中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

関が原宿(旧中山道を歩く 275)

2011年10月26日 09時47分02秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(関が原宿東の若宮神社)

(関が原宿2)
若宮八幡神社にきて、時計を見るとお昼近いので、
日陰に腰を下ろして昼食にする。

胸の期待は、有名な関が原古戦場を午後から半日掛けて、
観光して廻ることである。
少し距離がありそうであるが、見たいのは東西の首塚、
徳川家康の本陣跡、歴史資料館、笹尾山の石田三成陣地、
宇喜田秀家陣跡など。

広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 関か原」の
中山道広重美術館の説明文によれば、
(石田三成率いる大阪方と徳川家康とが、
豊臣秀吉没後の覇権を争った地として著名なここ関が原は、
北国街道との分岐点でもある交通の要地でもあった。
関が原の戦いの史跡をはじめ、
絵のモチーフに富んでいるこの宿場の図として、
広重はあえてなのだろうか、
茶店ののどかな様子を選んだ。
提灯には「名ぶつさとうもち」、
看板には「そばぎり」「うんどん」とも記されている。
店内では、草履や笠、扇も売っているようである。
店先の縁台にはそれぞれ客が座っており、
一人は名物のさとう餅に、今まさに箸をつけるところである。
旅先での楽しみはこれに尽きるといった表情。
店の女性はお茶をお盆に載せて、
もう一人の客に注文を聞いている所だ。
季節は春、茶店の傍らの梅ノ木は花をつけている。)とある。

関が原という殺伐としたイメージの古戦場に対し、
いかにものどかな風景を描ききることで、
ゆるぎない平和を強調したのだろうか。


’広重描く浮世絵「木曽海道69次之内 関が原」)

関が原宿には若宮八幡神社が東西に二箇所あり、
今、ボクが昼食をとっている若宮八幡神社は、東のものである。
関が原宿は西の若宮八幡神社との間に挟まれている。
道路を西に進むと、味噌醤油の製造所であろう、
宿場らしい古い建物の壁に消えそうな文字で、
「たまり」と書かれている。

「たまり」とは名古屋でいう醤油のことである。
味噌を作り、その味噌の上に溜まる液、
つまり醤油のことを、「たまり」という。
今はどうか知らないが、ボクが子供の頃は、
醤油といえば「たまり醤油」が出てくる。
すし屋へ入って、「たまり醤油」をつけて食べられない人は、
「たまり」を区別して「江戸むらさき」といったように記憶している。
名古屋の人は「たまり」が当たり前になっているので、
寿司でも刺身でも「たまり」をつけて食べる。

見た目には、どろっとして、とんかつソースのようである。
味は塩辛そうに見えるが、意外に甘みがあり塩辛くない。
漬物にもかけていただく。

初めての人はちょっと抵抗がありそうである。


(「たまり」看板の跡が残る家)

旧中山道は国道21号線と合流していて、
若宮神社の前の通りを、先に進むとJR関が原駅に入る道がある。
その先に右手に屋根つきの門があり、
元脇本陣であったところである。
黒々と脇本陣と書かれた木札が門の左側に架かっている。
門前右側には、「至道無難禅師誕生地」の石碑が建っている。


(脇本陣跡、右側に「至道無難禅師誕生地」の石碑)

至道無難禅師(1603年~1676年)は、
(誰にでも分かるやさしい日本語で、
単刀直入に禅の核心を説いた人である。
愚堂国師の教えを受け、ついに臨済宗妙心寺派の高僧となり、
江戸において寺の建立や再建をし、
大名や世人から大変尊敬された。)(関が原町役場)とある。

江戸において寺の再建などしたとあるが、
東京で臨済宗妙心寺派というのは、まだ見たことがない。
どちらかというと真言宗豊山派が今のところ多く見られる。

さらに先に行くと365号線と交差する信号がある。
この道を右に行けば北国街道で、北陸金沢に行く。
信号手前には「返照山 円龍寺」と「真宗大谷派 宗徳寺」がある。
「円龍寺」の門前には「明治天皇御膳水」の石碑があり、
「宗徳寺」の境内には、「明治天皇関が原御小休所」の石碑がある。

明治天皇がご巡幸の折、宗徳寺でお休みになり、
円龍寺のお水を使ってお茶にされた。
(さもなくば、そのまま水を召し上がられた)
と言うことであろう。
宗徳寺の小休所もいかにもそれらしい休息所に見えた。

