中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

象潟(1)-蚶満寺(かんまんじ)(芭蕉の道を歩く 72)

2019年10月31日 01時56分58秒 | 芭蕉の道を歩く


(芭蕉像、看板に奥の細道最北の地とある)

(象潟(きさがた)
鶴岡から船で坂田(現酒田市)へ七里、
酒田は、米、大豆、紅花などを出荷して、
塩、木綿、木材などを入荷する。
四~11月までの間に2,500艘の船が出入した港と言う。
大商業地であったらしく、
芭蕉も歓待されたのであろう、
滞在途中、酒田から象潟へ向かい、
九十九島、八十八潟を眺めて、
四日後には酒田に戻り、
酒田には実質九日間も逗留している。

その象潟へボクも尋ねた。

芭蕉の頃は、仙台の松島に似て、
海に点々と浮ぶ美しい小島であったに違いない、
九十九島、八十八潟と言われる海に浮ぶ島々は、
今は稲穂がたれる田圃の中の小山に過ぎない。

(九十九島の一部)


しかし芭蕉は、象潟で船に乗り象潟の島々を眺め、
蚶満寺(かんまんじ)を訪ねている。
その蚶満寺で船を止め上陸し、
西行法師が詠んだ桜の老木を見て、
蚶満寺の方丈に座り簾を上げて風景を眺めている。

(奥の細道蚶満寺)


(南に鳥海山が聳え、西にはうやむやの関が道を塞ぎ、
東には堤が築かれて、秋田への道が続いている。
北には海があり、その面影は、
点々と島がある松島に似ているようであるが、
似て非なるもののようである。)
(ボクの勝手な現代語訳)
と感想を述べている。

「奥の細道」の原文では、

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
寂しさに悲しみをくわえて、
地勢魂をなやますに似たり。


(松島は笑顔をたたえた様であるが、
象潟の有様は、憂いに沈む美人の風情である。)
(岩波文庫「おくのほそ道」注記より)

「象潟や雨に西施がねぶの花」
「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」


と詠んでいる。

(西施像)


(ねぶの木)


(ここで「西施」と「ねぶの花」が解らないが、
次回、調べた範囲でその説明をしたい。)

さて、蚶満寺には松並木に囲まれたひなびた参道があり、
左手は一面の緑の稲穂の中に象潟の島々がみえ、
参道右手には芭蕉像と句碑、
造ったばかりに感じられる西施像がある。

(ひなびた長い参道)


(左手の島々)


(芭蕉像)


ながい参道の突き当たりに、
古色蒼然とした佇まいの山門があり、
その先に六地蔵が出迎えて、
赤い帽子と前掛けをつけて建っている。
本堂へはうっそうとした木立の中を抜けていかなければならない。

(古色蒼然とした山門)


(林がかぶさるような本堂への道)


(六地蔵)


(鐘楼前の芭蕉の木)


(本堂)


(西行の歌桜)


すぐ目の前に鐘楼があり、手前に芭蕉の木が目に入る。
芭蕉があるということは、
東北とは言え、このあたりは温暖なのであろう。
左手に本堂が見える。
本堂左横を潜り抜けると、裏庭に通じており、
西行が歌を詠んだ桜の木(何代目かの若木)と歌碑が左手にあり、

・きさかたの桜は波にうずもれて
         花の上漕ぐ海士(あま)のつり舟


とある。
その手前に芭蕉が船から降りた「舟つなぎ石」があり、
イヌクスの大木が枝を広げ、
右手は盛り上がった小山があり芭蕉句碑が置かれている。

(芭蕉句碑)


芭蕉句碑には、

・象潟の雨に西施がねぶの里

と初案の句が刻まれている。


(舟つなぎ石)


(イヌクスの木)




湯殿山神社ー「語る無かれ、聞くなかれ」の霊域(芭蕉の道を歩く 71)

2019年10月29日 01時48分42秒 | 芭蕉の道を歩く



(湯殿山の大鳥居)


(湯殿山神社)
月山から、芭蕉は「奥の細道」に
(月出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。)
と書いている。

月山から湯殿山に下る途中、三尺ほどの桜の木が、
花開きかけているの見つけて、
月山は雪深いが、桜は雪に埋もれていても、
春を忘れないでいる花の心はすばらしい、と感心している。

「奥の細道」を見ると、
月山から芭蕉は山を下って湯殿山へ向っているが、
ボク達はバスで、月山を下り、湯殿山神社へ上っている。
湯殿山神社の赤い大きな鳥居が見える駐車場で、
シャトルバスに乗り換え、十分ほどシャトルバスに揺られ、
湯殿山神社の神域に入る。
ここから先は、カメラ撮影は禁止区域だと念を押される。
さらに細い山道を登り、ご神体のある場所の手前、
お払い場所に到着する。


