中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

樹下神社と一里塚(旧中山道を歩く 319)

2012年04月27日 09時49分47秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(樹下神社の鳥居と左に並ぶ石灯篭)

(守山宿 5)
橋を渡ってすぐ右に樹下神社の鳥居と沢山の石灯篭が並んでいる。
左には、「どばし」と「常夜灯」説明が石柱に刻んである。
鳥居をくぐると、左に「太神宮」と刻まれた背の高い常夜灯が目に入る。
その奥に本殿がある。


(どばしと常夜灯の説明の石柱)


(伊勢屋佐七の常夜灯)

背の高い常夜灯が伊勢屋佐七の常夜灯であることはすぐ判った。
(常夜灯は4mの大きなもので、
石の東面に「太神宮」が、
西面には「願主 天保二年辛卯9月伊勢屋佐七」が刻まれています。
また台石には「武州摂州 武州濃州」、
他の面に
「守山宿役人中 御会所 鋳野生介 池田屋治郎兵ヱ 堅田屋喜十郎」
が刻まれており、地元の伊勢屋佐七が願主になって、
各地の身内や守山宿の役人や商人などの協力を得て、
商売繁盛、家内安全を願い建立されたことがわかります。)
(守山宿歴史文化保存協会)


(停車場道の道標)

また右側には、「停車場道」の道標がある。
(これはJR守山駅が新設された時、
中山道今宿から勝部を通って守山駅への、
初めての道路を記念して「停車場道」の碑が建てられたが、
途中で撤去され樹下神社に保管された。)(今宿商工会)

奥の本殿左横に、「女天神 安産石」が置かれている。
(菅原道真公(天神さん)が大宰府へ左遷されて、
一家離散となり、
信濃に落ち延びる身重の息女
(宇多天皇の皇子 斎世親王の妃)が産気づき、
当神社近くで、街道の平石に臥せって苦しんでいた。
里人の手厚い看護もむなしく、無念な最後となったが、
その臨終に当たって、里人の厚い情けに報いるためにと、
女人の安産を この平石に強く祈願したといわれる。
その後この平石の下の砂を妊婦が肌身につければ、
安産間違いなしと今宿に語り継がれている。)(今宿商工会)


(本殿)


(安産石)

その左手に松の大樹が何本か生えている。
(これは樹下神社のご神木で「夫婦松」といわれるもの。
二股の枝が次々と続くことから、夫婦松と呼ばれている。
安産石とともに、お家繁盛のシンボルとして、
昔から大切にされてきた。)(今宿商工会)


(夫婦松)

二股の枝が続くことが、どうして夫婦松につながるのか、
よく解らない。
二股の枝の間から若芽が次々と出てくるなら解るが・・・

中山道を行くと、今度は左手に本像寺がある。
(門をくぐり本堂の前に行くと、右に題目塔が一基あり、
もう一基は墓地にあるが、二基とも守山市指定文化財である。

(*)題目塔=南無妙法蓮華経と刻まれた、
   鎮魂を目的とした供養塔をいう。

本堂前の左側にあるお墓は、
八十五歳で生涯を閉じるまで、全国を行脚して、
石類の収集に励み、その数2千種以上数えたといわれる、
江戸時代の鉱物学者木内石亭のぼせきである。)(今宿商工会)


(本像寺)


(題目塔)


(鉱山学者の木内石亭の墓)

本像寺を出て古い家並みの中山道を行くと、
(今宿町)の信号にでる。左へ行くとJR守山駅へ抜けるが、
この交差点左に樹下神社にあった「停車場道」の石柱はあったとされる。
宿場らしい古い家の前を通り行くと、一里塚がある。


(宿場らしい家)


(今宿の信号、この手前左手に石標はあった。)


(宿場らしい古い家が続く)

