自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

桃のルーツ

2012-07-18 21:36:20 | Weblog
昨年より1週間以上遅く梅雨が明けた。
今朝の太陽は直接光りを見なくてもまばゆいくらいに輝き夏の到来を教えてくれた。



梅雨が明けたらピーチの季節だ。


桃色

桃の木にぶら下がる桃
熟す前

熟す前にもぎ取り集荷場へ


検査した後市場へ向かう。
近郊なら明日の朝早くセリかけられお昼にはお店に並ぶ。
自慢ではないが神辺の桃は美味しい、つまり糖度が高いから岡山産より価格が高い。
桃の原産地は中国で中国には桃のエピソードは多い。
孫悟空の話からは延命長寿の果樹であり、漢方医学ではなくてはならない果実である。
その桃が韓国経由で日本に渡ってきた。日本最古の書物古事記にも出てくる。
大神祇(オオカムヅミ)命の名がある。
神様の名前が出てきたところで思いだしたが、近くの八幡神社に桃の神様が鎮座している。


大加牟豆美命
文字は違っても読は同じ


桃と神辺町下御領の関係は!
此処から桃のルーツ探索に入って行く。


昭和3年10月に書かれた御野村郷土史


この本をひも解くと長尾円澄は広島県深安郡御野村下御領須沢に安政6年に生まれている。


生まれた土地、小松原付近の桃畑(現在地推定)


かなり調べるのに時間はかかったが備後の国分寺近くの墓地にお兄さん禮助の御墓があり、
その墓標に円澄出家の文字が書かれている。



9歳の時小田郡新山の長福寺へ出家して養子にでて、20歳で住職になった。
研究熱心とお寺の資金を確保するために色々な行動を起こした。
その一つが桃の栽培であった。
明治16年数本の桃を植え、今井村の渡辺淳一郎の指導を得て明治22年「甘露桃」を作りだし、
中国から輸入した上海水密桃を掛け合わせ、明治30年に土用水密桃公表した。
明治38年「新山天津水密桃」を作り、明治44年岡山県果物同業組合を結成して顧問に就いている。
これは岡山西部現在の笠岡市や井原市の桃のルーツである。


大正時代の小田郡の人名録と推定


神辺の桃のルーツであるが同じく円澄の桃の苗木を兄が栽培を行った。
ここでの文献では明治27年中国天津から輸入して交配を重ね新種を作り、明治35年~45年には30町歩を超えて栽培されていた。おそらく私の子供のころまで栽培されていた土用桃だと思う。又天津と云う名の桃も栽培されていた記憶がある。

現在岡山の白桃が有名であるが、明治の始めに日本で栽培されていた桃に
中国の上海水密桃を掛け合わせた桃を栽培していたようだが
明治32年大久保重五郎が新品種「大久保」を発表した。
この桃は甘みが強く、種と実のはだ別れがよく、つい最近まで栽培されていた優良品種である。
要するに日本の桃は古事記時代より前に中国から渡り、日本で栽培されていたが
明治の初めから再度中国の桃を輸入して交配し、新品種を開発した。
その中の一人が長尾円澄であり、御領桃から竹田桃、そして神辺桃ブランドに進化した。
現在日本最大の桃の産地は山梨県で岡山県は5番目あたり、
それより下に位置する広島神辺桃は味で勝負しています。
桃の神様が鎮座している地域はまだないと思うがあれば教えてほしい。