中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

三社祭のはっぴ姿(日光・奥州道中の番外記 1)

2013年05月31日 10時39分14秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
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(三社祭)
一生に一度は見てみたいものは数々あるが、
神田祭や三社祭もそのうちの一つ。

平成25年5月19日(日)浅草の三社祭に出かけた。
浅草寺本堂右手にある浅草神社のお祭りである。

(三社祭の浅草神社の鳥居)
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浅草神社は、浅草寺のご本尊観世音菩薩像を、
その昔、三人が隅田川から拾い上げた。
その三人を祭ったのが浅草神社で、この三人が三社様で、
そのお祭りが三社祭なのだ。

ボクに言わせると有難味も何も無くなってしまうが、
担ぐ神輿の上に乗ったことが、
神を恐れぬ不徳の行為とされ、
一年間神輿のお練りを中止したほど、信仰厚いものである。
その次の年は、さすが神輿に乗る不敬のやからはいなかったが、
盛り上がりに欠けて、静かなものであった。
今年は円安の勢いもあって、外国人の観光客が多く盛り上がりを見せた。

(おみこし)
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(おみこしと担ぐ人の法被)
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(おみこしと担ぐ人の法被2)
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浅草寺を囲む道路は、歩行者天国になり、
歩くことが出来ないほどの、人、人、人の波であった。

各町から繰り出された御輿は同じようなものばかりだが、
その御輿をかつぐ人たちの背中はそれぞれ異なっている。
背中といっても半裸のいれずみ姿ではなく、
背中にはおったはっぴの模様のことだ。

その祭りのはっぴ姿をご覧ください。
(三社の法被)
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(法被姿の笑顔が美しい)
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(法被姿が美しい2)
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(らかんの法被)
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(京祭会の法被)
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(馬?の法被)
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(あかぎ?の法被)
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二天門・姥(うば)が池跡・花川戸(旧日光・奥州道中を歩く 10)

2013年05月25日 17時30分57秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(重要文化財二天門)
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(二天門の扁額)
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(二天門から見た浅草寺本堂)
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(知らなかった事)
東京に55年も住んでいるのに、
足を踏み入れる事が少なかった台東区、墨田区、江戸川区について、
小説や浪曲、講談などで知っている事はあるが、
実際に訪れて知るのは初めての体験であるから、
見るもの聞くものが(知らなかった事)の連続である。

例えば雷門、宝蔵門、本堂の提灯の底には、
形は違うが竜の彫り物がある。
雷門の裏側には、金龍、天竜像があり、
宝蔵門の裏側には、山形県から奉納された「大わらじ」がある。
この「大わらじ」を造るのに、延べ人員800人、一ヶ月掛かるとと言う代物。
(本堂に掛かる新橋の提灯の底の竜)
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(宝蔵門の提灯の底の竜)
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(山形県奉納の大わらじ)
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(山形県奉納の大わらじ2)
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教育とは、「知らなかった事さえ知らなかった」ことを教える事であると、
後輩で最近TV出演が多い、経済学者ロバート・A・フェルドマン氏の弁であるが、
逆に勉強すると言う事は、
「知らなかった事さえ知らなかった事」を知る事である。
このことから言えば、ボクは台東区の事柄については、
全てが勉強で、目を見張るようなものばかりである。

浅草神社の鳥居を右に行くと、「二天門」があり、潜り抜けると、
人力車に乗った観光客が、
ハッピをまとった車夫に案内されて出かけていくところであった。
人力車はタクシーが右往左往する東京では、
観光地でごく稀に見かけるものであるが、
ここ浅草界隈では、似合いの乗り物と感じられる。
人力車への乗り降りには、赤い絨毯が敷かれて、
これだけは洋風で(最高のおもてなし)を意味している。