(駐車場が見える湯殿山の鳥居)


(シャトルバスに乗り換えさらに山を登る)

湯殿山神社参詣の折、ここから神域と言う所まで来て、
衣服を整え、所持品をカメラもお金も全て小屋に置いて、
履物を脱いで裸足になる。
その後、御祓いを受けてからでないと、
本宮の参詣は許されない。

お祓いを受ける際、人型に切り抜いた紙を渡され、
お祓いを受けた後、その紙で身体を頭から手、胴、足へと撫で回し、
自らの穢れを祓う。
清めた人型の紙は、ご神体から流れ出た水に自らの穢れと共に流す。

湯殿山は古来出羽三山の奥宮とされ、
芭蕉が奥の細道に書いているように、
(惣じて、この山中の微細、行者の方式として他言する事を禁ず。)
湯殿山神社は、修験道の霊地で、「語るなかれ」「聞く無かれ」と、
戒められた聖地である。
従って微に入り細に渡って書いてはならない、とされる。
本当は何も書かず、お知らせしないのが、
湯殿山神社にとって、神秘で幽玄な修験道の霊地となるが、
敢えて、決まりを破って、記憶の範囲で述べたい。

ご神体は赤い大きな岩でその上をお湯が絶えず流れており、
その上を3mほど素足で上る。
お湯は五十度ほどの温度だそうで、
最初素足には熱く感じるが、急な上りを歩くうちに慣れてくる。
お湯は大きな黒い岩を六分ほど登ってところから、
滾々と湧き出ている。
湧き出ている所には編んだ青竹の蓋がしてあった。

赤い大きな岩を降りてくるときは、滑り落ちないように、
竹で作った手すりに捕まりながら、上ってきた同じ道を降りてくる。
降りきった所に、足湯が出来る場所があり、
足をお湯につけて、熱いお湯にさらされた足をなだめる。
上がって足をタオルで拭くとタオルは赤く染まっていた。
ご神体の赤い大きな岩の色は鉄分によるものと思われる。

この赤い大きな岩のご神体には、お金が落ちていた。
この場所では、拾う事も叶わない霊域で、
芭蕉の時代には、懐に入れたお金がばらばらと落ちた事は、
容易に想像される。あるいは賽銭として投げたものであろうか。

そこで、芭蕉が詠んだ俳句、

・ 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな

(きまりで語ることが出来ない湯殿山の神秘なありがたさに、
思わず涙を流し、袂も濡れた事である。)も、

曾良が詠んだ俳句、

・湯殿山 銭ふむ道の 泪かな

(湯殿山の参道に賽銭が散らばっている。
拾う人も無い銭を踏みつつ神域の尊さに涙が流れる)の、

双方の句の意味がよく理解できる。

話し変わって、
その後、足を拭いて赤く汚れたタオルを見ないが、
カミサンが処分してしまったに違いない。
霊験あらたかなご神体から、
流れ落ちるお湯をふき取ったタオルだから、
どこかに大切にしまってあるかもしれない。

足を拭き終わって、身支度を整えてから、
自らの穢れを流した、人型の紙が流に浮かんでいたので、
流に浮ぶ大勢の人型の紙を、写真に撮りたいと、申し出ると、
「撮影は禁じられています。」という。
「どうしてですか?」と訊くと、
「これは女性の裸を撮るようなものです。」と回答された。
神秘なものと言いたかったのか、わいせつ罪に問われますよと、
言いたかったのか判らないが、それに反論して、
「ボクはヌード写真家だから丁度良いじゃあないですか」というと
相手の方は黙り込んでしまった。

からかうのも気の毒になって、
カメラをそこでそっとオンにして、
首からぶら下げたまま引き下がった。

霊場から少し離れて坂を登ったところで、
紙人形を浮かべた場所が見える所に来たので、
そっとシャッターを切った。
後で見たら、ピンボケで残念ですが
(神社から言えば、丁度良かったかも知れない)、
人型に切り抜いた紙が浮ぶ流れが、
撮れていますのでご覧ください。

湯殿山神社から芭蕉たちは月山に戻り、
鶴岡へ行っている。


(ピンボケの流れに浮ぶ人型に切り抜いた紙々)

なお、湯殿山には、赤い大きな鳥居下に即身仏がいくつかあったが、
今は、映画「月山」で使用したレプリカの即身仏が置かれてある。




月山の八合目ー弥陀ヶ原湿原(芭蕉の道を歩く 70)

2019年10月26日 01時46分06秒 | 芭蕉の道を歩く


(車窓から見た月山ー遠くの奥に見える右側の山)

