中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

勝海舟と三囲(みめぐり)神社(旧日光・奥州街道の番外記 5)

2013年06月26日 11時27分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(勝海舟=勝安芳の像)

(勝海舟=勝安芳の像2)

(アサヒビールの雲の形のオブジエ)



(三囲神社)
本所吾妻橋を渡って見上げると、
アサヒビールの雲のオブジェが屋上に見える。
口さがない江戸っ子は朝日に照らされた金色のウン〇と呼んでいる。

その横に墨田区役所はあって、前庭に勝海舟の像が立っている。
勝海舟生誕180周年(2003)に建てられたものだ。
時の墨田区長の建立の記によると、
(勝海舟は通称麟太郎、名前は義邦、のち安房、安芳は、
江戸本所亀沢町(現、両国四丁目)で、父小吉の実家男谷邸に生まれ、
明治32年赤坂氷川邸で逝去された。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、
世界のなかの日本の針路を洞察し、
卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、
多くの人材を育成した。
西郷隆盛との会談により、
江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、
今日の東京の発展と
近代日本の平和的軌道を敷設した英雄である。-後略)とある。
(勝海舟生誕地の碑)

因みに勝海舟の生誕地は、同じ墨田区の墨田警察署近く、
両国公園の一角に生誕地跡の碑はある。

勝海舟の(銅像には安芳とある)銅像のある場所は、
水戸徳川家下屋敷の敷地であった。
水戸徳川家の下屋敷は隅田川に沿って北東に広がる庭園が続いており、
途中(言問通り)でさえぎられるが、
その言問通り手前に牛嶋神社がある。

広大な水戸徳川家下屋敷庭園の中ごろ東側に、
小説家 堀辰雄の旧居跡(向島1-7)があって、
この牛嶋神社に詣でて、
「ここにはメランコリックな眼をした牛がいる」といった撫で牛がいる。
なるほど、うっとりした様な眼差しの牛の、
自分の弱い部分を撫でると効験あらたかであるらしく、
ツルツルに光っている。

もともと牛嶋神社は、隅田川沿い弘福寺あたりの裏手にあったのを、
関東大震災で焼失し、現在地に建てられた本所の総鎮守である。
牛嶋神社を出て言問い通りに出る。
(弘福寺あたりの裏手の牛嶋神社の碑)

(水戸徳川家下屋敷庭園の天皇行在所)

(下屋敷庭園東にある堀辰雄居所のあったところ)

(牛嶋神社)

(堀辰雄がメランコリックな眼差しといった撫で牛)

(水戸徳川家庭園)

信号を渡って水戸徳川家下屋敷庭園沿いの、見番通りを進むと、
三囲(みめぐり)神社がある。
(三囲神社は、弘法大使が祀った田中稲荷が始まりで、
当時は現在地より北の田圃の中にあった。
文和年間(1352~56)に近江の三井寺の源慶が社を改築した際、
土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。
その像の周りを白狐が三度回って消えたという縁起から、
三囲(みめぐり)の名がついた。
三井家は江戸進出の際に、その名にあやかって守護神とし、
平成21年(2009)に旧三越池袋店から、
シンボルの青銅製のライオン像が境内に移された。
(見番通りの案内)

(三囲神社)

(三越のシンボルライオン像)

(越の字に〇の台座)
日照りが続いた元禄6年(1693)、
俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に従い、
「ゆたか」を題字に詠みこんだ
「()うだちや 田()を見めぐりの 神(み」ならば」の句を献じた所、
翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。)(墨田観光協会)
ゆたかの文字を読み込んだ句碑)

(雨乞いの碑)

この解説通り、三井家が奉納した狛犬ならぬ一対の神狐は、
目尻が下がった様子から「三囲のおこんこんさま」と親しまれている。
また、宝井其角の雨乞いの句
「ゆふだちや・・・」の句碑と雨乞いの碑も境内にある。
そして三井家のライオン像と三越との関係を物語る越の字に〇の台石もある。
さらに三囲(みめぐり)神社の神殿前には、
神狐が一対あり、その狐の表情たるや、
三越の店員の心がけの模範となる、
目じりの下がった笑顔がほのぼのとして微笑ましい。
(おこんさま)