(*)御膳水=神に捧げる水のこと、
  転じてうやうやしい人に捧げる水をいう。

信号先には宿場らしい家屋が散見されるが、
先ほど通ってきたJR関が原駅に入る道に戻り、
駅に向うと、駅前に観光案内所があるので寄って、
関が原の案内地図を貰い古戦場を歩くことにする。


(365号線の信号、先に宿場らしい建物。右へ行けば北国街道)


(円龍寺の明治天皇御膳水の石碑)


(宗徳寺入り口)


(本堂脇の明治天皇御小休所の石碑と休憩場所)


(駅前の関が原古戦場の案内看板)






間(あい)の宿「野上」の松並木(旧中山道を歩く 274)

2011年10月21日 10時10分46秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(すぐの信号を右折し国道21号線に入る)


(国道21号線の「新日守」の信号を右折)


(旧街道に似合う静かな道)

(関が原宿)
一里塚をあとに中山道を進む。
すぐ先の信号を右折し、平行に走ってきた国道21号線にはいる。
その先(新日守)の信号で国道21号線を右折し、
道路に沿って道なりに進むと、
信号の先で右に曲がっている国道21号線の上を、
自分では気づかないうちに通っていく。
旧道らしい静かな道になり、
いつの間にか関が原町に入っており、
少し行くと右手に石の鳥居と常夜灯二基があるのが見える。
常夜灯の前面に石柱があり、
「縣社 伊富岐(いぶき)神社」と刻んである。


(いぶき神社の鳥居)

その前を通り越すと、右手に野上の「七つ井戸」と案内のある井戸がある。
(ここ野上は、中山道垂井宿と関が原宿の間の宿(あいのしゅく)でした。
江戸時代の頃から、
僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に、
利用されてきました。
街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、
旅人には、喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったと推定されます。
近年は、水道事業が整備されて放置されてきましたが、
先人が残した遺産の再発見の見地から休憩所を兼ねて修復・再現しました。
この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができます。
但し飲まないでください。
また、汲むときは安全に充分ご注意ください。)(関が原町)とある。
井戸には釣る瓶桶が置かれており、
汲むことができるようになっているが、
衛生上のことは考えずに、喉を潤す旅人がいて、
お腹を壊し、自分の不注意を棚に上げて、
役場に怒鳴り込んでいる人がいたのであろう、
(飲まないでください)と注意書きがしてある。
垂井宿から関が原宿までは約5.5kmと案内書にはあるが、
この辺りが休憩するのに都合が良かったに違いない。

この近隣のお宅は裕福らしい立派な家が見受けられる。
回りは見渡す限り水田・畑が広がり、その先は山に囲まれている。
そんな田畑を少ない民家が保有していて作物の量が豊かなのか、
土地が肥沃なのか、その両方のせいかもしれないが、
豊かそうな家が多い。


(七つ井戸)


(裕福そうな家)


(裕福そうな家2)


(周りを山で囲まれた関が原らしい景色)

そんなことを考えながら進むと、
往時の街道を髣髴させる松並木が迫ってくる。
松並木街道の中ほど左手に、地蔵堂のようなものと水のみ場、
それに右手の松の根元に「天然記念物 旧中山道松並木」の石柱がある。
左手の地蔵堂については、「六部地蔵」というらしい。

この「六部地蔵」について、
(六部とは、「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、
旅をしながら修業している「人」ということで、
厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が
「宝暦十一年頃(1761)」この地で亡くなられたので、
里人が祠を建てお祀りされたといわれております。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と
読まれているように、痛みのひどい病気を治すことで、
名を知られています。)(関が原町)とある。


(松並木)


(松並木2)


(松並木3、天然記念物の石碑)


(六部地蔵と水飲み場)


(六部地蔵)

松並木はここでひとまず終り、国道21号線に信号で合流し、
すぐまた右側の旧街道に入る。
今度は新たに植栽された松並木のようで、
道路には左側に歩道が作られ、
その左に若い松の木が並木よろしく植えられている。
しかし中山道の松並木といわれる大きさになるには、
まだ20~30年掛かるに違いない。
街道の並木を保存するのも並大抵の事ではない苦労がある。

