中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

皇女和宮「戸田の渡し」と献上品(旧中山道番外記 21)

2010年09月27日 12時35分45秒 | 中山道番外記

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(蕨宿の道路にあった浮世絵タイル「戸田の渡し」)


(戸田の渡し「皇女和宮御下向御用日記留」より)

皇女和宮が将軍家茂に降嫁される時、
京都から江戸まで中山道を
25日かけた道中は、皇女和宮も相当なご苦労であったが、
途中御泊りになる本陣や御小休みされる場所は、
その準備が大変であったようである。

道中は東海道(500km)のほうが距離も短く、
文字通り海道で、海辺近くに道路があり、歩くのに楽であろうに、
何故、山坂の多い中山道(533km)を選んだのであろうか?
中山道は藤村の「夜明け前」にあるように、
道中は「全て山の中である。」

中山道を選んだ理由は、
①東海道は川が多く、川止めなどにより日程に変化が生じ易い。
②東海道には薩た峠(さった峠)があり、「去る」に通じ婚姻には縁起が悪い。
③東海道は旅人の往来が多く、警備上問題がある。
④特に東海道は外国人の通行があり、問題がある。
などの点である。

その点、中山道は警備の上で、東海道と比べ安全で警固がし易い。
そこで中山道を通行することに決定した。
和宮の行列は、旧暦の10月20日京都を出発し、
11月13日に桶川に宿泊、翌14日に上尾、
大宮両宿で御小休みして、昼食を浦和宿で、
その後蕨宿で御小休止して「戸田の渡し」で荒川を渡り、
板橋宿でこの旅の最後の宿泊をされた。

蕨宿の本陣家 岡田加兵衛が綴った
「皇女和宮御下向御用日記留」が残されているが、
この時期和宮下向に当たり、
将軍家はもちろんのこと家来たちが大童であったことを
この「日記留」に書き記している。

この一冊の日記の厚さが20cm余り有ることからも、
役人、名主、本陣家が右往左往したことが推察できる。
(そのレプリカが、蕨市歴史民族資料館に展示してある。)
この「日記留」には役所とのやり取り、
前後の宿場とのやり取り、
行列通行に際し必要な人手、馬、食料から
宿泊場所の用意、建物の修復、
宿泊地での什器――行灯の数、タバコ盆の個数に至るまで、
細々した事をその都度役人に問い合わせ了解を取るなど、
事細かな打ち合わせの状況が書き記されている。
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(「中山道戸田渡船場跡」の石碑)

戸田の渡しでは、
「荒川を皇女和宮が船橋(*)を利用して渡った」と
一般的には考えているようであるが、
戸田市では船橋でなく、
お召し舟に乗って渡ったと、
「戸田の渡しと旅日記」の中に記載している。

(*)船橋とは、川の上流に向けて川幅一杯に船を並べ、その上に板を渡して橋にしたもの。

実際には、輿を船に積んで対岸まで渡ったのか、
あるいは輿は別の船で運び和宮が船に乗り込んだかは分らないが、
いずれにせよ船をお召しになって渡られたようである。
荒川の川幅は普段55間(約100m)であった。

楽宮の降嫁と同じであれば、
川の両岸の渡船場の両脇に杭を打ちつけ、
杭と杭の間に麻綱を張り、その綱に幔幕を渡し、
幔幕の間を船は進んで対岸まで渡った。
この時お召し舟を三艘の船が曳いて対岸に着けたと記録がある。
(このときの様子は絵図面も残っている)

和宮の時は同じかどうか分らないが、
お役人が、
麻綱、お召し舟を用意させたり、
そのお召し舟や麻綱の出来上がり進行状況を点検をしたりした所を見ると、
少なくも船橋で渡ったとは思われない。

戸田の荒川が増水して船で川を渡れないときのことを考えて、
その場合は、蕨宿泊まりにして千住廻りとするから、
川口宿にも通行の準備をするよう役人が指示している。

実際に、和宮様が通る11月14日より前の11月1日、
朝から豪雨となり、増水が心配されたが、
蕨宿では和宮様宿泊の準備は11月6日には完了する旨報告している。
しかし当日は船渡しに問題なく、滞りなく板橋宿に到着している。