(神狐の三越社員の表情の模範となった顔)


他に、宝井其角 惜春の句碑

・山吹も 柳の糸の はらミかな   晋其角

もある。
(宝井其角 惜春の句碑)




今戸神社(旧日光・奥州街道の番外記 4)

2013年06月20日 17時13分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(山谷掘公園)

(聖天橋)


(今戸神社)
山谷掘公園入り口の今戸橋から二番目の橋、聖天橋を東へ進むと、
左手に浅草高校の建物があり、その右手に神社が見える。
今戸神社である。

浅草高校横の通路からは、
今戸神社の裏側から入ったようなものである。
神社正面入り口は反対側にあって、
今戸神社の大きな石碑があり、石の鳥居もある。
奇妙なことにこの鳥居の前に、沖田総司終焉の地という看板がある。
何故かと言うと、沖田総司の墓所は東京都港区の専称寺と、
ボクの記憶にあるからだ。
(浅草高校脇から見た今戸神社)

(神社正面入り口の鳥居)

(沖田総司終焉の地の看板)

若いお嬢さんたちが、神殿の前に沢山居る。
どうしてこんなに沢山の女性が居るのか、
まさか沖田総司ファンでもあるまい、と不審に思った。
そういえば境内に、養殖のホタテの貝の様のものが沢山くくりつけてある。
近寄ってよくよく見ると、その帆立貝が、一枚一枚絵馬になっている。
(今戸神社の神殿)

(和服姿のお嬢さん)

(帆立貝に見間違う絵馬)

(帆立貝に見間違う絵馬2)

普通、われわれが良く見る絵馬は、家の形をしていて、
板に馬の絵が書いてあり、裏面にお願い事を記入して神に祈るのが普通だ。
ところがここでは、絵馬の形が丸く、
遠くから見ると帆立貝の貝殻のように見える。
一枚づつ見ると、(えんむすび)書いてあり、
白い招き猫が二匹並んで描かれている。
猫の足元に今戸神社と書かれている。
その裏にお願い事を書いて奉納するのである。
(縁結びの招き猫の丸い絵馬)

(願い事のある絵馬)


神前には老いも若きも、神妙な顔つきで良縁を願って、
鰐口をならし賽銭を投げている。
出来れば良縁にありつけることを祈ってやまない。
しかし、手をこまねいていて良縁にありつけるわけでなく、
およそ縁とは自分で見つけるもので、自分で作り出していかねばならない。
倅にしても、娘にしても、どうも最近は女性のほうがしっかりしているのか、
女性がアプローチをして、結婚にまで持ち込んでいる。
子供たちの話を聞いていると、どうもそのようであるらしい。
(賽銭を投げて良縁を求めるお嬢さんたち)


世のお父さんお母さん、お子さんたちの将来を考える前に、
女性が主導権を持っていることを忘れないで、
ご指導されますことを祈っております。

宜しければ、浅草の今戸神社にお出かけになって、
縁結びのお祈りをされますと、
なお宜しいかと・・・・。

(願い事を招きよせる招き猫たち)


境内には沖田総司終焉の地の石碑もある。
隣に説明板があり、
(沖田総司は当地に居住していた松本良順の治療にもかかわらず、
その甲斐も無く当地で没したと伝えられる。)とある。
(沖田総司終焉の地の石柱)


さすがにお墓とは言えず、終焉の地としているが、
昔、名を成した人のお墓はあちこちにあるものである。
ボクの知る限り、吉田松陰は3箇所、近藤勇は5箇所、
木曾義仲は2箇所、松尾芭蕉も2箇所。

