川から日本を見る(2)-川の舟運ネットワーク-
私はここ数年、「流域文化圏形成」という研究テーマを追いかけています。これは、日本の地域文化がどのように形成され
てきたのかという問題です。
日本は、単一民族による単一文化圏であるという、非常に大ざっぱな言い方をするときがあります。もし、日本語を共通語
とする、という意味でなら、そのような言い方も可能かも知れません。
また現代は、文化も情報もテレビやラジオ、インターネットが全国を覆っているので、あたかも日本全体が文化的に一枚岩
であるかのような印象さえもちます。
しかし、日本語という言語的な共通の被いを取り除いてみると、その下には多様で豊かな地域文化圏が幾つも息づいている
ことが分かります。
ここで「文化圏」とは、共通の文化を共有するゆるやかな地域というほどの、漠然とした概念です。たとえば、関西文化圏
とか、東北文化圏といった文化圏が考えられます。
もっとも、実際には、一口に「東北文化圏」といっても、青森県と、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県などでは、
それぞれ独自の文化をもっています。さらに、たとえば同じ山形県でも山形市周辺と、最上地方とではやはり違いがあります。
こうして細かく見てゆくと、地域文化圏というのは、県単位よりずっと狭い範囲まで分かれてゆきます。
私の関心は、それぞれの大小の文化圏はどのようにして形成されてきたのかという問題です。通常、文化に関する研究は、
すでに存在する文化を与えられたものと考えて、その特徴なり構造を解明することに焦点が当てられます。
ここでいう「文化」とは、茶道とか能とか日本画などの高尚な文化ではなく、人々の日常生活の中での食べ物、方言、祭り、
行事、習慣など民衆の文化を指します。
こうした民衆文化に関しては、はっきりとした起源などはわかりにくいため、どのようにして、ある文化が形成されてきた
のか、という歴史的な問いかけがなされることはめったにありません。
ただし、日常生活のうち、衣食住などの生活文化の多くは、それぞれの地域の自然(気候)条件によって大きく左右されます。
たとえば、北海道や東北地方と九州や沖縄とでは、気候の違いによる衣食住の違いがあります。
もちろん、地域文化の形成がすべて自然条件によって生まれたわけではありません。それは、人の移動や活動によって歴史的
に形成されるものでもあります。
つまり、ある地域の文化は、周囲からまったく孤立しているのではなく、人の行き来を通じて、他の地域とも何らかの影響を
受けたり与えたりしながら形成されてくるものなのです。
以上の、事情を考えると、文化の形成には人々の移動のルートや方法が大きく関係していることが分かります。
現代は、道路(車)、鉄道、さらには飛行機がヒト、モノ、情報の移動の主要な手段になっており、このことが、日本の文化
状況を、均一化へ推し進めています。
さらに、近代の日本は、東京圏、中京圏、阪神圏など、海に近い沿岸都市圏を中心に発展してきたため、沿岸部は先進地域、
そして内陸部は人々の動きから取り残された「後進地域」と考えられがちです。
しかし、現在の地域文化が形成された近代以前には、人は陸路を徒歩や馬に乗って移動するか、舟(船)で移動するしかあり
ませんでした。
今回は、河川の舟運を中心とした河川ルートに焦点を当て、ヒト、モノ、情報の移動について考えてみます。
河川ルートは、文字通り川舟(船)で、またある時は川に沿った陸路で、あるいは、最も一般的だったのは、川の舟運を利用
できる最上流まで舟で、そこから先は陸路で人や荷物で移動したのです。
現在の河川、とりわけ東京から西にある河川は、途中で発電や農業用水、工業用水、飲料水のために水を取られてしまっています。
さらに深刻なのは上流の森林が荒れているので、降った雨が直ちに海へ流下してしまいます。このため、平常時の河川では、
表面を流れる水は非常に少なくなってしまっています。
江戸時代には、「越すに越されぬ大井川」と言われた大井川でさえ、現在では見る影もありません。現代では、関東以西の本州の
河川の本流は、河床の下を流れる伏流水だと言われるほどです。
しかし、江戸時代と明治期くらいまで、ある程度の規模を持った河川では、程度の差はあっても、ほとんど舟運が利用されてい
たのです。
そして、舟運が行われていた河川では、川の港、つまり「河岸」が整備されていました。
川の舟運は、以下に触れる北上川の例に見られるように、江戸時代よりはるか昔から行われていました。
