自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

お祝い

2007-03-28 16:36:57 | Weblog
 さくらの花が咲くまでには後もう少しかかりそうな山よりの町。
暑い位に気温が上がっている。
さくらの葉と春ランの花どちらもお祝い事に使う飲み物になる。
桜茶、春ラン茶。
香りが良く、塩加減が効いているのに甘さを感じる。
今日は春ラン茶の作り方を書いてみる。
庭に有る春ランの花を摘み取った。





はかまをとって、水洗いして、湯通しをする。そして水気を切る。







タラノメが見えるがあまりかまってやれなくて!
今頃ああしたら、こうしタラと思うのでありますが遅いのであります。

 梅酢に30分ほど漬けたら赤というか、紅というか
綺麗な色をかもし出してくれた。 瓶に塩と春ランを交互に入れて行く。



このやり方が正しいのか、間違いではないのかわからないが
お湯を入れて飲める日は数日後になるだろうから、
東京から帰るとおめでとうといってくれるだろう!

明日は環境大臣の前で発表するのだから
最後の練習を小学校でさせてもらった。
校長先生のニコニコ顔が印象に残る。
新聞社のカメラポーズも慣れてきたのかうまくなっている。
子供らを帰した後はビオトープ現地へ報告に行った。





「私達がここで遊べるようになりました。よいところです」
と蝶とホオジロからことずてを頼まれた。
 ちなみに子供たちはこんなで出だしで発表するようだ。



捨てる人

2007-03-26 22:48:37 | Weblog
 広島県地域事務所の工務課の方が知恵を絞ってモニュメントを作られる。
少しでもゴミの不法投棄がないようにとそこには期待がこめられている。





なのに、すぐ近くにゴミの山が出来ている。
捨てる人がいるのです。
捨てた人の1人は新徳田のアパート暮らしの住人のようだ。
もう一人はお弁当を食べに来た人のようだ。
今日の成果は14袋。もういいよと言いたい。(ゴミ拾い同様苦しいかな!)







捨てる人がいます。
それを拾って処理している人がいます。
ご主人様がゴミを拾う姿を見て、ワン君もゴミを拾う。



昔、石川五右衛門が「砂の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は・・」
といったとか、
同じようなものでゴミを捨てる人は後を立たない。
種を1粒でも減しようと兵庫県立大学の村上教授が書かれた本に
「ホタル保護奮戦記 堂々川事情」を載せていただいた。







お一人でも共感していただければ幸せです。





ゴミを片付けた同僚とふっと一息いれたところに、ツバキが一輪微笑んでいる。
かっかの怒りは消えてきた。

彩り

2007-03-23 21:38:26 | Weblog
 赤から黄色へ、黄から白へ、彩を変えて春は行く。
あー春なんだ。何もかも忘れて春、春を楽しむのもいいもんだ。



赤が先に行ったからと言って怒ることはないと思うよ。









花の名前を説明すればよいのでしょうが、春を楽しむ時は名前など関係ないのです。「黄色か、おおきに!」ぐらいで次に行きましょう。





春が進むと黄色も薄くなり、白に近づくのかな。
一寸可愛い子がいるとすぐ浮気するのだから春はいやですね。





何色にでも好きにしてください。私は白い花なんです。







馬鹿言ってんじない、利休梅をみていただいたから帰ろう。
バイバイ!

迷い道

2007-03-20 21:38:07 | Weblog
 行こうか、戻ろうか、止まろうか。
書くか、やめるか、ブログ道。
ここまできたら少し無理でも前に進むしかないと判断した。
昭和5年、正戸山なる、神辺平野が360度見渡せる小高い山(前福山市と神辺町の境でもある)で
陸軍特別大演習があった。
小高い丘の上に大きな石碑、昭和天皇が馬から降りられた。そして山道を歩かれた。
これが何故石碑として残るのか理解に苦しむ。





今回の歴史シリーズはとにかく縄文時代まで遡りたい。
ブログ仲間に縄文人さんがいるから敬意を表す為にも無理をする。
天皇が出たからここからは神社の話になる。
中条に有る八幡神社を見ていただく。
迷った部分が有るのでそこはパスしていただければ!