それではボクのお墓は何箇所になるだろうか・・・

う~ん0箇所かな・・・。

そうだそうだ、誰も造ってくれないかもと思って、
もうお墓を造ったあったことを忘れていた。
(旧日光街道にある浅草高校前の信号)




「竹屋の渡し」の常夜灯と山谷掘公園(旧日光・奥州街道の番外記 3)

2013年06月17日 17時12分04秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(常夜灯)


(言問い団子)屋さんを出て、
隅田川の桜橋を渡ろうと、川の南側土手を歩くと、
左手に常夜灯が見える。

常夜灯についての説明板によると、
(かってこの付近には「竹屋の渡し」が設けられていた。
春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島花柳界へと、
遊興客を数多く運んできました。
まだ照明が発達していないこの時代には、
この常夜灯明かりが非常に重要な役割を果たしていました。
また、明治の画家たちは墨堤の桜と、
この常夜灯を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。
当時の向島の恰好のシンボルとして、
その姿を今に伝えています。)(墨田区教育委員会)とある。
(隅田川の竹屋の渡し、今はX字型の桜橋がある)
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(桜橋のオブジェと東京スカイツリー)

X字型をした桜橋を渡ろうと橋の中ほどまで来ると、
三角錐のオブジェがあり、振り返ると東京スカイツリーと一緒に
良い景観であったので写真におさめた。

常夜灯の説明の中に、「遊興客を数多く運んで・・・」の部分があるが、
何処へどのように舟で運んだのか理解できなかったが、
桜橋を渡って土手を降りると、
「今戸橋(いまどばし)」の橋脚が二つ、土中からにょきっと突き出している。
ここは江東区
道路を挟んで向こう側にも「いまどばし」の橋脚が二つある。
道路向こう側に行くと、橋脚のうしろに「山谷掘公園」の案内板がある。
(いまどばしの橋柱)


(道路向こうの今戸橋の橋柱)
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(山谷掘り公園の案内看板)
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説明によると、
(山谷掘がいつ頃掘られたかは、はっきりしないが、
江戸の遊里との関係から見て、おそらく江戸初期にできたものであろう。
都下水道局ポンプ場のところから、
隅田川へと注ぐ約七百メートルにおよぶ山谷掘りは、
北区音無し川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
当時、この堀は吉原への通路の一つであった。
山谷掘りを通るので吉原通いを、別名、山谷通いとも言った。
猪牙舟(ちょきぶね)などを仕立てて、
このコースを使う遊興はぜいたくとされ、
まさにおだいじん遊びだった。

橋の上流の方から、日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、
山谷掘橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と
九つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い全て取り除かれており、
橋台のみが昔の面影を残している。
現在は、水と緑の憩いの公園として整備されている。)とある。
(山谷掘り公園)
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つまり、「竹屋の渡し」の常夜灯は、
吉原通いのおだいじんの行き来に使われたということだ。
この山谷掘りは当然、吉原大門までつながっている。
説明にあるように、今は堀の上にコンクリートをかぶせ、
当時の土手と思われるところには、緑が植えられ七百メートルに渡って、
山谷掘り公園になっている。

吉原へきて土手は何処にあるのか、ずいぶん気にしてきたが、
小説などに出てくる、
(土手の柳の陰から、懐手をした浪人者が出てきて、
人が通りかかると、刀を抜いて追い剥ぎをしたり、
新しい刀を購入して、その切れ味を試したのは、
この辺りの土手のことを言う)のかと、
ある程度納得できた。
今、吉原大門にある「見返りの柳」も、
この山谷掘りのどこかに生えていたに違いない。

(山谷掘の、昔は土手であったと思われる土手)
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もともと山谷は、吉原が盛んであったのちは、
「ドヤ街」と異名をとった場所で安宿が多く点在したと聞いているが、
それも整理され、今は安いこと、加えて宿が日本的な畳と和トイレなど、
日本風なことが受けて、
外国人のバックパックの旅行者に大変歓迎されて居るという。

