中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

天然記念物「ハリヨ」、「梅花藻」と「お葉付き銀杏」(旧中山道を歩く 290)

2011年12月31日 09時56分14秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(地蔵川、水のきれいさを、腕が悪くて写せない)


(透明な水中に生える梅花藻)


(醒ヶ井宿 2)
「腰掛石」と「鞍掛石」を見て、
その先の左手、川の向こう側に地蔵堂があり、
地蔵川で有名なハリヨ(棘のある魚)を見ることが出来た。
この魚は、滋賀県と岐阜県の湧き水がある20℃以下の清水に生息する魚で、
宿場の道路の左はとても清らかな冷たい水が流れ、
ハリヨも梅花藻もこの冷水の中に繁殖する。
季節でもないのに梅花藻が小さな花を付けている。
ハリヨも梅花藻と共に天然記念物として保護されている。


(ハリヨとそれを見る観光客)


(透明な水に梅花藻の白い花)

その流れのさらに左の狭い所に民家が建っている。
そんな所に本陣跡があり、今は料亭になっているようで
ある。
道路の右側には宿場らしい古い家が繋がっている。
やがて脇本陣跡の門があり、
「明治天皇御駐輦所(ごちゅうれんじょ)」の石碑が建っている。
(*)筆者注:駐輦所とは天子が乗る乗り物を駐めた場所と言う意味。


(本陣跡)


(宿場の様子3)


(明治天皇御駐輦所)

左手の川向こうに問屋場跡があり、中を展示してある。
問屋場を見学することは何回か機会に恵まれたが、
その殆んどが事務を執るところか、客をもてなす所であった。
荷物を裁く場所を見るのは今回が初めてで、大変興味があった。


(問屋場跡)


(問屋場跡2)


(問屋場跡3 荷捌き所)


(問屋場跡4 荷捌き所2)


(問屋場跡5)

さらに右側には「了徳寺」があり、
ここには天然記念物の「お葉付き銀杏(いちょう)」がある。
銀杏(ぎんなん)は普通、枝にぶどうの房のように実がなる。
しかしここの銀杏(いちょう)の実(ぎんなん)は、
葉っぱに実がなるので有名で国の天然記念物に指定されている。
醒ヶ井だけでなく「お葉つき銀杏」は他にもあるそうであるが、
せっかく通りかかったので、この珍しい現象を見てみたいと思った。
しかも時期は秋で、丁度あの臭い香りの銀杏(ぎんなん)が、
栗や椎の実と同じように、木から落ちてくる時期でもある。
早速、山門から入って鐘楼のある左の方へ行く。
大きな木が伸びていて、
鐘楼の周りには、銀杏(ぎんなん)の実が沢山落ちていた。
誰も拾う人もいないのであろう。


(了徳寺)

0055
(了徳寺銀杏の木)
0057
(葉っぱに付いたギンナン1)

話が変わるが、
ボクは銀杏(ぎんなん)の実を食べるのが好きで、
殻を割って火にかけ焼いて、塩で食べるのが大好きで、
酒のつまみにもってこいである。
家が醒ヶ井宿の近くにあれば、銀杏を拾って帰るところである。

この「お葉付銀杏」について、
(周囲2.5m、高さ12m、樹齢150年。
毎年8月から11月上旬頃の間、
数多くの銀杏(ぎんなん)を実らせますが、
その一部は葉面上についています。
銀杏の発育が不完全なものが多く、小さくて超楕円や、
細長く普通の銀杏と著しく形が異なっています。
葉面上に生じる銀杏の数は、
多いもので5~8個ですが、
おおむね1~2個で葉脈が次第に太くなり、
先端の所が主に形作られえて行きます。
化石から出土された「いちょう」に良く似ていて、
銀杏が葉面上に生じるのは、
花が枝や葉の一部だと言う学説を裏付けるものです。
「いちょう」は、中国、日本の特産で、わが国においては、
神社仏閣の境内に数多く植えられていますが、
この「おはつきいちょう」のような葉面上に銀杏を生じるものは少なく、
貴重なものとされています。
昭和4年国の天然記念物に指定されました。)
(米原市・米原観光協会・浄土宗本願寺派石籠山了徳寺)とある。

イチョウの木が神社仏閣の境内に数多く植えられているのは、
イチョウの木は水分が多く含まれ、
延焼を免れるためであることが判っている。

お葉付きイチョウも、テレビでは見たことがあるが、
実物を見るのはこれがはじめて。
テレビで見ると、実がついている葉が、
本来のイチョウの葉(東京都のシンボルマークになっている扇を広げた葉)
そのものの根元に実が付いていた。

それにしても醒ヶ井宿では、
生まれて初めて見るものが多かった。

(葉っぱに付いたギンナン2)




居醒(いさめ)の清水(旧中山道を歩く 289)

2011年12月28日 12時08分29秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(「中山道」の見落とすことのない巨大な案内)


(醒ヶ井宿へ入っていく)

(醒ヶ井宿)
中山道は国道21号線から左脇の道路へ入る。
道路左脇には小川が流れており、一色の集落に入っている。
脇の小川の向こうに地蔵堂があり、
向かいの民家の壁に「ここは中山道一色」の手書きの案内がある。


(小川の向こうにある地蔵堂)


(その反対側にある「ここは一色」の手書きの案内)