しかし、江戸時代になると、物の生産と流通が盛んになり、河岸が整備され舟運が組織的に運営されるようになりました。
また、江戸には各藩から幕府への年貢米、あるいは江戸屋敷の維持管理に必要な財政を賄うために大量の藩米が江戸に送
られました。
米は馬の背に乗せて運ぶこともできましたが、1頭の馬はせいぜい2俵(1俵は約60キロ)しか運べません。
したがって、年間に何万俵もの米を馬だけで運ぶことは、膨大な数の馬と馬子が必要となり、これは、不可能ではないにしても、
輸送コストと期間がかかりすぎ、現実的ではありませんでした。
また、建築資材の木材を運ぶには、遠く山から陸路で牛馬に引かせて運ぶことは事実上無理でした。
これにたいして、船がもつ輸送力は比較を絶して大きかったのです。米を川舟で運ぶ場合、100俵くらい(馬50頭分)は無理
なく運べたし、木材も筏流しと組み合わせて山から下流へ運ぶのがもっとも速くコストも安かったのです。
こうして、川の舟運が利用できるところまでは陸路で運び、そこからは舟で運ぶという陸路と舟運との組み合わせが、日本全国で
発展してゆきました。
舟運のその大ざっぱなイメージを描くために、まず、今回は江戸時代の東日本における河川の舟運と陸路とのネットワークを、
小出博『利根川と淀川』から引用します。
(地図をクリックすると拡大図になります)

この図からもわかるように、東北日本ではかなり多くの河川で舟運が行われていました。とりわけ注目に値するのは、今日、内陸都市
と考えられている都市がかつては舟運の主要な拠点としての河岸であったという事実です。
たとえば福島は、阿武隈川流域ではもっとも古く大きな港まちであったし、「杜の都」、といわれた盛岡は北上川上流部の最大の河岸
でした。
そして、現在でも、盛岡市内では川幅いっぱいに水が流れています(写真参照)

北上川に関しては、中流から下流にかけての河岸や航行に必要な情報が描かれた絵図(江戸時代)が今日も残されています。(注1)
注目すべきは、、平安末期から鎌倉初期にかけて、日本で三大都市の一つとして繁栄を極めた藤原三代の拠点都市、平泉も北上川の
河岸の一つだったという事実です。藤原氏は、平泉から北上川を上って東北の奥地から北海道、そして直接間接にシベリア大陸との
交易をしていとこと、またまた北上川を下って、太平洋に出て、京都、博多、そして宋との貿易もしていたことも最近の考古学的調査
で分かってきました。
次に、当時は日本で最大の人口を抱えた江戸と地方との交通運輸を支えた利根川を例に見てみましょう。下の地図(小出博『利根川
と淀川』より引用)には利根川水系の河岸の所在を示しています。
これで見ても分かるように、利根川は渡良瀬川や鬼怒川、そして江戸川などの支流や分流に主なものだけでも200近くの河岸があったのです。

江戸時代にも100万人の住民を抱えた江戸は、その人口を養うために膨大な物資を日本全国から集めていたのですが、その重要な交易は
利根川の舟運なしには考えられません。
利根川の本流の最も上流にある河岸は沼田で、そこから峠を越えると越後の国に到達しました。他方、信州との交易路としては、高崎城の
外港であった、倉賀野が遡行限界でした。
江戸から信州へは、ここで荷物を下ろし、馬や牛の背で碓氷峠を越えて、塩尻まで運ばれました。
逆に信州から江戸へは碓氷峠を越えて倉賀野で荷物を船に移し、利根川と江戸川の分岐点である関宿または境から江戸川に入り、行徳から
舟堀川と小名木川を経て隅田川にはいり、江戸市中の無数の運河や堀割に運ばれました。
時代劇などで、掘り割りに面して建ち並ぶ店や倉庫の光景がよく出てきますが、それはこのように長旅を経て江戸に到達した荷物の積み
下ろしをしていた河岸だったのです。
次に、支流としては渡良瀬川と鬼怒川が主要な川で、これらの河川を通じて東北南部の物産(特に米と木材)が江戸に運ばれました。
さらに、東北の沿岸地域からは、銚子から利根川を上り、関宿か境で江戸川を下り、上に述べたルートに従って江戸市中に入ったのです。
1671年には、東北から直接に江戸湾に入るルートが河村瑞賢によって開拓されますが、銚子沖を通過することが危険だったので、利根川
経由の河川舟運は後まで存続しました。
江戸には河川だけではなく、海路で江戸湾から直接に市中に入ることも可能でした。大阪などの西から来る船は、そのようなルートを
取っていましたが、それについては、日本の海運史として別に検討する必要があります。
次回は、舟運の様子、運ばれた荷物、とりわけ舟運と「塩の道」との関係についてもう少し詳しく紹介します。
(注1)北上市立博物館 2009(初版 1983)『北上川の水運』(北上川流域の自然と文化シリーズ 5)
