自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

赤い実

2012-02-27 13:35:03 | Weblog
堅い話が続くと視聴率も落ちてくる。
ならばと尾も白い話を探したが見つからず、鳥さえ見つからない。
たった1つ見つけた主白い話も面白くはない。


白実の万両と実のない千両


千両・万両の赤い実がない。「どうしてか我が身は金と縁がないのよね。」
理由が分かった。この木は植えかえるぞ!(八つ当たり)

無理して探していたら、ニッケの木にムクドリらしき鳥がやってきた。


肉桂又の名をシナモン


時々赤い色が見えるからヒレンジャクかと思って観察すると尾が白い。
楠の木によく似た葉だ。今頃黒っぽい実を木につけている。
この木にもまだたくさんの実がなっている。
今の時期まで実があるのは異常だ。今年は如何に鳥が少ないかのよくわかる。

さて、ないないづくしをさがしても仕方がない、
面白い話はあきらめて、赤い実を探すことにした。







赤いようだが赤ではない。「クシュン」の元はあたらず触らず遠回り。
庭の「七木」南天とタラヨウの赤い実
たまにヒヨドリがご機嫌伺に来る程度、こんなに残してどうするのだろう。


南天

タラヨウ


まさきも皮を脱いで赤い実を表に出した。



ピラカン、クロガネモチも赤い実が一杯。


ピラカンサ

クロガネモチ


堂々川ホタル同好会は多くの方のご寄付を戴き
堂々川環境保護基金は16万円を突破しました。
堂々公園のクロガネモチ並みになり感謝します。
堂々川では他に赤い実を着けているのは「あおき」


欲張っています
ここでも私たちが管理していますと


千両万両あったとしても使いきれるものではないが


万両


せめてこのくらいの色までは欲しい。
精いっぱいボランティア活動をしているのだから
会員にお金の心配だけはさせないようにしなくては!
ね、前会長さん

潼々谷餘滴

2012-02-24 20:19:54 | Weblog
謎が謎呼ぶ短歌の詠み方
時間をかけて周囲を探し、日本書紀までさかのぼり
多くの人の教えにより本日一つの結論にたどり着きました。
堂々川日本一の石積砂防の砂留、その砂留が崩落の危機に!
昨日の雨で又、砂留の内部の砂が流れ出し川は濁り、砂留を構成する石が落下している。


石が落ちて穴が開く

亀裂は数日前の5倍にも


早い時期に修理の対応がなされているから「あーだ、こうだと言うことなしに」
素直に「潼々谷餘滴」の解決問題に入ることが出来る。


この碑とある人の詠んだ歌について

裁判記録


「潼々谷餘滴」とは
明治26年に結審したこの地域の村々の境界を決めた裁判記録である。
その裁判記録では東の端がちょうどこの部分であると言う。
つまり堂々川の流れの中央部が境で結審している。
さて、歌の詠み方と歌の意味からこの場にあるのが妥当かを以下に検証する。
上の句
「安那の海は 彌砂の海と なりにけり
          川とは見えず 埋る砂留」

この歌の出展は「西中條村誌」 作者「金尾直樹」で確定して良いと思う。
但し、歌の作者は90%「金尾直樹」と推定しているが
本人がある人と書いているから確定はできない。
推定した資料
①「安那の海は島とたヽへし シトミやま なみかせたヽぬ 月をみるかな」
 金尾先生歌集の「福山八景」の中の一首が上記であり非常によく似ている。
②「西中條村誌」にも歌は多く挿入されているが他人の名前の場合はっきり記載されている。
 どう見ても金尾先生作と思えるものはある人、誰か等と記載されている。

歌は普通『575 77』で作られる。
金尾先生の歌は初句はすべて 5文字であるから「安那」を「やすな」とは読めない。
しかも中の句も
「いやすなのうみと」の8文字も気になる。
「彌砂」を「いやすな」と読むか「やすな」と読むか
今でもある人は「いやすな」 地元のお年寄りは「やすな」と言われる。
字余りもありだが、この方の文章から見て
8文字ではなく7文字を選ぶ人だと思っている。
いつものようにこの歌に関する証拠写真を見てみよう。
彌砂砂留