道路が左へ曲がった所に、「八幡神社」の石垣がある。
次いで左側の山すそに「一里塚の跡」の碑があり、
一里塚跡を偲ばせる松の木と水のみ場がある。
気温も高かったこともあり、
この水のみ場は救われたような気分であった。
まして醒ヶ井宿は水清らかなことで有名な所である。
蛇口をひねってごくごく呑んでしまった。
冷たくて水が美味しかったので、
ペットボトルに残っていた水を捨てて、
満水にして来たのは云うまでも無い。


(八幡神社の石垣)


(八幡神社の鳥居)


(醒ヶ井の一里塚跡の碑と水のみ場)

その昔、日本武尊が伊吹山の大蛇退治で、
大蛇の毒気に当てられ、ここ醒ヶ井の水により、
生気を取り戻したという伝説があるくらい。
それほどこの場所の清水は美味しいので有名である。

伝説はさておき、西へ進むと右手に真宗大谷派の「等倫寺」があり、
集落の中へ入っていく。
やがて展望が開け、
右下に国道21号線その右に東海道線が見渡せる場所に出る。
左手の山の上には、名神高速道路が走っており、
国道と高速道の間を中山道は通っている。
特に西方の眺めはよく、遠くの山間には京都の空が望めることで有名で、
右手に「佛心水」と書いた井戸がある。
(「佛心」とは仏のこころ、大慈悲(心)のことを言う。
この井戸は、旅人の喉を潤すだけでなく、
御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願した人々の、
願いが込められています。(後略)(地縁団体 一色区)とある。


(等倫寺)


(集落の中へ)


(開けた場所、右手の井戸が囲ってある。中央奥のの山の上が京都?)


(佛心水の井戸)

続いて道路左端に、「鶯ヶ端」跡の碑がある。
説明では、
(旅人はいったん休息した場所である。
芭蕉が尊敬する平安時代の歌人能因法師も、

・旅やどり ゆめ醒ヶ井の かたほとり
           初音もたかし 鶯の端


と詠んでいる。)と案内説明板にある。


(鶯ヶ端跡の案内)

この先民家に突き当たるが、その民家の隣に、
「中山道 醒ヶ井宿」の石碑が置いてある。
民家を左に見て右折し、この石碑を挟んで枡形があるので、
道路はすぐ左折する。
外敵の進入を妨ぐ古来からの設備である。
醒ヶ井宿の始まりであり、
このあと、宿場の家並みが続き、左に折れると、
少し先の高速道路の下にこんもりと森が茂っている。


(民家に突き当たる)


(醒ヶ井宿の石碑の先で道路は左折)


(宿場の様子)


(宿場の様子2)


(左は名神高速の下の森)

石の鳥居があり加茂神社の石碑が見える。
神社と道路の間には清らかな清水が流れている。
これが「居醒の清水」で、
日本武尊(やまとたけるのみこと)が身を清めた清水である。
醒ヶ井宿には三水といわれる三つの水源があり、
この「居醒の清水」がその内の一つにあたる。
水は勢いよく湧き出している。
残り二つの水源は「十王水」と「西行水」で、
後ほどこの二つを訪ねる。


(加茂神社の鳥居)


(日本武尊の像)


(「居醒の清水」透明な水が湧き出ている)

三水に対応して四石が有るが、
これは「居醒の清水」から流れる地蔵川の中にある。
その一つが蟹石で「居醒の清水」が湧き出ている左横にある。
蟹に似た石というがどうでしょうか?
日本武尊の「腰掛石」は少し下流にあり、
鞍を掛けたという「鞍懸石(くらかけいし)」はさらに下流にある。
四石の最後、影向石(えこういし=加茂神社の神霊が影向している石)は、
源海寺にあるというが、影向石は見学しなかった。


(蟹石、これが蟹?亀みたいです。)


(腰掛石)


(鞍懸石)


(地蔵川は美しい木陰であった)
















「小川(こかわ)の関」と旧中山道(旧中山道を歩く 288)

2011年12月25日 10時24分16秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(長沢の集落に入る)


(薬師への道標)

(柏原宿 4)
中山道は長沢という集落に入って、民家が集まっている。
すぐの左手に西薬師への道標がある。
「従是 明星山薬師道」と刻んであるのであろう、
石柱が埋もれて薬師までしか読めない。

その先右側に白山神社の石の鳥居がある。
その先二又の道路は、左が舗装道路、右が砂利道のY字路になる。
真ん中に「小川(こかわ)の関跡」の石碑がある。
石碑の横に
「歴史街道 柏原宿枝郷 長沢(ながそ)」
案内石碑があり、小公園になっている。
この案内によると左は中山道の舗装路、
右は旧中山道の砂利道を指している。


(白山神社)


(小川の関の石碑)


(小川の関の石碑で二又に分かれる)

「小川の関跡」について、
(近江坂田郡志には、
稚淳毛両岐王(わかぬけのみたまたおう)の守りし関屋
(現存しないが関所の施設)と書かれ、
大字柏原小字小黒谷、大字梓河内小字小川の辺りに比定、
小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。
一面どこも植林され原野となっているが、
戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていた所である。
古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を
確認することが出来る。)とある。

またこの小公園内には「菖蒲が池跡」の案内もあり、
(・君が代のながき例(ため)しに長沢の
    池のあやめは今日ぞ引かるる  大納言俊光  
とあり、「この池の芹、名産なり、相伝う。
古昔二丁(218m)四方の池なりと。
今は多く田地となりて、漸く方二十間(36m)計りの池となれり。」
(近江輿地志略より)
また(その後、天保十四年(1843)には、
「菖蒲が池と申し伝へ候地これ有り。」と)(中山道宿村大概帳)にある。