私はここ数年、「流域文化圏形成」という研究テーマを追いかけています。これは、日本の地域文化がどのように形成され
てきたのかという問題です。
日本は、単一民族による単一文化圏であるという、非常に大ざっぱな言い方をするときがあります。もし、日本語を共通語
とする、という意味でなら、そのような言い方も可能かも知れません。
また現代は、文化も情報もテレビやラジオ、インターネットが全国を覆っているので、あたかも日本全体が文化的に一枚岩
であるかのような印象さえもちます。
しかし、日本語という言語的な共通の被いを取り除いてみると、その下には多様で豊かな地域文化圏が幾つも息づいている
ことが分かります。
ここで「文化圏」とは、共通の文化を共有するゆるやかな地域というほどの、漠然とした概念です。たとえば、関西文化圏
とか、東北文化圏といった文化圏が考えられます。
もっとも、実際には、一口に「東北文化圏」といっても、青森県と、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県などでは、
それぞれ独自の文化をもっています。さらに、たとえば同じ山形県でも山形市周辺と、最上地方とではやはり違いがあります。
こうして細かく見てゆくと、地域文化圏というのは、県単位よりずっと狭い範囲まで分かれてゆきます。
私の関心は、それぞれの大小の文化圏はどのようにして形成されてきたのかという問題です。通常、文化に関する研究は、
すでに存在する文化を与えられたものと考えて、その特徴なり構造を解明することに焦点が当てられます。
ここでいう「文化」とは、茶道とか能とか日本画などの高尚な文化ではなく、人々の日常生活の中での食べ物、方言、祭り、
行事、習慣など民衆の文化を指します。
こうした民衆文化に関しては、はっきりとした起源などはわかりにくいため、どのようにして、ある文化が形成されてきた
のか、という歴史的な問いかけがなされることはめったにありません。
ただし、日常生活のうち、衣食住などの生活文化の多くは、それぞれの地域の自然(気候)条件によって大きく左右されます。
たとえば、北海道や東北地方と九州や沖縄とでは、気候の違いによる衣食住の違いがあります。
もちろん、地域文化の形成がすべて自然条件によって生まれたわけではありません。それは、人の移動や活動によって歴史的
に形成されるものでもあります。
つまり、ある地域の文化は、周囲からまったく孤立しているのではなく、人の行き来を通じて、他の地域とも何らかの影響を
受けたり与えたりしながら形成されてくるものなのです。
以上の、事情を考えると、文化の形成には人々の移動のルートや方法が大きく関係していることが分かります。
現代は、道路(車)、鉄道、さらには飛行機がヒト、モノ、情報の移動の主要な手段になっており、このことが、日本の文化
状況を、均一化へ推し進めています。
さらに、近代の日本は、東京圏、中京圏、阪神圏など、海に近い沿岸都市圏を中心に発展してきたため、沿岸部は先進地域、
そして内陸部は人々の動きから取り残された「後進地域」と考えられがちです。
しかし、現在の地域文化が形成された近代以前には、人は陸路を徒歩や馬に乗って移動するか、舟(船)で移動するしかあり
ませんでした。
今回は、河川の舟運を中心とした河川ルートに焦点を当て、ヒト、モノ、情報の移動について考えてみます。
河川ルートは、文字通り川舟(船)で、またある時は川に沿った陸路で、あるいは、最も一般的だったのは、川の舟運を利用
できる最上流まで舟で、そこから先は陸路で人や荷物で移動したのです。
現在の河川、とりわけ東京から西にある河川は、途中で発電や農業用水、工業用水、飲料水のために水を取られてしまっています。
さらに深刻なのは上流の森林が荒れているので、降った雨が直ちに海へ流下してしまいます。このため、平常時の河川では、
表面を流れる水は非常に少なくなってしまっています。
江戸時代には、「越すに越されぬ大井川」と言われた大井川でさえ、現在では見る影もありません。現代では、関東以西の本州の
河川の本流は、河床の下を流れる伏流水だと言われるほどです。
しかし、江戸時代と明治期くらいまで、ある程度の規模を持った河川では、程度の差はあっても、ほとんど舟運が利用されてい
たのです。
そして、舟運が行われていた河川では、川の港、つまり「河岸」が整備されていました。
川の舟運は、以下に触れる北上川の例に見られるように、江戸時代よりはるか昔から行われていました。
しかし、江戸時代になると、物の生産と流通が盛んになり、河岸が整備され舟運が組織的に運営されるようになりました。