さて、面白いのは、蕨宿で和宮様に献上品を渡したことである。
もともと献上品は渡してはならないお触れが出ていた。
なぜなら献上品については、
後程お返しをしなければならず、
そのお返しの額が膨大になることを恐れたのだ。
宿泊所、休憩所は午前午後の2回、昼食所と、
それぞれ一日4箇所で行列は止まる。

その都度献上品が出ると、
江戸まで25日掛かって到着しているから、
25日×4回の献上品では、
最低でも100個の献上品になってしまう。
1両ずつお返しをしても100両になる。
まさか1両では済まないであろうから、
大変な出費になり、幕府はこれでは困る。

それでも蕨宿では、
御付のお役人に訊いて了解をとってから献上品を渡した。
品物は、

みかん35個、ぶどう5連。

それも板橋宿へ届けろと言うので、
品物の下に奉書を敷き、三宝に載せて絵符(立て札)に
「献上 蕨宿御本陣」と書き、
白木の長持ちに入れて運んだ、とある。
随分仰々しい。
たかだかみかん35個とぶどう五連なのに・・・

それにしても旧暦11月14日は陽暦では12月15日に当たる。
今は冷蔵庫もあり保存がきくが、
当時献上品のぶどうはどのように保存していたか気になる所である。

この時期に葡萄を収穫して献上に及んだとは考え難い。
そこで葡萄についてよくよく調べてみると、
当時の葡萄は山葡萄で、
山葡萄の収穫は遅いものは11月末ごろになると言うから、
12月15日頃まで在庫があっても不思議が無いことが分った。
それにしてもお姫様にとっては、
珍しいものであったに違いない。

珍しいものであるから、幕府からのお返しのお礼は、
まさか1両ということはあるまい。
下司の勘繰りであるが・・・

お返しがあったかどうか「御用日記留」には書いてなかった。

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(木曽海道69次之内 浮世絵「戸田の渡し」広重画)


皇女和宮の宿泊地として唯一の脇本陣(旧中山道番外記 20)

2010年09月22日 10時19分03秒 | 中山道番外記

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(下諏訪宿の本陣)
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(皇女和宮が休憩した座敷)
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(その座敷前の庭)

(脇本陣--「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)
前回、皇女和宮御通行の折の炊き出しについて、
宿場は大変な人数を狩り出しおおわらわであったことを書いた。
皇女和宮の御通行のことについて、
調べて知り得た話を綴ってみたい。

皇女和宮の降嫁に当たって、
京都から江戸に下る道筋を東海道から中山道に変えたことを、
文久元年(1861)2月5日に中山道の各宿場に伝えている。

実際に和宮様が京都を出発し、
中山道を下り始めるのは10月20日であった。
つまり、およそ一年前に決まったのである。
その通達では、宿泊は何処で、昼食は何処で、
三時と十時のお休みは何処と決まっていた。
宿泊場所は一箇所を除いて、全て本陣であった。

本陣でないその一箇所は、板橋宿の脇本陣であった。
受けとり方によっては外された本陣家は不審に思ったに違いない。
板橋宿の、時の名主 豊田市右衛門は、
蕨宿本陣岡田加兵衛が残した「和宮御下向御用日記留」によると、

板橋宿のお泊りが脇本陣宇兵衛宅に決まったことは
「まことに嘆かわしきことに存知候」と書き送ってきている。

現代でも本陣家(子孫の飯田家)の方が和宮様は、
我が家に宿泊したと主張されていると聞いたことがある。
もともと板橋宿では、本家の本陣家は新右衛門を、
分家の脇本陣家が宇兵衛を代々名乗っていたが、
何時のことか、そしてどんな理由であったのか判らないが、
本陣家の新右衛門の名を脇本陣家に譲ってしまったことから
問題がややこしくなっている。
本陣家が宇兵衛を名乗ることになり、脇本陣となった。
つまり本陣家と脇本陣家が入れ替わってしまったのである。