(観光人力車)
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二天門を潜り抜けると、町の名が花川戸で、
ここは講談や浪曲に出てきそうな、
いなせな火消しの新門辰五郎や、
こわもてのお兄さん幡随院長兵衛(ばんずいいんのちょうべい)が
出てきそうな土地の名前である。
講談や浪曲によるとこの二人は花川戸に関係がある。
若い頃はこの二人の出しものを胸躍らせて聞いたものであるが、
今はそんなこともなく、娘さんたちも大手を振って歩ける場所である。
(花川戸の住居表示)
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すぐ右手に(花川戸公園)があり、道路には観光バスが所狭しと並んでいる。
整理係りの人たちが話すの小耳に挟んだ所では、
「この〇〇旅行社の人たちは時間に戻ってくるかどうかあやしいよ」
など話している。
浅草寺見物に時間通りに帰ってきてくれないと、
並んでいるバスが滞ってしまうからだ。

花川戸公園の奥に大きな石があり、
その石に無数の鳩が止まっているように見える。
よく見ると鳩では無さそうで、
なにか彫刻が施してあるようだ。
近づくと、猫、ねずみ、ライオンなどの動物の顔を、
粘土細工したものが無数に並べてある。
(花川戸公園にある鳩に見える石)
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(実は猫、ねずみ、ライオンなど子供が作った彫刻)
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道路の向かい側、二天門を出て左手にも小公園があり、
「姥が池旧跡」の碑がある。

東京都教育委員会の説明によれば、
(姥が池は、昔、隅田川に通じていた大池で、
明治24年埋め立てられた。
浅草寺の子院 妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようにある。
昔、浅茅が原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、
ある晩、娘が旅人の身代わりになって、
天井からつるした大石の下敷きになって死ぬ。
それを悲しんで悪行を悔やみ、
老婆は池に身を投げて果てたので、
里人はこれを姥が池と呼んだ。)とある。

(姥が池跡の碑)
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その右横に、「助六歌碑」があって、歌は文字が風化して読めないが、
台東区教育委員会の説明によると、
(碑面には、
・ 助六にゆかりの雲の紫を
    弥陀の利剣で鬼は外なり  団洲
と刻まれている。
九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので「団洲」とは団十郎の雅号である。
―中略―
日本橋の須永彦兵衛と言う人を顕彰して仰願寺に建立した。
関東大震災で埋没したが、後に顕われこの地に再建した。
台石に花川戸鳶 平治郎とある。
歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が初演して以来、
代々の団十郎が伝え、今日上演されている。――後略。)とある。

(助六の歌碑)
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なおも進むと、(二天門前)の信号に出る。
左折して進むと(言問橋西)の信号に出る。

(二天門前の信号)
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(言問橋西の信号)
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雷門・仲見世・浅草神社(旧日光・奥州道中を歩く 9)

2013年05月21日 19時57分20秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(観光客でごった返す雷門)
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(浅草寺の雷門)
浅草の雷門は有名であるが、
それは多分に真ん中にある「雷門」と書かれた提灯によるものではないかと、
長いことボクはそのように思っていた。
この山門と提灯、実はパナソニックの初代社長 
松下幸之助の寄付によるものであるとは、知らなかった。
よく見れば提灯の最下部「雷門」の文字の下に(松下電器)と書かれている。
松下幸之助が病平癒のお礼に寄付したものだそうだ。
何度も浅草寺を訪ねているが、こんな事も知らなかったので、
今回は細々と見てまわった。

「雷門」と言うのは、浅草寺の総門のことで、
総門の左右には、「風神」像、「雷神」像があるからなのだそうだ。
写真を撮るのが下手で、一寸見にくいがこの両神を見ていただきたい。
(風神)
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(雷神)
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仲見世が次の門―宝蔵門―まで続く。
人の波にもまれながら、仲見世に挟まれた参道を通るのが普通であるが、
今日は違った見方をしたいと思う。
(宝蔵門まで続く仲見世)
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今まで何回となく浅草寺に来ているが、
仲見世の裏側を見るのは今日が初めて。
表の繁華な佇まいに反して、
裏は殺風景なことは予想していたが、
これほどとは思わなかった。