山谷掘公園の吉野橋は、旧日光街道と交差しており、
都立浅草高校前の信号がある。
この旧日光街道を「吉野通り」と今は呼んでいる。
言問橋西の信号から斜め左に入った道路が、
この浅草高校前の信号に出てくる。
(吉野通りを挟む吉野橋)
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(山谷掘り公園の看板)
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(道路向こうの山谷掘り公園まだ700m続く)
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(道路向こうの吉野橋柱)
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言問橋からずいぶん寄り道をしたが、
分からなかったことが分かるようになったのは、
大変な収穫であった。

知らなかったことさえ知らなかったことを知るのが勉強であるから、
今回は大変な勉強をしたことになる。
(吉野橋の上の浅草高校前の信号)
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吉原遊里の跡(吉原大門と見返り柳)(旧日光・奥州街道の番外記 2)

2013年06月09日 10時27分04秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(言問西交差、靴屋さんの左が日光街道)
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(浅草新吉原)
さて、(言問橋西)の信号は五差路になっているが、
直進と左折の間にある左斜めの道が日光道中である。
今は寄り道をして、信号を左折して、
江戸時代から遊離の里として有名な吉原を見物しようと思っている。

以前にも触れたが、台東、江東、墨田、江戸川区方面にはとんと疎く、
吉原や本所、向島だの、小説には記されていても、
それが一体何処なのか判らなかった。

樋口一葉の「たけくらべ」の吉原は何所にある?
みかえり柳や吉原大門はまだ残っているのか?
池波正太郎の「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が、
若い時代に「本所の銕(てつ)」と呼ばれたときの本所とは何所だ?
柳の木の向こうからぬっと出てくる辻斬りがいたという吉原の土手は何処?
漫画「あしたのジョー」に出てくる泪橋は何処に?
こんな事さえわからない。
興味津々で出かけてきたこの町は見るもの聞くもの目新しい。

(言問い通りの天麩羅や)
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(言問橋西)の信号を左に折れ、言問通りを進む。
信号をいくつか過ぎて、(西浅草三)の信号を右折、
次の信号(千束五差路)を斜め右へ入っていくと、
右手にお稲荷さんの赤い旗がひらめいていて、
石灯籠と石垣で囲った神社らしきものが見える。
これは吉原弁財天である。

(千束五差路)
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(吉原弁財天)
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(吉原弁財天2)
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何も知らずに入ってきたが、実は吉原遊郭があった当時は、
吉原大門からこの吉原弁財天まで、花魁道中が行われた場所であった。
つまり吉原の出口に来てしまったのである。

吉原弁財天には毎日掃除をしにくる有志の方が居られて、
聞くところによると、
この弁財天の通りが、吉原の目抜き通りであったそうである。

「もともと吉原は江戸時代(元和三年(1617)、幕府は日本橋葺屋(ふきや)町、
(現日本橋人形町二丁目付近)に、江戸では唯一の遊廓開設を許可した。
遊廓は翌年、営業を開始したが、葦(よし)の茂る所を埋め立てて造ったところから、
初めの頃は葭原(よしわら)と呼ばれた。
その後縁起の良い文字にかえて、吉原となった。
明暦二年になると町奉行から、
吉原を浅草日本堤へ移転するよう命じられ、
翌三年この地に移転して、浅草新吉原と呼ばれるようになった。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、
華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和33年
「売春禁止法」の成立によって廃止された。」(台東区教育委員会)

そして今ボクは、その浅草新吉原の弁財天のある吉原弁財天に来ている。
(弁財天のお地蔵様)
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この吉原弁財天については、「新吉原花園池(弁天池)跡」として、
台東区教育委員会の説明板が掲示してあったので、
内容を記しておきたい。
(江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、
明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋め立て、
日本橋の吉原遊廓が移された。
昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、
特に江戸時代には、さまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池町に弁天祠が祀られ、
遊廓楼主たちの信仰を集めたが、現在は浅草七福神の一社として、
毎年正月には多くの参拝者が訪れる。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、
大正二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、
490人が溺死したと言う悲劇が起こった。
弁財祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため、
大正15年に造られたもの。――後略)(台東区教育委員会)とある。
(観音像)


