現代シンガポール事情-閑話休題-
前回に引き続いて,憲法改正問題について書く予定でしたが,5月3~6日まで,教え子の結婚式に出席するためシンガポールに行ってきました。
そこで感じたさまざまな事柄を,印象が薄れないうちに,脈絡のない「シンガポール雑感」として書きたいと思います。
個人的な話になりますが,私がシンガポールを訪れるのは,30年以上も前のことです。どんな風に変わったのか,それを見るのが楽しみでもありました。
しかし,飛行機がシンガポールに近づくと,私の心と体に,遠い昔の恐怖の記憶がよみがえって緊張しました。
当時私はインドネシアのスマトラ島で,博士論文のためのフィールド調査をしていたのですが,ある問題のため,スマトラにいることができなくなり,急遽シンガポールへ逃げ込みました。
私が友人のアパートに転がり込んだ数時間後に,不明の人物らかその友人に電話がかかってきて,「そこにアキラ・オオキがいるはずだから電話口に出せ」と言ってきたのです。
私がインドネシア語で,「あんたは誰ですか 何の用件ですか」と何度聞き返しても,相手は何も答えず黙ったままじーっとしていました。
しばらくして電話を切ったのですが,私がここにいることがなぜ分かったのか,どうしても理解できず,私は心の底から恐怖を感じました。
あの時の,何とも言えない不気味な恐怖が,今回,ふいによみがえってきたのです。
シンガポールは,政治的実験の場ともいわれてきました。国家が国民を徹底的に管理する社会です。
国民は国によって監視され,犯罪には厳しい罰が加えられます。道路にゴミをポイ捨てするだけでも罰せられたり,
たとえばバスの運転手の態度が悪かったりして通報されると,直ぐに解雇されると言う話はよく聞きます。
その代わり,夜,女性が散歩していても余り危険はないと言われています。実際,深夜近くに女性が散歩しているのを見かけました。監視社会の功罪です。
次に,シンガポールの国際空港は「チャンギ空港」なのですが,この「チャンギ」という地名に,ドキッとしました。
チャンギは,戦時中に日本がシンガポールを占領していたとき,1万人もの捕虜を収容し,多数の死者を出した捕虜収容所のあった,
捕虜となった人たちにとっていわば怨念のこもった場所です。
東南アジアの歴史を専攻する私にとって,「チャンギ」は空港というより捕虜収容所としての認識の方が強く,その言葉には今でも心が痛む響きがあります。
さて,昔の記憶の話はこれくらいにして,このわずか4日に滞在期間に感じた,現代シンガポールについて書いてみます。
シンガポールは東京の環状線の内側の面積しかない土地に500万人の住民が住んでいる,超人口過密な都市国家です。
街は横に広がることはできないので,住宅もオフィスも商業施設も,ただひたすら上に上にと高層ビルへと伸びてゆきます。
こうして,街全体が高層ビルが密集するジャングルのような様相を呈することになります。
しかも,こうしたマンションやアパートの価格はとても高く,買うとなると「億ション」も珍しくありません。
当然,家賃も高く,私が見た日本人が住むアパートは,それほど広くない1LDKでしたが,それでも家賃は月24万円です。
この家賃は中よりやや高めのアパートのものではありますが,それにしても高いなと感じました。
シンガポールは,19世紀の初めにイギリス人のラッフルスが植民都市を拓いた当初から東西交易の中継港としての役割を担ってきました。
その役割は今でも変わっていませんが,現代では海の港に加えて空の港がハブ空港として大きな役割を果たすようになりました。
シンガポールには世界に輸出する製造業もなく,経済は中継貿易と金融,内外の企業の事業所がもたらす税収などが基盤となっています。
シンガポールは東西交易の中継点という経済的・地理的要衝に位置しているため,歴史的にさざまざな人種の人がここに住んでいました。
加えて,イギリス統治時代にインドや中国などから労働者を連れてきたり,イギリスやその他の国からの移住者を受け容れてきた多民族国家でもあります。
ここでは,主要な民俗である中国系の他,マレー系,インド系,アラブ系,中国以外のアジア系(日本,韓国,フィリピン,インドネシアなど)が,
そして意外と多くのヨーロッパ人が目に付きます。