どうもこの辺りに、その昔は200m四方の池があったが、
開墾により36mの池になり、
さらに消えて(池があったらしい)と言われるくらいになってしまった。
そんな「菖蒲が池」があったようであるが、
江戸後期には消滅してしまったようだ。
一説によるとこの池が源氏ホタルで有名な天野川の水源であったという。


(右側の旧中山道)


(旧中山道、杉の木が道路をまたいでいる)


(旧中山道の石だらけの道)

旧中山道の右側の道を行くことにする。
最初は草道であるが、やがて杉の木が一本道をまたいでおり、
それを過ぎるとごろ石の道になり、
やっと舗装道路に合流すると、右手に地蔵堂があり、ついで、
「歴史街道 中山道 直進すると東山道横川駅跡 梓」の大石がある。
道路は国道21号線と平行して進む。
左手に、「中山道 醒ヶ井宿」直進の案内杭があり、
道路は南北から山が迫り、
名神高速と21号線に並んで右側には川を見ながら、
中山道は狭い谷間を抜けていく。
雪が深いのかバス停には屋根つきの小屋で駅名は(梓河内)とある。
険路であったのか地蔵堂が旅人の安全を祈っている。
(梓河内)の信号を左に見て21号に平行して進むと、
道路わきにたわわに実った柿が何本もある。
誰も取って食べないのだろうか?


(舗装道路に出て、屋根の中にある地蔵堂)


(「中山道←東山道横川駅跡 梓」の大石)


(左国道21号線と平行して進む)


(「梓河内」のバス停、雪深いのか屋根付き)


(右手は川)


(たわわに実った柿)


集落で世間話に花を咲かせているお年寄りに挨拶をして通りぬけると、
僅かであるが昔を思い出させる松並木道になる。
米原市が保存に力を入れている松である。


(先に見える松並木)


(松並木街道)

道路は国道21号線にぶつかり、
その手前右手にはコンビニがあるように地図には書いてあるが、
「〇〇ホテル」と書いたラブホテルしかない。
不審に思って21号線にでると、ホテルの向こうにコンビニはある。
地図にはラブホテルでは書きにくいのであろうか?


(手前の橙色の塀がラブホテルでその先にコンビニがある)

自動車の激しい国道21号線を注意しながら横断する。
向こう側に歩道があるからだ。
21号線には、名神高速(米原)インターまで5kmの案内がある。
なお、進むと3mもあろうかと思われる巨大な案内看板
「中山道」がある。

「米原市山東庁舎」の案内があるところから、
中山道は国道21号線と左へ別れていく。
ここから醒ヶ井宿に入る。


(名神高速 米原ICまで5kmとあり、左側には歩道がある)


(「中山道」の巨大な案内)


(国道21号にある庁舎の案内)


(醒ヶ井宿へ入る)











柏原の一里塚(旧中山道を歩く 287)

2011年12月21日 09時40分41秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(中山道六十番目、柏原宿)

(柏原宿 3)
柏原宿は中山道を日本橋から数えて60番目の宿場に当る。
そして近江の国(滋賀県)に入って最初の宿場である。
名物は「伊吹もぐさ」だけのようだ。

柏原歴史館を出て、中山道を西に向うと右手に日枝神社があり、
次いで左側に「柏原銀行跡」(現在の滋賀銀行)がある。
同時にここは問屋場の「西荷蔵跡」でもあった。

説明によれば、
(江戸時代もぐさ屋の山根為蔵家は、
同業旅籠屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけて、
自宅別棟に柏原銀行を明治34年(1901)創設した。
中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、
その当時も多くの商店が立ち並び、
国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と
岐阜県隣村今須村地域の中心地であった。
柏原銀行の支店出張所は、
米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・岐阜県の今須村にも設置された。――後略)


(日枝神社)


(柏原銀行跡と西の荷蔵跡)

やがて南北に繋がる道路と交差し、
左側には「やくしえのみち」の道標があり、
左へ進めば、西薬師(泉明院)へつながる。

左奥には木造の火の見櫓が見える。
右折すれば清滝村へ通じる道路で,
約1.2kmに清滝寺徳源院がある。
右折してすぐの一帯は、
お茶屋御殿跡が今は公園になっている。

お茶屋御殿跡について、
(江戸初期の頃、
将軍が上洛する時の宿泊や休息のために建てられた御殿の跡です。
家康・秀忠・家光の3人で合計14回ほど利用されている。)(米原観光協会)

清滝寺徳源院(せいりゅうじとくげんいん)については、
(佐々木京極氏の菩提寺で、
正式には霊通山清滝寺徳源院といいます。
足利尊氏の下で佐々木道誉が活躍したことで栄え、
戦国時代は、江の姉様(浅井三姉妹の次女お初)が京極高次に嫁ぐ。
高次は信長、秀吉、家康の間を渡り歩いて再興、大名となる。
これら歴代の宝教印塔34基が並んでいる。)(米原観光協会)
(徳源院には、立ち寄っていませんが、是非お立ち寄りを)


(左角に「やくしえのみち」の道標)


(火のみ櫓)


(お茶屋御殿跡の小公園)


(柏原御殿、館跡の石碑)


(お茶屋御殿跡の小公園2)

お茶屋御殿跡を右に見て通り過ぎると、
左手に郷宿(ごうやど)跡がある。
郷宿とは脇本陣と旅籠屋の中間で、
武士や公用で旅する庄屋などに使用された旅館である。
残っているのは、中山道上、今まで始めて見る。


(「郷宿」少し分り難いが左手に家)

