中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

芭蕉庵(芭蕉の道を歩く 3)

2009年01月29日 08時24分56秒 | 芭蕉の道を歩く
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(清澄庭園)
(深川 2 旅立ち)
都営大江戸線で「清澄白河」で下車し、まず清澄庭園を訪ねる。
日曜祭日であれば、園内のガイドさんが案内してくれるそうであるが、
あいにく土曜日であった。

案内パンフレットを見ながら一周する。
(東京都指定の名勝は、豪商 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられる。
その後、享保年間に下総の国、関宿の城主 久世大和守の下屋敷となり、
庭園のもとが形造られた。
明治11年には、岩崎弥太郎がこの邸地を社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、
明治13年に深川親睦園を開園した。
その後、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、
枯山水を中心に周囲に全国から取り寄せた名石を配して
明治を代表する「回遊式林泉庭園」として完成した。)とある。

庭園は泉水を中心に、名石が周囲に配置されているが、ボクにはその良さがわからない。
池の中に鶴亀が配置されているところを見ると、この池は蓬莱池であることがわかる。
松島に見立てた島に雪見灯篭を配し、
対岸には涼亭があり、富士山に見立てたつつじの山があり、
その奥に広場がある。

ここまで長々と書いてきたのには訳がある。この広場の片隅に芭蕉の石碑があり、

・古池や かわづ飛び込む 水の音  はせを

の有名な句が刻まれているのだ。
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(古池やの句碑)

「もとは隅田川の岸辺にあったものを護岸工事のため移されたものである。」
脇の看板の注釈にある。
隅田川の岸辺とは、芭蕉が俳諧師として最初に住んだ草庵を指しているようである。
清澄庭園から行けば、それは万年橋を渡ったすぐ左側の、
昔は生簀の番小屋程度の庵の事を指しているとおもわれるが、
今は展望庭園になっている。
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(万年橋)
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(芭蕉像の後ろに樹木の芭蕉が植えられている)

番小屋程度の庵に門人から芭蕉(植物の)を贈られ、
これが繁茂したことから芭蕉庵という名にしている。

天和二年駒込の大火でその芭蕉庵も類焼し、
翌三年旧芭蕉庵の近くに建てた芭蕉庵に移り住んだ。
これが今は芭蕉稲荷神社がある場所だ。
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(芭蕉稲荷神社)
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(稲荷神社本殿脇にある芭蕉庵跡の碑)

この展望庭園を隅田川沿いに進んで階段を下ると、
芭蕉稲荷神社の赤い幟旗がはためいているのが見える。
ここが大火類焼後の芭蕉庵で、
このころから芭蕉は漂白の旅を始め、「野ざらし紀行」「笈の小文」をあらわしている。

元禄二年「住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ=別荘のこと)に移るに・・・」と
奥の細道にあるように、杉山杉風の別荘 採荼庵(さいとあん)に移り、

・草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家

の句を庵の柱にかけて、3月27日奥の細道の旅に出た。

ボクも真似て一句。

・「古池や」 翁の句碑に 春の風  



芭蕉ゆかりの要津寺(芭蕉の道を歩く 2)

2009年01月25日 09時07分40秒 | 芭蕉の道を歩く
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(要津寺の門)

(深川)
都営大江戸線「森下駅」で下車し。A-2出口へ出ると目の前に新大橋通りがある。
左横を見ると新大橋通りをまたぐ横断歩道があるのが見える。
A-2の出口とこの横断歩道の間にある道を左折し、
最初に出会う信号から左を見るとブロック塀に囲まれた要津寺(ようしんじ)が見える。

道路に面した門の奥にもう一つの門があり、
右側の門の奥に石碑が数個建っているのが見える。
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(奥に見えるもう一つの門)

雪中庵関係石碑群としての説明によれば、
「雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。
三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。
これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、
天明年間(1781-1789)の俳諧中興期には拠点となりました。
当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や
「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、
宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、
安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、
天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。」
(墨田区教育委員会)とある。
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(嵐雪庵関係石碑群)
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(嵐雪と二世吏登の供養塔)
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(雪上加霜の蓼太の墓碑)
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(芭蕉翁俤塚)
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(「古池や」のはせをの句碑)
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(豪華な屋根瓦)