うらぶれた朱色のお店の裏門、出入りする仲見世の売り子たち。
言葉使いも裏と面では違う。
「お客様」と「客」。
「客が勝手なことを言っているが、
儲けさせてもらうから我慢しないとね」、など話している。
(仲見世の裏側)
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(仲見世の裏側2)
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そんな裏道が続いて、宝蔵門へ。
これは両側に仁王様がいて、
真ん中に「雷門」ならぬ「小舟町」の提灯がかかっている。
「小舟町」の提灯の両横に、「魚河岸」の提灯のようなものがぶら下がっており、
その外側に仁王様はいる。通常の「仁王門」である。
「小舟町」の提灯は日本橋小舟町より寄付されたもの。
また「魚河岸」の提灯、実は吊り灯篭であるが、
これは「魚河岸」よる奉納だそうだ。
(宝蔵門の提灯とつり灯篭)
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(宝蔵門と五重塔)
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「宝蔵門」と呼び習わしているのは、上部三層のうち二層に、
近代設備の防火設備を施した収納室があり、
ここに浅草寺の什宝物を収納しているから宝蔵門といっている。

この宝蔵門を潜り抜けると、浅草寺本堂があり左に五重塔が見える。
ここには「志ん橋」の大提灯が架かっているが、東京新橋組合の奉納。

(浅草寺本堂としん橋の提灯)
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(浅草神社の鳥居)
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本堂に御参りして、右に出ると浅草神社の鳥居があり、奥に本殿がある。
ここを三社権現社とも言って、三社祭のもとになる神社だそうだ。

聞くところによると、
浅草寺の本尊聖観音菩薩を隅田川から拾い上げた三人を祭神とした神社で、
三神を祭ることから三社さまとも呼ばれて、
有名な三社祭とは浅草神社のお祭りで、五月の中旬に三日間行われる祭礼は、
一生に一度は見てみたいものの一つです。

そもそも浅草寺は徳川家の祈祷所でもありました。
今では庶民の願いを祈る所になっていて、毎日訪れる人は多い。
その隣の浅草神社境内では、
「考えるのは誰でも出来る」で有名な猿、太郎次郎が演技をして、
大勢の人を集めている。

(浅草神社=三社さまの本殿)
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(反省だけなら誰でも出来るの太郎次郎の猿回し)
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厩橋・駒形橋・浅草吾妻橋(日光・奥州道中を歩く 8)

2013年05月17日 19時40分51秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(厩橋)
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(厩橋)
右側に厩橋が見えるので、橋の袂まで進むとKoban(交番)があった。
中に三名のお巡りさんがいたので、
「この橋は何で厩橋というのですか?例えば(蔵前橋)は、
江戸時代、米蔵が沢山有った前に出来た橋だから蔵前橋のような」と訊ねた。
若いお巡りさん三名では無理かなとは思ったが、念のため訊いた。
「向こうの橋の街灯に馬の絵が彫刻してあるからじゃないですか。」と、
一人が答えた。
ボクを「御のぼりさん」(東京見物の人)と思って言ったのかどうか知らないが、
それにしても見え透いていて、説明に当らないが、
見ると確かに街灯の根元に馬の彫刻が施されている。

(厩橋2)
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(街灯の馬の彫刻)
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すると三人のうちの婦人警官が、
「その蔵までお米を積んで荷車を馬で挽いてきたからじゃないかと・・・」
と答えた。そんなところかも知れない、そう思って、
「なるほど、忙しい所有難う」と言って分かれた。

後で聞いた観光協会では、
「この一帯には幕府の 「御米蔵」 があったが、
米の運搬のための馬もたくさん飼われていたようで、
「御米蔵」 には専用の 「厩」 があったことから
「御厩(おんまい)」 の名称が使われるようになった。
『厩橋』 も、架設当初は 『おんまい橋』 の俗称で呼ばれていたようです。」と、
パソコンを見ながら、優等生の答が帰ってきた。

この厩橋の袂から近頃名高い観光名所「東京スカイツリー」が良く見渡せた。
しかし、ここは浅草、東京スカイツリーは何処からも眺める事が出来る。
634メートルもあるのだから。

(厩橋から見た東京スカイツリー)
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厩橋を戻って、街道沿いを歩くと、
先ず(駒形一丁目)の信号を越え、泥鰌で有名な「駒形どぜう」が見え、
次いで(駒形二丁目)の信号を超えると、
(直進 柏 言問橋、右亀戸、左上野方面)の案内看板がある。
すぐ浅草通りの交差点に出る。