「今宿の一里塚」で滋賀県指定史跡になっている。
滋賀県教育委員会の説明によると、
(今宿の一里塚は五街道の一つでである)中山道の一里塚で、
江戸日本橋から数えて滋賀県草津宿までに129箇所あった一里塚の
128番目に当たります。
一里塚は江戸幕府により慶長九年(1604)に整備されたもので、
一里毎に道の両側に、五間四方の塚を築き、
榎や松を植えて通行の目安としたものです。
圏内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、
北国脇往還等に設置されていましたが、
明治以降、交通形態の変化による通路拡幅や農地、
宅地への転用などにより、そのほとんどは消滅し、
現存するのは今宿の一里塚のみとなりました。
今宿の一里塚は規模は小さくなっていますが、
南塚のみ残り榎が植えられています。
先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、
脇芽成長して現在に至っています。
今宿の一里塚は、往時を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、
近世交通史を知る上で重要な遺跡となっています。)とある。

中山道67次の一里塚は全部で129箇所あった。
その一つ手前の128番目の一里塚である。

現存する中山道の一里塚としては、最後の一里塚である。


(今宿の一里塚に残る南塚)





東門院(旧中山道を歩く 318)

2012年04月23日 10時00分42秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(右手にある道標)


(道標)

(守山宿 4)
中山道はこの先右手の角に道標が建っている。
「石邊道標」といわれるものだ。

この道標については、
(本道標が建てられているこの地点は、
その昔、掟書などが掲げられていた高札場の一角であった。
道標は、中山道側の側面にには、「右 中山道 並びに 美濃路」
その左側面には、
「左 錦職寺四十五丁 こ乃者満道(このはまみち)」の
文字が刻まれている。

「右 中山道 並び 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へ続く中山道で、
「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち(このはまみち)」は、
左の道を行くと人々の信仰を集めた、
真宗木部派本山である錦織寺に至る約四キロの道程(錦織寺道)であり、
それに続く「こ乃者満ミち」は、
琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へ通じる道筋であることを示している。
――後略)(守山市教育委員会)とある。


(右にカーブする街道)

この先道路は、右にカーブしていくが、曲がった先に東門院がある。
(東門院は江戸時代には観音堂として記述されていますが、
その正式名称は「比叡山東門院守山寺」で、
享保19年(1734)近江輿地志略に出ています。
寺伝によれば、伝教大師が延暦寺を開いた時、東方の鬼門を守るために、
建立されたといいます。
数多くの文化財があって、「守山の正倉院」とも言われています。
昭和61年の大火により本堂はじめ、多くを焼失しましたが、
木造不動明王坐像、石造五重塔、石造宝塔など文化財があります。
また、江戸時代朝鮮通信使の宿として使われました。)
(守山市教育委員会)


(東門院)

山門には木像の仁王像が左右にあり、
中央には「東門院」と描いた大きな提灯が、
浅草の雷門のようにぶら下げてある。
門を入ると左手に、
大きな石造りの蛙が背に小カエルを乗せているのが目に付く。
特段意味があるものでは無さそうだ。
少し右にカーブした格好で本堂があり、
その左手に三基の石造物がある。
左から宝塔、五重塔、法篋印塔が並んでいる。


(左の仁王像)


(右の仁王像)


(親蛙と子蛙)


(本堂)


(国重要文化財の石造五重塔、重要美術品の宝篋印塔、重要美術品の宝塔)

三基の石造物の横をでると、山門の西側に出るが、
そこに明治天皇御聖蹟の石柱がある。
さらに隣に門前茶屋「かたたや」があり、
これは往時からあると言われる。
その先の交差点が「守山銀座西」で、
左へ銀座通りが続くがここは直進する。


(明治天皇御聖蹟)


(堅田屋(かたたや)


(守山銀座西 交差点信号)


(今宿村に入る土橋)

すぐに土橋があり、この橋を境に加宿の今宿に入っていく。
(江戸時代この川は巾が二十間(30m)あり、
瀬田の唐橋の余材で架け替えられ、
公儀ご普請橋として大切にされた。

川には屋形船が、また両側に宿屋、茶店が立ち並んだという。
「木曽海道六拾九次之内 守山」の浮世絵は、
この橋から眺めて描いたとされる。
また、この先右手の「樹下神社」にある伊勢屋佐七の常夜灯
(商人仲間から浄財を集めて建立された)も、
この橋詰にあったとされる。)(今宿商工会)


