川から日本文化を見る(1)-富山和子著『水の文化史』を手掛かりとして-
日本が高度経済成長の真っ盛りにあった1980年、日本の歴史・文化・環境をセットで考える非常に重要な著作が出版
されました。それが、今回、ここで取り上げる、富山和子著『水の文化史』(文芸春秋社)です。
当時私は、森林保護の問題に関わっていて、出版されたばかりのこの本を読んで非常に感動しました。
当時、人々の心は高度経済成長と、次々に登場するクーラーや冷蔵庫などの家電製品や車の購入に奪われ、荒れる
一方の森林などに関心を持つ人はほとんどいませんでした。
また、このころ私はイワナやヤマメを追う渓流釣りにも熱中しており、長野県と岐阜県の県境を流れるある川の源流
に近い渓流をしばしば訪れていました。この渓流では時々大きなイワナが釣れたので、お気に入りの渓の一つでした。
ある時、その渓(たに)を訪れてみると、まったく様相が変わっていて、イワナの影さえ見えないどころか、深い渓
が土砂で埋もれてしまっていました。
近くの村の人の話では、数日前の台風で上流の土砂が渓に流れ込み、4メートルほども渓が埋まってしまったとの
ことでした。
私は、それを確かめるために、川の上流に向かって歩き、ついに土砂が流出した現場に行き着きました。
その現場を見て思わず、うなってしまいました。渓の山側の急斜面は杉の人工林だったところでしたが、まるで
バリカンで毛を刈るように、広い面積がきれいに刈られていました。いわゆる「皆伐」という伐採のやり方です。
太い木だけを選別して、間引くようにして伐採する方が山の斜面の表土を守るためには良いのですが、それは効率
が悪いので、皆伐が行われることもあります。表面が草や灌木で覆われる前に大雨が降ると、表土はたちまち渓に
押し流されてしまいます。
この時、森林と川との不可分な関係を身をもって感じました。森は、降った雨を一時吸収し、長い時間をかけて少し
ずつ川に流してゆくのだ、という当たり前のことを実感したのです。
このような体験もあったので、富山氏の著作は、森林の問題が、実は川の問題と密接に関連していることを、再確認
させてくれました。
最初にこの本を読んだ当時、私の関心は森林と川との関係に限られていました。しかし、あれから30年以上も年月
が経ち、今年(2013年)に中央公論社から新書版で再販されたのを機に、もう一度読み返してみて、この本は、
タイトルにあるように、あくまでも水の「文化史」であることを再確認しました。
これは私にとって、非常に重要な“発見”でした。というのも、私はここ3年ほど、「流域文化圏形成の研究」という
小さな研究プロジェクトを行っており、富山氏の著書の内容と深く関わっていることが分かったからです。
このプロジェクトについては、次回に少しくわしく説明します。
富山氏は、日本の交通体系において水運(主に河川の舟運と、それに連結する海運)に着目して、日本の歴史と文化の
成り立ちを解明した、この分野の研究の開拓者です。富山氏が切り開いた素晴らしい世界を、少しだけ紹介しましょう。
富山氏はまず、大和の地(現在の奈良県)に花開いた飛鳥・奈良の古代文化と国家とはどのようにして成立したのか、
そして成立し得たのかという問題を、淀川水系を例に説明します。
ここで「淀川水系」とは、最終的に淀川に注ぐ、桂川(加茂川と桂川)、瀬田川-宇治川、木津川を指します。
そして、これらの河川は、現在の山崎のあたりで合流します。ちなみに、サントリーの本拠地、山崎は、酒作りに欠
かせない水が集まる場所です。
富山氏は、とりわけ、ここで重要な役割を果たすのが琵琶湖で、琵琶湖-瀬田川-宇治川-木津川という、いわば
大和盆地の都を支えた幹線ルートに着目します。
まず、藤原京や奈良の都(平城京)の建設、さらには東大寺をはじめ何と七大寺建立都を造営するために必要な膨大な