(駒形どぜう)
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(柏・言問橋方面の案内看板)
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(地下鉄浅草駅)
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交差点右手には地下鉄浅草駅の出入り口が口を開けている。
その奥には、ブルーの駒形橋が見える。
信号を渡った右側に、浅草観音示現の地「駒形堂」が見える。

駒形橋の名は、橋詰めにある駒形堂に由来する。
この駒形堂のご本尊は、馬頭観音であることから「駒形堂」と言う。
(駒形堂は、金龍山浅草寺 通称 浅草で代表される浅草寺のご本尊、
聖観世音菩薩様が、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、
はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、この辺りは船着場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいを見せ、
船で浅草寺参詣に訪れた人たちは、まず、この地に上陸して、
駒形堂をお参りして観音堂へと向った。
このお堂のご本尊は馬頭観音さまで、
今も昔も道行く人をお守りくださっている。-後略)(金龍山浅草寺)とある。
(駒形橋)
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(駒形堂)
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(駒形堂2)
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この駒形堂から斜め左の道路突き当たりに、
東京にきたら見て帰らなければ、東京に行った事にならない、
有名な浅草雷門がある。

(雷門)
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浅草雷門の前は東京見物の人だかりで、大変混雑している。
雷門の前を、左に行けばJR上野駅で、雷門通りを右に行くと吾妻橋である。
吾妻橋の名は、当初幕府押し付けの「大川橋」の名に、町民が反発して、
江戸の東にあるこの橋を「東(あずま)橋」と呼んでいたことから、
明治9年に橋の架け替え後、正式に「吾妻橋」と名づけられた。

浅草の雷門は、左右に風神・雷神があることから、
「風雷神門」と言う所、「雷門」の名で全国的に親しまれている。
この雷門は非常に有名で、
門をくぐると先に仲見世の繁華街が続く事も手伝って、
雷門の裏側の右に金龍、左に天龍像がることを、
ボクは始めて知ったので、紹介して置きたい。
(金龍像)
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(天龍像)
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浅草蔵前(旧日光・奥州道中を歩く 7)

2013年05月12日 20時03分18秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(くらまえばし)
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(蔵前橋2)
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(蔵前)
長こと東京に住んでいるが、東京の城東地域の事にボクは疎い。
遊郭のあった吉原は何処にあるかも知らない、と友人に話したら、
一度案内しましょうかと言われたが、その後何の音沙汰も無い。

時代ものの小説で吉原の遊郭が度々出てくるが、
今では何もなくなっている花魁とか遊女とか、
日本堤からぬっと出てきた追いはぎとか、
よく小説の中で眼にしたが、それがどの場所と言う見当は、
全く付いていなかった。
吉原のある場所とか、両国の国技館の場所とか、
忠臣蔵の吉良上野介のお邸とか、とにかく城東地域に入ったら、
方角が分からなくなってしまう。
言ってみればボクも御のぼりさんであるから、
この項をご覧になっている皆さんには分かりやすいと、
一人合点しております。

人形街を過ぎると、左手のビルの前に「メタセコイア」の木が、
高くまっすぐ伸びているのが目に付く。
このビルを建てた記念に植えられたものだそうだ。

(メタセコイア)


説明によると、
(この辺りは今から450年ほど前、徳川家康の江戸入府時に、
幕府の非常備蓄用の米蔵と旗本らに支給するための米蔵が、
67棟(貯蔵米は62万5千俵)も軒を連ねていた処。
この敷地は当時“札差”(*)が店を構え、繁盛していたと言われます。
また、目前の道路(江戸通り)は浅草寺の参道で多くの参拝客で
賑わっていました。)(木を植えた人 竹島 某 平成元年)とある。

(*)札差=(「札」は蔵米受取手形の意で、これに受取人の名を記し、
割り竹に挟んで蔵役所のわら包みに指したことからいう。
江戸時代旗本・御家人の代理として、
蔵米の受け取り及び売さばきの事務を司り、これに対する手数料を取り、
また、米穀を担保として金銀を貸し付ける事を業とした者を“札差”といい、
江戸浅草蔵前に店を構え、その店を蔵宿といった。(広辞苑第四版)