(樹下神社)


(土橋から描かれたという、広重の浮世絵「木曽街道六拾九次之内 守山」)






謡曲「望月」のものがたり(旧中山道を歩く 317)

2012年04月19日 09時55分09秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(中山道守山宿の街灯)


(木製の常夜灯に「中山道守山宿」が店先にある。)

(守山宿 3)
守山宿を歩くと「中山道 守山宿」の看板が商店街の街灯に掲げられ、
また商店の前には守山宿の常夜灯を模した看板が置いてある。
宿場を楽しみながら歩くと、左手に道標がある。
「高野郷 新善光寺道」の石標である。


(新善光寺道の道標)

この標の片面には「すぐいしべみち」と入っており、
ここから栗東の新善光寺と石部への道標で、
中山道から分かれて「伊勢参り」の道として利用された。

中山道を進むと、左手に「うの家」と書いた大きな家がある。
元内閣総理大臣 宇野宗佑さんの旧居(酒造業)であると、
後ほど訊ねた交流館でお聞きした。


(旧家の感じの宇野家)

さらに進むと右側に天満宮があり、
左手に古井戸と本陣跡推定地の石標がある一角にでる。
古井戸は防火用水、足洗い用水等として多目的に使用されたもの。
井戸があった場所は移設されているそうです。


(天満宮)


(古井戸、本陣跡推定地の碑)

(この本陣は、江戸時代には問屋、脇本陣、本陣の役割を果たした。
また、文久元年10月22日(旧暦)(1861)十四代将軍 徳川家茂に嫁いだ、
皇女和宮が宿泊された。)(守山市教育委員会)

また、本陣は、謡曲「望月」に出てくる「甲屋」を指したという。
その甲屋の物語であるが、
(謡曲「望月」は、信濃の住人・安田荘司友春の妻子が、
元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、
仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、
登場する人物はすべて架空とされている。
また、その舞台となった宿「甲屋」も、
享保十九年(1734)「近江與知史略」や
文久元年(1861)の皇女和宮降嫁の事前「宿屋」調べにも記載が無いことから、
架空の宿と考えられます。)(守山市教育委員会)とある。

架空の物語ではあるが、
当時から貨客の往来が盛んであった守山での仇討を題材にしたもので、
能楽界では今でも格式高いものとして演じられている。

守山宿の歴史的な説明板は、出典が明らかにされており、
科学的で非常に明解である。

その先に「中山道街道文化交流館」があり、
ここは元「ろうそくや」の商家跡で、
問屋のような、黒光りする板の間であった。
温かいお茶をご馳走になり、
いろいろ史跡の案内をしていただいた。
中山道を歩かれ守山宿を訪ねられる方は是非お立ち寄り頂きたい。


(中山道街道文化交流館)





帆柱観世音 慈眼寺(旧中山道を歩く 316)

2012年04月15日 10時24分03秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(慈眼寺と薬師如来の石柱)

(守山宿2)
道路左手に「帆柱観世音 慈眼寺」と
横面に「薬師如来」と刻んである石柱があり、
道路奥に慈眼寺が見える。
帆柱観音は住吉山興福院 慈眼寺と言い、
天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の無檀家寺である。

興味ある説明によると、
(古来地元 吉見や近在の人々から、
「帆柱観音さん」と親しまれ、広く信仰されてきました。
ご本尊は十一面観世音菩薩立像(秘仏)です。
縁起によれば、伝教大師 最澄が桓武天皇の勅命で、
唐の国に留学、修業しての帰国の途上、
突然の海難に遭遇した危急の際、
海上に観世音菩薩が現れて風波が静まり無事帰国された。
帰国後、伝教大使は海難で折れた船の帆柱で、
十一面観世音菩薩と脇侍の持国天・多聞天像を彫り、
弘仁元年(810)中山道に沿う吉見の地に、
水難をはじめ全ての交通安全の
守り仏として安置されたのが起源とされています。
――以下省略)とある。(慈眼寺)