木材は、琵琶湖の東側、大津市の南で瀬田川の上流に位置する田上山から切り出されました。
切り出された木材は、舟で琵琶湖との唯一の出口である瀬田川を下り、やがて宇治川と名前が変わり木津川と合流します。
そこで一旦、陸揚げされ、荷を整えて再び木津川を遡って大和の地に運ばれました。
軽い荷物は牛馬や人の背でも運べますが、木材は基本的に水路(川や湖)の水運を利用します。
木津川とは名前のとおり、木を運ぶ川で、地名の「木津」は「木の港」という意味です。これらの川は、もちろん、木を
運んだだけでなく、大陸からの貢物や庄園の年貢も運ばれた道でもありました。
やがて、都が京都に移ると、淀川水系のうち桂川が、京都を支えるもう一つの幹線ルートとして登場しました。
桂川は、真っ直ぐに下って淀川となり、大阪湾に注ぎます。
京都に都が置かれると、京都と奈良は木津川と桂川を介して結ばれたのです。そして、淀、桂、鳥羽は京都の外港(河港
=河岸)として栄えた港町でした。
ここまでは、古典的な歴史が教えるところですが、富山氏の発想のすばらしさは、この先です。
先に、淀川水系の説明の際に、琵琶湖を出発点として挙げておきましたが、実は、ここに大きな意味があるのです。
つまり、奈良や京都に入ってきた物資の多くは、日本海側の北陸、東北地方から若狭湾の若狭港や鶴賀で陸揚げされ、陸路
を経て琵琶湖の港、塩津へ運ばれ、舟で琵琶湖を大津へ渡り、奈良へ運ばれたので背鵜。
当時、奈良と北陸そして東北とは非常に密接な関係があり、東大寺建立のころ、東大寺の庄園の多くは北陸と東北にあったのです。
富山氏の言葉を借りると、奈良時代は日本海側こそが「表日本」でした。日本海側からは、木材だけでなく、さまざまな
海産物、米、絹などありとあらゆる物産が、海路と陸路を経由して琵琶湖に入り、大和に運び込まれたのです。
都が京都に移ってからも事情は同じで、京都に入る物産は、日本海から陸路で、あるいは琵琶湖経由で京都に運ばれたのです。
そして、京都は桂川の舟運も利用できたので、大陸からの物資や文化は瀬戸内海からも桂川を経由して京都に入ったのです。
こうして、淀川は瀬戸内海、奈良、京都という都、海路で北陸と東北とを結んでいたのです。
富山氏のもう一つの、優れた発想として、上記のルートを経由して、淀川は東北の大河川、最上川とも結ばれていたことを指摘します。
最上川流域は、古来「最上の紅花」で有名でした。紅花はエジプトや中東が原産といわれており、日本には6~7世紀に伝えられ、
平安時代には日本各地で栽培されました。最上川流域では、室町時代から栽培されるようになったようです。
紅花は非常に高級な染料で、同じ重さなら金と同じ価格だったと言われています。古代にあって、紅は神聖な色だったのです。
京都の商人が最上地方に買いに紅花を買いに来たり、在地の紅花商人が、京都に紅花を売りにもゆきました。こうした二重の
取引で、最上地方の紅花以外のさまざまな物産が京都に行き、京都の繰綿、木綿、水油、のちには砂糖、雛人形などの雑貨が
最上地方にもたらされました。
京都からもたらされた雑貨は最上の商人達によって、流域の各地で売りさばかれました。
最上を経由する物産は一旦河口の港、酒田で陸揚げされ、京都へは大型の外洋船に積み替えられ、京都からの物産は川船に積み
替えられました。
こうして、最上流域の奥深くに京都の文化が入り込み、現在「紅花博物館」となっているかつての紅花商人の館には、多数の京都
のひな人形が展示されています。そして、古い京都の言葉が現在でも最上地方には残っています。
富山氏は、淀川-琵琶湖-(海路)-最上川というルート、つまり川-湖--海-川を一つの糸で繋いだのです。これは素晴らしい
アイディアです。
しかも、そこでは単に物産の交易だけでなく、京都の文化が北陸に伝わり金沢が「小京都」と呼ばれたり、京染め(友禅)が、北陸
の加賀友禅となったり、あるいは京風のデザインが能登や北陸の漆器に使われたりしたことからも分かるように、京都と北陸、
東北地方は、後々まで文化の面でも深い関係を保ったのです。
富山氏の研究に付け足すことは余りありませんが、一つだけ、補足しておきたいと思います。
以前から私は、なぜ、奈良という内陸の孤立した場所に都が置かれたのか不思議でなりませんでした。
他方、奈良時代には中国、朝鮮など大陸との交流も盛んに行われ、それは仏像などを見ても明らかです。それにも関わらず、海に近い
場所ではなく、交通不便な内陸盆地に都を置いた理由が分からなかったのです。
しかし、川に関する文献を調べてゆくうちに、実は、奈良は大和盆地に流れ込む何本もの川が合流し、堺で大阪湾に注ぐ大和川の
舟運を利用していたことが分かりました。
つまり、上に述べた淀川水系の他に、大陸の文物や九州、四国、瀬戸内の物産は、大和川を遡り支流の佐保川に入り、何と平城京の
中まで舟で到達することができたのです。
今年の春に、このコースを大阪湾からたどり(ただし、大和川は江戸時事代に途中から淀川に付け替えられた)、奈良盆地に入り、
佐保川沿いに平城京跡地まで自動車で走りました。
大和盆地を流れる何本もの支流は「河合」という町で合流しますが、そこの廣瀬神社があります。この神社の境内に建っている看板
の説明書きによると、ここには、桓武天皇以来、毎年、洪水防止と豊饒を祈願に来ました。
そして、神社のすぐ隣が大和川の港で、古来から明治時代の初めまで市場があって賑わっていたことが書かかれています。
奈良の都は、孤立していたどころか、水の都といってもいいほど水と水運に恵まれた場所だった事が分かります。
これで、長年の疑問がようやく解けました。
次回は、富山氏の著作から離れて、私自身が調査した感想を中心に、「流域文化圏形成の研究」について書きたいと思います。
日本が高度経済成長の真っ盛りにあった1980年、日本の歴史・文化・環境をセットで考える非常に重要な著作が出版
されました。それが、今回、ここで取り上げる、富山和子著『水の文化史』(文芸春秋社)です。
当時私は、森林保護の問題に関わっていて、出版されたばかりのこの本を読んで非常に感動しました。
当時、人々の心は高度経済成長と、次々に登場するクーラーや冷蔵庫などの家電製品や車の購入に奪われ、荒れる
一方の森林などに関心を持つ人はほとんどいませんでした。
また、このころ私はイワナやヤマメを追う渓流釣りにも熱中しており、長野県と岐阜県の県境を流れるある川の源流
に近い渓流をしばしば訪れていました。この渓流では時々大きなイワナが釣れたので、お気に入りの渓の一つでした。
ある時、その渓(たに)を訪れてみると、まったく様相が変わっていて、イワナの影さえ見えないどころか、深い渓
が土砂で埋もれてしまっていました。
近くの村の人の話では、数日前の台風で上流の土砂が渓に流れ込み、4メートルほども渓が埋まってしまったとの
ことでした。
私は、それを確かめるために、川の上流に向かって歩き、ついに土砂が流出した現場に行き着きました。
その現場を見て思わず、うなってしまいました。渓の山側の急斜面は杉の人工林だったところでしたが、まるで
バリカンで毛を刈るように、広い面積がきれいに刈られていました。いわゆる「皆伐」という伐採のやり方です。
太い木だけを選別して、間引くようにして伐採する方が山の斜面の表土を守るためには良いのですが、それは効率
が悪いので、皆伐が行われることもあります。表面が草や灌木で覆われる前に大雨が降ると、表土はたちまち渓に
押し流されてしまいます。
この時、森林と川との不可分な関係を身をもって感じました。森は、降った雨を一時吸収し、長い時間をかけて少し