その先で国道21号線に合流すると右側に
「村社 若宮八幡神社」がある。
これから関が原宿に入る。


(一旦21号線に合流した所にある信号)


(信号から先の旧道にある松並木)


(すぐ21号線に合流し右奥に見える林が若宮神社)











国指定史跡「垂井の一里塚」(旧中山道を歩く 273)

2011年10月16日 10時29分14秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(広重描く浮世絵「垂井」)


(突き当たりに見える「西の見付」を広重は描いた)

(垂井宿4)
広重が浮世絵を描いた場所、「西の見付」を通り越して、
左に松島の稲荷神社の前を過ぎると、
東海道本線の踏み切りに突き当たる。
自動車は向こうから一方通行で、人は通ることができる。
すぐ左に「中山道」の案内と国史跡「垂井の一里塚」の案内があるから


(稲荷神社)


(一方通行出口の踏み切り)


(踏切を出たところ国道21号線をまたぐ陸橋)


(田舎に不似合いな一流企業の看板)

案内にしたがって踏み切りを進む。
対面から自動車が入ってくると道路が狭く危険を感じるので、
すばやく通り抜けよう。
抜け出た所が国道21号線で、歩道橋を渡って道路を横断しよう。
振り向くと(日本板硝子株)のブルーの看板が目に入る。
さらに進むと左角の金網の隅に(南宮江近道八丁)の石標があり、
南宮神社への近道を示す道標だ。
先を見ると中山道の道路突き当たりに林らしきものが見える。
垂井の一里塚であろうと見当をつける。


(「南宮江近道八丁」の石碑)


(突き当たりの林のある所が有名な一里塚と思われる)

一里塚の手前に「日守の茶所」の古い建物が左手にある。
垂井町の案内に寄れば、
(江戸末期に、中山道関ヶ原宿の山中の芭蕉ゆかりの地
(常盤御前の墓所)にあった秋風庵を、
明治になって一里塚隣に移築し、中山道を通る人々の休み場として、
昭和初めまで盛んに利用された。
また、大垣新四国八十八箇所弘法の札所とし、
句詠の場としても利用された貴重な建物である。)(垂井町)とある。


(日守の茶所)


(国指定史跡「垂井の一里塚」)

この「日守の茶所」の隣に国史跡「垂井の一里塚」がある。
南側の一基だけが残って、塚の頂に松の木が植えられている。
本来一里塚は南北両側に造られ、頂に榎が植えられていた。
北側の一基がなくなっているのはまことに残念である。
今まで中山道を歩いて、南北両方とも残っているのは僅か15基のみ。
これから何基あるのだろうか・・・


(垂井の一里塚2)

中山道にある国指定史跡として残る一里塚は、
東京都板橋区にある「志村の一里塚」とここの二箇所のみである。
また、「垂井の一里塚」は、残念ながら南側の一基だけであるが、
「志村の一里塚」は南北一対で残り、頂には榎が植えられて、
往時の原形をとどめている。
また「志村の一里塚」は、
現在、旧中山道を拡幅した国道17号線の両側にある。
道路は往時の中山道より広くなっているが、
一里塚は往時のまま動いてはいないと言われる。
ずいぶん幅広く建てられたものである。

もっとも、旧中山道上で一里塚の幅が広く取られているのは他にもある。
塩尻宿にある「平出の一里塚」がそれだ。
南塚は道路に面してあるが、北塚は民家の向こう側にあり、
双方の間はかなりの開いた間隔がある。


(平出の一里塚、これも松が植えてある。)


(道路を挟んで真正面にある北側の一里塚。民家の裏側にある平出の一里塚。)


(国指定史跡の「志村の一里塚」)





垂井の泉と本龍寺(旧中山道を歩く 272)

2011年10月11日 10時26分53秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(垂井の泉)


(大ケヤキ)


(奥に湧き水が吹き出している見える「垂井の泉」)

(垂井宿3)
玉泉禅寺の山門脇に大ケヤキがあり、
その根元から水がこんこんと湧き出ている。
大ケヤキは樹齢八百年で、
県の天然記念物に指定されている。
あまり大きくなり過ぎたのであろう、
幹の途中 三箇所で伐ってある。
湧き出た水は池を巡って、
鯉が悠々と泳いでいてのどかそのもの。
泉の脇でお年寄りのおじいちゃんが、大根を洗っていた。