門の右側には、要津寺の豪壮な屋根瓦が飾ってあるが、
以前建物に載っていた屋根瓦の一部で、建物がどのようにして無くなったかは解らないが、
相当立派な寺院であったことが窺われる瓦であった。
要津寺を出て、来た道を新大橋通りに戻り右折すると新大橋に出る。
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(新大橋)

大橋と呼んだ両国橋が先にあったため、下流に新たに出来た橋を新大橋と呼んだようだ。
新大橋に出る手前に「新大橋」という信号があるので左折すると、
これが「万年橋通り」となっている。訪ねた季節が晩秋であったので、
その通りの銀杏並木が綺麗であった。万年橋通りを進むと、右側に「芭蕉記念館」があり、
その門前に芭蕉記念館の由来が書いてある案内があるので紹介しておく。
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(新大橋の信号)
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(万年橋通りと芭蕉記念館の案内看板)
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(万年橋通りの銀杏並木)

「新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、
この記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、
芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。――中略――
庭園には、池や滝、芭蕉の句に読まれた草木が植えられ、
築山にほこらと「古池や・・・」の句碑もあります。」とある。
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(万年橋は工事中であった)

芭蕉記念館前をさらに進むと小名木川に掛かる「万年橋」がある。
万年橋を渡らずに右側にある隅田川ウオーターテラスの階段を下りると、
右側の上のほうに隅田川を見下ろす芭蕉像が見える。
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(右上に見える芭蕉像)




歩いてみたい芭蕉の道(芭蕉の道を歩く 1)

2009年01月16日 08時53分38秒 | 芭蕉の道を歩く

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(洗馬宿の芭蕉句碑)

(旅立つ前に)
芭蕉の句に興味を持ち始めたのはつい最近のことである。
旧中山道を歩きはじめて28日経過し、振り返ってみると、
随分沢山の芭蕉句碑に出会ったことが興味の持ちはじめであろう。

高校生のころ、「奥の細道」の一部を授業で取り上げられ、
覚えた俳句は沢山ある。
しかし、その俳句は自然の情景を見事に掴み、
17文字に人生を表わした芭蕉の才能に感嘆したのが
心の底に残っていたのかも知れない。

最近、図書館で「芭蕉の恋句」なる小冊子を読み、
芭蕉にも恋の句があるのかと知ったのもついこの間のこと。

以前述べた記事(2009.Jan.9.中山道番外記23)と、
話が重なって申し訳ありませんが、お許しいただきたい。

2008年の秋、旧中山道を歩いて長野の洗馬宿で見つけた芭蕉句碑には、

信濃の洗馬にて

①入梅はれの わたくし雨や 雲ちぎれ
   俳諧一葉集より     芭蕉

とある。
「入梅」は(つゆ)と読むのであろうが、どうも句の意味が解りにくい。
芭蕉の句はボクが知っている限り、
その意味が極めてわかりやすいと思っていたのであるが・・・
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(平沢にある「をくりつ」の芭蕉句碑)

もうひとつ、やはり信濃の平沢(塩尻市役所の)支所の芭蕉句碑に

②送られつ をくりつ果ては 木曽の秋   はせを 

がある。
これにはもうひとつの句

③送られつ 別れつ果ては 木曽の秋 

があることを知った。
いったいどれが正しいのであろうか?疑問に思った。

芭蕉については、沢山の方が研究をされており、関連する本も沢山出ている。
奥の細道を歩くのなら「奥の細道の旅ガイドブック」、「芭蕉はどんな旅をしたのか」、
「旅人・曾良と芭蕉」、「新芭蕉講座1~」、「西行・芭蕉の詩学」、
芭蕉の俳句のすべてを知りたければ「芭蕉俳句集」、などなど。
前述した「芭蕉の恋句」もある。

①入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ

について、
普通、芭蕉の俳句はとても明解で理解し易いのに、
解りにくいのは草書の字そのものの読み方が違うのかもしれないと、以前書いた。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/10/post_2cee.html
「あふたの清水」(旧中山道を歩く 155)参照)

芭蕉俳句集によると、芭蕉の句として伝来しながらも、
芭蕉の句としては疑わしいとして、「存疑の部」に収録されている。
なるほど、芭蕉の句としては、意味が解りにくいと思ったが、これで納得できた。
この句は芭蕉の句ではないかもしれないのだ。

