大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

日本農業の変遷と衰退-山下惣一『土と日本人』を手掛かりにして-

2013-05-01 10:02:28 | 食と農
日本農業の変遷と衰退-山下惣一『土と日本人』を手掛かりにして-


日本の農業がどれほど激しく衰退してきたかを知ることはそれほど難しいことではありません。

たとえば,農業に従事している人の人数の減少を見ただけでも,衰退の程度は分かります。

統計上,「農業のみに従事した人と,農業以外にも従事したが,農業の従事日数の方が多い者」の合計,
いわば基幹的農業従事者を「農業就業人口」と定義されています。

総人口の変化をみると,1960年の9250万人から2011年には1億2500万人へと35%増加しましたが,
農業就業人口は,1454万人から260万人,約六分の一へ激減してしまったのです。

このような激変をもたらした要因は幾つかありますが,主要なものは三つです。

一つは, 1970年から田んぼの作付け面積を減らすために「減反政策」を導入したことです。

これは,戦後の食糧難を解消するために,国を挙げて米の増産に邁進しましたが,1960年頃から,
米は次第に余り出しましたからでした。しかし,「減反政策」が農家の稲作への意欲を削ぐ大きな
きっかけとなりました。

二つは,戦後復興が一段落すると,都市の工業や商業に従事する労働力が大量に必要となり,農村
から都市へ,人口の大移動が起こったことです。

三つは,お米の消費が一貫して減少し続けてきたことです。米に代わって消費が伸びたのは小麦を
原料とするパン,パスタ,麺類などです。

これらの要因によって,日本の農業の中心的存在だった稲作が急速に衰退にむかったと考えられます。

しかし,こうした統計的,制度的な要因は事態の一端を示すにすぎません。

この衰退過程では質的な変化が生じていました。

その変化を,佐賀県で農業を営む山下氏の『土と日本人-農のゆくえを問う-』(NHKブックス498,
1986年)を手掛かりに考えてみたいと思います。

ちなみに,佐賀県は戦前から米の増産運動に力を入れ,昭和40年,41年には,反当たり収穫量が
日本一になったほど,官民挙げて米作りに熱心な県でした。

山下氏は,昭和11年(1936年)に佐賀嫌県の農家に生まれ,戦前の農業を祖父や父から学び,農業を
ずっと続けてきたベテランの農民です。

昭和59年(1984年),突如,それまで見たことも聞いたこともない異変が,彼と彼の地区の田んぼに
発生したのです。

「死米」が現れたのです。米は,水不足,栄養不足などで未熟なまま収穫期を迎えたり,害虫や病気
で黒く変色してしまうことがあります。特に未熟なまま成長が止まった米は粃(しいな)とよばれます。

しかし,「死米」とはそれとは違う,米の腹が白色化した米で山下氏は「死んだ米」と表現しています。

ただ,私には,「死米」についてこれ以上具体的には説明出来ません。

いずれにしても,「死米」は商品として出荷できない米となってしまいます。

彼は自分の田んぼの3割が「死米」になっていることを確認し,早速,同じ地区の田んぼの状況を調
べます。

そこで,彼の地区では,同様に「死米」が発生していたことが分かりました。

農業試験場,農協,農業改良普及所の三者が合同による死米現地調査班が調査に訪れます。

彼らの結論は,
①稲の出穂前に高温が続き,
②体内の水分の蒸発が異常に多かったこと,
③昼と夜の温度差がなかったため養分の消耗が激しかったこと,
④病気のため光合成能力が著しく低下したこと,
④高温・晴天の夏だったため水不足気味になり,農家は水を流さないで田に貯めておいたの
で水は昼間は熱湯と化し,根が正常の養分吸収ができなくなってしまったこと,