ずつ川に流してゆくのだ、という当たり前のことを実感したのです。
このような体験もあったので、富山氏の著作は、森林の問題が、実は川の問題と密接に関連していることを、再確認
させてくれました。
最初にこの本を読んだ当時、私の関心は森林と川との関係に限られていました。しかし、あれから30年以上も年月
が経ち、今年(2013年)に中央公論社から新書版で再販されたのを機に、もう一度読み返してみて、この本は、
タイトルにあるように、あくまでも水の「文化史」であることを再確認しました。
これは私にとって、非常に重要な“発見”でした。というのも、私はここ3年ほど、「流域文化圏形成の研究」という
小さな研究プロジェクトを行っており、富山氏の著書の内容と深く関わっていることが分かったからです。
このプロジェクトについては、次回に少しくわしく説明します。
富山氏は、日本の交通体系において水運(主に河川の舟運と、それに連結する海運)に着目して、日本の歴史と文化の
成り立ちを解明した、この分野の研究の開拓者です。富山氏が切り開いた素晴らしい世界を、少しだけ紹介しましょう。
富山氏はまず、大和の地(現在の奈良県)に花開いた飛鳥・奈良の古代文化と国家とはどのようにして成立したのか、
そして成立し得たのかという問題を、淀川水系を例に説明します。
ここで「淀川水系」とは、最終的に淀川に注ぐ、桂川(加茂川と桂川)、瀬田川-宇治川、木津川を指します。
そして、これらの河川は、現在の山崎のあたりで合流します。ちなみに、サントリーの本拠地、山崎は、酒作りに欠
かせない水が集まる場所です。
富山氏は、とりわけ、ここで重要な役割を果たすのが琵琶湖で、琵琶湖-瀬田川-宇治川-木津川という、いわば
大和盆地の都を支えた幹線ルートに着目します。
まず、藤原京や奈良の都(平城京)の建設、さらには東大寺をはじめ何と七大寺建立都を造営するために必要な膨大な
木材は、琵琶湖の東側、大津市の南で瀬田川の上流に位置する田上山から切り出されました。
切り出された木材は、舟で琵琶湖との唯一の出口である瀬田川を下り、やがて宇治川と名前が変わり木津川と合流します。
そこで一旦、陸揚げされ、荷を整えて再び木津川を遡って大和の地に運ばれました。
軽い荷物は牛馬や人の背でも運べますが、木材は基本的に水路(川や湖)の水運を利用します。
木津川とは名前のとおり、木を運ぶ川で、地名の「木津」は「木の港」という意味です。これらの川は、もちろん、木を
運んだだけでなく、大陸からの貢物や庄園の年貢も運ばれた道でもありました。
やがて、都が京都に移ると、淀川水系のうち桂川が、京都を支えるもう一つの幹線ルートとして登場しました。
桂川は、真っ直ぐに下って淀川となり、大阪湾に注ぎます。
京都に都が置かれると、京都と奈良は木津川と桂川を介して結ばれたのです。そして、淀、桂、鳥羽は京都の外港(河港
=河岸)として栄えた港町でした。
ここまでは、古典的な歴史が教えるところですが、富山氏の発想のすばらしさは、この先です。
先に、淀川水系の説明の際に、琵琶湖を出発点として挙げておきましたが、実は、ここに大きな意味があるのです。
つまり、奈良や京都に入ってきた物資の多くは、日本海側の北陸、東北地方から若狭湾の若狭港や鶴賀で陸揚げされ、陸路
を経て琵琶湖の港、塩津へ運ばれ、舟で琵琶湖を大津へ渡り、奈良へ運ばれたので背鵜。
当時、奈良と北陸そして東北とは非常に密接な関係があり、東大寺建立のころ、東大寺の庄園の多くは北陸と東北にあったのです。
富山氏の言葉を借りると、奈良時代は日本海側こそが「表日本」でした。日本海側からは、木材だけでなく、さまざまな
海産物、米、絹などありとあらゆる物産が、海路と陸路を経由して琵琶湖に入り、大和に運び込まれたのです。
都が京都に移ってからも事情は同じで、京都に入る物産は、日本海から陸路で、あるいは琵琶湖経由で京都に運ばれたのです。