(月山の弥陀ヶ原湿原)
芭蕉は、出羽三山では、羽黒山から月山・湯殿山と参詣して、
湯殿山ー月山ー羽黒山と戻り、
鶴岡に行っている。

昨日羽黒山へ行ったから、
芭蕉と同じように、月山に向う。
月山に向うといっても、
羽黒山の階段ですら昇れない年寄りのボクは、
標高1984mある月山には、八合目までバスにお願いする。
八合目まで行ったとしても、
そこから頂上まで行ってかえるには、
健脚の方で2時間半かかると言うから、
ボク達は月山の雰囲気だけ味わう意味で、
八合目にある弥陀ヶ原湿原を歩く事になっている。


(月山ー弥陀ヶ原湿原)

湿原とは言いながら、
1時間ほど前までガスが掛かって、
一メートル前も見えない状態であった場所。
幸運と言うのか、風がガスを払いのけて見晴らしが良くなっている。
少なくとも湿原だけは見ることが出来る。
それでも標高1400mあるというから、山はあなどれない。
時には月山の全貌も少しは見えるかなといった期待はあった。


(ガスに囲まれる弥陀ヶ原湿原、芭蕉が「雲霞山気の中に」と述べた)


(霧に包まれた月山、山裾が少し見える)


(湿原が見える程度の霧)


(雲霞の間に見える湿原)

ここで「奥の細道」から芭蕉の名文を載せておきたい。

「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、
宝冠に頭を包み、強力というものに導かれて、
雲霞(うんか)山気の中に、
氷雪を踏んでのぼる事八里、
更に日月行道(にちげつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入るかとあやしまれ、
息絶え(いきたえ)身こごえて頂上に至れば、
日没して月顕(あらわ)る。
笹を鋪(しき)、篠を枕として、臥して明くるを待、
日出でて雲消(きゆ)れば、湯殿に下る。ー後略」


(注、岩波書店「奥の細道」の解説による)
(*1)木綿しめ= 紙縒り(こより)で作った袈裟のことで、
月山、湯殿山に登る間、これを首にかけた。
(*2)宝冠=頭を覆う白布のかぶりもの。
(*3)日月行道の雲関に入る=高い所だから、
太陽と月が雲で作った関所に入ったかの様の思われ。

八合目の月山レストハウス前に集合して、
二班に分かれてガイドに従う事になる。
レストハウスの前には山伏のような、
神々を詣でる白装束の人が何人かいた。


(白装束の先達が白い宝冠というかぶりものを付けている)

山岳ガイドは、湿原の案内が年寄りの大勢で、
がっかりしたようであるが、準備運動をさせて、

「一緒に歩いて行けないと思ったら、
勇気を出して、どうぞリタイアしてください、
道は木道になっていて判りやすいので、
恥ずかしい事はありませんから、遠慮なく戻ってください。
ただ、その場合は近くの方に判るようにしてください。
一列で進みますので、後ろのほうは、私にも解りませんので。」という。

こんな時、足に自信のある方が、ガイドのすぐ後ろにいるものである。
ボクはこんな時、意識してなるべく後ろの方にいるようにしている。
十年に及ぶ長い旅行の経験からだ。
誰が何処で抜けたか、記憶しておくと便利であるからだ。

最近、外国の旅行では、イヤホーンガイドが多くなっているが、
旅行者は興味のあるところで、立ち止まって観ていると、
どんどん集団から離れていても、
耳にはいやホーンがあるから説明が近くに聞こえ、
集団はすぐ近くにいるように錯覚してしまうからだ。

特にカメラなど構えている人は、
アングルだとか、シャッタースピードとか、
あれこれカメラをいじっている内に、
集団から遠く離れている事があるからだ。
挙句の果てに思わぬ方向に移動してしまい、
迷子になるケースがある。

脱線してしまったが、
(霧が晴れた僅かな時間に、
月山の湿原をよく見て欲しい)ガイドの希望もあって、
少し早めに歩くが、付いていくのが厳しい人もいる。
一列になっているから列が長く伸びてしまう。
ガイドさんは声が大きく、高山植物の名前もよく聞き取れるが、
さて、どの花の名前か後ろの方では、よく判らない。


(高山植物)


(高山植物2)


(あざみ?)

やっと覚えた湿原に咲く高山植物の名前も、
そのときは覚えているのに、
家に帰ってお風呂に入ったが最後、
忘れてしまう。

湿原の中にあるさまざまな形をした池を「池塘(ちとう)」と言うらしいが、
ハートの形をしたり、ひょうたんの形をしたり、
さまざまであるが、一ついえることは、
風が吹く方向に深く入り込んでいるとのこと。
さまざまな「池塘(ちとう)」をご覧ください。


「池塘(ちとう)」


(ハートの形をした池2)