鯉が泳いでいる所にも水が噴出している所があり、
じいちゃんに、
「ここの水は本当に湧いているのですか?」と訊ねる。
「飲めるかということですか?」と逆に聞かれてしまった。
話が通じないので、そのまま
「ハイ」と受け流すと、
「飲むことは出来ませんが、野菜の洗い物ぐらいできますよ」と答えた。
お礼を言って会釈して帰ることにした。
大根はそのまま、洗いもしないで刻んで食べるのであろうか?
この湧き水「垂井」が、地名の起源になったという。


(「垂井の泉」湧き水の池)

ここ「垂井の泉」に松尾芭蕉も訪れたのか、

・葱白く 洗いあげたる 寒さかな

を残した句碑が、泉の左手に階段横にある。
(*)筆者注:長い間この俳句の葱をねぎと読んでいたが、
書き残した芭蕉の真蹟自画賛には、

・ねぶかしろく 洗いあげたる 寒さかな

となっており、「ねぎ」 でなく 「ねぶか 」が正しいことが判った。


(芭蕉句碑)


(街道らしい家並み)


(旅籠 長浜屋)


(油屋 卯吉家跡)


(本龍寺)


(明治天皇垂井御小休所の石碑と山門)

大鳥居に向って中山道に戻る途中も旧宿場らしい家が続く。
中山道を西に向う。
旅籠 長浜屋が右手に、ついで油屋宇吉家が左手にある。
道路を挟んで右手に本龍寺があり、
正面には「明治天皇垂井御小休所」の石碑があり、
立派な山門が見える。
このお寺の門や書院の玄関は元脇本陣のものを移築したという。
門を入って左手に本堂があり、本堂南、山門横の鐘楼の西側に時雨庵がある。
本堂と時雨庵の間に芭蕉句碑「作り木塚」もある。

垂井町教育委員会に寄れば、
(松尾芭蕉は元禄4年(1691)
この寺の住職 玄�彼(げんたん)(俳号 規外)と交友があり、
本龍寺に冬篭りして句を残し、
文化六年(1809)美濃派ゆかりの俳人傘狂(さんきょう)らの句碑を建て、
「作り木塚」と呼ばれている。
安政二年(1855)時雨庵ができ、
美濃派十五世園井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も
大切に保管されている。)とある。

芭蕉俳句集(岩波文庫)によると、
(真蹟懐紙に
美濃の国 垂井の宿 規外が許に冬籠もりして、

・作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 

とあり、
これが「作り木塚」と呼ばれるゆえんである。


(脇本陣から移築したという玄関)


(本堂、この左手に「作り木塚」はある)


(時雨庵)


(本堂と時雨庵の間にある「作り木塚」、右上が芭蕉句碑)

本龍寺を出て、中山道を進むと道はやや登りになっていて、
突き当りの形になる手前の左手が「西の見付」になる。
広重の浮世絵木曽海道69次の内「垂井」は、
ここ「西の見付」を描いたものという。
現在と往時を見比べて欲しい。

(財)中山道広重美術館によれば、
(図は、雨がそぼ降る中を大名行列が宿場に差し掛かるところである。
人々は道をあけて座り、
行列の通り過ぎるのを待つことになる。
左右の店は休憩所だが、
どちらの店にも錦絵がかかっている。
左の店には、山に林の印が見え、
これは版元である伊勢利の商標である。
――中略――
本図は、大名行列を真正面見た構図で、
遠近を意識した描写になっている。
左右の休憩所もほぼ対称になっていて興味深い。)とある。


(「西の見付」)


(広重描く浮世絵「木曽海道69次之内 垂井」)








垂井宿(旧中山道を歩く 271)

2011年10月05日 10時47分25秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(垂井宿入り口の相川橋、「東の見付」から)


(垂井宿2)
20011/6/8、雨のち曇り、最高気温24℃の予定。
JR垂井駅を降りて、人足渡しだった相川橋の中山道をスタート。
すぐ左手に東町用心井戸がある。

昔は、どの宿場でも同じように、木造家屋の建築では、
大火事に見舞われることがしばしばであった。
用心のために、火の神様(浅間神社)を祀ったり、
隣家よりの類焼を防ぐために卯建(うだつ)をあげたり、
天水桶に水を張って門口に置いたり、消防団を結成したりなどなど、
防火の準備はそれぞれ行っていた。