②送られつ をくりつ果ては 木曽の秋

について、
芭蕉俳句集の(注釈)に寄れば、
(笈日記岐阜の部に「その年(貞享五年)の秋ならん、
この国より旅立て更科のつきみんとて、留別四句」として初めにあげる。)とある。

③送られつ 別れつ果ては 木曽の秋

については、同じ一文の中で同じ言葉を並べないのが原則、から考えれば
「送りつ」より「別れつ」のほうが句としてよいように思うと述べた。
(URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/12/post_7abf.html
古中山道の諏訪神社(旧中山道をあるく 161)参照

芭蕉俳句集によれば、
②「送りつ」を③「別れつ」に芭蕉が推敲したものと判明した。
やはり芭蕉も「別れつ」のほうが良いと思ったのであろう。

さて、松尾芭蕉は「奥の細道」へ出立したのは3月27日。
深川の芭蕉庵を人に譲り、杉風の別墅 採荼庵から旅立ったことは良く知られている。
そこで深川を訪ねた。芭蕉庵と採荼庵の場所を見てみたいからだ。

・行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 

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(仙台堀脇にある採荼庵)


中山道の芭蕉句碑(旧中山道番外記 17)

2009年01月09日 08時37分51秒 | 中山道番外記

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(清洲橋を背景にした芭蕉像)

(芭蕉の句碑)
旧中山道を歩いていると、芭蕉の句碑が目につく。
最初が、上州の新町にある八坂神社であった。

・傘(からかさ)に 押しわけ見たる 柳かな  芭蕉

であった。
{http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/10/ustrongstrongu_e971.html (旧中山道を歩く 67)参照}
八坂神社には大きな柳の木があって、垂れ下がる柳の枝を傘で
押し分けて見たと言うのである。
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(新町の芭蕉句碑)

軽井沢の芭蕉句碑には、

・馬さへ ながむる 雪のあした哉   (芭蕉)

(芭蕉「野ざらし紀行」中の一句。
雪ふりしきる朝方 往来を眺めていると、
多くの旅人がさまざま風態をして通っていく。
人ばかりでない駄馬などまで普段と違って面白い格好で通っていくよ。
碑は天保14年(1843)当地の俳人によって建てられた。)
(軽井沢町)とある。

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(軽井沢の芭蕉句碑)

追分宿の芭蕉句碑には

・吹き飛ばす 石も浅間の 野分けかな
とある。

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(追分宿の芭蕉句碑)

説明によれば、
大自然石に雄渾な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、
芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1793)佐久の春秋庵の俳人たちが
建立したとものといわれている。(軽井沢町教育委員会)

また、八幡宿には
・涼しさや すくに野松の 枝のなり
があった。
{http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/11/post_7489.html(旧中山道を歩く 123)参照}
普通庭にある松は枝振りなどが、美しく曲げられているが、
(この松は真っ直ぐに伸びた枝が自然でとても良い、
それが涼しげである)という意味であろう。

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(八幡宿の芭蕉句碑、チャレンジして変体仮名を読んでみてください)

次に洗馬宿のはずれににあった石碑で

・入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ 芭蕉

とあった。
{http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/10/post_2cee.html(旧中山道を歩く 155)参照}
この意味がわかりにくい。

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(洗馬宿の芭蕉句碑)

さらに中山道の平沢なるところにある芭蕉句碑には、

・送られつをくりつ 果ては木曽の秋
と読める。

しかし、芭蕉句集には、

・送られつ別れつ 果ては木曽の秋
がある。

どちらかと言うと、(別れつ)の方が意味が解りやすいし、
一つの文章に同じ言葉を二つ入れない方が
ベターという事から考えても、
(別れつ)の句の方が良さそうである。
{http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/12/post_7abf.html(旧中山道を歩く 161)参照}
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(平沢支所広場の芭蕉句碑)

このように、芭蕉は旧中山道上に沢山の句碑を残している。
今歩いている木曽路では、この先、もっと多く芭蕉句碑に出会いそうである。
(調べた範囲では、長野県だけで256個の句碑が存在する。)