ここで水難?は野洲川の氾濫と思うが、
吉見町自治会(水とホタルの推進委員会)による説明を要約すると、
(吉見は古くは「吉水郷」といい、
豊かな森林ときれいな「水」に恵まれた景勝地であった。
南側は「都賀山」の森と醴泉(れいせん)が湧く数々の池あり、
ー中略ー本宿と加宿の吉見の間に流れる川は、
野洲川の伏流水と湧き水で水量多く
冷たく清らかで、宿場の防火用水の役目も果たした。
流は早く周囲の環境に恵まれ、
「ゲンジホタル」が生息する川として親しまれててきた。ー後略。)
往時はこのような環境にあったので、当然水難があったと思われる。
町を流れるきれいな小川には、
今も「ホタル」の住む水である表示がしてある。

さて帆柱観音の慈眼寺本堂の脇に地蔵堂があり、
子供をお守りする可愛い地蔵尊が並んでいる。
帆柱観世音は秘仏で拝むことは出来なかったが、
今回の旅の安全を願ってささやかなお願いをしてきた。


(慈眼寺の地蔵堂)


(慈眼寺本堂)






守山宿(旧中山道を歩く 315)

2012年04月12日 09時56分57秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(野洲川橋から見た東海道線の鉄橋)

(守山宿)
野洲川を渡ると守山宿に入る。
橋を渡り終えると、右手に「馬路石部神社」の石塔がある。


(馬路石部神社の石柱)

しばらくすると広い道路と交差する。
右方面は琵琶湖大橋に行く信号(吉見三丁目)の信号に出る。
中山道はこの信号を直進するが、
道は歩行者自転車のみの一方通行出口となり、道路は狭くなる。
街並みを抜け、次の信号(吉見小学校前)も直進する。


(旧中山道らしい街並み)


(吉見小学校前の信号)


(中仙道の案内、高札場跡の案内がある。)

道路右手に吉見一丁目の(中仙道)金ぴかの案内があり、
その脇に、中山道高札場跡の説明板がある。
守山宿江戸側の入り口である。

高札場についての説明版を要約すると、
(帆柱観音(ほばしらかんのん)で名高い慈眼寺から、
北東側へ約100メートルの地点は、
中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。
この場所に高札場が設けられていた。
徳川幕府の定めた法度や宿場の決まりなどを記した
木の札が掛けられ、旅人は笠を手にして読んだ。
宿場の入り口と出口では、
道路は鉤の手になっており、
外敵がじかに攻め込めないよう、宿場の治安維持のため、
街道に面する民家も一戸毎に段違いの屋敷割りになっている。
全国的にもこのような道路が残る所は大変珍しい。
現在は道路整備により、昔を偲ぶことが難しくなっているが、
その一部を観察することが出来る。)とある。(守山市教育委員会)

守山宿の守山とは、比叡山を守るという意味で、
宿場のほぼ中央に東門院があり、
正式には東門院 守山寺という。
これは比叡山の関門として造られたもので、
叡山を守る、つまり守山となった。


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 守山」)

中山道の京発ち東下りでは、守山宿泊まりで最初の宿泊地であった。
守山宿は守山本宿を挟んで、西の今宿、東の吉見の三つからなり、
長い宿場町として繁盛し、今宿、吉見を加宿として、
さらに発展した。
街道に面する民家が段違いに出来ていたのは、
比叡山を守るということから考えれば、
外敵防衛の面から当然のことであったに違いない。

中山道の高札場跡から少し行くと左手に、
「帆柱観世音 慈眼寺」の石柱があり、
道路奥に慈眼寺が見える。


(「帆柱観音 慈眼寺」の石柱)


(慈眼寺)




背くらべ地蔵と朝鮮人街道(旧中山道を歩く 314)

2012年04月09日 10時18分10秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(背くらべ地蔵堂とその看板)