彌田谷にある小さな砂留
当然上流は埋まっている


彌田谷から深水川に合流する地点


深水砂留が作る川原

深水古砂留が作る川原


歌の作者と推定している人の邸宅はここから100mほど下流
そして1kmを下らない平地の田圃はほとんど自分のもの。
こうして見ると歌の情景はまさしくここと思える。


現在も残る金尾邸の石崖


よしんば、堂々川がその対象とすると


5番砂留川原


五番砂留がそうだが二山も超えたこの場が明治時代の歌にはなりずらい。
又場面が変わって
23日御野小学校で学習発表会があり招待を受けた。
全校約350人の生徒が各学年にわかれてオペレッタや構成劇を披露した。


歌は広島県でもトップレベルで毎年表彰をされる。


6年生の構成劇の一幕には「堂々川今昔」が組み込まれ
砂留


潼々谷餘滴の歌を詠みあげた


堂々川で子供達がゴミ拾い、水質調査、勉強会等に参加したのが
受賞の大きな項目と新聞紙上では書かれているが
校長先生、学年の担任の先生他、ご父兄の皆さま(東京まで同行されたお母さん)
堂々川以外の多くの地元の人の支援があったからこそだが


文部科学大臣賞受賞


すばらしい功績を収めた。
改めて「おめでとうございます」申し述べます。

謎解きの答えであるが

「あなのみは やすなのうみに なりにけり かわとはみえず うもるすなどめ」

めでたく「575 77」で収まり明治時代の歴史がそのまま当てはまっている。

この読み方で「堂々川今昔構成劇」では詠んで貰うようお願いした。

この読み方については反対の方もあると思う。

ちなみにある冊子では
「やすなのうみは いやすなのうみに なりにけり かわとはみえず うもるすなどめ」
と振り仮名がうってあった。

それがどうした文句があるかと強引には言いません。反対の方、意見交換ををしたいです。

今日の堂々川

2012-02-21 20:29:07 | Weblog
風のないの日の堂々川
池の水鏡は大変綺麗だから今日もこっそりのぞきに来た。


淀ケ池東砂留の水鏡
江戸時代の姿が上下で見えるようになった


実は明治時代の裁判でこの池の中央部から半分半分に分割された。

裁判記録を見ると当時それぞれの村は合併して
下御領村は御野村に、西中条村は中條村になった。
そしてどこでどうなったか、何年も続いた反論証拠提出が
大きな御野村になったら急に反論をやめてしまった。
この時点で御野村側は敗訴したことになる。
この内容に疑惑が湧き、いまだに金の力で負けたと長老が言っていたのである。
さて、帰属を争った場所の一つ鳶ケ迫谷



この上流の曽根の部分から西南は彌田谷(中条)へ、東南は堂々川(下御領)へ流れる。
改めて同好会の会員Iさんと彌田谷を訪ねた。
公民館で教えてもらった「彌田谷」の読みは「いやだに」
作業をしている人に聞いたら「やだに」と言われた。
この「やだ」ねったら「やだ」ねの「やだ」が今調べている歌の読み方に影響する。


小さな砂留


苔むして貫禄があり江戸時代の築造らしい。
砂留からしみ出た水の中に生き物が


確定はできないが
日本赤蛙?とアブの幼虫?


