(くらまえばし)
(蔵前橋2)
(蔵前)
長こと東京に住んでいるが、東京の城東地域の事にボクは疎い。
遊郭のあった吉原は何処にあるかも知らない、と友人に話したら、
一度案内しましょうかと言われたが、その後何の音沙汰も無い。
時代ものの小説で吉原の遊郭が度々出てくるが、
今では何もなくなっている花魁とか遊女とか、
日本堤からぬっと出てきた追いはぎとか、
よく小説の中で眼にしたが、それがどの場所と言う見当は、
全く付いていなかった。
吉原のある場所とか、両国の国技館の場所とか、
忠臣蔵の吉良上野介のお邸とか、とにかく城東地域に入ったら、
方角が分からなくなってしまう。
言ってみればボクも御のぼりさんであるから、
この項をご覧になっている皆さんには分かりやすいと、
一人合点しております。
人形街を過ぎると、左手のビルの前に「メタセコイア」の木が、
高くまっすぐ伸びているのが目に付く。
このビルを建てた記念に植えられたものだそうだ。
(メタセコイア)
説明によると、
(この辺りは今から450年ほど前、徳川家康の江戸入府時に、
幕府の非常備蓄用の米蔵と旗本らに支給するための米蔵が、
67棟(貯蔵米は62万5千俵)も軒を連ねていた処。
この敷地は当時“札差”(*)が店を構え、繁盛していたと言われます。
また、目前の道路(江戸通り)は浅草寺の参道で多くの参拝客で
賑わっていました。)(木を植えた人 竹島 某 平成元年)とある。
(*)札差=(「札」は蔵米受取手形の意で、これに受取人の名を記し、
割り竹に挟んで蔵役所のわら包みに指したことからいう。
江戸時代旗本・御家人の代理として、
蔵米の受け取り及び売さばきの事務を司り、これに対する手数料を取り、
また、米穀を担保として金銀を貸し付ける事を業とした者を“札差”といい、
江戸浅草蔵前に店を構え、その店を蔵宿といった。(広辞苑第四版)
もともとメタセコイアは、アメリカのヨセミテに生えている木で、
巨木であるとは聞いていたが、
平成元年にしては、このメタセコイアは随分と大きく育っている。
道路を進むと(蔵前一丁目)の信号に出る。
左に行けば春日通りで「JR御徒町駅」に行き、
右へ行けば蔵前警察、首尾の松、蔵前橋、があり、
少し町中に入ると国立国会図書館の前身となった、
浅草文庫の碑が榊神社の中にある。
蔵前の名前の由来となった米蔵を再現した水道局の小さな建物も有り、
首尾の松の碑も蔵前橋の袂にある。
(蔵前一丁目かどの小公園)
(蔵前一丁目)信号の左手に、小さな公園があり、
そこに(下町まちしるべ)なる案内看板があり、
「旧浅草蔵前」について説明板があるので紹介しておきたい。
(蔵前という町名がつけられたのは、
元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。
この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。
米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から、
送られてきた米を収納するための倉庫で三箇所あった。
大阪、京都二条のお蔵とあわせ三御蔵といわれた。
その中でも浅草御蔵は重要であった。
米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、
その土砂で隅田河岸を整地し造成された。
当時67棟もの蔵があったことから、
約六十二万五千俵の米を収納する事が出来た。
この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と
領地を持たない旗本・御家人の支給される給料米であった。)(台東区教育委員会)
67棟に62万5千俵を収めた蔵は、
1棟当り約9万俵を納めていたと言うから、
かなり大きな蔵であったに違いない。
その模型が蔵前橋手前左にある、
東京都水道局の敷地に建っているが、
この何十倍もする大きさであったと思われる。
(蔵前の地名由来となった御蔵の模型)
(蔵前一丁目)の信号を右に渡り、少し戻って表通りから、
左へ入ると表通りの喧騒とは嘘のように静かな住宅地に入る。
近くに中学校があって、丁度帰り道の子供たちとすれ違うが、
道路左に榊神社が見える。
(榊神社)
鳥居があって、本殿の手前左手に「浅草文庫跡」碑がある。
台東区教育委員会の説明によれば、
(浅草文庫は、明治七年(1874)創設された官立の図書館である。
翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。
当時の和・漢・洋の蔵書は11~13万冊とも言われ、
現在、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、
東京国立博物館などに所蔵され、
太政大臣三条実美の筆跡と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
―後略。)とある。
(榊神社の本殿)
(浅草文庫の碑)
(浅草文庫の碑2)
蔵前橋の袂右側に、「首尾の松」の石碑と松が数本植えてある。
その松の由来について諸説は、台東区教育委員会の説明によると、
(1.寛永年間(1614~1643)に墨田川が氾濫したとき、
三大将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、
列中に伍している中から進みいで、
人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り、
見事対岸に渡りつき、家光これを賞して勘気を解いたので、
傍らにあった松を「首尾の松」と言った。
2.吉原に遊びに行く通人たちは、
隅田川をさかのぼり山谷掘りから入り込んだものだが、
上り下りの舟が、
途中この松陰に止まって「首尾」を求め語ったところからの説。
3.「首尾」は「ひび」の訛からきたとする説、
江戸時代この辺りで海苔を採るために、
「ひび」を水中に立てたが、訛って「首尾」となり、
近くの松を「首尾の松」と言った。)という。
現在植えてある松は、七代目の松という。
この説明から、ボクが勝手な想像を廻らすと、
2番の吉原へ遊びに行って、首尾よく目当ての女性にめぐり合え、
一夜をねんごろに過ごしたあと、
山谷掘りから舟で帰り、
首尾よく「ヤッタゾー」という気持ちの高揚の現れと思っている。
(首尾の松とその碑)
さて、(蔵前一丁目)の信号に戻って、
信号を渡り、街道を進む。
(蔵前二丁目)(蔵前三丁目)の信号を渡ると、
厩橋袂の信号に出る。
右が厩橋で、左へ行けば春日通りでJR御徒町駅に出る。
(厩橋)
(首尾の松の碑)