読んでくるとこの付近一帯は湿地帯で、
埋め立てて造成した場所であったので、
池が出来たのであろう。
その場所には弁財天が祀られ、石垣で囲ってあるが、
その石垣を奉納した人の名を見ると、
「〇〇楼」「×××楼」など、
当時の(今でも残っているかも)遊廓の楼主の名が刻んである。

(楼主の名がある石垣)
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(楼主の名がある石垣2)
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弁財天前を進むと道路はS字になる途中に信号がある。
信号を過ぎて吉原の中を進むと、左手に「吉原神社」があり、
これまた石垣に囲まれている。
手を合わせて過ぎると、(よし原安全安心な街)の杭が建っている。
周りは元遊廓の名残か、遊廓の雰囲気(*)を感じさせる建物が並んでおり、
建物の前には、黒装束のお吾兄さんがたむろして、
客引きなどをするのであろうか。
新宿の歌舞伎町に良く似た雰囲気である。

(*)遊廓の雰囲気とはどんな雰囲気か、
遊廓街に足を踏み入れたことが無い人には分かりにくいに違いない。
ボクは大学卒業まで、名古屋の中村に住んでいて、
家庭教師のアルバイトで、江戸を真似して創ったと言われる遊廓、
名楽園の中を通り抜けていたのでよく解かるが、
その雰囲気と同じで、建物がケバケバしく、
一見して風俗営業のお店と解かる。
写真を載せればお解り戴けるであろうが、
はばかられて載せることが出来ない。

(S字の道路)
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(吉原神社)
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(よし原安全安心な街の柱)


そのうち吉原交番が左手にあったので、
「吉原大門と見返り柳は何処にあるのでしょうか」と訊ねる。
「吉原大門はすぐそこに、見返り柳は、
道路を道なりに曲がった所のガソリンスタンドにあります。」という。
吉原大門は、お巡りさんが指差した先に見える。
ボクが予想した冠木門でなく、道の左右に一本の柱が建っていて、
その柱に(吉原大門)と書いてあるだけ。

(よし原大門の柱)
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(見返り柳)については、道路を進むと広い通りに出て、
なるほど右手にガソリンスタンドがあるが、
目当ての(見返り柳)が見えない。
通り過ぎてしまったのかと、後ろへ戻るがありそうな気配も無い。
そこへ脇道から屈強の若者が出てきたので、
「見返り柳は何処でしょうか?」と訊くと、
お巡りさんと同じ答が帰ってきた。
「ガソリンスタンドの脇ですよ。」と。
ガソリンスタンドを覗き込んでも見当たらないので、
不振そうな顔つきで若者を見ると、
「スタンドの蔭で見えませんから、先へ進んでから見てください。」と言う。
屈強そうなお兄さんにしては、ずいぶん親切に教えてくれた。
それでやっと見つけることができた(見返り柳)。

(やっと見つけた見返り柳)
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樋口一葉が(たけくらべ)で書いた(見返り柳)は大きな柳の木で、
吉原で楽しい楽しい時間を過ごして、
帰宅するに及んで、もう一度遊びに来たいと、
期待を込めて振り返る、
顧客の気持ち表した大きな柳の木のはずと、
ボクのイメージの中にある。

しかし期待は裏切られて、数代目とは言うものの、
とても貧弱な柳の木ではあった。
もともと山谷掘りの土手にあったものを、
「吉原大門」のあった場所に移したものという。

(見返り柳の碑)
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江戸川柳に、
・ きぬぎぬの うしろ髪引く 柳かな
           見返れば意見か やなぎ顔を打ち

とあり、遊んでいないでしっかり仕事をしなさいと、
風に揺れる柳の枝が、
ぴしりと頬を打つ状景を良く詠っている。

しかし今は、時期が早くて、柳の芽はまだ出ていなくて、
頬を打つ状況には無かった。(2013.3.17.)