ここまではどこにも問題は無い。
ここからが迷い道の1番手だ。





少しエッチな世界を通った後は我が村の氏神様の境内にある神々の御神体である。
牛の神様、桃の神様と多彩である。
この社の神様は応神天皇と神宮皇后をお祭りしてある。
ルーツは大分県の宇佐八幡宮のようでそこから分祀されている。





皇紀2600年の石碑。昭和15年に作られている。



幻の東京オリンピックの年がこの年で、西暦と比較すると670年古い紀元となる。
弥生時代が紀元前200年ごろから始まったとされているからその前は縄文時代である。ということは日本の天皇は縄文時代から続いている事がここで分かる。
歴史を誰かがいじっているのは別にしてようやく縄文時代まで遡れた。
ヤレヤレ。
何!もう少しヤレと!

亥の年は地震が多いから気をつけよう。また年表を読んでほしい。
1578年 山之内一豊の娘が地震の倒壊した柱の下で。御成仏してください。
1707年 富士山噴火
1923年 関東大震災
1995年 淡路神戸大地震
何で地震の話かな。実は次のことに自信が無くて迷っていたので!

本日3月20日 私が書いたホタル保護奮戦記(堂々川事情)が
 きれいな水で「ホタルの増やし方・写し方」 村上光正編(兵庫県立大3月まで教授) パワー社の本の第5章に掲載されたのです。

ワ!書いちゃった。
背中を掻く調子にブログを書くわけには行かない事情もあるのです。




うれしいね

2007-03-17 11:04:40 | Weblog
 犬が歩けば棒にあたる。
人が歩けば新しい発見が有る。そしてうれしいことにぶつかる。
 昨日環境省のホームページで「こどもホタレンジャー」の受賞団体及び表彰式・活動報告会開催の発表があった。
堂々川ホタル同好会の小学生6名が大臣の前で活動成果を発表する事になった。
その内容は3月29日以降になるが今日は子供たちが学び、活動した堂々川をあらためて紹介する。

日本一で国の自然文化財に昨年登録された砂留群の一番下流の1番砂留前で「ホタレンジャー旗」を持つ子供たち。ドウドウとした姿と思もいません。



文化庁のレプリカが今月取り付けられた5番砂留。


3月4日に同好会のメンバーが恒例の環境保護を含めて美化活動を行った。
その現場だ。






軽トラック2台分のゴミを拾った後は綺麗


今回は中条の民生委員さんの寄付や会員の寄付で水仙を300本確保できたから植えさしてもらった。植え時期ではないがすぐ雨が降ったので今は花が咲いた株も有る。
私達の活動を批判される方も見受けられるが11月に植えた菖蒲が芽を出してくれた。いまのところ勝負は堂々川ホタルの勝ち!





時は春、水がぬるむと人は言うが20分も水の中にしやがみ、カメラ片手にホタルの幼虫を探し、その幼虫がカワニナにかぶりつき食べだすまでのフォトを撮った。その記録の一部を見て欲しい。


まだカワニナを確認している最中



早いカワニナに噛み付いた



もうカワニナを持ち上げても離さない


忙しいといいながら、こんな遊びをしている人は日本広しといえどたくさんはおられないはずだ!
 子供たちが活躍して成果を出してくれたのは最高にうれしい。ちょっぴりだがホタルの生態に触れた御領山のコン猿もうれしい日でした。

花粉、誤分、古墳

2007-03-13 22:51:58 | Weblog
 寒気が入っているのだろう入道雲が湧き出している。
寒いけれど、春は間違いなく前に進んでいる。
ミツマタが紅オレンジの花をつけ、沈丁花は今を盛りと香りを流す。





ヒワが可愛い声で鳴いている木のそばには杉の木がある。





街を行く人のマスク姿が目立ち、涙目でドラックストアーのカウンターに立つ人を見る。
間違いないスギ花粉が飛んでいるのだ。
花粉症で無かった人が今年初めて花粉症の症状が出たからと相談に来られた。
石屋や医者ではないことを断って参考意見を述べた。
「多分薬局へ行くと甜茶を勧めるはずだ。それも良いが紫蘇を食べたらいいよ」
「今頃紫蘇は無いよ」「梅干と一緒に漬けたあの酸っぱい紫蘇を食べるのだ」
納得したのかツバキをのみながら帰られた。
ここだけの話、花粉症の方は体質改善が必要なのです。
簡単なことで自分が生まれた周囲30kmで生産された野菜類をできるだけ多く食べる事だ。
分はいつか話す機会があると思う。