「池塘(ちとう)3」


「池塘(ちとう)4」


「池塘(ちとう)の中の花」

やがて月山頂上への登山口に出る。
登山口には鳥居があって、
手前に「東日本大震災」で被害を受けられた人の冥福を祈る卒塔婆があり、
新しい地蔵像が建っている。
その手前に、狛犬でなく、大きな兎の石造がある。
月山の月にちなんで兎かと洒落ている。


(なで兎と書いてある)


(月山頂上へ八合目の登山口)


芭蕉は月山に登り、

・雲の峯いくつ崩れて月の山

(日中峰にかかっていた入道雲が、いくつか崩れて、
今は月山に月が、かかっている。)

の俳句を残し、湯殿山に向っている。




羽黒山 五重塔(芭蕉の道を歩く 69)

2019年10月24日 01時41分00秒 | 芭蕉の道を歩く


(長~い階段)

(五重塔)
羽黒山の三神合祭殿に来るには、
麓から2446段の2kmの及ぶ階段を、
一の坂、二の坂、三の坂と登ってくるのが普通であるが、
この階段を登るには年寄りには厳しかろうと、
旅行社が前もって組んだ計画が、
バスで最初に羽黒山頂のバスターミナルへ到着、
そして、三神合祭殿に出る、であった。

参拝後、バスで山を下り、
羽黒山への入り口、出羽三山神社への石の鳥居をくぐり、
その後ろにある古風な随身門をくぐり、
恐るべき長が~いの階段に沿って、
祓川を神橋で渡り、右手の祓川神社を横に見て進む。

(出羽三山神社の石の鳥居)


(古風な随身門)


(祓川を渡る神橋)


(橋の向こうに見える祓川神社)


(祓川神社後ろの須賀の滝が見える)


祓川神社の後ろにある滝、須賀の滝は、
江戸時代に遠く月山から水を引いて造られた。
階段をしばらく進むと、左手上の奥に五重塔が見える。

(五重塔)


出羽三山神社によると
(国宝五重塔は、1050年ほど前の承平年間に、
平将門の建立と伝えられる。
長慶天皇の文中年間に再建(約620年前)。
慶長十三年出羽守最上義光が修造し今日に至るとされる。    
               -中略
昭和四年国宝に指定され、素木(しらき)造りの�達葺(こけらぶき)、
釘一本使われていない。)
高さ24mほどあり見事なものであり感動した。

(2446段の階段の始まり、この先一の坂へ続く)


階段はこのあと続いて、一の坂、二の坂、三の坂となるが、
時間が合って休み休みならともかく、年寄りにはこれ以上無理と言うもの。
階段を下って随身門近くは、上り階段となる。

随身門を出るとここ羽黒山へは、
芭蕉が来た事を示す案内杭が立てられている。

「奥の細道芭蕉翁来訪の地」と白地に黒々と書かれている。

羽黒山で、芭蕉は、

・涼しさやほの三日月の羽黒山

の句を残している。

(芭蕉来訪の地の看板)






出羽三山の内 羽黒山(芭蕉の道を歩く 68)

2019年10月22日 01時38分48秒 | 芭蕉の道を歩く


(出羽三山の配置地図)


(羽黒山)
バスに連れられて、先ず羽黒山に行く。
頂上のバスターミナルには、すでに先客のバスが来ている。
回りは古い杉木立が並んでいて、
これこそ古い神社、という感じだ。
ボクにとっては、箱根の杉並木、日光東照宮の杉並木を想い起こさせる。

(羽黒山山頂のバスターミナル)


昼食をとって、羽黒山神社へ。
杉並木の中を抜けて、
しばらく行くと左手奥に、蜂子(はちこ)皇子陵があり、
墓には菊の御紋があり、今も宮内庁管理で、宮内庁と記され事務所用の小屋がある。

(*)蜂子皇子は父の崇俊天皇(592)が、蘇我馬子によって暗殺されたため、
馬子から逃れるため、海を船で北に向かい鶴岡市由良にたどり着いた。
カラスに導かれて羽黒山に登り出羽三山を切り開いた。


(杉並木)


(杉並木2)


(杉並木左手、宮内庁管理の蜂子皇子の墓)


さらに進むと、紅い大きな鳥居があって、
扁額に「出羽(いでは)神社、月山神社、湯殿山神社」とあり、
広々とした場所に出る。
三神合祭殿があるところである。
出羽(いでは)神社とあるのは羽黒神社のことを言うのかと思いながら進む。

(赤い大鳥居)


(下乗(馬は下りろ)の文字が見える大鳥居)


(鳥居の扁額)


右手前には、芭蕉の行脚銅像がある。
行脚像の右手に芭蕉句碑があり、三山巡礼の句が刻まれている。

・ 涼しさやほの三か月の羽黒山
・ 語られぬ湯殿にぬらす袂かな (加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那)
・ 雲の峯幾つ崩れて月の山