シンガポールが若い国だと感じるのは,消費意欲が旺盛なことです。町のレストランも,スーパーマーケットも,
ショッピングモールも人,人,人で大にぎわいです。
まさに,文字通り人が押しかける,という状況です。1970年代の日本も,やはりこのように消費意欲が旺盛で,人々は争って物を買い,
高級レストランに押しかけました。
現在の日本では,もう必要な物はほとんど持っていて,安売りや催し物があっても人が押しかけるという光景は見ることはまれです。
良くも悪くも,日本はもう成熟した社会であることを実感します。その反面,シンガポールの国家としての若さとエネルギーがうらやましくも感じました。
街には車があふれていますが,その内実を知ると,複雑な気持ちになります。
新車は10年間は車検もなく乗れるのですが,10年でライセンスを更新しようとすると,車によって400~500万円も更新料(日本の車検料)を払わなければならないので,実際にはほとんどの所有者は廃車にしてしまうのだそうです。
したがって,車を持っていること自体が,裕福であることのステイタス・シンボルとなっています。
しかし,大部分の住民は高額の家賃も払えず,まして車を持つことができません。このような人たちがどんな家で,どんな暮らしをしているのか興味がありますが,今回の短い訪問ではとても,そこまでできませんでした。
最後に,結婚式に出た際に感じた時に感じた複雑な気持ちについて書いておきます。
私の教え子の結婚相手は年下の中国系の男性でした。そして,テーブルの私の両隣に座っていた30才くらいの日本人女性の一人も,
やはり中国系の男性と,もう一人はフィンランド人男性と結婚していました。
彼女たちは,シンガポールか,少なくとも外国に永住することを決意していました。
日本人女性と外国人男性との結婚と比べると,日本人男性が海外での永住を決意したうで外国人女性と結婚する事例は少ないのではないかと思われます。
私のゼミの卒業生でも,ここ10年ほどの間に4人の女性が国際結婚して海外に永住していますが,国際結婚して海外に永住している男性は1人だけです。
これだけの事例で一般化することはできませんが,日本人の若い女性の勇気と適応力につくづく感心しました。
前回に引き続いて,憲法改正問題について書く予定でしたが,5月3~6日まで,教え子の結婚式に出席するためシンガポールに行ってきました。
そこで感じたさまざまな事柄を,印象が薄れないうちに,脈絡のない「シンガポール雑感」として書きたいと思います。
個人的な話になりますが,私がシンガポールを訪れるのは,30年以上も前のことです。どんな風に変わったのか,それを見るのが楽しみでもありました。
しかし,飛行機がシンガポールに近づくと,私の心と体に,遠い昔の恐怖の記憶がよみがえって緊張しました。
当時私はインドネシアのスマトラ島で,博士論文のためのフィールド調査をしていたのですが,ある問題のため,スマトラにいることができなくなり,急遽シンガポールへ逃げ込みました。
私が友人のアパートに転がり込んだ数時間後に,不明の人物らかその友人に電話がかかってきて,「そこにアキラ・オオキがいるはずだから電話口に出せ」と言ってきたのです。
私がインドネシア語で,「あんたは誰ですか 何の用件ですか」と何度聞き返しても,相手は何も答えず黙ったままじーっとしていました。
しばらくして電話を切ったのですが,私がここにいることがなぜ分かったのか,どうしても理解できず,私は心の底から恐怖を感じました。
あの時の,何とも言えない不気味な恐怖が,今回,ふいによみがえってきたのです。
シンガポールは,政治的実験の場ともいわれてきました。国家が国民を徹底的に管理する社会です。
国民は国によって監視され,犯罪には厳しい罰が加えられます。道路にゴミをポイ捨てするだけでも罰せられたり,
たとえばバスの運転手の態度が悪かったりして通報されると,直ぐに解雇されると言う話はよく聞きます。
その代わり,夜,女性が散歩していても余り危険はないと言われています。実際,深夜近くに女性が散歩しているのを見かけました。監視社会の功罪です。
次に,シンガポールの国際空港は「チャンギ空港」なのですが,この「チャンギ」という地名に,ドキッとしました。
チャンギは,戦時中に日本がシンガポールを占領していたとき,1万人もの捕虜を収容し,多数の死者を出した捕虜収容所のあった,
