中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

日ノ岡峠と亀の水不動と三条大橋(旧中山道を歩く 334)

2012年06月28日 13時03分02秒 | 8.山城(京都府)の旧中山道を歩く(333~33


(分かり難い左折道路、人がいたら亀の水不動を方向を訊ねよう)

(三条大橋2)
三条通りを、東海道線のガードをくぐり左にある(みどりの径)入り口の先、
左折の狭い道路をはいる。
道なりに進むと、先ほどの(みどりの径)と交差するが、
なお先まで進むと、段違いの交叉点にでる。
この交差点も直進する。
狭い道で、これが本当に旧東海道かと思われるが、
進むと広い開けた場所に出る。
(ここでボクは亀の水不動は直進か右手の花屋さんに聞いた)
亀の水不動は直進で正しい。
道路はだんだん上り坂になる。日ノ岡峠に向うからだ。
民家の間を抜けて、峠道を歩くと左手に「亀の水不動」がある。


(みどりの径と交差する)


(その先の段違いの十字路を直進)


(狭い道を怪しみながら進む)


(開けた場所に出るが、疑心暗鬼で右手の花屋の叔母さんに道を聞く)


(民家の間を日ノ岡峠へ上り道)


(左手の「亀の水不動尊」)

この亀の水不動は、どこがどのように危険なのか解らないが、
危険で立ち入り禁止になって縄張りがしてある。
この亀の水不動について、「木食遺跡梅香庵址」として説明がある。
その前に木食上人とは、火食、肉食を避け、穀物をとらず草の根、
木の実だけをとる修業を受けた僧侶、木食上人という。

(木食上人 正禅養阿が心血を注いだ、
東海道日ノ岡峠の改修工事は、
三年がかりで完成した。しかも上人は、
峠の途中の木食寺梅香庵を営み、
道路管理と休息所をかねさせた。
掘り当てた井戸水を亀の口より落として石水鉢
(量救水(りょうぐすい)に受け、
牛馬の渇きを癒すとともに、
道往く旅人に湯茶を接待した。――後略)とある。
(京都石仏会)

解説の通り、亀の口から水が絶えず流れているが、
現在は水道の水だそうだ。
なお、量救水はなぜか東京の椿山荘にあるという。


(椿山荘にあった量救水(りょうぐすい)

亀の水不動を過ぎて、左手に石の階段が上のほうに繋がっているが、
ここに、法華宗 大乗寺の石塔がある。
階段が急だから先のほうに上りやすい道があると注意書きがしてある。
道路脇には、僅かな民家が肩を寄せ合って建っている。


(左手の階段)


(法華宗 大乗寺の碑)


(肩を寄せ合うようにして建つ民家)


(車の右手に見える「旧東海道」の碑)

道路わきの駐車場の隅に「旧東海道」の石碑があり、
道路に誤りがないと胸をなでおろす。
やがて、道路は右側の三条通り(府道143号線)と合流する。
合流箇所の左に小公園があり、
府道143号線開設の際発見された車石が、
荷車とともに展示してある。


(三条通と合流)


(発見された車石展示公園)


(当時の牛車の車輪)


(車石)


日ノ岡峠は、この先右に曲がり、
坂を下っていくと左手に京都浄水場の、
赤いレンガに囲まれた近代的な建物がある。
浄水場に沿って、道路は左折していく所に、
地下鉄「蹴上」駅があり、
ここを直進すると、南禅寺方向であると案内がある。
蹴上駅を左折する所に、ウエスティン・都ホテルがある。


(右に曲がり下り坂)


(赤いレンガの浄水場)


(赤レンガの浄水場の柵)


(左側の地下鉄「蹴上」の駅を左方向へ)

ここで旧東海道は右手の細い道に入るのであるが、
見るべきものは無く、(東山三条)の信号で合流するので、
広い三条通りをそのまま進む。

道路を道なりに進むと、
右手に「佛光寺本廟」が、「粟田焼発祥の地」の石柱がある。
また、右手には平安神宮の大鳥居が見え、
ついで左手に、「坂本竜馬 お龍(結婚式場)跡の碑がある。
京都らしい雰囲気の街並みの中を歩くと「三条白川橋」にでる。
ここには古ぼけた石柱で、
「是よりひだり、ち於んゐん ぎおん きよ水みち」とある。
(知恩院、祇園、清水道)と書かれている。