明治時代のあぶない関係はこのあたりから発祥したのだろうか・・・
Iさんと別れた後、思いだしたカスミサンショウウオの確認をしに再度堂々川へ。
此処へ来た形跡はない。



ホタルの幼虫を思わぬところで発見
その横ではニホンアカガエルの卵も





まだ歌の読み方を探す動きを続けている。



福山カントリークラブゴルフ場の中の
昔、大倉地区から小学校へ通った道の脇にある村境石。
ここを下れば先ほどの砂留の上を通り深水地区をぬける。
東中条村、松井・・、西中条村、金尾直樹と名前が彫ってある。
読みにくいが明治18年らしい。
ここは山の頂上が村境。
でも、下御領村とは川や池の真ん中。
推理はだんだん深水(ふかみ)にはまって行く。

Iさんから貰った古い時代の地図。備後地方之図。


吉備穴国


この地図には安那郡が書いてある。時代は古墳時代か?
又わからなくなったからネットで「日本書記」を調べてみた。
穴の国の穴がいつの間にか安那(あな)の字に変わってきている。
つまりこの頃は漢字は適当にあてはめられていたらしい。
あな=穴→安那
かなり判明してきた。
今日は収穫があったが
こんなことをして何になるのか自問自答をして見た。
興味のある人だけはすごいと言うかもしれないが
ほとんどの人は時間がもったいない!それがどうしたの!
ようやるは!
と言うことだそうだ。
「やだね」「いやだね」

隣の砂留

2012-02-18 16:12:08 | Weblog
堂々川の日本最大の石ずみ砂留
この脇にある石碑の歌の読み方をまだ調べている。
良い意味では研究熱心
悪く言えばしつこい
どちらでもよいがまだ真面目に調べています。
そして多くの方にご意見をいただいております。ありがとうございました。


堂々川の最大の砂留


碑にある歌の「彌砂」は何か調べていると
「西中条村詩」の中にヒントがあり中条公民館を訪ねた。
主事さんよると彌谷には大きな砂留があり、ここは現在整備中との話を聞いて早速出かけた。
堂々川以外の地であり地理に不案内なため地図を調べた。


神辺町西中条深水地区


先ほどの村詩の著者「金尾直樹」の邸宅


今は別の人の邸宅


江戸・明治・大正の大富豪の面影が残っている。
「潼々谷餘滴」の裁判記録にも出てくる人だ。
さて、この家のすぐ北側に
深水古砂留がある



今この地区の町内会あげて整備に取組まれておられるようだ


堂々川の砂留とは少し作りが違う。
作られた年代は江戸時代の半ば?この地に砂留を作り始めた最初のころと思う。
深水川沿いで中条小学校へ向かう道の脇だから散策するには最高だ。
さて問題の彌谷だがここからもう一つ上にある砂留「深水砂留」の上手を東にとる。


深水砂留


彌谷に入り、平成元年コンクリートで作った砂留の上を超えて
彌谷川を右手に山の曽根を左に見て約7分上流へ歩いての登る。
戦国時代の山城「菖蒲山城跡(別名真瀬城)」が頂上付近にあったと言う。



彌谷砂留


この砂留の規模は堂々川で比較すると3、4番目ぐらいの規模
つまりヒガンバナで有名にしょうとしている5番砂留程度と理解してほしい。
まだ整備が始まったばかりだが草木、笹が生い茂り大変な作業である。
堂々川ではこのあたりになると西隣の砂留だからお手伝いをしょうかとも思うが
こちらも忙しい(人が滅ぶ文字)から要請がないと行きずらい。
このブログを見る人がいたらこの冬3月までにあらかたの整備を進めることを薦める。
これだけ谷が深いと何が出てくるかわからない。
(だからここあたりを深水と言うのかも)
この彌谷が堂々川の歌の中に出ているのは間違いないと確信した。
しかも出典の作者の家の上流。
この家の田地は此処あたりではNO1の地主。
自分の土地を守るための砂留であることも垣間見ることが出来た。
彌谷砂留のすぐ下にも小さな砂留を見つけた。


名前はわからない


多分この砂留も江戸時代に造られたものだろう。
家に帰る途中
高屋川(明冶時代は神辺川と呼んでいたようだ)の堤防に
数十羽の鴨が陸で食事をしていたが我がカメラを見て
一斉に水に向かって飛びこむ。
残されたヌートリア



飛び込もうかそのまま陸に残ろうか迷っている。
農作物を荒らす害獣のくせに案外弱虫なんだなー!
かくして、約2時間の謎を解く旅は終わりになった。
近々読み方の結論が出そうである。