芭蕉の句は、ボクが知っている範囲(高校生時代に知った)では、
紀行文の中にある自然を詠んだ句が多く、
とても理解しやすい俳句が多いと思っていた。

たとえば、
・あらとうと 青葉若葉の 日の光
・荒海や 佐渡によこたふ 天の河
・いざ行かむ 雪見に ころぶ所まで

などである。

また同時に、自然が織り成す余韻が心にしみ込むような俳句で、
これまたとても解りやすい。

たとえば、
・古池や 蛙とびこむ 水の音
・しずかさや 岩にしみいる 蝉の声
などである。

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(清澄庭園にある「古池や」の句碑)

緑色の藻が浮かぶような古い池の傍を通りかかると、
岸にいた蛙が逃げるようにして、「トポン」と池にとびこんだ。
とても解りやすい。
また「蝉の声」は山形の立石寺で詠んだといわれるが、
高いところにある山寺の閑(しず)けさが伝わってくる。

記憶に残っており、すぐ出てくるだけでもこれだけある。
例を引けばもっとあるに違いない。

しかし前述、洗馬宿の
・入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ

の句は、「わたくし雨や」がどうも意味がわからない。
2008年10月に、この石碑を見てから、考え続けてきた。

仕方なく、芭蕉の句の解説書に手を出して読んでみたが、
残念ながらこの句の解説を、見つけることが出来ず今日に至っている。

とうとう、芭蕉の恋句(岩波新書)、
芭蕉俳句集(岩波文庫)を手にして、勉強に励んでいる。

どなたか正解を教えていただければありがたいのですが・・・
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(後ろに見える芭蕉の木)




板橋宿の縁切り榎(旧中山道番外記 16)

2009年01月08日 08時58分00秒 | 中山道番外記

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(縁きり榎)
中山道を歩き、各宿場で史跡ガイドを受けると、
「どちらからお出でですか?」と聞かれる。
その人の住まいに関係のある事柄が、
これから始めようとしているガイドの中にあるかを考えるからであろうか?
あるいは興味を何処に持っているのかを打診しているのかもしれない。

「東京の板橋から」といつも答える。
日本橋をスタートして板橋が中山道の第一の宿場であることを
ガイドをする人は知っている。
続けて「日本橋から三つ目の一里塚」の近くに住んでいます」と言うと、
「志村の一里塚ですね」と返事が必ず帰ってくる。
国の指定史跡になっているからである。

一通りガイドが終わって聞かれることは
「板橋の地名の由来となった板の橋はまだありますか?
それと縁切り榎はあるのですか?」
この二つは必ず質問される。

「板の橋はもうありませんが、
板に似せたコンクリート製の橋が残っています。
そのすこし京都よりに三代目ですが(縁きり榎)もありますよ」
とお話しする。

その縁切り榎については次の通りに書いた。
(旧中山道を歩く 24http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/03/post_9.html参照)

《皇女和宮の折は、榎のまわりを覆い、
見えないようにして通行した、といわれる。
しかし、和宮以前にも降嫁した皇女-五十宮(いそのみや)、
樂宮(ささのみや)は、「縁切り榎」を避けて通行したので、
中山道の迂回路があることを考え合わせると、
皇女和宮も迂回したのではないかと、意見は二つに分かれる。》と。

そして皇女和宮のときも約1キロの迂回路整備のために
お金が下げ渡されている史実から、
和宮もその迂回路を通過したというのが
正しいということに現在はなっている。
しかも「榎を菰で覆ってかつ迂回路を通った」ということになっている。

つい最近になり、縁切り榎について、皇女和宮は浦和から川口を抜け、
御成り道を経由して板橋に入ったとの記述のある新聞記事があるのを見つけた。
過ぎ去ったことで、どこをどう通ろうとどうでも良いことであるが、
紹介しておく。(つまり本当のことは何も解らないと言うことか。)

朝野新聞の明治26年7月12日付に次のような記述があることを発見した。
原文は少し長いが要約して記載する。
(なお、朝野新聞は廃刊になっているが、当時は有識者に購読された
近代ジャーナリズムの草分け的存在であった新聞とのもっぱらの評がある。)