垂井宿では防火井戸を用意した。
石組みも立派で、覘いてみると今でも水がみなぎり、
深さも2~3メートルと手ごろな防火井戸です。

(ここ垂井宿では、たびたびの大火に襲われ、
渇水期でも消火用水を確保するために、
西、中、東町にそれぞれ一箇所、
用心井戸を作りました。
ここにあるのは、その内の一つ、
東町の用心井戸です。)(垂井宿観光協会)とある。


(防火のための用心井戸)

道路はこの先で少し右へ曲がると、
その先は道路が突き当たりのように見えます。
突き当たりは旅籠(はたご)亀丸屋で、
今でも営業を続けている。
亀丸屋で道路は鉤の手になっている。


(突き当りが亀丸屋)


(亀丸屋の前が枡形になっているのが判る)

(旅籠亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、
二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している
貴重な旅籠である。
安永6年(1777)に建てられた間口五間・奥行き六.五間の母屋と離れに、
上段の間を含む八畳間が三つあり、
浪花講・文明講の指定宿(*)でもあった。
当時は南側に入り口があり、
二階には、鉄砲窓が残る珍しい造りである。)(垂井町)とある。

県内の中山道で、江戸時代から営業を続けている二軒の中の一軒というが、
もう一軒とは、細久手宿の大黒屋である。(2011年6月現在)

(*)筆者注:浪花講=お伊勢参りに集まった講、
      文明講については不明です。
昔は飯炊き女(女郎)を置いたいかがわしい旅館が多かったのに、
そうではない本来の宿泊を目的としたまじめな旅館を意味する指定旅館を指した。

鉤の手を進むと左に垂井宿の問屋がある。
垂井町の説明によれば、
(間口 5.5間、奥行7.5間の金岩家は、
代々弥一衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を務めた。
問屋には年寄、帳付、馬指、人即指などがいて、
荷物の運送を取り仕きり、
相川の人足渡の手配をしていた。
当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、
常備の25人25匹の人馬で送っていた。
大通行が幕末になると荷物が多くなり、
助郷の人馬を借りて運送した。)とある。


(垂井宿の問屋跡)

垂井宿の中山道は古い家が残っている。
先へ進むと、右手に妻入りの古い家があり、宿場らしい家並みが続く。
左手に本陣跡の石碑があり、その奥は医院になっている。
街道の役目を終わった本陣は、家の造りが大きかったので、
明治維新後、地方郵便局や、地方警察の分署、小学校等に使われた。

ここ垂井宿の本陣は、
(――前略――垂井宿の本陣職を務めた栗田家は、酒造業を営んでいました。
本陣の建物は、安永九年(1780)に焼失しましたが後に再建され,
(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。)(垂井町)とある。


(宿場に残る古い家)


(宿場に残る古い家2)


(垂井宿の本陣跡)

中山道は、その先左手に
「正一位中山 金山彦大神」の金文字の額が掲げられた石の大鳥居が、
脇に二基の常夜灯を置いて建っている。
右手の常夜灯の前に、用心井戸があった場所らしく、
今は不要のため蓋で閉じてある。西町の用心井戸であろう。

この鳥居の下をくぐって左折すると、
右手に玉泉禅寺の石柱があり、そのすぐ先に「垂井の泉」の看板がある。
玉泉禅寺の門前に「垂井の泉」があると言ったほうが解りやすい。


(石の大鳥居)


(常夜灯の前に蓋をしてある用心井戸)


(玉泉禅寺の山門前、左に見えるケヤキ)












垂井宿の入り口「相川橋」(旧中山道を歩く 270)

2011年10月01日 10時38分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(もう一つの「中山道」の案内看板)

(垂井宿)
中山道の案内のある道路には垂井町平尾とあり、
いつの間にか垂井町へ入ってきている。
少し歩くともう一つの「中山道」の案内看板がある。
何の変哲もない町中を歩いて、「中山道」に間違いないだろうかと、
気になり始める頃この案内看板は立っている。

少し先に「平尾御坊道」の自然石の道標がある。
右に行けば、願證寺・平尾御坊(*)へ出る。
(*)筆者注=平尾御坊とは地名平尾にある僧院、寺院を敬って言う言葉。
平尾の願證寺というお寺さんのこと。

(平尾御坊道の道標)