イヤだと思うけれども、今日も歴史の世界に入る時間が来た。
神辺を代表する古墳を見ていただく。
国分寺から数百メートル、我が家から車で5分の所に有り、古代山陽道沿いに赤堂と呼ばれるお堂がある。ここの隣には昭和年代までは「青葉」と言う酒醸造所があったが今は一部が建売住宅などになり、それ以外は荒れ放題だ。


ここの細い道を北へとると600メートルほどの所に迫山古墳が有る。
84メートルの丘陵地、南斜面に十一基の古墳群があり、その代表が迫山第一古墳だ。直径19メートル、高さ5メートルの円墳で6世紀末頃作られた。大和政権が地方支配を始めた頃の地方の豪族の家族を含めたお墓なのであろう。ここは大宮遺跡から真北の山だからここのドンが埋葬されたのかな。





またここから車で5分の所に大坊古墳がある。
直径14メートル高さ5メートルの円墳で7世紀初めのものらしい。
ここも豪族が埋葬されている。





迫山古墳と良く似ているようだがここのほうが石室の作りが少し立派に見えた。

誤分の意味が理解できない方が多いと思います。元々は言葉の調子をつける為に入れたものですから分からないのが正解です。

弥生

2007-03-11 00:17:44 | Weblog
春は3月、花弥生。
中門をくぐりぬけ、苔玉三姉妹が御輿入り。
京都有名ブログ「苔玉ごろごろ、だから苔想、るなさん」から
抽選で当ったので送っていただいた。
 到着そうそう仲間になろうとイワヒバ君がこちらが良い、ここに恋と呼び込み合戦をしている。







選ぶのは苔玉さん美男子を選ぶか、頭の格好を選ぶかしばらく様子を見るようだ。
弥生の続きで今日も歴史を学習する。
神辺の地には広島県では三例しか発見できていない環壕集落が3つある。
弥生時代初期から中期(西暦紀元前3世紀から後1世紀の間)お米作りが本格的に栽培されるようになってきた。
少し豊になると人間はより豊を求めて土地の所有、物々交換を優位にする為抗争や対立が起こった。
そのためにそれぞれの集落は集落の周りを壕や土塁、木の柵等を作り守った。
東から御領遺跡跡



御領遺跡から西へ1kmのところに大宮遺跡がある。
現在はお医者さんの駐車場の下あたりだろう。
柱の跡の穴や土器が出てきたのを、どきどきしながら見ていた記憶が有る。



そこから西へ2kmのところに亀山遺跡がある。





亀山遺跡は小高い山の上に有るが麓には高校の教科書にも載る岡山神社が有る。
広島県に有るのに岡山、意味が有るようだが今回は深くは追求していない。


あー神辺城

2007-03-07 12:57:37 | Weblog
 古き昔へ遡る事670数年、建武の時代
神辺のこの地に山城が築城された。







360度見渡せる山頂に朝山景連が守護職をいただいて赴任してきた時に始まる。
浅山氏の字違い表示の歴史家もいるがここは朝山氏でとおす。
歴史が始まる。
この城は呼び名も沢山有るが(道上城、紅葉城、黄葉城、楓山城等)城主の移動も激しい。
朝山氏→山名氏→杉原氏→尼子氏→大内氏→陶氏→毛利氏
戦国時代とはいえ山陽道の要衝だから、幾たびも激しい合戦がありった事が理解できる。
その中でもある戦では2枚目の写真の山すそ、日本住血吸虫の中間宿主である宮入貝が大量に生息し、合戦で片山沼に入った戦士は片山病という足が像の足のように太くなる病気にかかった。(昭和の時代迄現実の病として残った)
その後関が原の戦で戦功のあった福島正則が廣島に入り備後も支配下に置いた。
福島もつかの間に消え、家康の従兄弟水野氏が備後を納めることになった。
そして、家康が江戸城を築いた事例と勧めで神辺から福山へ移転したのである。
ここで神辺が政治の舞台から消えたのである。
参考までに今でも福山街中の実相寺に山門が残っているという。