この先柏原の町を離れて左田圃、右は山が繋がる。
やがて左手に復元された南側の一里塚跡がある。
江戸から数えて115番目であると言う。
一里塚は本来街道沿いにあるが、街道に沿って川があったことから、
街道から離れた所に造られていたという。
現在も少し離れて築かれている。

この辺りが西の見付跡で、
喰い違い土手があるというが良く判らなかった。
この場所で、庄屋や役人が正装して、
御偉い方のお見送りやお出迎えをしたに違いない。
柏原の宿場はここで終わりとなる。


(柏原の一里塚)


(街道横に川が流れる)


(「西の見付」付近)

中山道はここから松並木が続き、
やがて右手に「北畠具行卿墓」参道へ右に入るよう案内がある。
案内書によれば、右に入る道は昔の東山道で、
ここから中山道と別れ山越えをしていく。
いずれにしろ「北畠具行の墓」を見たいと、
山の中へ細い道を進む。
右手の山側には(獅子おどし)の電線が張り巡らされており、
山側にお墓などがあるが、右手の山に入ることが出来ない。
道は左手は畑か空き地か平らで山の間を抜けるようになっている。
昔の東山道であれば頷ける。

かなり入った所で、道路は(獅子おどし)の電線でさえぎられ、
先に進むことが出来なくなっている。
清滝寺徳源院からは南へ500mの所にあるはずであるが、
徳源院からは行けるかもしれない。

大変残念であるが諦めることにする。


(松並木が続く)


(北畠具行卿の墓案内板)


(お墓への道、東山道でもあった)


(お墓への道2、右手に「獅子おどし」の電線あり)


(お墓への道3、右手に「獅子おどし」の電線あり)

中山道に戻って、西に向う。
左手は開けた場所であるが、
右側は山が繋がっている。

「鶯が原」という。

太田道灌が江戸から京都への旅日記「平安紀行」に、
鶯の原という所にて、
・聞ままに かすみし春そ しのばるる
        名さへなつかし 鶯の原
と残している。

その先には植樹された松並木がある。
あと30年もすれば見ごたえのある松並木になっていることを期待したい。


(開けた場所「鶯が原」と呼んで時期には鶯の声が聞けた)


(並び松街道の碑)


(植樹された松)





「桜田門外の変」と天寧寺の五百羅漢(旧中山道番外記 24)

2011年12月18日 10時22分05秒 | 中山道番外記

0077
(「五百らかん」の石碑)
0078
(彦根インターの出口と入り口の高架)

(鳥居本宿)
原八幡神社をあとに中山道を進む。
高速道路の彦根インターチェンジ入り口と出口の高架下をくぐる様になっているが、
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
地図には彦根駅まで30分と記されており、
「五百らかん」のある天寧寺はその中間にあるから、
15分くらいで行けるだろうと訪ねることにする。
0002_2
(天寧寺のらかん堂)
0003_3
(らかん石庭から彦根城が見える)

天寧寺によれば、
(天寧寺は、井伊直弼の父である直中公が、
自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の菩提を弔うため建立した。
文政二年(1819)の春、
男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で大椿事が持ち上がった。
奥勤めの腰元若竹が、お子を宿しているらしいという風評が広まり、
それが藩主の耳にも届いたのである。
大奥の取締りのためにも相手の名を詰問したが、
口を閉ざして相手を明かさない。
遂には付議はお家のご法度であるという掟により、
御手打ちということになった。
後になって若竹の相手が長男直清であったということが明らかになり、
直中公も知らぬこととは言え、
若竹と腹の子(初孫)を葬ったことに心痛め、
追善供養のため京都の大仏師駒井朝運に命じて、
五百羅漢を彫らしめ安置された。)とある。
0009_2
(らかん堂内部)
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(五百らかんさま)
0010_2
(五百らかんさま2)
0012
(五百らかんさま3)
0014_2
(五百番のらかんさま)
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(第七番のらかんさま)
0016_2
(第一番のらかんさま)

その木像の五百羅漢は羅漢堂に安置され、
それは見事で圧倒される雰囲気にある。
なお、天寧寺は高台に位置して彦根城を見ることも出来、
井伊家の別荘としてよく利用されたとのことであるという。(天寧寺談)
また、後に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある。
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(井伊直弼の供養塔、血染めの遺品が祀ってある)
0043
(彦根城)

話が変わるが、
以前、桜田門から皇居内を見学したことがあるが、
その時、ガイド役の知人に
「井伊直弼はどこで暗殺されたのですか?」と聞くと、
桜田門のお堀の上を指差して、
「ここで暗殺された。井伊直弼が屋敷を出たと、
愛宕山から連絡があった。」と言った。
ボクは暗殺された場所について興味はあっただけなのだが、
「井伊直弼が屋敷を出たのを、愛宕山から連絡があった。」
と余計なことを言ったばかりに、
ボクの疑問がもくもくと湧いてきた。

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(愛宕神社、鳥居の後ろに階段がある)
0002_2
(講談では40段といわれた階段、寛永三馬術の曲垣平九郎が馬で登ったことで有名)
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(今も山上の愛宕神社前にある曲垣平九郎と馬ー記念写真用)
0006_2
(平九郎が手折った将軍献上の梅ノ木)
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(桜田烈士愛宕山遺跡の碑ー井伊大老襲撃の水戸浪士が集合した所)