(武佐宿 6)
その先の交差点の左手に、背くらべ地蔵がある。
背くらべ地蔵ってなんだろうと説明文を読むと、
(この大小の石仏は鎌倉時代のもので、
中山道を行き交う旅人の道中を守ったと伝えられています。
また、当時は乳児がよく死んだので、
子を持つ親たちが、
「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」
と背くらべさせるようになり、
いつしか「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになりました。)
(野洲町指定文化財)とある。

右手の小さな地蔵が「背くらべ地蔵」で
左手は阿弥陀如来立像である。
地蔵堂(小屋)の左には、
沢山の地蔵さまが旅人の道中を守って並んでいた。


(背くらべ地蔵尊右側の小さい方)


(小屋の左に並ぶ地蔵群)

地蔵堂の奥には、行事神社の鳥居がある。
神社前の道路を隔てて向い側には小公園があり、
脇に水路が流れている。
水路脇の公園の一角に(行合の水辺修景整備)と題し、
山を背景に農耕を営む人たちのレリーフが埋め込まれている石碑がある。
その脇に、
(史跡・祇王井川
江辺庄に生まれた祇王(ぎおう)は故郷の水利が悪く旱魃に悩まされていることを、
「平清盛」に訴え、承安三年(1173)野洲川のほとりから、
琵琶湖野田浦に至る三里(約十二キロ)の間に水路を作らせました。
その恩恵を讃えて、この水路を「祇王井川(ぎおういかわ)」と名づけられました。
このレリーフは、当時の水路工事の風景を描写したものです。)とある。
(滋賀県野洲町)


(行事神社の鳥居)


(神社向かいの小公園と祇王井川)


(祇王井川掘削のレリーフ)

中山道に戻り進むと、左手に仏身山唯心寺があり、
道路突き当たりを右折した右角に蓮照寺がある。
ここには朝鮮人街道分岐点にあったとされる、道標がある。
山門をくぐると正面に本堂と白い象、右側に鐘楼があり、
鐘楼手前にその道標はある。
「右 中山道」「左 八まん道」とある。


(道路を突き当たる手前左にある唯心寺)


(右手にある蓮照寺)


(奥の本堂と白い象と手前右側の鐘楼)


(鐘楼脇の道標、「右中山道 左八まん道」と読める)

中山道を進むと、左手に古いお堂がある。何のお堂であるか不明だ。
地蔵堂なのか、あるいは阿弥陀堂であろうか。
道なりに進むとコミュニティバスの停留所があるが、
これに(おのりやす)と関西弁というか、
京都弁で書かれているのが、ほほ笑ましい。


(阿弥陀堂?)


(「おのりやす」のバス停=「どうぞおのりくださいませ」にきこえる。)

この先で東海道線のガードをくぐり、やがて野洲川に近づくと、
右手に十輪院がある。道路向かい側に地蔵尊が山と積まれている。
脇を通り抜けて野洲川の橋に出る。
左を見渡すと三上山の近江富士が美しい姿を見せている。
野洲川は夏と秋には水量がなくなり、徒歩渡りであるが、
水量が多い時は船渡しであったという。


(道路先に見える東海道線のガード)


(十輪院)


(道路を挟んで並ぶ沢山の地蔵尊)


(野洲川橋)


(野洲川)

後ほど草津の交流館での話では、
皇女和宮の渡河の時は水量が無かったといわれる、と聞いた。
橋を渡り終え、いよいよこれから守山宿に入る。

(野洲川の土手から見た三上山(近江富士)




桜生(さくらばさま)史跡公園と外和木の標(旧中山道を歩く 313)

2012年04月05日 10時10分27秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(桜生史跡公園、「さくらばさま」振り仮名がしてある。)


(史跡公園内の地図)

(武佐宿 5)
2012年3月27日気温13℃の予定。
中山道を歩き始めて47日目、2012年では最初の探訪である。

野洲駅をAM9:30に出発。
前回 夜になり見損なった「桜生(さくらばさま)史跡公園」に向う。
この史跡公園、「桜生」と書いて(さくらばさま)と読む。

史跡公園の看板によって、{さくらばさま}であることが分かった。
難読の文字である。
地名や人の名はとかく読みにくいものだ。
本人に聞くか、その土地の方に聞くのが正しい。