捕虜となった人たちにとっていわば怨念のこもった場所です。
東南アジアの歴史を専攻する私にとって,「チャンギ」は空港というより捕虜収容所としての認識の方が強く,その言葉には今でも心が痛む響きがあります。
さて,昔の記憶の話はこれくらいにして,このわずか4日に滞在期間に感じた,現代シンガポールについて書いてみます。
シンガポールは東京の環状線の内側の面積しかない土地に500万人の住民が住んでいる,超人口過密な都市国家です。
街は横に広がることはできないので,住宅もオフィスも商業施設も,ただひたすら上に上にと高層ビルへと伸びてゆきます。
こうして,街全体が高層ビルが密集するジャングルのような様相を呈することになります。
しかも,こうしたマンションやアパートの価格はとても高く,買うとなると「億ション」も珍しくありません。
当然,家賃も高く,私が見た日本人が住むアパートは,それほど広くない1LDKでしたが,それでも家賃は月24万円です。
この家賃は中よりやや高めのアパートのものではありますが,それにしても高いなと感じました。
シンガポールは,19世紀の初めにイギリス人のラッフルスが植民都市を拓いた当初から東西交易の中継港としての役割を担ってきました。
その役割は今でも変わっていませんが,現代では海の港に加えて空の港がハブ空港として大きな役割を果たすようになりました。
シンガポールには世界に輸出する製造業もなく,経済は中継貿易と金融,内外の企業の事業所がもたらす税収などが基盤となっています。
シンガポールは東西交易の中継点という経済的・地理的要衝に位置しているため,歴史的にさざまざな人種の人がここに住んでいました。
加えて,イギリス統治時代にインドや中国などから労働者を連れてきたり,イギリスやその他の国からの移住者を受け容れてきた多民族国家でもあります。
ここでは,主要な民俗である中国系の他,マレー系,インド系,アラブ系,中国以外のアジア系(日本,韓国,フィリピン,インドネシアなど)が,
そして意外と多くのヨーロッパ人が目に付きます。
シンガポールが若い国だと感じるのは,消費意欲が旺盛なことです。町のレストランも,スーパーマーケットも,
ショッピングモールも人,人,人で大にぎわいです。
まさに,文字通り人が押しかける,という状況です。1970年代の日本も,やはりこのように消費意欲が旺盛で,人々は争って物を買い,
高級レストランに押しかけました。
現在の日本では,もう必要な物はほとんど持っていて,安売りや催し物があっても人が押しかけるという光景は見ることはまれです。
良くも悪くも,日本はもう成熟した社会であることを実感します。その反面,シンガポールの国家としての若さとエネルギーがうらやましくも感じました。
街には車があふれていますが,その内実を知ると,複雑な気持ちになります。
新車は10年間は車検もなく乗れるのですが,10年でライセンスを更新しようとすると,車によって400~500万円も更新料(日本の車検料)を払わなければならないので,実際にはほとんどの所有者は廃車にしてしまうのだそうです。
したがって,車を持っていること自体が,裕福であることのステイタス・シンボルとなっています。
しかし,大部分の住民は高額の家賃も払えず,まして車を持つことができません。このような人たちがどんな家で,どんな暮らしをしているのか興味がありますが,今回の短い訪問ではとても,そこまでできませんでした。
最後に,結婚式に出た際に感じた時に感じた複雑な気持ちについて書いておきます。
私の教え子の結婚相手は年下の中国系の男性でした。そして,テーブルの私の両隣に座っていた30才くらいの日本人女性の一人も,
やはり中国系の男性と,もう一人はフィンランド人男性と結婚していました。
彼女たちは,シンガポールか,少なくとも外国に永住することを決意していました。
日本人女性と外国人男性との結婚と比べると,日本人男性が海外での永住を決意したうで外国人女性と結婚する事例は少ないのではないかと思われます。
私のゼミの卒業生でも,ここ10年ほどの間に4人の女性が国際結婚して海外に永住していますが,国際結婚して海外に永住している男性は1人だけです。
これだけの事例で一般化することはできませんが,日本人の若い女性の勇気と適応力につくづく感心しました。