そもそも井伊直弼の屋敷は、昔の地図を見ると、
桜田門から300メートルと離れていない所にあったはずである。
お堀端に待ち伏せしていた刺客に、
愛宕山からどんなに早い伝令を飛ばしても、
1500メートル以上はなれた山の上から見ていて、
井伊直弼の行列が出発したのは見えるかもしれないが、
井伊直弼が桜田門に到着するより早く、
お堀端の刺客に伝令で伝えることは出来ないはずである。
しかも当日は雪が積っていた。

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(外桜田門)

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(桜田門と井伊直弼の屋敷の地図と距離)

知人のガイド役は話を面白くするために、そう言っただけかもしれない。
でもボクは疑問を持つと、実際に調べてみることにしている。
念のため、後日愛宕山に行き、
水戸浪士が集まった場所があったので、
そこから可能な限りの速足で桜田門まで歩いた。

井伊直弼の行列の速度の3倍の速さで愛宕山から歩いて、
いや、走っても、桜田門に到着するのは同時で、
4~5倍の速さで走って伝令が伝えなければ、
刺客たちはタスキをし、袴の股立ちをとって、
鉢巻を締める準備は不可能であることが判った。

0021
(井伊直弼の屋敷址と加藤清正が作った井戸)
0020
(屋敷址の碑)
0024
(屋敷址は写真上、国会議事堂の手前右側)

何よりも刺客たちに伝令など不要であったに違いない。
桜田門には当時、どの紋はどこの御家中か、
判るように鳥居家、大岡家などなど、
家紋と大名の一覧表が売り出されており、
庶民はそのガイドブックを片手に、
お堀端に見物に来ていたらしいので、
刺客たちはそうした群衆にまぎれて、
まんまと待機できたようである。

それにしても「愛宕山から知らせがあった」と漏らした知人の言葉は、
不用意であったことは間違いない。
0015
(外桜田門から入って内桜田門へ直角に右折)
0016
(外桜田門から右へ鉤の手で曲がった内桜田門)
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(桜田門前の法務省の古い建物)
0027
(皇居前のお堀に写るイチョウの紅葉)











柏原宿 街並みと「伊吹堂かめや」の福助(旧中山道を歩く 286)

2011年12月15日 09時40分59秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3




(中山道柏原宿の案内)

(柏原宿 2)
2011,10,19、晴れ。AM10:00.JR柏原駅出発。
駅から旧中山道に出ると、道路に面して

「中山道柏原宿案内」の標柱が建っており、
左右に行き先が書いてある。
左 (寝物語の里)・(成菩提院)
右 (伊吹もぐさ本舗)・(柏原宿歴史観)・(北畠具行卿の墓)
・(清滝寺徳源院)とある。
左側は昨日訪ねたところ、右側が今日訪ねる予定の所である。
案内の下段には其々の距離まで書いてある。

この先、宿場内にふさわしい家並みが続く。
最初に「問屋場跡」次いで「東の荷蔵跡」。
問屋場は街道に送られてくる荷物を、
次の宿場まで継ぎ立てする(駅伝方式であった。)
柏原宿から東は今須宿へ、西は醒が井宿へ運ぶ。
そのため中山道では各宿場で、馬50匹、人夫50人を用意した。
各宿場までの運賃は距離、重量、山越え、峠などで決まっていた。
参勤交代のときは沢山の荷物があり、
この時は近隣の村から助郷が借り出された。
それでも荷物が残った時は「荷蔵」で一時保管した。
柏原宿では問屋は東西で六軒あり、
二軒ずつ交代で務めたという。


(問屋場跡)


(東の荷蔵跡)

両脇の家には往時の商売と主人の名前が板に掲示されており、
古き良き時代を表現している。
人の名前と職業は、古い地図により復元したものであろう。
例えば、蕨宿本陣家の日記「和宮様御下向日記留」によると、
皇女和宮様が御下向される時、警備の都合上であろう、
事前に宿場の見取り図を提出させている。
どこに誰の誰兵衛が住まいで、何所にはBが住んでおり女房と二人、
などと事細かに記帳して役人に渡した。
そんな見取り図を参考に表示板を造ったものと思われる。


(往時の商売と主人の名前「旅籠屋 銭屋 平兵衛」)

次いで右手に「柏原宿脇本陣跡」があり、
問屋役も兼ねていたと言う。
「旅籠屋跡」があり連子格子が良く似合う。
次が庄屋を兼ねた問屋役の吉村公三郎氏実家がある。
吉村公三郎氏は知る人ぞ知る映画監督で、
1950年代 京マチ子、原節子、岸恵子など、
女優の特徴を上手く表現した映画監督で、
川口浩、野添ひとみなども世に送り出す映画も手がけているらしい。
また、紫綬褒章、旭日〇〇章も貰っている。


(柏原宿本陣跡)


(旅籠屋跡)


(今に残る旅籠屋)


(映画監督吉村公三郎の生家跡)

脱線してしまったが、
その先に「柏原宿本陣跡」と大きなお屋敷があり、
さらに「高札場跡」がある。
宿場はこの高札場が入り口になっており、
宿場や領主の「定め書」が掲示されており、
旅人は笠を取って読んだものらしい。


(もう一つの柏原本陣跡、南部家)


(高札場跡)

さて、柏原宿は伊吹山で採れるもぐさを原料とした、
お灸の原料「伊吹もぐさ」が有名で、
看板になった働き者の番頭の「福助」人形は、
今でも店先で商い繁盛の手伝いをしているようだ。
この福助人形がある「伊吹堂」は、
「福助」目当てで、「もぐさ」にはトンと興味の無い人が連日押し寄せ、
商売の邪魔になるのであろう、今では写真お断りと言われている。