第一句と二句の変体仮名は読めたが、第三句は読めなかった。
ガイドさんに聞いて、やっと解かった。

(芭蕉の行脚像)


(芭蕉の三山巡礼句碑)


赤い鳥居をくぐると、右手に鐘楼があり、その奥に参集殿がある。
さらに左へ目を向けると、三神合祭殿がある。
厚い茅葺屋根に覆われた荘厳な神殿である。
仲間の人たちは競って階段を昇り御参りをする。
三神合祭殿の前に、鏡池がある。

(参集殿と鐘楼)


(鐘楼)


(三神合祭殿)


(三神合祭殿 2)


(鏡池)


古鏡と題して次のように説明板が建っている。
(鏡池は、御手洗の池といい、
古鏡が多数埋納されていたので鏡池とも言う。
今までに五百面以上の出土を見たが、
現在、神社の博物館に百九十面が収録されている。
これは平安から鎌倉時代に行われた、
池中納鏡の信仰によるものである。
殆んどが青銅鏡で、時代別に見ると、
平安九十一面・鎌倉五十三面・江戸三面・時代不詳三十七面である。
出羽三山の信仰を物語る貴重な資料で、
現在重要文化財に指定されている。)

杉木立に囲まれた池は、古鏡がなくなったせいか、
一面に浮き草が繁茂している。
どうやら黄色の花が咲く「こうほね」であるらしい。

(鏡池 2)


古い鏡を見るために、博物館へ入る。
入り口に大きな天狗の面とカラスの面が並んでいた。
展示室に入ると、ボク達夫婦二人だけの閲覧者で、
冷房が効いていてとてもさわやかであった。

霊山だけあって、山伏の衣裳などが展示してある中、
古鏡も何点か飾られていた。
大きな手鏡を予想していたボクには、
直径20cm以下の大きさの青銅製の鏡であったのには少々がっかり。

(天狗の面)


(山伏の衣裳)


(古鏡)


しかし平安・鎌倉時代の古鏡で貴重なものであろう。
当然、まわりの商人達は「古鏡」と名づけた和菓子を作って、
商売にするという抜け目無さは目に余る。

しかしカミサンが自分の友人のお土産に購入したのは、
言うまでも無い。

芭蕉の足跡を歩く事が目的のボクとしては、
今日は、まずまずの成果であった。



世界文化遺産の毛越寺(もうつうじ)と観自在王院跡(芭蕉の道を歩く 67)

2019年10月19日 07時38分20秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉7)
中尊寺の金色堂・旧覆堂・経蔵をみて、芭蕉像も見て、
月見坂を下り、中尊寺の信号をわたり、
金鶏山の麓を廻って、一関学院の生徒の案内で、
平泉文化遺産センターに到着する。
平泉の文化遺産にまつわる資料の展示がしてある。

女性は十二単衣を試着し、展示してある牛車に乗ることが出来る。
男性も往時の衣装を着用できるが、見学者で試着する人はいなかった。
ずいぶん重そうな衣装に見えた。

見学を終えて外に出ると雨がぱらついており、
文化センターに置いてある傘を生徒が借りてきて、
必要な人に配っていた。
ボクは、天気予報によると「平泉地方は、晴であるが午後3時ごろ、
弱い雨がある」とのことだったので、傘を用意していたが、
時間までぴったり合っている天気予報の正確さに驚いた。

傘を差してしばらく歩くと、アスファルトの道路に水たまりができ、
天気予報の弱い雨の程度を推し量ることが出来た。
そう思った頃に、雨は小降りになり、止んでしまった。

すると、「間もなく毛越寺です。元気を出してください。」
一関学院の生徒さんが勇気づける。
雨は降るし、通算8kmになることは解っていたが、
文化センターでの休憩が疲れを増幅したようだ。

重い足を引きづって松林が見えてきた。
目的地である。

毛越寺を(もうつうじ)とはなかなか読めない。
初めて毛越寺を知ったとき、ボクは(もうえつじ)と読んで居た。
ある時、カナをつけたガイドブックを見て初めて(もうつうじ)と読むのを知った。

中尊寺方面からくると「観自在王院跡」に先に到着する。
しかも入口はないから裏側から入って行く感じだ。
「観自在王院」は二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院でその跡地。
ほぼ完全に残っている浄土庭園の遺構は、
平安時代に書かれた日本最古の庭園書、
「作庭記」の作法どうりで、
極楽浄土を表現した庭園と考えられている。」(岩手県教育委員会)

(観自在王院史跡公園の案内)

(雨上がりで雲の厚い観自在王院庭園)

(観自在王院跡と毛越寺の間にある車宿であった所、牛車が並んだ)