言問橋と長命寺の桜餅(旧日光・奥州道中を歩く 11)

2013年06月03日 12時00分32秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(言問橋先の東京スカイツリー)

(言問橋)
(言問橋西)の信号を右折すると、言問橋に出る。
言問橋も先は押上駅に行くが、そこには全国的に超有名な建造物、
「東京スカイマークツリー」がある。

言問橋名前の由来は、いろいろ説はあるが、
(伊勢物語の在原業平が詠んだ歌、
・ 名にしおはば いざ言問(ことと)わむ 都鳥 
          我が思ふ人は ありやなしやと 
                  在原業平
の古歌に由来していると言うのが、もっとも納得のいく説)
(墨田区観光協会両国案内所)と言う。

(名にしおはば・・・の歌が入っている言問団子の看板)


ボクの記憶では、
浪曲師の三門博氏の十八番「唄入り観音経」の出だし、
♪遠くチラチラ灯りが見える あれは言問、
こちらを見れば 誰を待乳(まっち)のもやい舟。
月に一声雁が鳴く 秋の夜更けの吾妻橋・・・・♪
は、テレビが無い時代に、ラジオにかじりついていた親父さん達の、
大層人気があった一節である。

子供の頃、両親が真剣にラジオに聞き入っていた姿は忘れることが出来ない。
優に半世紀を越す今も、瞼に焼き付いて離れない。

もう一つ忘れられないのが「言問い団子」で、
これはうわさに聞いていた団子屋さん。
団子屋さんが有るか無いかも、実は知らない。
この言問橋に行ったら、団子屋さんが在るか無いかを確かめて、
在れば是が非でも自分では食べて、
カミサンのお土産に一折買って帰ろうと、決めていた。
桜橋の先左側にある団子屋で売っているらしい。
美味しい団子ではあるが沢山は食べられないと言う。

言問い団子と書くと、「い」の字が余分のように思えるが、
「い」が無いと、団子を売っているお店の名前―固有名詞―になってしまう。
このお店のほかに桜餅で有名なお店にも是非寄ってみたいと思っていた。
(言問団子)
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言問橋を渡ると右手に牛島神社の屋根が見える。
この神社は、小説家 堀辰雄が、
「メランコリック(*)な眼差しをした牛」と、
表現した「撫で牛」がいることで知られている。

(*)外国語を使うのが好きでないボクには、
「メランコリック」と言う言葉が、どうも解かり難い。
実際に「撫で牛」を見ると解かるが、
非常に物憂い眼差しをした牛である。

神社脇は、水戸徳川家下屋敷の庭園になっており、
美しく手入れされた池のある庭園を、
ご近所のお年寄りが散歩を楽しんでいた。
(牛嶋神社)
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(撫で牛)
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(水戸徳川藩の下屋敷庭園)
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目指す言問い団子は、言問橋を渡って信号を左折、
(見番通り)を行くと電柱に「言問だんご この先」の案内看板が目に付く。
この看板に沿って進めば良いに違いない。
この通りには料亭が多く看板が沢山見られる。

(見番通りの案内)

(言問だんごの案内看板)

(料亭の看板)

少し進むと左手に「すみだ郷土文化資料館」があり、
今、(描かれた戦争孤児―孤児たちの心と表現)と題する、
テレビでも紹介された企画展が催されている。

(すみだ文化郷土資料館にある佐多稲子の旧居跡)
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(展示された戦災孤児の絵)
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(展示された戦災孤児の絵2)
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(見番通り)はまだ続く。
先へ進むと左手に、「三囲(みめぐり)神社」がある。
(「三囲(みめぐり)」の由来は、土中から発見された老翁像の周りを、
白狐が三度回って消えたと言う縁起に由来する。)(墨田観光協会)
この神社は句碑や歌碑が残っているが、
どちらかと言うと、三井家の繁栄祈願の神社と言う感じがする。

(三囲(みめぐり)神社横にある古い鳥居)
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(三囲神社正面の鳥居)
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さらに、左手に弘福寺があり、(勝海舟が参禅をし、
森鴎外がこの寺にお墓をと願ったという黄檗宗の寺院である。)
(墨田観光協会)

(弘福寺本堂)
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さらに、江戸時代から続くさくら餅屋―長命寺の桜餅の山本や―の長命寺は、
今や、長命寺幼稚園かお寺かどちらが本業と思われるお寺になっているが、
(三大将軍家光が鷹狩の途中、急な腹痛に見舞われ、
ここの井戸の水で薬を服用した所、
治まったことが長命寺の寺名の由来となった。)(墨田観光協会)

(長命寺)
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(長命水の井戸)
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この長命寺の門前を過ぎると、
「言問だんご、この先」の案内が消えて、T字路に突き当たり、
(見番通り)もここで終わる。
そう言えば、(見番通り)を来る途中、
「向島墨堤組合 見番(けんばん)」の立派な建物があった。
この辺りにある料亭に芸者衆を送り込む手配を、
今でもここでしているに違いない。

(墨田墨堤組合 見番)
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「言問い団子」の場所がわからないので、通りがかりの人にお訊ねすると、
(T字路を左折し、坂を登った突き当たりにあります。)の返事。
T字路を教えられたとおり左折すると、なるほど上り坂になって、
すぐ又T字路になり信号がある。
信号の向こうに、少年野球場と看板があるが、
うしろは木の葉に覆われて「言問団子」屋らしき建物は見えない。
左手に野球場の更衣室かと思われる建物が見えるので進むと、
どうやらこれが「言問団子」屋らしい。
建物はシャッターが下ろされているが、
ショウウインドウらしきものが見える。
近づくと、言問い団子のショーウインドウである。
本日休業の紙がぶら下がっている。

(休業の言問団子屋)
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仕方なく今日は長命寺の桜餅でも食べて帰ろうと、
来た道を戻り今度は、隅田川土手沿いの道を行く。
長命寺の裏手ではあるが、土手沿いのこのお店は営業していて、
お客様も沢山入っている。
お店に入って桜餅を一つ注文、同時にカミサンへのお土産も求める。
桜餅は、三枚の桜の葉で、あんこの入った餅を包んであるが、
普通、桜餅は包んだ葉ごと全部食べるが、
出てきた桜餅の桜の葉は、かなり大きくてどうやって食べようか、
思案しながら、出てきた桜餅をカメラにおさめていると、
隣の席の人が桜の葉ごとパクリと食べたのを見て、
一番上の桜を剥いで、桜餅を葉ごと喰らい付いた。
塩味のついた桜餅と餡子の甘い味が程よくかみ合わさって、
美味しく頂戴して帰路に着いた。
(長命寺桜餅の山本や)
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(出てきた桜餅とお茶)
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(桜の葉は一枚剥いで食べた)
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桜餅の山本やには、その昔二階に、
歌人の正岡子規が大学予備門の頃、三ヶ月ほど下宿をしていた。
向島周辺の墨堤や自然を好んだらしく、

・向じま 花咲くころに 来る人の
       ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき
         桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの
         隅田の桜 今かちるらん

と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。

話は戻って、
家に帰って得意げにカミサンにお土産とばかり、
桜餅の包みを開いてだす。
包みを開くと、
(この桜餅の桜の葉は、乾燥を防ぐためのもので、
桜の葉を剥いでお召し上がりください)、
と注意書きがあった。

しかし、お店では桜の葉ごと食べたので、
カミサンには、桜で包んである餅を、
三枚の葉ごと食べて見せた。
勿論注意書きは、カミサンの見える場所においておいたが・・・。(2013.4.17.)

(長命寺の桜餅の山本やの菓子箱)
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