ただ一軒だけ脇本陣家に決まったのには、
何か理由があったに違いない。
その理由については「和宮御下向御用日記留」には書かれていないが、
ボクの勝手な推測では、次のようではなかっただろうか。

【もともと、本陣、脇本陣は高貴な方がお泊りになるから、
従業員のしつけ、言葉遣い、極秘の会話を他にもらさぬとか、
挙措振る舞いに至るまで、
厳重に教育されている教養ある者が雇われていたと思われる。
高貴な方へ直接接待する人から、まかないのおばさんまで、
それぞれ心得のある人が雇われていたに違いない。
その者達は、今で言えば、特別な専門職であり、
大変な高給取りであったと思われる。
また、調度品にいたってもそれなりに格差があったのかもしれない。

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(和田宿本陣の門構え)

蕨宿本陣の岡田加兵衛が書き残した「和宮御下向御用日記留」では、
皇女和宮が宿泊するに当っては、調度品について役人から、
アンドンからタバコ盆、火鉢に至るまで、
こまごまと指図があったことが解っている。

板橋宿は、お互いの名前を取替え、
本陣と脇本陣が入れ替わったとしても、
雇われている人間や調度品は、入れ替えなかったと思われる。
また、本陣脇本陣の立地条件も宿泊地として、
大いに選定理由の中に入ったに違いない。

島崎藤村の「夜明け前」の中で、本陣家の条件を述べているが、
その条件として、高張り提灯が有る事から、
お駕籠が横付けに出来る広い式台、上段の間など、
こまごまとしたものが必要であるが、
中でも、暴漢に襲われた時逃げ出すことが出来る裏口があることが、
大前提になっている。

尊皇派と佐幕派と入り混じって、物情騒然とした時代であったから、
裏口からの逃げ道は、重要な要件であったに違いない。
もともと、和宮の御下向が、東海道から中山道に変更になったのも、
警備の問題が主たる要因であったことからであり、
案外そんな所に、元は本陣であった脇本陣を選ぶ理由があったのかもしれない。】

今となっては知る由も無い。
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(妻籠の脇本陣)
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(一段高くなっている上段の間)




落合宿(旧中山道を歩く 211)

2010年09月17日 10時37分55秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(落合の市街地を一望にできる場所)

(落合宿 2)
医王寺を出て道なりに右にカーブして下って行くと、
中津川市街地が一望に見渡せる場所に出る。
さらに進むと下桁橋がある。
ここが広重画く浮世絵「落合」で、
この橋が入った図である。


(広重画く浮世絵、木曽海道69次之内「落合」)

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(医王寺をでての下り道、先に下桁橋が見える。)

橋の少し上流に、小さな滝(?)が見える。
ここでほっと一息ついていると、
河原に人の顔のように見える石を発見した。

「人面石?」
疲れていたせいか一人で勝手に合点して、とても面白いと思った。


(下桁橋から見た滝?)


(人面石?)

その橋の先で、道祖神など石仏が数基並んでおり、
左から来る道と合流する場所で、
その合流地点に石の道標がある。
左から来た道は飯田道とあり、
右へ行くと落合の市街地に入っていく。

やがて国道7号線を交差する場所に出るが、
その交差点手前の左側に
「落合宿高札場跡」の石碑が建っている。
ここから落合宿に入る。


(石造物群)


(庚申塔)


(庚申塔2)


(石標、京都側から見て、右飯田道と読める)


(落合宿高札場跡の碑)


(バス停」木曽路口」)

国道7号線を渡った所がバス停「木曽路口」で、
名古屋からのハイカーの皆さんに出会ったが、
皆さんはここでバスを利用し「JR中津川駅」にお帰りという。
ボク達はここからさらに中津川宿まで歩くと話したら、
ハイカーの皆さんは「健脚だ」と驚いていた。