「観自在王院」は、藤原二代基衡の妻が作ったものであるが、
「毛越寺」は、
「二代基衡が造営に着手、三代秀衡の代になって完成した。
往時には堂塔40、禅房500の規模を誇り、
金堂円隆寺は「吾朝無双」と評された。
池は大泉ヶ池と呼ばれ、平安時代の優美な作庭造園の形を
今にとどめています。」(岩手県教育委員会)

すべての建物は焼失したが、浄土庭園と南大門などの伽藍遺構はほぼ残されている。

(毛越寺入口)

(毛越寺の本堂)

(毛越寺の大泉ヶ池、奥に見える白い棒杭が塔堂のあった場所)

(毛越寺の大泉ヶ池2)

(南大門から見た池)

(塔堂の跡)

(塔堂の跡2)


大泉ヶ池に流れ込む「鑓水(やりみず)」の遺構は、往時のまま発掘された。
「鑓水」については説明板をご覧ください。

(鑓水の説明板)

(鑓水)


説明板によると、「鑓水」は「曲水の宴」(*)の舞台になるとあるが、
清らかな水の流れを利用し、流れてくる盃で酒を飲み、
流れてくるまでの間に一首歌を詠み、盃を流す遊びの場となった。

(「曲水の宴の図」ネットより)


(*)「曲水の宴」(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))とは、
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、
流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、
別堂でその詩歌を披講するという行事である。(Wikipediaより)

毛越寺を出る前に、毛越寺の紹介でよく見る写真「大泉ヶ池の立石」をご覧ください。



おわりに、熱心に観光して、沢山質問をしたせいか、岩手TVのインタービュー受けたが、
実際に放映されたかどうかは解らない。

最後に、
一関学院高校郷土史文化研究会の顧問の先生から挨拶があり、
修了式があった。
お礼代わりに、
「学生生活はこれだけじゃあないから、しっかり勉強もしなさいよ」
と言って別れてきました。


とても楽しい一日が終わった。


(挨拶をする、クラブ顧問)

(生徒達1)

(生徒達2)


・気高さに 心洗われ 百舌鳥が鳴き    hide-san


世界遺産:中尊寺と金色堂(芭蕉の道を歩く 66)

2019年10月16日 07時36分07秒 | 芭蕉の道を歩く
(杉木立の月見坂)


(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。

平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。

前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。

(中尊寺山門)

(中尊寺本堂)

(本堂入口の参拝客)

(本堂の金色の仏像)


本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。

中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。

仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。

物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。

韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。

話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。

中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。

さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。

芭蕉は、
兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。

・五月雨の 降りのこしてや 光堂
」と述べている。

(金色堂の案内)

(金色堂への道)

(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)

芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。

(撮影できない金色堂ネットから)

(撮影できない金色堂内陣ネットから)


芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)

*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。

(経蔵)


(芭蕉が見た旧覆堂)

(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)


・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま  hide-san

武蔵坊弁慶(芭蕉の道を歩く 65)

2019年10月14日 07時32分49秒 | 芭蕉の道を歩く
(関山中尊寺入口)


(平泉 5)
(中尊寺)信号を渡った右手は「関山中尊寺」の石柱がみえ、
月見坂が奥に続いている。

(中尊寺)の信号左手に、古い松の生えた一画があり、ここが弁慶の墓である。
弁慶の墓には立派な墓碑があり、墓は竹垣に囲まれ一段高くなっている。
そこに松が植えられ、五輪の塔と句碑が建っている。

義経の居城高館が焼打ちされるや、弁慶は寄せ来る敵の前に立ち、
(この先に進むことならず)と長刀を立てて立ちふさがった。
最後まで主君を守り、ついに衣川の古戦場で立往生したと言う。
遺骸をこの地に葬り五輪の塔を建て、
後世、中尊寺の僧 素鳥の詠んだ句碑が建てられた。

句碑に

・色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

とある。

(弁慶の墓の案内)

(武蔵坊弁慶の墓の碑)

(松の木と五輪の塔と句碑)

(武蔵坊の「武」がかろうじて読める句碑)


ボクより若いハイキング参加者は、月見坂をどんどん先へ行く。
一番最後を遅れながら、喘ぎ喘ぎ月見坂を登って振り返って見ると、
月見坂は大杉に囲まれた美しい坂道であった。

(古杉に囲まれた美しい月見坂)


左手に弁慶堂がある。右手を「東物見台」と言い、
眼下に衣川があり北上川に合流している。
ここが衣川の古戦場であり、弁慶立往生の地とも言われる。
しかし伝説では義経とともに大陸に渡り、暴れまわっていたとも言う。
「東物見台」左手に西行法師の歌碑がある。

・ききもせず 束稲やまのさくら花
         よし野のほかの かかるべしとは

とあるようだ。(読めなかったので)

(衣川の古戦場。右手に見える橋の下を流れる衣川、手前の陸橋は東北新幹線)