(佛光寺本廟)


(粟田焼発祥の地)


(右に見える平安神宮の大鳥居)


(「坂本竜馬とお龍」結婚式場跡の碑)


(道路は広く瀟洒な家が多い)


(白川橋)


(「ち於んゐん ぎおん きよ水みち」まで読めるでしょうか)

三条通りも以前京都に来た時よりも、道路が広くなって、
道路わきの家も瀟洒な家が立ち並んでいる。
(東山三条)の信号を過ぎると、(三条京阪)の信号。
いよいよ三条大橋で、中山道六拾九次の終着点である。


(広くなって歩道まである三条通り)


(東山三条の信号)


(三条京阪の信号)

三条大橋手前左手に「高山彦九郎正之」の裃をつけて正座し、
京都御所に向って拝礼している姿である。
高山彦九郎は、群馬県の出身で、十八歳の折より、
前後五回上洛したが、京都に出入りする折には、
この銅像のように、御所に向って拝礼した。――後略)(京都市観光課)


(高山彦九郎正之の像)

目の前に三条大橋はかかっている。
普段の日だというのに、人通りがある。
観光客が多いのであろう、橋を渡って左手に十返舎一九作
「東海道中膝栗毛」の主人公「野次さん喜多さん」の像がある。


(三条大橋)


(野次喜多の像)


ここ三条大橋は、中山道69次の終始点で、ここを出発したら、
次の宿泊地は守山宿泊まりと決まっていた。
逆に、日本橋を出発した人は、第一の宿泊地は桶川宿泊まりであった。

ボクは日本橋を出発して、
三条大橋に到着したのは49日目の13時ころ。
よくも来たものだと感慨深い。

これで「中山道ひとり歩る記」も、334回の連載でお終いとなる。
長い間読み続けられた方に、深く感謝いたします。

                           (をわり)

                      




山城の国へ入る(旧中山道を歩く 333)

2012年06月22日 13時45分45秒 | 8.山城(京都府)の旧中山道を歩く(333~33


(三又道路の中央にある魚屋さんを右へ)

(京都三条大橋へ)

日本橋を出発して、49日目でやっと京都に入った。
今日中には三条大橋にたどり着ける。
後残り6km足らずであろう。

国道1号線をまたぐ歩道橋を降りて進むと、
案内にあったように三叉路に出る。
中央に魚屋さんがあるところを右折する。
少し行くと車石の上を牛車が通る大津絵(?と思う)があり、


(車石の上を荷車が行く)

下に説明が書いてあるので紹介する。
(大津の京都を結ぶ東海道は、
米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されました。
江戸時代中期の安永八年(1778)には、
牛車だけでも年間15894両通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、
通行の難所でありました。
京都の心学者脇坂義堂は、文化二年(1805)に一万両の公費で、
大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に、
牛車専用道路として、車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ、
牛車の通行に役立てました。これを車石と呼んでいます。)

その先の右手に「小関越(こぜきごえ)」の道標が見えてくる。
近づくと、表面に「三井寺観音道」とあり、
左面に「小関越」とあり、
右面には「願諸来者入重玄門」とある。

道標を過ぎしばらくすると、京都市の看板がある。
ここから京都市山科区に入る。


(右奥に小関越えの碑はある)


(小関越え、三井寺観音道の碑)


(右面に「願諸来者入重玄門」とある)


(三条通りがしばらく続く)


(京都市の案内)

しばらくすると六角堂の徳林庵がある。
あたかもお祈りの時で、六角道から読経の声が聞こえてくる。
南禅寺派 徳林庵と書かれている。
道路脇には、正面に南無地蔵尊とあり、
右面には伏見六地蔵と刻まれた石碑がある。


(六角堂の徳林庵)


(薄れかかった南禅寺派 徳林庵の文字)


(南無地蔵尊)


(伏見六地蔵の碑)