また、江戸には各藩から幕府への年貢米、あるいは江戸屋敷の維持管理に必要な財政を賄うために大量の藩米が江戸に送
られました。
米は馬の背に乗せて運ぶこともできましたが、1頭の馬はせいぜい2俵(1俵は約60キロ)しか運べません。
したがって、年間に何万俵もの米を馬だけで運ぶことは、膨大な数の馬と馬子が必要となり、これは、不可能ではないにしても、
輸送コストと期間がかかりすぎ、現実的ではありませんでした。
また、建築資材の木材を運ぶには、遠く山から陸路で牛馬に引かせて運ぶことは事実上無理でした。
これにたいして、船がもつ輸送力は比較を絶して大きかったのです。米を川舟で運ぶ場合、100俵くらい(馬50頭分)は無理
なく運べたし、木材も筏流しと組み合わせて山から下流へ運ぶのがもっとも速くコストも安かったのです。
こうして、川の舟運が利用できるところまでは陸路で運び、そこからは舟で運ぶという陸路と舟運との組み合わせが、日本全国で
発展してゆきました。
舟運のその大ざっぱなイメージを描くために、まず、今回は江戸時代の東日本における河川の舟運と陸路とのネットワークを、
小出博『利根川と淀川』から引用します。
(地図をクリックすると拡大図になります)

この図からもわかるように、東北日本ではかなり多くの河川で舟運が行われていました。とりわけ注目に値するのは、今日、内陸都市
と考えられている都市がかつては舟運の主要な拠点としての河岸であったという事実です。
たとえば福島は、阿武隈川流域ではもっとも古く大きな港まちであったし、「杜の都」、といわれた盛岡は北上川上流部の最大の河岸
でした。
そして、現在でも、盛岡市内では川幅いっぱいに水が流れています(写真参照)

北上川に関しては、中流から下流にかけての河岸や航行に必要な情報が描かれた絵図(江戸時代)が今日も残されています。(注1)
注目すべきは、、平安末期から鎌倉初期にかけて、日本で三大都市の一つとして繁栄を極めた藤原三代の拠点都市、平泉も北上川の
河岸の一つだったという事実です。藤原氏は、平泉から北上川を上って東北の奥地から北海道、そして直接間接にシベリア大陸との
交易をしていとこと、またまた北上川を下って、太平洋に出て、京都、博多、そして宋との貿易もしていたことも最近の考古学的調査
で分かってきました。
次に、当時は日本で最大の人口を抱えた江戸と地方との交通運輸を支えた利根川を例に見てみましょう。下の地図(小出博『利根川
と淀川』より引用)には利根川水系の河岸の所在を示しています。
これで見ても分かるように、利根川は渡良瀬川や鬼怒川、そして江戸川などの支流や分流に主なものだけでも200近くの河岸があったのです。

江戸時代にも100万人の住民を抱えた江戸は、その人口を養うために膨大な物資を日本全国から集めていたのですが、その重要な交易は
利根川の舟運なしには考えられません。
利根川の本流の最も上流にある河岸は沼田で、そこから峠を越えると越後の国に到達しました。他方、信州との交易路としては、高崎城の
外港であった、倉賀野が遡行限界でした。
江戸から信州へは、ここで荷物を下ろし、馬や牛の背で碓氷峠を越えて、塩尻まで運ばれました。
逆に信州から江戸へは碓氷峠を越えて倉賀野で荷物を船に移し、利根川と江戸川の分岐点である関宿または境から江戸川に入り、行徳から
舟堀川と小名木川を経て隅田川にはいり、江戸市中の無数の運河や堀割に運ばれました。
時代劇などで、掘り割りに面して建ち並ぶ店や倉庫の光景がよく出てきますが、それはこのように長旅を経て江戸に到達した荷物の積み
下ろしをしていた河岸だったのです。
次に、支流としては渡良瀬川と鬼怒川が主要な川で、これらの河川を通じて東北南部の物産(特に米と木材)が江戸に運ばれました。
さらに、東北の沿岸地域からは、銚子から利根川を上り、関宿か境で江戸川を下り、上に述べたルートに従って江戸市中に入ったのです。
1671年には、東北から直接に江戸湾に入るルートが河村瑞賢によって開拓されますが、銚子沖を通過することが危険だったので、利根川
経由の河川舟運は後まで存続しました。
江戸には河川だけではなく、海路で江戸湾から直接に市中に入ることも可能でした。大阪などの西から来る船は、そのようなルートを
取っていましたが、それについては、日本の海運史として別に検討する必要があります。
次回は、舟運の様子、運ばれた荷物、とりわけ舟運と「塩の道」との関係についてもう少し詳しく紹介します。
(注1)北上市立博物館 2009(初版 1983)『北上川の水運』(北上川流域の自然と文化シリーズ 5)