『五十宮(いそのみや)降嫁のおり巣鴨原町一丁目角左衛門店(だな)
源右衛門ほか一人から差し出した注進書にかかれていた文面は以下の通りである。

《この度、五十宮様入府遊ばされるお道筋は中山道下板橋通りと聞き及んでおります。
この道筋についてご注進申し上げます。

この宿はずれの下板橋の岩の坂にある近藤登殿下屋敷の垣根際に
榎槻(えんつき。槻=けやきのこと)一所に生えて数年が経ち、
とくに大きな木があります。
いつの頃からか解りませんが、誰言うと無く(榎槻岩の坂)を
(えんつきいやの坂)と言うようになり、
ここを縁談のある女性や婿入りが決まっている男性が通れば、
必ず縁が短いと言われております。
近所の人たちは言うまでも無く、
縁組のあるものは一切通りません。
木の前に注連縄(しめなわ)などを張り、
この近辺の者たちはこの内容を良く知っておりますが、
何分下々の俗世間で申すことですので、
このことを申し出ること恐れ多いことですが、
ひとえに宮様の幾久しいご繁栄を願ってことで、
恐れ多いことでございますが以上ご注進申し上げます。》

以上の通り注進したため源右衛門外一人は
(五十宮様ご到着のお道筋のことを注進したことは奇特なことである)
ということで銀一枚ずつ賜った。そして同宮様の道筋は、
浦和宿の後、川口より日光御成り道に変更された。
その後楽宮(ささのみや)、和宮様ご降嫁のときもこの例に倣って日光道より江戸に入った。』
(朝野新聞明治二十六年七月十二日)とある。

(和宮ご降嫁からたかだか34年後の新聞記事であることから、
事実に相違ないと思われるが、事実は闇の中である。
しかし、昔の新聞はそれ以前は「かわら版」であったことから、
興味本位に書かれた物語風であり、一概に信じられないという見方もある。

現代風に考えれば、美智子様が馬車で通られた道筋を、
いかに面白おかしく物語風に書いたからといって、
いやしくも新聞が間違って記載することは考えにくい。
この新聞通りであるとすれば、
和宮様の通過は、縁切り榎の前はおろか縁切り榎を避けるために整備された
約1キロの迂回路も通らず、
川口から日光御成り道を通って板橋宿に入られたかも知れない。
しかし、一方で皇女和宮は徳川家に嫁いで、
家茂との結婚生活の期間が短かく、縁が薄かった事を考え合わせると、
あるいは縁切り榎の下を通ったのかもしれない。)
とボクは勝手に想像を逞しくしております。

いずれにせよ、和宮様が旅の最後に宿泊した板橋宿の脇本陣跡の近くに、
日光御成り道に通じる御成り道があるようですので、
和宮様のお輿はこの道を通り抜けて来たという足跡が何処かにないかと、
いつか機会を見て歩いてみようと考えております。

なお、余計なことであるが、
和宮様下向の際に沿道に出された禁止事項
(板橋区教育委員会資料による)は以下の通りで、
13.にあるように、目障りなものにはよしずやむしろで覆えとあるから、
縁切り榎にも覆いをかぶせた事は間違い無さそうである。


1.公私領の別無く、通行の前後3日は旅人の通行を禁止する。
2.往来の草深い箇所は刈り込み、2日まえんから掃除をして置く事。
3.海道の立ち木の枝は日傘に触らないように刈り込むこと。
4.通行時、家屋の前には盛り砂をして、水を入れた桶を置くこと。
5.宿場の2階屋は、雨戸を閉じ、看板や暖簾は外しておくこと。
6.通行時は、店の土間にむしろを敷き、平伏すること。
7.商い物は片付けるかよしずをかぶせること。
8.足袋わらじなどを軒先で売らないこと。
9.農家の軒先に竹木を立てかけておかないこと。
10.通行時近くの寺の鐘は鳴らさないこと。
11.通行の二日前から鳴り物を鳴らさないこと
12.通行時は煙を立てないこと。
13.目障りなものは、よしずやむしろで覆うこと。
14。男は裏手に居ること。

この禁止事項の一環かどうか解らないが、
塩尻の中山道沿いの農家では、家の縁先に柵を作らされ、
それより前面に出ることを禁止されたと言う。
住居のおばあちゃんがその柵に付いて、
子供に言い伝えたその柵が現在も残っている
と言うのは面白い。

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(信濃の中山道沿いにある旧家。右奥に見える柵)
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(柵の向こうは式台で昔は玄関だったという。
お駕籠が乗り付けられるほどの広さがある。)




善九郎の遺書(旧中山道番外記 15)

2009年01月04日 09時40分04秒 | 中山道番外記
あけまして おめでとうございます。
本年もどうぞよろしく、お願い申し上げます。
                   (2009年1月)

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(遺書の書き出し)

(農民の遺書:高山陣屋資料室より)
直訴に及び処刑され、
江戸から飛騨高山に送られた生首の農民たちについて、
ボクは文盲と思い込んでいたが、
実は文字書き計算も達者であったとガイドさんから聞いて驚いた。

天下を統一した関白秀吉は、水呑百姓の小倅で、
読み書きはほとんど出来なかったことをボクは知っている。
もっとも、当時武家は文盲が多く、武将と言えども字が読めず、
したがって、作戦指示は伝令で行われていたと聞いている。
現に秀吉が書いたものが出光美術館(日比谷の)にあり、見たことがあるが、
今の子供たちなら、
幼稚園に入る前に誰に教わることなく覚えた文字に良く似ていた。
関白になってから文字を覚えたものであろうか?

また母方の祖母(農業の)から、
ボクの母宛届いた手紙を読んだことがあるが、
実にたどたどしく上記の秀吉が
妻の「ねね」に当てた手紙と変わらなかった記憶である。

こんな記憶から推測すると、農民は文盲と勝手に決め付けていたが、
処刑される前に妻に送った手紙を見ると、数えで18歳の亭主が、
同じ数えで16歳の妻に送った遺言状で、
切々と訴える内容に胸打たれる。
しかも綺麗な文字にびっくりした。

ガイドさんによれば、
「農民は年貢を払い、収穫高を計算するから、
一家の主(あるじ)は現代で言うならば、
社長にも当たるから文字書き、計算が出来なくては、
生活が成り立たない」と言うのだ。

また、数えで16歳の妻ということも、
現代では考えにくい若さであるが、人生わずか50年の時代では、
すこしも可笑しくない年齢であったに違いないが、
妻宛に手紙を書いたと言うことは、妻も文字が読め理解できたと言える。

この遺書についても、写真を撮りたいと願い出ると、
沢山の観光客から同じように要請されると見えて、
高山市教育委員会の方で、遺書のコピーが用意してあった。

直訴して処刑前の夫からの遺書をここに記載して置きたい。
安永三年(1774)獄中から妻 かよに送った
本郷村 善九郎の遺書(岐阜県高山市上宝町本郷)

「尚なお申上げ候 私のともだちの衆中(しゅうちゅう)様へも
右の趣(おもむき)伝え下さるべく候
一つ書きおき申し候こと承り候へば
風便(ふうびん)あしく之れ有候へば 私にも
相(あい)はて申し候様に相聞(あいきき) 候間(そうろうあいだ)
拙者義(せっしゃぎ)もかくご致し申候 
其(そ)の方にも あきらめ成(な)さる可(べく)
此の世にては あひ申さず候 然れども
一度あひ申候へば 残心(ざんしん)も
御座なく候 此の上御両親様 
0001
(ご両親様の「親」から始まる部分)

随分 ずいぶん ずいぶん
大切に頼み上げ奉り候 さて
その方にも をふりどのと
仲よく相くらし なさるべく候
扨(さ)て又随分 ずいぶん
松乃丞様大事に成され下(くだ)さるべく候
此の間も鉈見(なたみ)村 
与十郎殿より柿一わ
石神長重郎殿よりは一わ下され候
御礼申さる可く候此上にも
随分 ずいぶんの
0002
(二行目の「仕合能(よ)くて」から始まる部分)

仕合能(しあわせよ)くて ゑんとを(遠島)
つい方(追放)にも相成り候へば
罷帰(まかりかえり)御目に懸かり申す可候
然しながら 罷り帰る事は志ようふ志ようにて御座候へば
いとまごい一筆入れ
其の上いとまごいのため申し入れ度 
如此(かくのごとく)に御座候  以上
十二月一日
おかよどの         善九郎  」

なお、本郷村 善九郎 辞世の歌と句は下記の通り。

(寒紅(かんこう)は 無常の風に 誘われて 
                  答(つぼ)みし花の 今ぞ散り行く)

(常盤木(ときわぎ)と 思うて居たに 落ち葉かな)

十八歳の夫が辞世を詠み、
句を残す教養に、わが身を振り返り、恐縮する。