
古い名前が傷ついている
日陰の庭は
水の匂いが強くなる
この季節だけ
座敷の奥に女雛がすわる
蝋梅の縁側から覗いてみる
人形は変わらない顔のままで
同じ目をした女雛とおばあさんが並んでいる
ひいな遊びほどの昔でもないのに
おばあさんのしゃべる言葉が
ぼくにはよくわからない
蛙の鳴き声のように
ぐゎっこうぐゎっこうと聞こえる
女雛の小さな口が
かすかに開きそうになる
春が終わると
ふたたび住むひとがいなくなる
小さな闇を幾つも閉じ込めて
ひっそりと季節を越してゆくのだろう
よそ者の背中の軽さで
木戸を抜けて出る
ふり向いて誰かがいたとしても
雛のように古い顔をしているだろう
土塀の文字を読めるひとも
すでにいない
塀にそって
西日の伸びるずっと先に
ぐゎっこうがある
* * *
*ぐゎっこう=学校
(2004)