の四つが原因であったと結論しました。

つまり調査班の結論は,夏の間の高温という自然条件が「死米」の原因だとしたのです。

山下氏は,これらの要因が関係していたことは間違いないとしても,それだけではない,と直感します。

とういのも,高温で渇水気味の夏,これまで歴史的に何度もあったはずなのに,山下氏は「死米」が発生
したなどということは,先代からも聞いたことがなかったのです。

調査班は大規模,科学的,詳細かつ大がかりな調査したようですが,山下氏をはじめ地区の農民は,どう
してもその調査の結論に納得できませんでした。

山下氏は,佐賀県内の他の地域,さらには米所の新潟県などへも赴き,やはり死米は佐賀県の他の地域や
他県でも発生していたことを確認しました。

彼は,土に原因があるのではないか,と考え,まず,自分の田んぼの土を掘って調べました。

そこで,彼自身も驚くべき事実を目の当たりにします。

耕土(作土)と呼ばれる,根が栄養を吸収することができる層が12センチほどしかなく,その下に牛馬
で耕していた時代の「すき床」が若干残っていました。

その下には「グライ層」と呼ばれる,土壌中の水分が過剰なため酸素が不足し,微生物が住めない「死の土」
が地表近くにせり上がってきていたのです。

「死の土」では,微生物が生存できないため,有機物を入れても分解せず,植物の根が伸びてきても栄養を
吸収できません。

このため,イネの生育に必要な土の厚さは,せいぜい20センチほどしかないことが分かりました。

死米が発生した他の地域の土にも同様の現象が見られました。

彼はこれを,土作りを怠った結果,「自然界が発した危険信号」であると感じたのです。

農業の近代化という掛け声の下に高度成長期は,農家が競って機械化を進めていました。

耕耘機の使用は農家の労働を大幅に軽減したことは確かです。山下氏も丹念に耕耘機で耕していたつもり
でしたが,実は,耕されたのは牛馬で耕していた時より,浅かったことが分かりました。

山下氏ははっきりは書いていませんが,おそらく,化学肥料の大量投入も,「死んだ土」の上昇に関係して
いるのではないかとも思われます。

というのも,栄養が上から与えられると,稲は地中深く根を深く下ろさなくても栄誉をを吸収できるからです。

加えて,耕耘機,田植機,コンバインなど大型の重機が田んぼを縦横に走り回ることによって,表土はかき
回されますが,その重みで実は土を固く踏み固めてしまっているのです。

私は,これもまた,酸素不足で微生物が繁殖できない「死の土」の層を作る要因となっていったのではないか
と推測します。

こうして,田んぼの土が死んでゆき,「死米」が発生する状況を山下氏,はレイチェル・カーソンのひそみに
ならって,“ついに村にも「沈黙の春」がきた”,と表現しています。

山下氏は皮肉を込めて,専門知識をもった専門家を「有学識無経験者」,自分のように農業を実践している
人間を「無学識経験者」と呼んでいます。

この「死米」の原因に関して,私は「無学識経験者」の経験知と直感の方が正しいと思います。

原発事故の問題にしても,専門家と称する人たちの知識や判断の信頼性が大きく揺らいでいる今日,複雑で
未知の部分が多い自然界と生物界の生態系が絡み合う農業においては,「無学識経験者」の知恵は大いに
尊重すべきだと思います。

『土と日本人』についてここで紹介できたのは,ほんの一部にすぎません。

戦後の農業の特徴は,機械化,化学肥料,農薬の普及という物の面だけでなく,むしろ「百姓道」とも
いうべき,精神的な面が大きく変化したことです。

山下氏も奥さんと共に,以前は人間の糞尿から作った堆肥や牛糞を手でつかんで一握りずつ田畑に置いて
いった経験があります。

また,農家の人は,道ばたに落ちているわら草履でさえ拾って田んぼに入れました。

「切れたワラジとて粗末にするな。お米育てた親じゃもの」と彼の祖母はよく言っていたそうです。

最後に,一つだけ,嘘のような,実態に山下氏の村にあったエピソードを紹介しておきます。

戦後,予科練帰りの若者が農家の婿に入り,田んぼのあぜ道に立って小便をしていると,いきなり後ろから
棒が足を払いました。

なにごとかと振り返ると,舅が顔色を変え,目をむいて,「百姓があぜ道に小便をする精神でどうするか。
田んぼの中にしろ。大馬鹿者めが」と怒鳴ったそうです。

今は昔の「今昔物語」のような「百姓魂」の話です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする