![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/54/49fd5824cb66b73ed3c1f1f94ab94b37.jpg)
(おがらん橋)
(落合宿 3)
善昌寺を左折して道なりに歩くと、
国道19号線をまたぐ橋にでる。
「おがらん橋」である。
橋を渡り終えた右側に数段の石段があり、
その上に石造りの鳥居がみえる。
「おがらん神社」といい、
鳥居脇に「落合五郎兼行之城跡」の石碑が建っている。
中津川市の説明では、
(落合五郎城跡(おがらん様)について、
木曽義仲の家臣で、四天王の一人といわれた落合五郎兼行が、
美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされる。
地元では「おがらん様」の名で親しまれている。
ここからは、縄文土器をはじめ八世紀から
九世紀のものと思われる幣(ぬさ)の石製模造品、
古代掘立柱建築遺構などが発見され、
東山道の深いかかわりがあった場所であると推定される。)とあり、
「おがらん」については説明が無かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/94/517f0a116158d343c25fb8f00faa12a0.jpg)
(おがらん神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/71/e7259e8e00d628bf0d3df28bf2d7c741.jpg)
(落合五郎兼行の城跡の碑と移設された常夜灯)
また、おがらん四社には次のように説明がある。
(館跡とされている場所は「おがらん」と呼ばれ、
「伽藍(がらん)」(大きな寺院)という言葉から来たと推定される。
四社とは愛宕神社、山の神神社、天神社、落合五郎兼行神社である。)と。
そして中山道を歩く案内書には、
(「おがらん」とは小高い所を指す語である。)とあるが、
確かにこの神社は少し高い位置にあり、さらに階段を登らなければならない。
しかし、どの解釈が正しいのかよく解らない。
話を戻す。
おがらん様を出て、国道19号線に沿って坂を下り、
道なりに右折して進むと横手橋に出る。
ここで気付いたことであるが、
旧中山道は黄土色と白色の硬い石が混合されたアスファルトが舗装してある。
同じ舗装の道を辿って行けば、旧中山道を進むことがわかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/5f/a836de540ae6e96ae76ea46c1cc6edc1.jpg)
(おがらん橋から坂を下る)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/59/cbdaed53478ba00f826d0b22221ff674.jpg)
(中山道には黄土色と白色の石を交えた道路になっている、上の写真の道路も同じ)
横手橋の橋脚には、右木曾(東京方面)左美濃(京都方面)と書かれている。
道路を進むと国道19号線にぶつかるが、自動車道で横断できず、
立体交差している道路を行かなければならない。
国道19号線への進入路を逆に右に下ると、
左手に19号線をくぐるトンネルが見えるので、
ここをくぐり反対側に出る。
出た所の右手に、バス停「与坂」があるので、
バス停を右に急カーブして坂を登る。
坂はかなり急で、途中で一度休憩が必要なほどである。
坂の前方に見える電波塔を目指して上る。
周りを山で囲まれた地域にある電波塔は、
遮られる山より高く電波を飛ばす必要から、
塔そのものを高い場所に設置しなければならないことは理解出来る。
中津川市でも小高い場所を選んで設置されている塔を目指して登るのは、
今まで歩いてきた距離から考えかなり厳しい歩行になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/a6/3257d247c7255989d893db3a5c69bf1b.jpg)
(横手橋の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/e5/64847080000fa8bcb3ad2ad87cdcd818.jpg)
(国道19号にある「与坂」バス停、この後ろにある道路をくだり立体交差で対岸に出る)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/66/77120ca40aa6be4ac4a64f48c165e444.jpg)
(左で立体交差する。「中山道」の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/8f/686c927c3807adb67b2d14b7a42facb0.jpg)
(国道19号をくぐり抜けた所)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/26/8d46ae5c4001c5c5f28955360a7e1a2f.jpg)
(反対側にある「与坂」のバス停)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/70/220ffa4aaf1b729ebfe50ccade6ff2f6.jpg)
(急坂の上にある電波塔)
やがて与坂立場跡の碑があり、目の前に、立派な建物がある。
立場茶屋の跡であろう。
道路反対側に弘法大師三十六番札所の地蔵堂が安置されている。
この二つの建物の間を抜けて、道路を下っていくと、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/86/0f0b783eea099393e844f61463f45f72.jpg)
(与坂立場茶屋跡)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/a8/1bcbe57010fb24ea8fb59e8dcb51ed01.jpg)
(弘法大師三十六番札所)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/d7/6e9512c19df5f1fedca3cc11d98546e2.jpg)
(子野の一里塚跡)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/fe/420f4af7f21f538633c3ebd36163dac8.jpg)
(子野の一里塚跡の碑)
やだて、左に一里塚が見えてくる。
「子野の一里塚跡」(江戸から84番目)である。
道路はアップダウンがあってかなりきつい。
坂を登り切った所に神社がある。
覺明神社という。
覺明とは御嶽山を開山したことで知られる。
覺明については、
(御嶽山を開いた覚明行者は、
享保四年(1719)現在の春日井市牛山町皿屋敷の
百姓丹羽清兵衛(清右衛門)の子として生まれ、
長じて修験として修行のち、四国の霊場を九回巡歴し、
明和三年(1766)に高知県の山中で法力を得て、
覚明の名と鉦鼓石を授かって郷里に帰った。
翌四年に岐阜県の恵那山に入り、その参道を開いた。
ついで、「信濃国の御嶽山を開け」との御神告を受け
黒沢村に行ったが、
庄屋田中新左衛門らの大反対のみならず迫害まで加えられた。
行者はこれに屈せずひそかに強力を雇い、
参道の開さくに着手したが中途、
訴人のために福島番所に拘引二十一日に及ぶ憂き目にもあった。
その後数年間は苦難の日々であったが、
天明五年ようやく大願を成就し、
従来百日の重潔斎しか登拝を許されなかったものを、
七日の精進でよいとし、参道の開さくも完成した。)という。
(春日井市教育委員会)
覺明神社を過ぎて坂を下ると、左側に休憩所とWCがある。
石碑に、(子野の里 中山道に いこいの場)とある。
気兼ねなく休憩していただきたい。
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(覺明神社)
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(覺明神社2)
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(休憩所とWC)
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(石碑に、「子野の里 中山道に いこいの場」とある)
お疲れ様でした。
あと3分の1強でしょうか。