とりとり

2012-02-15 15:32:06 | Weblog
鳥撮りに鳥を探して西東
鳥をとり逃がして蝶を撮る。


春の小川


近くに日本赤蛙の卵が
しかし自然に完全に溶け込んで見分けがつかない



鳥撮りはここから始まった。


ジョウビタキ♀


ジョウビタキさえ撮るのに苦労するほど鳥が少ない。
しばらくすると今年初めて
エナガとメジロとシジュウカラの8匹ほどの軍団が木空間を飛ぶ


エナガ

メジロ

シジュウカラ


カエル途中、我が家に近くなると今頃はいないはずの生き物を見つけた。
左から見ても右から見ても蝶にしか見えない。
しかし本を見ると蝶は今頃蛹で越冬しているとある。



今年は暖冬ではないのに春と間違える蝶もいるらしい。

バタバタと音がするから上を見ると
キジバトが巣から離れて逃げだした。


サンゴジュの木に逃げた

巣はタラヨウの木に


鳥撮りに出かける前に取り逃がしたと思った鳥が
カメラには写っていた。



今回はトリ故、数点鳥ミングしている。

堂々川の自然

2012-02-13 15:08:13 | Weblog
今、外は雨、

春らしいお天気の12日、時間が出来たから堂々川へ。
川の中は


堂々川新迫山橋付近


川に入って草刈りを始めた。


あら、缶が!

ここにも、い缶


ミカン、ポンカンは柑橘類、橋から捨て缶、車からポイ缶
缶を拾い、カンカンに怒っている人がいる。 
まだ氷が解けていない川の中で
冷たい世を恨みながら缶を拾うのをカッコ良いと思うか
又馬鹿が缶を拾っていると思うか世は様々だ。
がここには
貴重な生き物が住んでいることを忘れないで欲しい。


平家ボタルの幼虫の死


缶は関係ないが弁当の空き箱は少し影響があったみたい。


橋からポイ捨てされた空き箱等
その中には油、醤油、小さい虫には毒が


その側の石の下で幼虫は亡くなっている。まだ時間はそんなに経っていまい。
平清盛曰く『許さん、ホタルのたたりが起こるぞ』
次へ進む前に紹介したい生き物たち


みずすましとタイコウチ


タイコウチをタガメと勘違いし
絶滅危惧Ⅱ類発見と胸をときめかしたが残念糠喜びだった。
草を刈り、ゴミを拾い次の自然保護観察の為上流へ。

春の小川はさらさら行くよ、岸の柳も・・
まだ芽を吹いていない寒い時期
近くで日本赤ガエルの卵を発見した。


数100の卵
この塊を20個ほど


レッドリストに載る生き物類の一つ
その親を発見。


交尾の写真は珍しいと思う
が光が邪魔した失敗作・ごめん!


普通両生類は冬眠するがこのカエルは今時期、雪が降ろうが
氷が張ろうが水辺に卵を産つける。
川が氷り卵が死ぬケースはあると思う。(寒いから天敵が少ないメリットがある)
このカップル石のそばでじっと重なっていた。
多分卵を産んだ後は5月頃まで冬眠するのだろう。


堂々川に作ったビオトープ


よく見るとビオトープに中にもカエルの卵がある。
多くの皆様から堂々川環境保全基金にカンパ戴きました。
そのお金を生かすために、今後も貴重な生き物の見守りを続けていきます。
環境を守るために色々
マン策を考えて実行していきます。


マンサクの花

砂留ピンチ

2012-02-10 18:09:50 | Weblog
堂々川に日本一の砂防施設石積の砂留がある。

大丈夫だから  そんな言葉を信じてた
ダメ、だめ、あーだめだわ
SOS SOS ほらほらね見てください
今日も水は滝は 砂留のピンチ


石碑が立つ砂留


夏のつわもの雀蜂が騒いだわけではなかろうに!


スズメ蜂の巣の残骸
砂留の石の間に巣が


それとも水の中の「ガガンボ」が暴れたわけでもない!