(伊吹堂の年季の入った看板)


(伊吹堂の昔ながらの店舗)


(いぶきもぐさ「本家」の看板)


安藤広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次乃内 柏原」には、
この「伊吹堂かめや」を主体に描いており、この浮世絵にも
福助人形が描かれているので、
福助人形はこの浮世絵で我慢して頂きたい。


(浮世絵「木曽海道六拾九次の内 柏原」右端に描かれているのが福助か)


(Netより「人形の福助」)

その先右手に柏原宿歴史館があるので寄って、
柏原の見所をおさらいして置きたい。
この歴史館の建物は重厚で、
特に屋根組みや贅沢な和室の作りは、
国の重要文化財に指定されている。


(柏原歴史館の重なる屋根が国の重要文化財)


(国指定重要文化財の歴史館の和室)












八幡神社と古刹「成菩提院」(じょうぼだいいん)(旧中山道を歩く 285)

2011年12月11日 10時10分40秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(かえで並木の終り)

(柏原宿)

楓(かえで)並木が終わると、大きな黒い石に
「中山道  左江戸後期大和郡山領 柏原宿
      右寝物語の里     長久寺」と刻んである。

ここから近江路に入るのだと、感慨深い。
さらに進むと右手に「長比城(ながくらべじょう)跡登り口」なる石柱があり、
右折する坂道がある。長比城はどんな城かと言うと


(長比城跡登り口の石碑)

(織田信長は浅井長政を討つべく、
浅井・朝倉勢が守るこの長比城と苅安城を攻撃。
一方、木下藤吉郎と竹中半兵衛の働きで、
浅井方の鎌刃城の堀氏が寝返ったため、
長比・苅安の城兵は敗走し、信長は長比城に無血入城、一両日滞在。
九日後に姉川の戦いは始まり、
--- 後略)(米原市)
ご承知の浅井長政が討ち死にする。

その「長比城址登り口」の標柱があるところから、
中山道に平行して旧東山道があり、「旧東山道」の石碑が建っているので、
旧東山道へ入ることにする。

(*)中山道が家康によって整備されるまでは、東山道によって往来された。
中山道はおよそ東山道を基に作り上げられたと言っても良い。

旧東山道は名の通り古い街道で、
当然砂利道、両側の杉の木は多少伐採されているものの、
両側から倒木が道路をまたいでいる。
足の置き場に注意しながら、木陰の道を進む。
長さにして1kmもあっただろうか、
自動車の通らないがれきの道であった。


(旧東山道の石碑と東道路1)


(旧東山道2)


(旧東山道3)


(旧東山道が終わると左手に踏切があり、渡る)

古東山道の薄暗い木影が終わると、左手に踏切がありこれを渡る。
かえで並木の名残か、楓の木が道路脇にポツンポツンと生えている。
左手に柏原宿と書かれた石が置いてあり、
ここから柏原の宿場に入って行く。

道路先の左右に民家が見えきて、
電柱には中山道柏原宿の案内が入った看板が続く。
宿場に入った感じがする。


(柏原宿を刻んだ石とかえで)


(街道沿いのかえで)

しばらくすると右手に地蔵堂が見える。
「照手姫笠掛地蔵堂」である。
中を覗き込むと、中央に大小二体のお地蔵さんが並ぶ。
(背の低い地蔵さんが「照手姫笠掛地蔵」さんである。
のちに古老から背の高い一体の地蔵尊が奉納され合祀された。
皆さんの安産を願う「安産地蔵」として寄進された。
優しい顔、立ち姿美しい地蔵は庶民に好感を持たれ、
今日に至っている。
背の低い照手姫笠掛地蔵を見下ろすことも無く、
むしろ引き立て役をしている。)と説明がある。


(地蔵堂)


(二体の地蔵尊、背の低い方が照手姫笠掛地蔵)

照手姫伝説は先の「照手姫伝説水汲みの井戸」(旧中山道を歩く268)
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/09/post_5867.html)で述べた。

その先同じ右側に「東見付跡」がある。
そもそも見付とはお城でいえば敵を見つける場所、
つまり城門のある場所を指すが、
宿場の場合は柏原東の外れで、
(道の両側に食い違いの形で土手が築かれていた。
また宿東西の見付では、貴人の到着時、
役人のお出迎え、お見送りの場所であった。)

羽織袴で正装し、一列に整列して、頭を下げる構図が目に浮ぶようである。


(東の見付)


(八幡神社)

その先しばらくして、右手に八幡神社がある。
石の鳥居があり立派な神社である。
その中に桃青(芭蕉)の句碑がある。
芭蕉は「奥の細道」を締めくくった大垣へ、
伊吹山を左に見て北国往還を歩いたと言う。
その後大垣の門人との句会で残した句が、
句碑として残されている。


(桃青=芭蕉の句碑)

(戸を開けはにしに
山有いふきといふ花にも
よらす雪にもよらす只
 これ孤山の徳あり

・其ままよ
     月もたのまし
             伊吹山   桃青 )
とある。


(「戸を開けば・・・」前段の文章部分の碑、芭蕉の真蹟を写す)

芭蕉が言うように、
花や雪や月が無くとも、
山が聳えるだけで賞しえる山容を備えている。
と褒めている。JR柏原駅から伊吹山をご覧頂きたい。


(柏原駅から望む伊吹山、これだけで美しいと詠んだ芭蕉)

八幡神社を出るとすぐ南北と交差する信号に出る。
(八幡神社前)である。この信号を右折すると「成菩提院」へ行く。
ここで右折し、すぐの信号を左折する。
道路を一つ入れば田舎はもう山に囲まれる。
右手に句碑の伊吹山が雪もなく花もなく只聳えている。