もともとメタセコイアは、アメリカのヨセミテに生えている木で、
巨木であるとは聞いていたが、
平成元年にしては、このメタセコイアは随分と大きく育っている。

道路を進むと(蔵前一丁目)の信号に出る。
左に行けば春日通りで「JR御徒町駅」に行き、
右へ行けば蔵前警察、首尾の松、蔵前橋、があり、
少し町中に入ると国立国会図書館の前身となった、
浅草文庫の碑が榊神社の中にある。

蔵前の名前の由来となった米蔵を再現した水道局の小さな建物も有り、
首尾の松の碑も蔵前橋の袂にある。
(蔵前一丁目かどの小公園)
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(蔵前一丁目)信号の左手に、小さな公園があり、
そこに(下町まちしるべ)なる案内看板があり、
「旧浅草蔵前」について説明板があるので紹介しておきたい。

(蔵前という町名がつけられたのは、
元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。
この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。
米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から、
送られてきた米を収納するための倉庫で三箇所あった。
大阪、京都二条のお蔵とあわせ三御蔵といわれた。
その中でも浅草御蔵は重要であった。
米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、
その土砂で隅田河岸を整地し造成された。
当時67棟もの蔵があったことから、
約六十二万五千俵の米を収納する事が出来た。
この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と
領地を持たない旗本・御家人の支給される給料米であった。)(台東区教育委員会)

67棟に62万5千俵を収めた蔵は、
1棟当り約9万俵を納めていたと言うから、
かなり大きな蔵であったに違いない。
その模型が蔵前橋手前左にある、
東京都水道局の敷地に建っているが、
この何十倍もする大きさであったと思われる。

(蔵前の地名由来となった御蔵の模型)
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(蔵前一丁目)の信号を右に渡り、少し戻って表通りから、
左へ入ると表通りの喧騒とは嘘のように静かな住宅地に入る。
近くに中学校があって、丁度帰り道の子供たちとすれ違うが、
道路左に榊神社が見える。

(榊神社)
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鳥居があって、本殿の手前左手に「浅草文庫跡」碑がある。
台東区教育委員会の説明によれば、
(浅草文庫は、明治七年(1874)創設された官立の図書館である。
翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。
当時の和・漢・洋の蔵書は11~13万冊とも言われ、
現在、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、
東京国立博物館などに所蔵され、
太政大臣三条実美の筆跡と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
―後略。)とある。
(榊神社の本殿)
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(浅草文庫の碑)

(浅草文庫の碑2)
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蔵前橋の袂右側に、「首尾の松」の石碑と松が数本植えてある。
その松の由来について諸説は、台東区教育委員会の説明によると、
(1.寛永年間(1614~1643)に墨田川が氾濫したとき、
三大将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、
列中に伍している中から進みいで、
人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り、
見事対岸に渡りつき、家光これを賞して勘気を解いたので、
傍らにあった松を「首尾の松」と言った。

2.吉原に遊びに行く通人たちは、
隅田川をさかのぼり山谷掘りから入り込んだものだが、
上り下りの舟が、
途中この松陰に止まって「首尾」を求め語ったところからの説。

3.「首尾」は「ひび」の訛からきたとする説、
江戸時代この辺りで海苔を採るために、
「ひび」を水中に立てたが、訛って「首尾」となり、
近くの松を「首尾の松」と言った。)という。
現在植えてある松は、七代目の松という。

この説明から、ボクが勝手な想像を廻らすと、
2番の吉原へ遊びに行って、首尾よく目当ての女性にめぐり合え、
一夜をねんごろに過ごしたあと、
山谷掘りから舟で帰り、
首尾よく「ヤッタゾー」という気持ちの高揚の現れと思っている。

(首尾の松とその碑)

さて、(蔵前一丁目)の信号に戻って、
信号を渡り、街道を進む。
(蔵前二丁目)(蔵前三丁目)の信号を渡ると、
厩橋袂の信号に出る。
右が厩橋で、左へ行けば春日通りでJR御徒町駅に出る。
(厩橋)


(首尾の松の碑)




浅草見附の石碑(旧日光・奥州道中を歩く 6)