歴史を学んだ後は神辺城址をアー、あー、フーフーといいながら登って頂く。
ソメイヨシノ900本、山桜100本花芽が膨らみ始めている。
楽しめそうだが友は遠方なので一人の桜になるかも。











麓に下りると杉原氏の邸宅であったと言われる天別豊姫神社がある。





ここでは真冬を飛ばした春の陽気に亀がのんびり甲羅を干していた。
一緒になって遊びたいが先の仕事が待っている。
一寸一言
以前書いた「ウサギと亀とアオ鷺と」の話はここで思いついたのである。


神辺宿

2007-03-04 22:47:42 | Weblog
 次へ急ぐと背を向けて堂々川を南に下る。
今回の場所を確認しておく。ここをくりっくして
一寸待って鬼ヤンマの幼虫ヤゴを見つけた。



名残惜しいが昔1里塚があったという丑寅松(この木も今は無い)跡を過ぎて
神辺の古い町を水害から守った古市の堰に来た。



ここからは神辺の江戸時代や秀吉の痕跡を眺めて通る。


管茶山の福山藩藩校跡


新潟など寒い地方のお酒には負けそうだが日本一の金賞が光る日本酒醸造所


豊臣秀吉関係先


大名が宿泊した本陣


江戸時代の初めには福山へ政治の拠点は移ったが文化と歴史は残っている。
神辺城については次回になるがその隣の吉野山には福山市神辺歴史民族資料館が有る。





神辺城とは何にも関係が無い資料館が約2昔(20年前)前の昭和時代に造られた。
ここの職員のFさんとは歴史を学ぶ中でお世話になり会話が弾む中になっている。
この資料館には縄文土器、弥生土器、古墳から出土ものが展示されている。
また、少し古い米つくりの器具などが展示してある。
玄関には昭和20年ごろ松脂を取っ後の松の木が2本展示してある。
下御領生産組合の理事さんはこの展示が気に入らない。
だからこれより太い120年経過の松を寄付すると騒いでいる。
現在も山の中で生きている黒松の姿を見ていただく。



近々持参する予定だ。話題ができたから来て、来て!
この資料館無料のはずだから来て見て学んでくださいな。
まだ有名でないから今行けば新設丁寧に説明がしてもらえるよ。





古代山陽道

2007-03-01 23:44:12 | Weblog
 気温18.2度少し動くと汗がでる。
春ではなくもう初夏だ。おうしょかといっていいものか考え中。
ビオトープの中では、卵のほとんどは空でオタマジャクシが100匹ぐらい見える。細竹で突くと黒いおたまはくねくねと泳いで藻の中に隠れる。



タラの芽はもう食べられる寸前まで葉が開いてきた。
食べタラとの声に、でもこのサンプル公民館においてあるのです。
かなりずうずうしい奴でも一呼吸置いて、また後日来ますと言い、いとまを頂いた。



少し堅い話になるが古代山陽道を学んで見よう。
大化の改新(645年)後のことを日本書紀は国司等や駅馬、伝馬を置くと記載しており、政治・軍事の他に交通網が全国的に整備された様子が見える。



我が家の前の道(南側=右)を昭和20年以前に生まれた人は馬往還と呼ぶ。そしてこの道に沿って条里ができている。(ハヤガッテンはいけません。我が家は左側の道沿いで70m先の楠木のある家だ。近世、古代両山陽道にも沿っている)
後で説明するがこのあたりに安那駅があつたと推定する。



国分寺沿いに古代山陽道が有るとは限らないそうだが備後の場合は参道入り口が古代、近世の交点にあったようで今でも道標が近くの神社の境内に鎮座している。
ということはここは昔とはかなり道筋が変わっているのかもしれない。



右石州ぎんざん道
左九州をうくわん道



古代山陽道は播磨の国明石駅から備後の国品治駅まで中国唐に習い都から広い直線道路を造ったようだ。そして60里毎に駅屋を作りその中間30里にも駅を造ったようだ。その30里間隔の駅安那駅が東側にあった。西に行くと現在でも福山市駅家町がありそこには品治地区が有る。多分ここがその駅家だろう。



眠くなりました。
おやすみなさい。