その公園であるが、どんな史跡公園であるか、
パンフレットに書いてある内容を要約すると、
(公園は二つの円墳と一つの前方後円墳からなっており、
天王山古墳、丸山古墳、甲山古墳、
これらの三つの古墳からなる史跡公園。

6世紀頃の造られた王家の墓で、
いずれも西に入り口を持つ横穴式石室を持ち、
この玄室(古墳に埋葬された人を安置する部屋)が造られている。
この玄室の中央には、朱色に塗られた家型石棺が安置され、
多くの副葬品が発見された。――中略。
日本書紀や古事記から古代のヤス(現在の守山市と野洲市の周辺)には、
安直(やすのあたい)氏という
古代近江を代表する豪族がいたことが分かっています。)
(桜生史跡公園資料)とある。

だから町の名が野洲(ヤス)市なのかと独りガッテンして、
桜生史跡公園を後に中山道を歩く。


(道路から見た甲山古墳)


(西向きの甲山古墳の玄室入り口)


(玄室内の家型石棺)

中山道は田舎らしい家並みが続く。
日当たりの良い所ではソメイヨシノが、
数厘花開いていた。
少し行くと三叉路に出るが、ここは三つ坂といい、
元立場があった跡と看板があり、
道路の向こう側には地蔵堂が鎮座している。


(3/27数輪咲いたソメイヨシノ)


(三叉路)


(「三つ坂」という立場(休憩所を意味する)


(旅の安全を願った地蔵堂)

道なりに進むと、少し広い道路と交差する。
前回の夜、この場所で右方向を眺めたら、
明かりが見えて街中に入ったと思い、
右折した場所である。
中山道はここを直進、
なお進むと左手に稲荷神社の鳥居と大きな常夜灯がある。
さらに進むと右手に小篠原村庄屋 苗村邸跡の石碑がある。
昔は庄屋としての役目を担う村の有力者の住まい跡なのであろう。
その先、右手に養専寺の山門と大銀杏の木が見える。
次いで右手に酒と大きく書いた自動販売機があるが、
その横に茅葺の大きな家がある。
これは酒造会社の建物であるが、
会社という名には似合わない。


(少し広い交差点)


(稲荷神社と灯籠)


(小篠原村庄屋 苗村邸跡の石碑)


(専養寺山門)


(酒造会社の茅葺屋根)

道路はその先に新幹線の高架に近づく。
ガードをくぐると、道路は十字路になり、これを新幹線に沿って左折すると、
すぐ十字路があり、ここを右折するとJR野洲駅へ、
中山道はこれを直進する。

(ここは間違いやすいので、要注意である。)
安心できるのは、十字路手前右と、
道路を渡った先の左に(中山道)の案内があることだ。
見落としやすいので気をつけたい。


(新幹線ガードを左折)


(すぐ十字路があり、「中山道」の看板が右手にある)


(十字路先の左手に「中山道」の看板と一方通行出口の標識が見える。)

旧中山道らしい道路を進む。回りは何の変哲もない田舎町。
目印として、左手に天理教の分教会がある程度。
次の信号の右先に小学校の校庭が見える。
信号の手前右角に(中山道)の看板を目印に、
信号を渡ると野洲市立野州小学校の門があり、
運動場では子供たちが元気に遊んでいた。


(天理教の文教会)


(信号手前右側の「中山道」の案内)


(野洲小学校の運動場)

門前左角に常夜灯をまねた案内があり
(中山道野洲 左守山宿、右武佐宿)と書いてある。
ここには(中山道・外和木の標)としての野洲町の案内板がある。
要約すると、
(この地点より西に180mの所に、
朝鮮の外交使節を向かえた朝鮮人街道との分起点があるのを、
将来に渡って忘れないために、この標を作り{外和木の標}とする。
外和木とは、この場所が小篠原字外和木であるところから取った。)
右手に立派な標石が置いてある。


(常夜灯タイプの道案内)


(立派な外和木の標)