どの種かはわからいがガガンボの幼虫
蚊より数倍大きな蚊に似た昆虫


が実際に6番砂留が壊れそうだ。
このままにすれば崩落しそう。



SOS わずかだが陥没した石もあるし割れ目が大きくなっている。





ご安心してください。
国の登録有形文化財はすでに入札され、修理の手配はしてあるようだ。?

だが安心できないのはボランティアの作業の場だ。
砂留のすぐ下流の法面を先日役員が草刈りした。
法面には浮石がたくさんあり、何時崩落するわからないほどだ。


数えられないほどの石


今後の草刈りは考えないといけない。
ボランティア活動のピンチ!

先日お聞きしたトップ記載の碑文の読み方ですが
西中条村詩をコピーできたので載せました。


西中条村詩の該当ページ


今日もまた、自然を尋ねる人のピンチは続きSOS信号を出しています。

春はだんだん

2012-02-07 14:43:48 | Weblog
少しずつ昼間の時間が伸びていく。
誰がつけたかボケの花、
名前は「ボケ」でも春を着実に感じているボケてない木です。


ボケの蕾が膨らむ
悪い虫は無視して!


人の世では高齢化がどんどん進み、ボケだの、認知だの、鬱だの対策が忙しい。

少ないと言いながら鳥を探して鳥を撮る。


スズメが1羽

そこへ3羽飛んできた


数が増えればおめかしも忙しくなる。
もうすぐ春だから相手を探すには色仕掛けしかないらしい。


またまた4羽が飛んで来た
来たばかりはアッチ向いてホイ


近くで眺める百舌は何を感じたか。声さえ出さぬ。
シジュウカラは今日は一人のさみしい散歩。
いつもより声が小さい。


嘴をあけてもからの声


話は変わって今年は非常に雪が多い。
24.2豪雪と歴史に名が残る可能性は高い。
こんな年にカマキリの雪予想をやめている。
後出しして、結果が出てからアーダコウダと言うのはおかしいが
確かに今年のカマキリの産卵は高い所にある。
昨年は地上30cmを数件見たが今年は低いところがない。


1.3m

1.4m


昨年の3倍は高い。


1.7m


1.8m


雪の少ない瀬戸内で雪予想をしても仕方がないが
カマキリの産卵された位置は確かに高い。
自然が教えてくれた教訓、早くからわかっていたのだから
その時発表していたらカマキリも自然云々も威張れたのに残念!。

自然から教わったり癒されたりすることは多い。
今日のスズメの一言から
「やっぱりチュンにはいやされる」

また寒波がやってくるそうだ。

ミニ88ヶ所

2012-02-04 14:36:56 | Weblog
神石高原町ではー15℃の二ユースもある寒い朝
川では平家ボタルの住む水たまりはコチンコチンで真っ白
ヒッカチン(ジョウビタキのこの地方の呼称)が飛んだが証拠は残せず
山ではショート(ホオジロの呼び名)が春の声を練習している。


川は凍結(暑さには弱いが寒さには強いホタル)

まだ綺麗な声が出るまでには先は長い


鳥を探して山に登って見た。

1841年頃、天保年間に飢饉が続き庶民は心のよりどころとして
四国88ヶ所に倣い多くのお寺にミニ88ヶ所を作った。
この地にも唐尾山国分寺88ヶ所が作られた。
現在でも残っており最近整備されたその道を歩いた。


77番

戦国時代の山城、茶臼山城址


このあたりで標高70mぐらい。
さらに登ると古墳の中にお地蔵様が祭られている。
このお地蔵様に番号が付いており、四国のお寺さんの同じ名前がついている。
つまり何番とお寺名が同じ