(右手に束稲山が見える古戦場)

(西行法師の歌碑)

(弁慶堂)

(立ち往生した弁慶を演じる一関学院の高校生)


その弁慶堂の先の右手に地蔵堂が見える。
地蔵堂に入る手前の右手に、臼田亜浪の句碑、

・夢の世の 春は寒かり 啼け閑古  亜浪

とあり、その先に、もう一つの西行法師の歌碑がある。
始めに説明文があり、続いて和歌がある。

「みちのくにに 平泉にむかひて 束稲と申す山の
はべるに はなの咲きたるを 見てよめる。

・ききもせず 束稲やまの さくら花
   よし野のほかに かかるべしとは」


とある。

奥州藤原氏が栄えた時代には、この束稲山には一万本の桜が植えられていたという。
平安時代の歌人西行法師が平泉を訪れた際にその桜を見て、
詠んだ歌碑が建てられている。

奥州藤原氏がよし野を偲んで桜を植えたものと思われる。

(地蔵堂)

(地蔵堂へ入るまでの右手に臼田亜浪の句碑)

(「夢の世の・・」の句)

(説明文と並んである西行の歌碑)


・秋空の ガイドに聞き入る 弁慶堂   hide-san

高館義経堂(芭蕉の道を歩く 64)

2019年10月12日 07時00分46秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉4)
芭蕉は、各地を歌を詠みながら歩いた西行法師を慕い、
和歌に詠まれた歌枕(名所旧跡)を訪ね、
悲劇の武将 義経を慕って歩いている。
ここ平泉は、壇ノ浦やヒヨドリ越えの戦で名を馳せた義経の最期の場所である。

奥州の藤原秀衡が造った無量光院跡を見学して北上し、
義経終焉の地「高館義経堂」を訪ねている。

芭蕉は「奥の細道」で次のように記している。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
(中略)
さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、
笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

・夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

・卯の花に 兼房みゆる 白毛(しらが)かな  曽良」


(芭蕉句碑:上部に俳句、下部に「奥の細道」の一節が載る)

(「夏草や・・」の芭蕉句碑)


高舘義経堂横に義経主従の供養塔がある。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、
藤原氏三代 秀衡に庇護されていましたが、
文治五年四月三十日、頼朝の圧力に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲に遭い、
この地で妻子とともに自害したと伝えられている。
天和三年(1683)仙台藩主 伊達綱村が義経を偲んで建てたのが義経堂です。

(高館義経堂入口の階段、この上にもう一つ階段がある)

(義経堂までのもう一つの階段)

(義経堂)


運命に翻弄され、この地で31歳の短い人生を終えた義経と、
その義経を信じて戦い抜いた弁慶、それぞれの生涯に思いを馳せ、
昭和61年建立された義経主従供養塔が義経堂の横にある。

(横にある義経主従供養塔)


(高舘展望の図)

(高舘から見る開けた景色:奥に束稲山が見える)

(高舘から見える北上川)


「吾妻鑑」によれば、
(義経は「衣河舘(ころもがわのたち)」に滞在しているところを襲われたとあるが、
今は「判官の館」と呼ばれるこの地が「衣河舘」であったろうか。)とある。

自害の後、義経の首は塩詰めにして鎌倉に送られたと言われているが、
時は夏、平泉から鎌倉に着くまでに、
顔は崩れて義経かどうか判別出来たかどうか解らない。

そのためか、次のような伝説が残るという。
「義経北行き伝説」
(悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、
文治五年(1189)四月、
平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、
短くも華麗だったその生涯を想い
”義経はその一年前にひそかに平泉を脱出し北を目指して旅に出た”
と言う伝説を作り上げた。
世に言う「判官びいき」であろう。

その伝説では
”文治五年、この館で自刃したのは、
義経の影武者【杉目太郎行信】であって、
義経はその一年前に弁慶等を伴い館を出て、
束稲山を越え長い北への旅に出たのであろう”
と伝えられている。(佐々木勝三著「義経は生きていた」)
(岩手県観光協会)
そしてモンゴルに渡り「ジンギスカン」として名を馳せた、
と一関学院の生徒さんの解説であった。

(伝説の看板)


この伝説はただの伝説ではない。
「奥の細道」の第一級の解説書と言われる「おくのほそ道菅菰抄」は、
次のように注釈(筆者の要約)をつけている。少し長いが紹介しておきたい。

「義経追討の事、ある説に言う。

秀衡 病にて将に死なんとするとき、三人の子供に遺言して言うには、

(鎌倉将軍 頼朝の人となりは信用に足りない。
義経を滅ぼし、その上わが所領をも奪おうとする計画を持っているように思う。
けれども、私が存命であるが故に、未だ手を出すことができないでいる。
私が死んだら、必ず義経を討つだろう。
そうなるとお前たちの身にも危険が迫るだろう。
私の死後には、国衡(錦戸太郎)泰衡(伊達次郎)は、
偽って義経の討手となるよう願い出なさい。
忠衡(和泉三郎)は、義経に従って、仮にも討手を防ぎ、
義経、および義経の近臣を皆蝦夷(エゾ)に逃がすように)