2013年05月04日 12時05分50秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(浅草橋交差点)
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(浅草橋 2)
浅草橋の交差点を、左に行けば靖国通りで、
神田神保町から靖国神社に向かい、
右に行けば両国橋で、
奉納相撲が興行された回向院、
回向院の裏手の先に進むと、
忠臣蔵で有名な本所松坂町の吉良上野介のお邸、
いずれも両国橋の先、右手にある。
左手は両国駅で、その裏側は江戸東京博物館と、
春場所が終わったばかりの両国国技館で、
東京見物をするなら浅草をみて、
次に江戸東京博物館がお勧めである。

国技館の先に旧安田庭園が解放されており、
その手前に、下総屋食堂があり、
なるほど下総と云う国であったと判る。
下総と云うのは千葉県と頭にこびり付いていて、おやっと思った。

ここは千葉県で無く、回向院があり、本所の鬼平こと、
火付け盗賊改め方の長谷川平蔵が若い頃遊び歩いた場所で、
江戸のうちだからである。
両国橋は、武蔵の国と下総の国の両国を結ぶから、
両国橋と云うというらしいが、
江戸の浅草と同じく江戸の本所を結んでおり、
千葉県と結んでいる訳ではない。

調べたら、下総は千葉県だけで無く、
埼玉県、茨城県にまたがっている事がわかった。
これが葛飾郡である、と言う。
それで赤富士で有名な浮世絵画家が住んでいたので、
これを葛飾北斎と言ったのだなと納得した。

(両国橋)
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(回向院)
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(本所松坂町跡の碑)
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(吉良上野介邸跡)
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(JR両国駅)
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(江戸東京博物館)
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(国技館の呼び出し太鼓櫓)
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(旧安田庭園入り口)
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(旧安田庭園)
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(旧安田庭園2上に見えるのが国技館の屋根)
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(下総食堂)
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(*)両国とは、武蔵の国(江戸)と下総の国(江戸)の両国を言い、
隅田川でこれを分けて、その両国にまたがる橋を両国橋といった。
下総の国は、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、
武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。

今は浅草橋交差点を直進、道なりに進むと、
本来の浅草橋がある。
小さな橋で、下を流れる川には釣り船、屋形船が何艘も舫ってあり、
東京湾や隅田川を花見や、花火見物をする舟は、
ここが起点になっていることが分かる。

(浅草橋2)
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(舫ってある川船)
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(舟宿)
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浅草橋を渡って左手に、「浅草見附跡」の石碑が、
小さな緑地に囲まれて建っている。
(余計な事であるが、さらに左手に公衆トイレがあるので、
御用の方はこれを利用しておきたい。)

(浅草橋3)
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(橋の袂のトイレと浅草見附の碑)
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見附とは、「見つける」からつながる、「見張りをする」ことで、
城門の外側に置いた見張り番所で、
江戸城には36箇所の見附があったといわれる。
赤坂見附、四谷見附などが現在も残っている。

この浅草見附は、奥州地方から攻め込まれないように、
見張り番を置いた所であるように思われる。
浅草橋の外側で、見張るのには、
都合が良かったのではないだろうか。
(浅草見附の碑)
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浅草橋と言う町名は、神田川に架かる橋の名にちなんで出来た。
昭和九年に名づけられた町名の浅草橋は、
以前は茅町、上、下平右衛門町、榊町、須賀町、新福井町、瓦町、猿屋町、
向柳原町が一つになって出来た。
この浅草橋が造られたのは、寛永13年(1636)のことで、
浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、
いつしか浅草橋になった。

(おなじみの人形屋)
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(おなじみの人形屋2)
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浅草橋の先は、有名な人形の街である。
歩いたのが2月4日であるから、
丁度、桃の節句のお雛様の時期に当っており、
町にはご両親や、じいちゃん、ばあちゃんが、
人形の品定めに沢山集まっていた。
今も昔も、子供の健やかな成長を祈る親の思いは同じだなあ、
と思いながら、ウインドウの中の雛人形を眺めて歩いた。
(本当のことを言うと、人形を眺めるご夫婦やじじばばの顔を、
眺めて通り過ぎた。)

(人形)
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(人形2)
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(人形3)
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ウインドウの人形の姿や顔を眺めていると、
いくら時間があっても足りない。
少し歩くと浅草蔵前である。

左に行けば秋葉原の電気街に、右に行けば蔵前橋にでる。

(蔵前橋)
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