(秋葉様の常夜灯)

国道7号線を渡り「落合宿」に入る。
すぐ右手に「秋葉様(*)の常夜灯」がある。
(*)秋葉様とは火除けの神様秋葉神社を指す。

案内に寄れば、
(この宿場の通りに面した常夜灯は四基あり、
火の用心で夜回りをする当番により点灯され防火を祈ってきた。
明治になってからは、
道路整備に伴い他の三基は他所に移設されたが、
この一基だけ街道の隅に寄せられ、
往時の姿を留めている。)という。
(落合まちづくり推進協議会)
三基のうち、一基は善昌寺境内に、
残る二基はおがらん公園の愛宕社に移されているとのこと。

常夜灯の前を右折して、落合宿の中心に入って行く。
少し先の左手に落合宿脇本陣跡、
その先右手に落合宿本陣の立派な建物が見える。
本陣の門前に「明治天皇落合宿御小休所」の石碑が建っている。
また、この本陣家の門は加賀藩 前田家から贈られた貴重なものであるという。

加賀藩の前田家から贈られた門は、大宮宿
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/05/ustrongstrongu_7e10.html参照)にもあり、
何故前田家が門を贈っているのかは解らない。
(何時になるか解りませんが、あとで調べてみたいと思います。)


(脇本陣跡の碑)


(落合宿本陣の全貌)


(加賀藩前田家から贈られた本陣の門)


(明治天皇落合宿御小休所の碑)

落合宿本陣の先の左側に「大釜」が置いてある。
「落合宿助け合い大釜」と称するこの「大釜」についての説明では、

(文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、
四日間で延べ約二万六千人が落合宿を通りました。
当時暖かいおもてなしをするため、
各家の竈は引きも切らず焚き続けられたといわれてきました。
ここに展示してある「大釜」は
「寒天」の原料(天草)を煮るときに使用されたもので、
容量は千リットルを越えます。
日本の食文化を支えてきたこの煮炊き道具を後世に伝え残すと共に、
この釜を今に再利用するため、
「落合宿助け合い大釜」と命名し、
さまざまなイベントに利用しています。
落合宿祭りなどには、「千人きのこ汁」を作り、
多くの方々に振舞う「ふれあい」活動を推進してきましたが、
この活動は落合宿の人々が古くから旅人に対して
礼節を重んじてきたことに由来します。
「大釜」と共に手押しポンプを備えた井戸も設置され、
この大釜と井戸は緊急時に利用できると共に、
防災意識を高めることに役立っています。)とある。
(落合宿たすけあい推進協議会)

つまり、皇女和宮御通行の折、
夜を継いで炊き出しを行った「おもてなしの精神」が
今の世にも受け継がれ、
最早 役立たなくなった大釜を再利用して、
その「おもてなしの精神」を後世に伝え残そうと、
「千人きのこ汁」を振舞っている。

とボクは解釈した。


(大釜)


(善昌寺の「門冠の松」車に削り取られるのか注意のガードがしてある、)

その先右手に善昌寺があり、
境内から伸びた松の幹が街道に覆いかぶさるように伸びている。
善昌寺の「門冠の松」と呼ばれている。

(その名の通り創建当時山門を覆っていたことから名が付いた。
道路拡幅整備などで根が痛めつけられ、
450年の年月を経ているにも拘らず、さほど大きくなく、
宿場の入口に格好の風采を備えている。)

説明は、やや我田引水の感はあるが、松に責任は無い。
この松を右に見て、京都側へ街道は枡形になる。
ここで左折するが、その左角に石柱道標があり、
中山道の道路案内表示もある。

「右至中仙道中津町一里」(石柱道標に書かれた文字)

道路は上り坂になり、国道19号線を越える陸橋「おがらん橋」出る。
橋を渡った右側の高台に「おがらん神社」がある。


(「右至中仙道中津町一里」の石柱と「中山道」の案内)


(おがらん橋)





十曲峠の石畳(旧中山道を歩く 210)

