「ヤボちゃん、ヤズタイガー行こうよ」、隣家の少女が回覧板をぶら下げ、走って来て言った(ヤボは、私の呼び名)。 回覧板を見て、私はヤズタイガーが千葉の谷津海岸であること、町内で人を集めて夏休みに団体バス旅行(日帰り)をしませんかという誘いであることを知った。これは茨城の中学3年のときの記憶であるが、その町は海から遠い位置にあったから、子供達には海へのあこがれのようなものがあったと思う。 私が9歳までの6年間を過ごした兵庫県芦屋の家は20分歩けば海浜に出る場所にあったから(まだ水泳の技術はなかったが)、海の楽しさは知っていたから、ヤズタイガーの潮の香りは懐かしかった。 もう海は車の窓から眺めるだけのものになってしまったが、思い出は少なくない。 子供が生まれる前までは家人と(当時家人が勤めていた証券会社の海の家のある)秋谷海岸へよく行った。静かな感じのある、いいところだった。 鎌倉に住むようになってからは、海岸でウィスキーを呑むのが愉しみになった。江ノ電の長谷駅の近くにある肉屋さんでコロッケを買い、それをツマミにウィスキーと氷水を交互に呑むと、石原裕次郎さんの『狂った果実』を口ずさみたくなった。訪ねてくれる友人があると、海辺のウィスキーとコロッケで歓待した。そういうときのアルコールはすぐ汗になって流れるのか、深酔いした記憶はない。
「若い血潮の予科練の~きょうも飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦に 若い希望の夢が沸く」、家人が口ずさみ、娘が笑った。隣室で聴いていた私が「若い希望の~ではなく、でっかい希望の雲が沸く~だ」と教えた。 この歌詞を山口瞳さんは「あのころの私達の心情を“でっかい希望”などと言ってほしくない」と叱ったが、その通りであるだろう。予科練とは、海軍飛行学校予科練習生の略であるが、すでに死語になっているだろう。 ほとんど使われなくなった言葉を死語と言うが、これについては私も家人も、娘によく笑われている。たとえば、ハーフのことを家人は混血と言い、私は合いの子と言ったりする。皇居を宮城(きゅうじょう)と昔言葉で言うと、「宮城県と間違われる」と笑われる。 かつて、スフ(ステーブル・ファインバーの略)という安物の布地があって、家人とその話をしていたら、次女が、食べ物のことを話していると思って聴いていたことがあった。 言葉と同じように、唄われなくなった歌を死歌と言うのだろうか。 前述の予科練の歌は、この世から消えてしまうのか。娘があるとき、ピアノのある酒場で2ツ3ツの軍歌のメロディーを弾いたら、上司達(終戦前の生まれ)が驚いたそうだが、死歌はどんどん増えて行くだろう。 『みかんの花咲く丘』は永久に残るだろうが、ラバウル航空隊も空の神兵も10年後には消えているかもしれない。 軍国少年だった老人としては、それもしかたがないと言うしかないが、ちょっと惜しいと思うのは、酒に合う歌が多かったということだ。