雪がまだ解けていない

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さらに登れば接待堂がある



その脇を登れば頂上付近、そこから見る山は岩ばかり。
不安定な自然の姿、大雨や地震が襲ったら大変なことになる。



頂上は石鎚神社がお祭りしてある。四国から分祉されたものだ。
ここから南を見れば人口4万人強の神辺町の中心。


このあたりの最高地点約200m

神辺の市街地


ここからは下りになり
その下方には伝承されている貝塚がある。
神辺が吉備国の時代(吉備の国が3つにわかれて備前、備中、備後)
このあたりは穴の海と呼ばれていた。
ただし現在の調査ではここが海である証拠は何もない。
淡水湖と判断する学者が大多数である。
しかもここは安那群と呼ばれていた。



と言うことから安那=やすなORあな
どちらに読んでも間違いではない。

堂々川砂留群①

2012-02-01 16:15:33 | Weblog
朝は雨、お昼頃から晴れてきて、15時を過ぎると気温がどんどん下がってきた。
午前中、鳥を探すとともに堂々川の砂留の不思議を探しに山登りをした。
堂々公園ではサザンカの花の終焉が近い。
我が期待のサザンカの宿、
「くもりガラスのくの字もない」何もない冬(今日から2月)でした。


350mほどの公園垣根


日曜日に整備した、江戸時代に築かれた砂留「淀ケ池東砂留」の整備を再現して見る。


対岸の下御領伊地線道路から眺める

大きな木が根を張り砂留を動かし始めている

チエンソウが動き木が倒れはじめた


昨年6月国土交通大臣から「砂防施設の美化清掃や土砂災害防止施設の維持管理など」
で表彰された義理や恩で取組み始めたのではなく、今回は砂留の美を復活させることだ。


2月1日は風があり、水鏡は見えない


この淀ケ池は波のない日は山の景色が逆さまに綺麗姿を見せる。
今日の目的は堂々公園を作る日本一の石積み砂防施設の
6番砂留の脇にある「潼々谷餘滴」に関してのことだ。


昭和51年頃水辺公園を作った時作られたもの

短歌が刻んである


安那の海は彌砂の海となりにけり
 川とは見えず埋もる砂留
年々にかく埋もれ来て行末は
いかにやならんせくすべもなみ

冊子「堂々川今昔」の作者なら読みも意味もわかるだろうと
小学校から問い合わせが入ってきた。
わからないと言って断れば余分な仕事を会員に押しつけることはなかっただろうに!
聞けば調査範囲は
地元の歴史研究家、図書館、県、短歌の先生、菅茶山記念館、他多数らしい。
一つだけふりがなの入った資料があったが反対意見が出てきた。
この碑のある6番砂留の下流斜面を同好会の役員Nさんが
少しづつ草を刈って、日本一を際立てようとされている。



陰になり日向に立ちの日本一の砂留を守る人の力を
もう辞表を出してやめた人を責めるのではないが
「俺らがやった、綺麗にしたと」大臣表彰の際、人を押しのけたり
数人で祝賀会を上げているのはいかがなものか。
役員の功績は消してはいけないものなのだがわからないのかなー。

余談が愚痴になったが
『ウイキベデイア』フリー百科事典の「堂々川の砂留群」を見てもらうと
何と任意団体「堂々川ホタル同好会」がこの砂留群を綺麗にしてあると書いてある。
愚痴など書いて「ヤダナー」でも今から消すのもダサイからそのまま残して
ブログ来訪者に短歌の読み方を教えてほしいと思っています。

尚、碑には詠み人知らずと記載してあるが
この歌の出典は「西中条村史」に出てきており作者「金尾直樹」明治15年発刊
作者候補
(自分の作故あえて自分の本に名をのせなかった説)
(砂留の調査もし、江戸時代の砂留のことをすべて理解している人)
もう一人の候補は明治10年に亡くなっている豊姫神社の「鈴鹿秀満」神官
1万句以上も読んだ人故、可能性は十分ある。
今まで調査した参考資料としては以上のほかに
安那=吉備の国時代当地は安那と呼ばれていた。
この地方には穴の海伝説が残っている。海ではなく湖と言う話が今では通り相場。
安那=やすな又はあなと読める
彌砂の彌の言葉は西方にヤダ川(文字?)と言う川があった。
575 77
の下の句の「せく」は「堰く」と訳したい。
よろしくお願いします。