2010年09月11日 10時10分05秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(信濃と美濃の国境の碑)


(広重画浮世絵 木曽海道69次之内 「落合宿」)


(落合宿)
新茶屋の一里塚の脇に、国境の石碑が建っている。
今は馬籠峠の頂上が県境になっているが、2005年までは、
ここが美濃と信濃との国境であった印である。
新茶屋と言うのは、かって立場茶屋が別の場所にあり、
江戸時代の終り頃 現在の地に移ったことから、
新茶屋と呼ばれるようになったと言う。

この新茶屋の一里塚を過ぎると、すぐ右脇に入る石畳が始まり、
120m先で今の道路を横断し、渡った所に「中山道」の石の道標がある。
約2km続く石畳の道を「落合の石畳」と呼び、十曲峠ともいう。
道標に落合宿2kmとある。


(落合の石畳が始まる)


(落合まで2kmの案内)

「落合の石畳」は昭和39年(1964)に岐阜県の指定史跡になっており、
次のように説明がある。
(この石畳は、中山道の宿場落合宿と馬籠宿との間にある、
十曲峠の坂道を歩き易いよう石を敷き並べたものです。
江戸時代の主な街道には一里塚をつくり、並木を多く植え制度化し、
その保護にはたえず注意を払いましたが、
石畳については何も考えた様子がありません。
壊れたまま放置されることが多く、
ここの石畳も一時は荒れるに任せていましたが、
地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。
今往時の姿をとどめているのは、ここと東海道の箱根のふたつに過ぎず、
貴重な史跡です。
中山道が出来たのは、寛永年間ですが、
石畳が敷かれたのは、いつごろか不明です。
文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸の時修理しましたが、
このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないように
した事が記録に残っています。)(岐阜県教育委員会)とある。

石畳は120mに渡って修復されている。
これは2005年馬籠宿が町村合併で中津川市に編入されたことにより、
中山道の中津川宿、落合宿、馬篭宿の三宿が中津川市となり、
その内の馬籠宿の石畳120mが痛んでいて、
修復が必要になったのであろう。
岐阜県からの助成金で修復が行われたと、
説明板に書かれている。


(落合の石畳に入る)

藤村が「夜明け前」で木曽路十一宿は
「東境の桜沢から西の十曲峠まで」と書いているが、
ここで修復を受けた約120m先までが馬籠宿であったのであろう。


(落合の石畳に入ってすぐにある「中山道」の碑)


(右に曲がり)

(左に曲がり)

その名の通り、石畳の道路は曲がりくねって登っていく。
途中、「なんじゃもんじゃの杜」があり、
落合の老人クラブが植え継いでいると言う。
説明板には、
(・本名をヒトツバタゴ(一つ葉たご)と言い、古世代の依存木である。
五月中旬ごろの開花で満開時は樹上が真っ白になり、
雪が積ったような景観を醸す。
この杜は昭和51年落合の老人クラブが植樹したものです。)
(落合まちづくり推進協議会)とある。
「なんじゃもんじゃ」の木の名については、
(昔、今の明治神宮外苑の道路沿いに、
この「なんじゃもんじゃ」があり、
名前がわからなかったので、
「何の木じゃ?」とか呼ばれているうちに、
いつのまにか「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまった。)と
いう嘘のような話。


(なんじゃもんじゃの木)


(「ヒトツバタゴ」とある)


(準備中の峠の茶屋)

その先に、峠の茶屋があるが、店は閉まっていて準備中になっている。
人の気配は無く、このさき夏を経て、
冬に差し掛かるまで営業するのであろうか?
うっそうとした木に囲まれて、湿気の多そうな道は、
歩く者にとって、石畳は良いようであるが、
凸凹が多く、苔むしていて滑りそうで、意外に歩き難い。
道路両端の石はあまり段差が無いので、道路の縁を選んで歩く。