芭蕉が言うように、山があるだけで美しい。

(「八幡神社前」の信号を案内に沿って右折)


(すぐのガードをくぐる)


(ガードの次の交差点を案内に沿って左折)


(右手に伊吹山が迫る)

すぐ左へ行くよう案内看板があるので左折。
途中、田舎では良く見かける太平洋戦争の「忠魂碑」があるが、
少し頭を下げて通過すると、Y字路にでるが、ここは右折。
しばらくして、右側に「成菩提院」が右手に有る。


(忠魂碑)


(成菩提院の山門)

(前略――「成菩提院」は應永年間(1394~1428)
時の将軍足利義満の願いにより、
比叡山西塔の名僧であった貞舜が自坊を再興して移り住み、
寺ではこの貞舜を持って中興の祖とし、初代住職としています。
歴代住職の中には、徳川家康の知恵袋・懐刀といわれた二十世
天海僧正を初めとする幾多の名僧が住職をしています。
また織田信長・浅井長政・豊臣秀吉と言った武将が宿泊し、
信長や家康が寺領を寄付しています。――後略)(米原市教育委員会)

少なくも1428年に再興されたとしても、ずいぶんな古刹である。
手入れが悪ければとっくに朽ち果てているはず。
苔むした石の階段、静かな境内を、しっかり観てきました。
門を出ると、門前に案内杭があり、
JR柏原駅、柏原宿、清滝寺徳源院、寝物語の里など方向と距離が
明確に案内されて、この後の道順が解りやすかった。

このあと、中山道に戻りJR柏原駅から宿泊場所の彦根へ。
歩いた距離41593歩=約25km。


(苔むした石の階段)


(本堂)


(門前の案内杭)










芭蕉句碑と寝物語の里(旧中山道を歩く 284)

2011年12月07日 10時04分29秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(芭蕉句碑)


(正月も・・・の芭蕉句碑)

(今須宿 4)
車返しの坂を下ると、石碑が数個建っている場所へ出る。
近づくと芭蕉の句碑と言われるもので、

・正月も 美濃と近江や 閏月  (芭蕉)

また、その隣の石碑には、
「貞享元年十二月 野さらし紀行の芭蕉が郷里越年のため
熱田よりの帰路二十二日ころ、ここ地 今須を過ぎるときの吟」
とある。

さらに、その右横には、

「野ざらし芭蕉道  
・歳くれぬ 笠着て草鞋 はきながら  はせを
とある。


(野ざらし芭蕉道の碑)

少し離れた右手には二基の石碑があり、背の高い方には、
「おくのほそ道   芭蕉道」とあり、
四角い碑には、「おくのほそ道」と題して、
有名な奥の細道の文章の最初が、
「月日は百代の過客にして、・・・とあり、――中略。

行春や 鳥啼き魚の目に泪

の句が載っており、つづいて草加を旅立つ部分、

ことし元禄二とせにや、・・・・とあり、――中略。
奥の細道各地の紀行文を抜粋しながら述べて、
終わりに大垣入って、親しき門人が集うくだり、
「其の外したしき人々とぶらいて、蘇生のものにあふがごとく、
且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、
長月六日になれば、伊勢の遷宮お(を)がまんと、
又舟にのりて、

・蛤の ふたみに 
       わかれ 行秋ぞ  芭蕉
 」を述べている。


(「おくのほそ道 芭蕉道」の碑)


(おくのほそ道、「行春や・・・」と「・・・行秋ぞ」の碑)

奥の細道を締めくくった句を大垣で詠み、
しかも奥の細道の最初の一句
行春や ・・・)に対して、結びの句が、
(・・・行秋ぞ)で締めくくったのは、
芭蕉は春に対して秋を意識してこうしたのだろうか?
春はこの先の希望を、秋はこれで終わる寂しさを訴えた、
見事な結びの一句ではある。 と思う。

さて芭蕉句碑から百メートルも行かない先の左手に、
「寝物語の里」の碑がある。

一つの小さな溝を挟んで、
手前側は美濃(岐阜県)、向こう側は近江(滋賀県)の国境になっている。

「寝物語の里」伝説は、
この先右側にある「寝物語の里の由来」と彫った説明がある。
これに寄れば、
(昔 文治年間 源義経が、兄頼朝と不和になり、
奥州の藤原秀衝の許へ落ちて行ったので、
その妻静御前もそのあとを追ってここまで来た。
近江側の宿に泊っていると、隣の美濃側の宿で、
大声で話しているのは、義経の家来のようであるので、
寝ながら訊ねると、そうだと答える。
静御前は喜んで、私は主人を慕ってここまで来たが、
家来は皆途中で捕えられて、誠に心細い。
奥州までつれてって欲しい、と頼むと快く承諾してくれた。
これが寝ながらの物語だったので、この名が起こったと言われる。
異説は幾つでもある、とのこと)(米原市)


(国境となった溝,左岐阜県、右滋賀県の名札がある。)


(寝物語の里の碑と由来を述べた石碑)

広重描く浮世絵(木曽海道六拾九次之内 今須)も
「寝物語の里」を描いている。
解説に寄れば、
(本図は、町の西外れ、近江と美濃の国境の光景。
今須宿の先に位置する長久寺と言う集落である。
一尺五寸ばかりの溝が国境となっており、
これを挟んで西の近江国側に20軒、東の美濃側には5軒あったという。
本図において、手前に描かれる茶屋は近江屋、奥は両国屋と見られる。
近江屋の軒先には、「仙女香坂本氏」とおしろいの宣伝が、
両国屋には、「寝物語由来」と言う看板が見られる。
この国境では、両国の人が、壁越しに寝物語をした所から、
この辺りを「寝物語の里」ともいった。