説明板通り、180メートルほど行くと、
(朝鮮人街道分岐点右)の案内表示があり、右のほうへ道路が通じている。
この道路の東口は、鳥居本宿にあった。
朝鮮人外交使節を中山道でなく、特にこの道を通したのは、
一説に彦根城を通過させるためでなかっただろうかと考えられている。


(左手の朝鮮人街道の案内)


(中山道の案内)


(分岐点から見た朝鮮人街道)







暗闇の旧中山道を行く(旧中山道を歩く 312)

2012年04月01日 09時58分38秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(西池の土手)


(武佐宿 4)
西池の土手を見て、次の道順は右折だからと、
国道8号線を信号で右に渡る。
歩道はあるが、人が通るのはごく希らしく、
歩道の幅はとても狭い。
すれ違うには体を捻らなければならないほどである。

この先単調な国道8号線を自動車の通行に脅えながら歩く。
国道8号線を約1km行くと右手に石材店があり、
右に入る細い道がある。
国道と離れて、静かな道を行くと、
右手に常夜灯が二基並べて石垣で囲ってある。
何か謂れのあるものであろうが、暗くなってきているので、
ろくに見もしないで通り過ぎる。
その先の橋の向こうに、「村社 篠原神社」の石柱がある。


(常夜灯が二基石垣に囲まれている)


(村社 篠原神社、この後暗闇で写真がありません)

秋の陽は早く落ちると言うが、、冬の陽はもっと速い。
「篠原神社」の手前では薄暗がりであったのに、
「篠原神社」を通過すると、陽はどっぷりと暮れてしまった。
この先東海道線の野洲駅まで4km近くあるはずだ。

初めて歩く旧中山道も道順は、おぼろげにしか覚えていない。
この先右手に「子安地蔵」があり、
左手に「桜生史跡公園(さくらばさましせきこうえん)」があり、
次に新幹線のガードをくぐって直進。
野洲駅から来る道と交叉したら左折し駅に向う。
野洲駅から米原駅、米原から新幹線で東京の予定であった。

予定では、16時半には野洲駅であったのに、
「篠原神社」で16時半である。
薄明かりの中を「子安地蔵」まで歩いたが、
その先「桜生史跡公園」は田舎の街灯もない暗い道で、
空と木の陰と薄く光る舗装道路を頼りに歩く。

約1時間歩くも野洲駅から来た道に交叉しない。
車がヘッドライトをつけて二台すれ違った程度で、
あとは犬一匹通らない。

やっと人家が左手に見えた。
時間が迫り、持病の糖尿病でカロリー不足になり、
低血糖状態の目まい、空腹感、冷や汗、を感じて、
生垣の前でリュックを下ろし、
ブドウ糖とクッキーを取り出し、
応急手当のブドウ糖とクッキーを頬張っている時、
若い女性の声と共に、ライトをつけた数台の自転車が通りかかった。
駅までの距離を聞こうと声を掛けると、
暗闇の中でリュックを背負って、
鍔広帽子をかぶった得体の知れないおじさん?に声を掛けられ、
恐れをなして逃げて行ったしまった。
白いヘルメットをかぶった女学生の数人であった。

千歳一遇のチャンスを逃したが、
とにかく駅に出なければ話にならない。
旧中山道をなおも歩くと、
広い道路と交叉し、道路を横断した向こう側に(旧中山道)の道標がある。
道路右手を見ると少し先に街灯があって明るい。
お店もあり道路を照らしている。
これが駅前通りであろうと右折する。

しかし、道路の先を見ても東海道線の汽車の線路らしきものは見えない。
ちょうどコンビニがあったので、
カロリー補給のおにぎりを(関西ではおむすびと言うらしいが)買い求め、
野洲駅までの道のりを聞くと、もうすぐですと答はあってホッとした。
でも、まだ十五分程度もかかると言う。
疲れた足では、十五分の道のりは長く感じたが、
重い足を引きずって、やっとの思いで野洲駅に到着。

すぐやってきた汽車に乗ったのが17時46分。
東京に帰ったのは、およそ21時半であった。
本日の歩行数58596歩=約35kmであった。

2012年12月1日 この年の歩き納めになった。