およそ2kmの石畳が終わり、舗装道路に出る手前に
「岐阜県史跡 落合の石畳」の白い標柱がある。
江戸側には無かった案内であるが、
京都側から来る人への案内は充実しているように感じる。
石畳道路を出て舗装路を左折200mも歩くと左側に、
大きな枝垂れ桜のあるお寺の前に出る。


(落合の石畳の標柱)


(落合の石畳、京都側入口の案内)


(道路上の「中山道」の案内標識)

瑠璃山医王寺という。
本堂入口に「狐こうやく」の古い木の看板が置いてある。
むかし、住職が傷ついた狐を助けたところ、そのお礼にと狐が教えた
「狐こうやく」が名物で、刀傷に特効が合ったという。
がまの油売りの話に良く似ている。

歩いている時見えた医王寺の枝垂れ桜について、
(この木は今は二代目であるが、俳諧の宗匠 嵩左坊が

・その日その日 風にふかせる 柳かな

と詠んだ県下随一といわれた名木であった。)(落合まちづくり推進協議会)
という。


(左側に見える枝垂れ桜)


(医王寺の参道)


(本堂入口にある「狐こうやく」の看板)

しだれ桜を柳に見立てたのであろうか?

また、俳諧の「宗匠 嵩左坊」とは、「夜明け前」の翁塚のくだりで、
「崇佐坊」の名で出てくる美濃の俳人である。

俳諧の宗匠 嵩左坊については、前回(旧中山道番外記 26)で述べた。





翁塚と「夜明け前」の嵩左坊について(旧中山道番外記 19)

2010年09月06日 10時01分29秒 | 中山道番外記

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(是より北 木曽路の碑)

(翁塚と嵩左坊)
「夜明け前」は主人公青山半蔵
(藤村の実父がモデルで馬籠宿本陣の主人)の半生を通じて、
幕末から明治維新に至る、時代の夜明けを描いた歴史小説である。

その小説の中に、次のような一節がある。

{「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ 送りつ果(はて)は 木曾の龝(あき)   芭蕉翁

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(翁塚)

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、
それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。}

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(「木曽の」が「木曽の」に読める句碑。)

この文章にある「木曽の穐」の「穐」の字が「蝿」と読めると議論している。
勿論、芭蕉の俳句は「木曽の秋」が正しいのであるが、
俳句好きな父親の翁塚を建てるという生前の願いを、
実現させる金兵衛が塚を建てるのであるから、
まさか「木曽の蝿」と石に刻ませるはずはない。

しかし、石碑に彫られた文字は「木曽の穐」で、
これをくずし字で書くと「蝿」に見えるというのである。
確かに「禾(のぎ)」へんは、石碑を見る限り「虫」へんに見える。

この翁塚を建設供養に当って、お祝いに駆けつけた人たちについて、
「夜明け前」では次のように記している。

(翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。
あいにくと曇った日で、八(や)つ半時(はんどき)より雨も降り出した。
招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、
手土産(てみやげ)も田舎(いなか)らしく、
扇子に羊羹(ようかん)を添えて来るもの、
生椎茸(なまじいたけ)をさげて来るもの、
先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、
それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、
国も二つ、言葉の訛(なま)りもまた二つに入れまじった。
その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合(おちあい)の宗匠、
崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。)

この文の中に見られるように、
「夜明け前」の中では、崇佐坊(すさぼう)の名で出てくる美濃の宗匠とは、
嵩左坊を指している。

この翁塚を境にして、木曽(長野)と美濃(岐阜)の境であったから、
美濃の宗匠が居てもおかしくは無い。
もともと岐阜県在住の俳諧を趣味にする人は多く、
芭蕉門下で美濃派といわれるくらいである。

ボクの父は美濃の出身で、俳句をよくしたが、
俳句が盛んな地域であったのかもしれない。

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(新茶屋の一里塚、手前の石碑が、信濃と美濃の境界の杭)

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(美濃と信濃の国境とある)

話が飛ぶが、
「木曽路文献の旅」(北小路健著)のなかでは、
{翁塚建立の時集まった嵩左坊を含む俳句好きが巻いた歌仙の中で、
次のような句があるから、
「穐」の字は「蝿」が正しいという意見を述べている。