この小さな溝で、関西と関東とを分けるという説、
あるいは、不破の関を境に西は関の西、つまり関西で、
関の東を関東とする説、
あるいは、逢坂の関を境に分かれるとか、
名主と庄屋の違いは、関東は名主、それ以外は庄屋というから、
関東は群馬県まで名主で、お隣の長野県は庄屋になり関東ではない。
いろいろ説は有るようであるが、
ボクには、はっきりした関西弁が聞かれる京都か大阪に入って、
やっと関西に来たと感じる。
実際にはどこで分けているのだろうか?


(広重の浮世絵)

中山道を進むともうここは近江で滋賀県に入っており、
ここから1kmほど、かえで並木の中山道になっている。
街道は松並木か杉並木が多いが、かえで並木と言うのも珍しい。
かえで並木が終わると、左へ踏み切りを渡り、

中山道は柏原宿に入る。

いよいよ本日をもって美濃路とお別れになり、
近江路に入って行く。


(かえで並木)


(かえで並木2)


(*)筆者註:余計なことであるが、(・正月も美濃と近江や閏月)の句は、
芭蕉の句かどうか疑わしいとされています。(芭蕉俳句集 岩波文庫)
念のため追記します。




車返しの坂(旧中山道を歩く 283)

2011年12月03日 10時57分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(真宗寺)


(路肩に咲くコスモス)


(法善寺)


(八幡神社)

(今須宿 3)
中山道を進むと、左に真宗寺があり、コスモスが咲く道を進む。
右手に法善寺を見て進むと、
今度は左手に「村社 八幡神社」の石の鳥居と常夜灯があり、
さらに進むと十字路にでる。

今須宿で初めての信号である。
信号と言っても赤黄青の三色の信号でなく、
赤一つの点滅信号である。
左手前角に古い常夜灯がある。


(十字路の今須で初めての点滅信号)


(信号手前の常夜灯と左手に見えるKKオーツカの建物)

見渡すと左手奥の高台に、
KKオーツカの看板をつけた建物がある。
案内書や関が原の観光協会で貰った地図によると、
右角にKKオーツカがあることになっている。
よくあることで左右間違いならば、
それはそれで良いのだが、
案内所も観光協会の地図も揃って右角にKKオーツカがあるのは、
間違いとは思えない。

点滅信号を見ながらKKオーツカが右に見えるように左折する。
道路はやや登りになっており、すぐ名神高速道路をガードでくぐる。
どうも道が違っているように感じる。
道は右に曲がり、さらに右に入る別の道がある。
見渡すと道路先で軽トラックに荷物を積んでいる人がいる。
道を間違ったら出来るだけ早く地元の人に聞き、
修正するのがボクのやり方である。

地図を見せながら、
「お仕事中失礼します。
この道を行きたいのですが、この道で間違っていませんか?」
「どこへ行くのですか?」
ボク「柏原宿へ行きたいのですが・・・」
ボクが見せた地図を見ながら、
「ああ、「寝物語の里」へ行くのは、この道を戻って、
点滅信号を左へ行くのが正しいですよ。」と回答がある。


(点滅信号は直進。KKオーツカに惑わされないように)

何のことは無い、中山道は点滅信号を直進すれば良かったのだ。
点滅信号まで戻って中山道を直進する。
しばらくすると、車返し地蔵尊の石柱が道路左の台地の上にある
道路は下り坂で21号線を渡る信号があり、
その先に東海道本線の踏切がある。
この坂道を「車返しの坂」という。


(車返し地蔵尊の碑)


(車返しの坂の21号線との交差点)

車返し地蔵尊の坂のいわれは有名で、
不破の関は平安時代以降、よく文芸作品の題材になった。
南北朝の昔、時の関白で歌人の二条良基は、
不破の関が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、
わざわざ都から牛車に乗ってやってきました。
村人は、都からやんごとなき方が不破の関に来ると聞いて、
荒れ果てた不破の関を修築してお待ちしました。
ところがこの坂道を登る途中、
不破の関の屋根を直したと聞いて、
破れ屋根であってこそ面白いものをと、
この坂で引き返してしまったという伝説から、
車返しの坂と呼ばれるようになったそうである。
車返し地蔵尊を祀って残している。


(車返し地蔵尊)


(左奥が車返し地蔵堂)


(右横の地蔵堂1)


(右横の地蔵堂2)


(車返しの坂、21号線を渡って)


(車返しの坂、21号線の右の東海道線の踏み切り)


(車返し踏み切り)

坂を下って踏み切りの先、右手には、オーツカの大きな工場がある。
関が原観光協会の地図も、案内書の記載もこれで正しいと言うことになる。
道に迷った原因となったKKオーツカの名前が入った建物は、
左手にあったが、のちにできた事務所であるに違いない。
あとで知ったことであるが、
KKオーツカの本業は不織布による布の製造で、
主に自動車の内外装を手がけている会社である。

(*)筆者注:不織布=編みや織りによらないで作る布のこと。

坂を下りきると、前方右手に石碑がいくつか建っている。
近づくと芭蕉の句碑である。
回りを見渡すと進行方向左手に

「寝物語の里」の石碑がある。


(石碑が並ぶ公園)