少し進むと(追分)の信号に出る。
信号を渡った左にコンビニがある。
と言うことはコンビニを利用する人口も多く、町の中に入ってきている。

信号が(追分)というから、
別の街道への分かれ道がなくてはおかしいと、
キョロキョロするもそれらしい道路は無い。
丁度歩いてきた、小母さんに
「垂井の駅はどちら?」と訊くと、
「少し行くと、この先に橋がありますから、
その橋を渡って左へ行くと駅ですよ」と回答。
「相当ありますか?」
「いえそれほどでもありませんよ」と仰る。


(追分の信号、左側にコンビにが見える)


(ずいぶん先まで直線は伸びて橋など見えそうもない)

お礼を言って分かれたが、道路は直線で先の方まで見える。
まだ相当ありそう。橋などありそうもない。
諦めて歩くことにした。
田舎の人の少しは、都会の人には計り知れない。

現役時代に、足立区の支店から東京都西多摩郡の支店に転勤になった。
その時、お得意様の挨拶に何軒か車で訪ねた。
「今日はもうこれでお終りにしよう」としたら、案内する人が、
「数分ほどですから、あともう一軒」というので頷いたら、
その数分が距離にしたら7~8kmあったと記憶している。
東京都足立区では、車で数分といえば混雑で2~3kmも走れればよい方、
西多摩郡では信号もなければ、田舎道で混雑もないから7~8kmは走る。
基準となっている物差しが違うのである。


(杭で支えられた地蔵堂)

中山道を進むと、右側に地蔵堂があり、お堂の両側が杭で支えられている。
支えが無ければ、ひっくり返るかもしれない。
道路は先の方で少し左へカーブしている。
近づくとカーブした道路は道にぶつかってT字路になっている様子。
T字路の左手の1画が垂井町の指定史跡になっている
そこには「垂井追分の道標」があり、
(是より 右 東海道大垣みち、左 木曽街道たにぐちみち)とある。


(追分の道標)

垂井町教育委員会の説明では、
(垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、
たいへん賑わう宿場でした。
追分は宿場の東に当たり、旅人が道に迷わないように、
自然石の道標が立てられた。
  ――中略――  
この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋 奥山文左衛門が建てたもので、
中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。)とある。

説明にあるように、昔から、道に迷う人のために道標は作られたのだ。
ボクが迷ったのは、はるか手前に(追分)の信号があるからで、
あの信号が(追分東)にでもなっていれば問題はなかった。


(昔は人足渡しであった相川橋)


(垂井宿東の見付の案内看板)

T字路は川の為で、T字路を右折するとすぐ橋があり、
これを渡ると垂井宿である。
橋を相川橋といい、江戸時代には人足渡しであったと、案内がある。
橋を渡り終えた所が垂井宿の(東の見付)で、
垂井町の説明では、
(垂井町は中山道の始点江戸日本橋から約440km、
五十八番目の宿になります。
見付は宿場の入り口に置かれ、
宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、
非常時には閉鎖したりしました。
ここ東の見付から約766mにわたり垂井宿が広がり、
広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。)とある。

ここで問題は五十八番目の宿場と書かれたことだ。
ボクは五十七番目であると記憶していたが、
これでは大津宿は70番目となり、
中山道69次が中山道70次になってしまう。
人が書く案内だから、こんな間違いがあるものだが、
毎日 目の前を通っている垂井町の住民は気が付かないのだろうか?
住民はともかく垂井町の観光協会や、
観光ガイドの方たちは、
こんな案内を見もしないのであろうか?
小学生や中学生が、住まいの歴史を調べる時に、
間違ってしまう。

すぐ横には、(中山道 垂井宿)の標柱があり、
さらに垂井町商工会青年部が造った立派な(垂井宿案内図)が掲示されている。


(中山道 垂井宿の標柱)


(垂井宿 案内図)

時計を見ると17時近い。
赤坂の金生山明星輪寺で時間をとられ、思わぬ時間が掛かってしまった。
いつもなら16時前後に切り上げる所なのに・・・

相川橋を渡り、左折してJR垂井駅に向かい今日の宿泊場所 大垣駅へ帰る。
本日の歩行数56876歩=約33kmであった。

なお、帰宅後、垂井町役場へ電話して、
江戸から数えて「58番目の宿場」の案内の間違いを、
「57番目の宿場」に訂正して頂くよう
依頼したことは言うまでもない。