大木昌の雑記帳

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安倍首相の「戦後レジームからの脱却」(4)-憲法第三章「国民の権利と義務」-

2013-05-22 22:15:55 | 政治
安倍首相の「戦後レジームからの脱却」(4)-憲法第三章「国民の権利と義務」-


憲法の第一章(天皇)と第二章(安全保障・戦争放棄)は,国家全体にかかわる規定ですが,「国民の権利と義務」を定めた第三章は,
私たち国民の一人一人の権利と義務に関わる重要な章です。

今回検討する第三章は,現行憲法も自民党の「改正草案」も,タイトルも同じで,条文の数も第十条から第四十条までと同じです。

しかし,それぞれの内容に大きな違いがあります。

まず,第十一条で,現行憲法も改正草案も,基本的人権は全ての国民に与えられることを宣言しています。

それに続く第十二条で,現行憲法は,
  
又,国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

と基本的人権を公共の福祉のために利用しなさい,と述べています。

これにたいして「草案」の第十二条は,
  
これを濫用してはならず,自由及び権利には責任が伴うことを自覚し,常に公共及び公の秩序に反してはならない。

と自由に伴う責任を強調しています。自由及び権利に責任および義務がともなうことは,わざわざ言わなくても分かり切ったことですが,それを敢えて
条文に加えたのは,続く文言とも密接に関連しています。

つまり,基本的人権を行使する場合,「公共及び公の秩序に反してはならない」という規定です。

全く同じ構造が,後で検討する,表現の自由(第二十一条)に関する条文にも登場します。

問題は,「公共及び公の秩序」に反しているかどうかを誰がどんな基準で判断するのか,と言う点です。

もし,時の権力(具体的には政府)が,ある言動を,「公の秩序に反している」と判断すれば,その言動をした人は憲法違反を問われることになります。

これは,建前として基本的人権を認めながら,それが時の権力(政府)の解釈によって,どうにも制限できることを意味しています。

次に,第十九条は,現行憲法で「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」と端的に表現されています。

第十九条は,自由主義国家として,もっとも基本的な国民の権利を定めたものです。

これが「改正草案」では最後の部分が「侵してはならない」から「保障する」に変更されています。

ここはたんなる表現の違いのよう見えますが,微妙な視点の移し替えが行われています。

つまり,現行憲法では,たとえ国家といえども「侵してはならない」と,国民が国家にクギをさしている,という視点がはっきりと示されています。

これに対して「草案」では,「国が保障してやる」という,国家の視点に変わっているのです。

第十九条に続く第二十条は,思想及び良心の自由と関連して,信教の自由という,これもまた,国民の思想及び良心の自由を密接不可分の
基本的権利の規定です。

現行憲法では,信教の自由が保障されると同時に,
   
いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。
   何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。
   国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
   
として,国の政治と宗教とは分離すべきである(政教分離),という近代国家の原則が述べられています。
「改正草案」では,最後のところを微妙に修正しています。つまり,
   
国及び地方自治体その他の公共団体は,特定の宗教のための教育その他の宗教活動をしてはならない。ただし,
社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては,この限りではない。

と,ただし書きが付け加えられています。ここで問題となるのは,どこまでが「社会的儀礼又は習俗的行為」なのかを,誰がどのような基準で
判断するのか,という点です。

靖国参拝なども「習俗的行為」に拡大解釈されるかもしれません。

結局,この判断も時の政治権力をもっている者の主観的な判断で決まる余地を残しています。

さて,「戦争放棄」と並んで,議論の対象となっているのが,「表現の自由」を規定した第二十一条です。

現行憲法では,

   集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。

と極めて端的に,無条件で表現の自由を認めています。

ここでは,一般に表現の自由が認められるという基本的な権利を述べているだけでなく,国民が時の権力にたいして抗議したり反論することが認め
られて初めて,民主国家の正統性が担保されることを確認しているのです。

ところが「改正草案」の第二十一条の第一項では,
   
集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は保障する。

として,現行憲法と同じですが,問題はその第二項です。
  
 前項の規定にかかわらず,公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。

この第二項で,第一項の表現の自由は,簡単にひっくり返されてしまいます。

つまり,何が「公益」で何が「公の秩序」を害することになるのかは,どこにも基準が示されていないのです。

従って,これも,時の権力がかなり勝手に解釈できる,権力のさじ加減一つで決まるということになります。

たとえば,原発を無くせ,というデモを国会や首相官邸の周辺で行った場合,それが交通を妨げ,物音で周囲に迷惑をかける,という理由で
「公の秩序」を害すると判断される可能性もあるのです。

また,政府に都合が悪いことを書いたり放送したりすることが,「公の秩序を害する」と判断されるかも知れません。

ある自民党議員は,「そなんなことはまったく考えていない」と答えていました。しかし私は,別の面で,この規定には大きな不安を抱いています。

というのも,最近のマスメディアの姿勢には,無言の圧力を察知して,直接の圧力を受ける前に,自ら「自主規制」しているとしか思えないことが
多いからです。

私は,上の第二項には,露骨に「公益及び公の秩序」を害したという理由で取り締まる可能性を規定しているだけでなく,それをちらつかせる
ことによって,自主規制させ,結果として権力への批判を封じ込めるとする狙いがあるのではないか,という不安を感じています。

今回は,国民の権利についてしか検討できませんでした。この第三章には,「義務」についての諸規定がありますが,これについては,
別の機会に譲ることにします。

最後にもう一度強調しておきますが,この第三章について「改正草案」は,時の権力の解釈次第で,国民の権利をどうにでも制限する余地を残して
いて,私はこの点に大きな疑念と不安を感じます。

憲法改正論議の中で,いわゆる第九章「改正」の「九十六条」については,昨今の議論も踏まえて,後に検討したいと思います。
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