昭和20年8月。私は兵庫県芦屋市の国民学校(小学校)の4年生だった。7月の中ごろから夏休みになっていた。学校に行っても空襲の警報のサイレンが鳴ると帰宅させられるから、ほとんど授業にならなかった。その代わりにたくさんの宿題が出た。プリントする用紙がなかったから、黒板に書かれた問題を質の悪い紙で作ったノートに写しとったが、そんなものはどうでもよかった。食べ物もなく、B29の夜襲だけがあった。 昭和35年8月。私は、ぬるま湯的というか怠惰な日々を送っていた。 今と違ってバイト生活は恵まれていた。しかし、そろそろ結婚したいと私も家人も考えていて、それには浮き草稼業でないきちんとした職業が必要で、そのことを母に頼みに行った。暴力団員や街のギャンブラー相手に麻雀を打ちながら、来年の夏はサラリーマンになっているかと思ったりした。 昭和86(平成23)年8月。今日、家人は横浜に行っている。映画を観て、宿泊はホテルニューグランドだそうだ。あそこにマッカーサーがいたのよね、と家人が笑いながら言ったのは(よく噂される)「原節子さんと一緒に?」という意味だろう。ま、そんなことより、毎日の主婦役と介護士役で凝った肩をもみほぐしてきてもらいたい。 ホテルにもそういう場所があるのではないかと訊いたら、ホテルは温泉じゃないからと言って、年齢的にはやや派手と思える色柄のシャツと白ズボン姿ででかけた。