(おこしやす ‘やましな‘協議会)の案内によれば、
(京 東の門番 東海道の守護佛 山科地蔵徳林庵は、
旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は小野篁作で、
1157年に後白河天皇の勅命により、
京の都の主要街道六箇所に安置された地蔵の内の1体です。
それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、
東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。
また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、
蝉丸ゆかりの寺でもあります。)とある。

人康親王が十禅寺を開山して隠棲した所が徳林庵である。
その六角堂の裏手には六地蔵が前掛けをかけて整然と並んでいる。
また、説明にもあるように、人康親王と蝉丸の供養塔も並んでいる。
六角堂内の地蔵尊の前で、厳かに読経は続けられていた。
六角堂の隣には道路一本を隔てて、十禅寺の石碑が建っている。


(六地蔵が並ぶ)


(人康親王と蝉丸供養塔)


(十禅寺の石碑)


(六角道内の地蔵尊)

旧東海道を下ると、右手に「諸羽神社」の鳥居、
「九品山 来迎寺」の山門があり、
(山科駅前)の信号がある。
信号先右手には、メトロモールの立派な建物があり、
その植え込みに旧東海道の石碑と明治天皇御遺跡の石碑がある。
次いで、吉祥山安祥寺の石碑があり、弘誓山 當麻寺の門がある。


(「諸羽神社」の鳥居)


(「九品山 来迎寺」の山門)


(山科駅前の信号)


(旧東海道の碑)


(吉祥山安祥寺の石碑)


(弘誓山 當麻寺の門)

やがて左側に、(史跡 五条別れ道標)があり、
「左ハ五条橋 ひがし にし 六条大仏 今ぐ満(ま)きよ水道」
右面に「右ハ三条通」の石碑がある。
三条通りから五条大橋に抜ける分岐の石標になっているようである。

(史跡 五条別れ道標)の標識が解らない。
京都の人は解るが、それ以外の人には解説がないと解らない。
これでは道標といえない。
今ボクは三条通りにいる。
三条通りと五条大橋に行く道との別れ道、つまり、
分岐点ということである。


(五条別れ道標と「右ハ三条通」の石碑)

次に「左ハ五条橋」これは分かる。「左へ行けば五条橋だ」ということだ。
「にし ひがし 六条大仏」これは「西へ行っても東へ行っても六条」(?)
では無い。「六条の西、東本願寺へ行く道」という事だそうだ。
それで「大仏」とは、大仏がある方広寺のこと、「方広寺へ行く道」なのだ。
では、「今ぐ満(ま)きよ水道」は何かというと、
「今ぐ満」=今熊野(いまぐまのかんのんじ)観音寺を現し、
「きよ水」は清水寺(きよみずでら)に通じる道ということだそうである。
いずれにせよ、京都の人ならすぐ判るが、ボクには分かり難い道標である。
今熊野観音寺には、日本三大大仏と言われた立派な大仏があったそうである。

地理に明るい京都の人に解っても、道標の役にはたたない。
京都の事に疎いボクのような旅人の役に立たなければ、
道しるべにはなるまい。


(難しい道しるべ)

旧東海道は、左に緩やかに曲がり、
すぐ右に曲がりして三条通にぶつかる。
右手の東海道線の下を抜けると、
すぐ左に(陵が岡みどりの径)の遊歩道の入り口がある。
案内地図があるので、地図をよく見て、この(みどりの径)入り口の先、

初めての左折道路を左へ行く。
非常に解り難いが地図をよく見て、
旧東海道を進もう。


(左に緩やかに曲がる)


(街道の古い家を見ながら右へ曲がる)


(三条通りは右へ)


(すぐ東海道線をくぐる)


(左手のみどりの径にある地図を良く見て、亀の水不動へ)


(左の建物が切れたところの小路を左折)


(旧街道はこれを左折しよう誤りではない)

















走井 月心寺と追分(旧中山道を歩く 332)

2012年06月16日 10時03分18秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(京阪電車:大谷駅)