(その句とは、
蝿を追う迄を手向けや供養の日  峨 裳
憎まれず塚の供物に寄る蝿は   聴 古
蝿塚や木曽を忘れぬ枝折にも   霞外坊
蝿送り送り守らん恩の塚      逓 雄

と四句まで「蝿」を読み込んでおり、最後の句の如きは
「送られつ送りつ果ては木曽の蝿」と読んでこそ、
はじめて首肯できる作となっている。右の霞外坊の句にあるように、
この翁塚を蝿塚と詠んでいることからも「木曽の秋」ではなくて
「木曽の蝿」と素直に詠んだことになる。)と論じている。

しかし「夜明け前」にあるように、
俳諧好きの亡くなった親父のために作った記念碑の芭蕉句を
間違って「木曽の蝿」と刻んだとは思えない。
もし間違っていたら、造り直させたであろう。

翁塚の句会では、建立時の(蝿と読める)二人の会話を参考にして、
面白おかしく、「蝿塚」や「蝿」を入れて作句したに違いない。

また最近、古文書の読み方(初級講座)で学んだ所によれば、
「禾(のぎへん)」を崩して書くと「虫」に良く似ているのは事実である。
だから、やはり「木曽の穐」であって「木曽の蝿」であるはずは無い、
とボクが思うのは間違っているだろうか?

考えてみれば、人生は短いのだから、
こんな他愛の無いことで、

むきになって時間を費やすのはもったいない。



「是より北 木曽路」の碑と翁塚(旧中山道を歩く 209)

2010年09月01日 10時42分48秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(新茶屋の一里塚、江戸から来て左側の塚)

(馬籠宿 5)
小公園を過ぎて、田や畑の道を少し進むと、新茶屋の一里塚に出る。
その先は落合の石畳が連なり、十曲峠が始まる場所である。

「夜明け前」の中では、芭蕉句碑を据え付ける場面で、
その会話が楽しく聞こえてくる。

芭蕉の句は
「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 芭蕉翁」と
石碑に刻まれていることから、翁塚と呼ぶが、
この最後の「穐(あき)」の文字が「蠅」に読めると言う会話である。


(芭蕉翁の句碑)


(「蝿」と読める翁塚)

「夜明け前」のその部分を抜粋しよう。
(「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)  はせお

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。)(夜明け前)より。

のどかな場面であるが、物語はその後、
難しい時代を生き抜いた人たちの苦悩を鮮明に描いていく。

最近になって、古文書を読む講習会に参加した。
確かに「禾」へんは古文書を見ると「虫」のように見える。
藤村は面白いところに気づいて書いたのか、
あるいは事実をかいたのか・・・

(また、芭蕉俳句集に寄れば、

・送られつ 送りつ果ては 木曽の秋

とあるから「穐」は「秋」を指し、決して「蝿」では無い。)などと
ボクみたいに、むきになって反論してくる輩もいることを狙って、
内心面白がって藤村は書いたのかもしれない。

この芭蕉句碑と並ぶようにして、
「是より北 木曽路」の石碑が設置されているが、
藤村自身が揮毫したものと言う。


(「是より北 木曽路」の碑)


(贄川宿桜沢にある「是より南 木曽路」の碑)

木曽十一宿の南はここから始まり、北は贄川宿の桜沢までで、
桜沢には対照的に「是より南 木曽路」の石碑が建っている。

句碑と木曽路の碑が立っている先に、一里塚がある。
山の中のこともあり、中山道の左右に一里塚は残っていて、

新茶屋の一里塚という。

江戸より83番目の一里塚である。
左右一対の一里塚としては七番目である。

この先に落合の石畳があり、十曲峠に入る。


(江戸方面から右手に見える「新茶屋の一里塚」)


(一里塚脇の「信濃・美濃」国境の碑)


(一里塚先から始まる「落合の石畳」)