と言いつけて、秀衡は死んでしまった。

父親が言った通り、いくらも経たない内に、
鎌倉より義経追討のニュースが聞こえてきた。

秀衡の子供たちは、父の遺命をよく守り、国衡・泰衡は高館を攻め、
忠衡は義経に代わり自殺して焼死し、誰であるか分からなくしてしまった。
また近臣の亀井、片岡、弁慶をも、各人に変えて別人を戦死させ、
義経をこれら近臣者とともに蝦夷へ送ってしまった。
その後、國衡・泰衡も最後には頼朝のためにほろばされた。

義経は中華にわたり列候となり、義行王といった。
(中略)
当時の中華は韃靼人(モンゴル人)の世で、これを清という。
これは義経を祖とする清和源氏の「清」を採り「清(しん)」としている。
今、清朝王の城下の家々には、義経の画像を門柱に貼るという。」とある。

義経の中国大陸への脱出伝説は、この解説書によるところが大きい。
江戸時代の解説書ですから、現代文にするには少々手間取りました。

*「奥の細道菅菰抄(すがこもしょう)」は「奥の細道」の100年後に、
簑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)によって書かれたもの。
すぐれた芭蕉研究家で、芭蕉の足跡をほぼ実地に歩き、
奥の細道の解説書を十年かけて完成させた。
和・漢・仏に渡る123部の引用書目を駆使して、
精細で正確な注釈をした。(岩波文庫「おくのほそ道」より)


高館義経堂の階段を下りて、すぐ右折し線路わきを進むと、
「卯の花清水」の石柱と平泉観光協会の説明碑がある。
曽良の読んだ俳句「卯の花・・」の説明碑は見事で紹介しておきたい。

(文治五年うるう四月、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の、
悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、
敵将もろとも燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った
白髪の老臣、兼房、齢六十六。
元禄二年五月、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、
「夏草」と「卯の花」の二句を残した。

白く白く卯の花が咲いている、
ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんと湧き、里人、
いつしか、「卯の花清水」と名付けて愛用してきた。

行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、
渇きをいやし、そこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、
花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。
昭和五十年卯月三十日 平泉町観光協会建之)とある。

(卯の花清水)

(卯の花清水の説明碑)


義経堂を出て、東北本線のレールに沿って進み踏切を渡ると、
(中尊寺)の信号に出る。
その信号脇に「弁慶の墓」がある。

(中尊寺の信号)

無量光院跡(世界文化遺産)(芭蕉の道を歩く 63)

2019年10月09日 07時22分10秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉3:世界遺産、無量光院跡)
世界文化遺産の無量光院跡は柳之御所史跡公園の西、
田んぼの中を抜けて出た所にある。

そもそも世界文化遺産に登録されたのは、
平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群で、
無量光院跡、金鶏山、金色堂・覆堂・経蔵を含む中尊寺、
毛越寺、観自在王院跡、である。

「藤原秀衡が、宇治の平等院の鳳凰堂ににならい建立した寺院跡で、
遺跡のほとんどが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っている。
南北に長い伽藍の中心線には東門・中島・本堂を貫いて、
その先の金鶏山と直線で結ばれます。
春秋の年二回、その稜線上本堂の後ろの金鶏山の頂上に朝日が昇り、
逆に、本堂前面には、夕刻となると日輪が下がり、
一日で一番荘厳な落日の一瞬が観られます。
平等院とは違った、極楽浄土を体感できるよう計算された空間である。」
(岩手県教育委員会)

現在も発掘調査が進められており、
将来は池を中心に修復整備される予定だそうです。

(想像される無量光院)


池の向こうに、今も発掘調査中の人が見え、
美しい松林の背景に、
これまた世界遺産に登録された金鶏山が美しさを引き立てています。

「金鶏山は奥州藤原氏によって山頂に大規模な経塚が営まれた信仰の山で、
中尊寺と毛越寺のほぼ中間地点にあり、
平泉を守るため雌雄一対の黄金の鶏を埋めたと言われて、金鶏山と呼ばれる。」
(岩手県教育委員会)

松尾芭蕉も「金鶏山のみ形を残す」と、
平泉には金鶏山だけが形を残していると、
その印象を「奥の細道」に記しています。

(無量光院の池)

(無量光院の池2)

(松の間に見える小山が世界遺産の金鶏山)


松尾芭蕉は、悲劇の武将 源義経を慕っており、次に「高館義経堂」を訪ねています。