そして、京都は桂川の舟運も利用できたので、大陸からの物資や文化は瀬戸内海からも桂川を経由して京都に入ったのです。
こうして、淀川は瀬戸内海、奈良、京都という都、海路で北陸と東北とを結んでいたのです。
富山氏のもう一つの、優れた発想として、上記のルートを経由して、淀川は東北の大河川、最上川とも結ばれていたことを指摘します。
最上川流域は、古来「最上の紅花」で有名でした。紅花はエジプトや中東が原産といわれており、日本には6~7世紀に伝えられ、
平安時代には日本各地で栽培されました。最上川流域では、室町時代から栽培されるようになったようです。
紅花は非常に高級な染料で、同じ重さなら金と同じ価格だったと言われています。古代にあって、紅は神聖な色だったのです。
京都の商人が最上地方に買いに紅花を買いに来たり、在地の紅花商人が、京都に紅花を売りにもゆきました。こうした二重の
取引で、最上地方の紅花以外のさまざまな物産が京都に行き、京都の繰綿、木綿、水油、のちには砂糖、雛人形などの雑貨が
最上地方にもたらされました。
京都からもたらされた雑貨は最上の商人達によって、流域の各地で売りさばかれました。
最上を経由する物産は一旦河口の港、酒田で陸揚げされ、京都へは大型の外洋船に積み替えられ、京都からの物産は川船に積み
替えられました。
こうして、最上流域の奥深くに京都の文化が入り込み、現在「紅花博物館」となっているかつての紅花商人の館には、多数の京都
のひな人形が展示されています。そして、古い京都の言葉が現在でも最上地方には残っています。
富山氏は、淀川-琵琶湖-(海路)-最上川というルート、つまり川-湖--海-川を一つの糸で繋いだのです。これは素晴らしい
アイディアです。
しかも、そこでは単に物産の交易だけでなく、京都の文化が北陸に伝わり金沢が「小京都」と呼ばれたり、京染め(友禅)が、北陸
の加賀友禅となったり、あるいは京風のデザインが能登や北陸の漆器に使われたりしたことからも分かるように、京都と北陸、
東北地方は、後々まで文化の面でも深い関係を保ったのです。
富山氏の研究に付け足すことは余りありませんが、一つだけ、補足しておきたいと思います。
以前から私は、なぜ、奈良という内陸の孤立した場所に都が置かれたのか不思議でなりませんでした。
他方、奈良時代には中国、朝鮮など大陸との交流も盛んに行われ、それは仏像などを見ても明らかです。それにも関わらず、海に近い
場所ではなく、交通不便な内陸盆地に都を置いた理由が分からなかったのです。
しかし、川に関する文献を調べてゆくうちに、実は、奈良は大和盆地に流れ込む何本もの川が合流し、堺で大阪湾に注ぐ大和川の
舟運を利用していたことが分かりました。
つまり、上に述べた淀川水系の他に、大陸の文物や九州、四国、瀬戸内の物産は、大和川を遡り支流の佐保川に入り、何と平城京の
中まで舟で到達することができたのです。
今年の春に、このコースを大阪湾からたどり(ただし、大和川は江戸時事代に途中から淀川に付け替えられた)、奈良盆地に入り、
佐保川沿いに平城京跡地まで自動車で走りました。
大和盆地を流れる何本もの支流は「河合」という町で合流しますが、そこの廣瀬神社があります。この神社の境内に建っている看板
の説明書きによると、ここには、桓武天皇以来、毎年、洪水防止と豊饒を祈願に来ました。
そして、神社のすぐ隣が大和川の港で、古来から明治時代の初めまで市場があって賑わっていたことが書かかれています。
奈良の都は、孤立していたどころか、水の都といってもいいほど水と水運に恵まれた場所だった事が分かります。
これで、長年の疑問がようやく解けました。
次回は、富山氏の著作から離れて、私自身が調査した感想を中心に、「流域文化圏形成の研究」について書きたいと思います。