(大津宿 8)
2012年4月24日快晴、気温24℃予定。
AM10時、京阪電車の大谷駅をスタートする。

無人駅の自動改札口を出て、旧東海道は左折する。
目の前には蝉丸神社の階段がある。
左折してすぐ京阪電車の線路と国道1号線を横断する歩道橋を渡る。
長いこと風雨にさらされているらしく、
歩道橋には錆があちこちに出ていて、
全体に赤茶けた色に染まっている。
歩道橋を渡り終えると国道1号線の左端の歩道を歩く事になる。


(歩道橋)


(国道1号線の左端の歩道)

大津市は算盤と大津絵が名高いそうであるが、
ソロバンも大津絵も、最早、時代から忘れ去られそうなものである。
国道に沿って歩いていくと、左手に大津市のソロバンの説明がある。
(大津市算盤(ソロバン)の始祖・片岡庄兵衛、
江戸時代、東海道のこの付近で売られていた大津算盤は、
慶長十七年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、
製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、
幕府御用達の算盤師になったという。
なお、昭和初期まで、
この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。)とある。(大津市)


(大津市ソロバンの案内がある家)

算盤師の家の先に浮世絵にも描かれた月心寺があるが、
今は無人らしく寂れて扉も閉まったままである。
月心寺の表札も薄くなっており、読み取るのにやっとの状態である。
もちろん、有名な走井の溢れるような清流も見る事は叶わなかった。


(月心寺の家の前)


(殆んど読み取れない月心寺の表札)

石垣の塀をたどっていくと、
塀の内側に「明治天皇駐〇〇」の石碑が見える。
その隣に山に登る階段があるが、
これがどこへ繋がっているのか分からない。
階段の右横は清水が流れる溝になっており、街道からの上り口に、
「右一里丁 左大半町」と彫られた石碑がある。
このあたりに一里塚はあったのかもしれない。
中山道の134番目の一里塚で、
東海道から見れば123番目の一里塚だったはずである。


(塀の内側に見える「明治天皇〇〇」の碑)


(隣に見える階段はどこへ通じているやら)


(石碑)

その先石垣の中に階段がある。
登っていくと、「瑞東山 月心寺」の表札がかかっている門がある。
先ほどの月心寺は料亭の方の月心寺かと、勝手に決め込んで登っていくと、
階段はまだ続き、上りきったところに、お堂がある。
お堂の左奥には、茶室と思われる東屋があり、
東屋の手前に四角の井戸がある。
これが走井の井戸かと、半ば疑いながら写真に収める。
走井の井戸は、水鉢の横に「走井」と書いてあるし、
料亭の中に存在するから、これが広重が書いた
「走井の井戸」ではない。

東屋は正面から見ると、「う(雨)花亭」の額が掛かっている。
この「雨花亭」の前に、大きな手水鉢が置いてある。
やはりお茶室であったように思われる。


(石垣の中にある階段)


(瑞東山 月心寺の門)


(門の先の階段)


(お堂)


(お堂の先に見える東屋)


(走井の井戸と間違えた井戸)


(広重描く浮世絵「大津」の走井(左下)


(東屋の正面には「う(雨)花亭」の額が掛かっている)

境内には、五輪塔がいくつもあり、
きっと名のある方のお墓であろう。
そのほか境内にある石造物も、
いずれも古式でいわれの在るもののように思われる。
月心寺を出て、一路1号線に沿って進む。


(五輪の塔)


(五輪の塔2)


(五輪の塔3)


(境内1)


(境内2)

道路は下り坂で、狭い歩道を進むが、やがて道路は右に曲がり、
東海道線をガードで潜り抜けるのが見える。
その手前でおばちゃんが、草取りをしていた。
「こんにちは」と挨拶をして、通り抜けようとすると、
「旧街道を歩いているのですか?」と訊ねられる。
「ハイ」と答えると
「東海道は、そこのガードをくぐり、三階建ての交番を左折して、
追分を右へ行き、歩道橋を渡り進みます。
歩道橋には東海道の案内がある歩道橋を渡ります。
この間、同じように東海道を歩いている方にも教えました。
その方は、私の写真を撮って、コンピューターに東海道のことを
書いているので、見てくださいと、名刺までもらいました。」
「それでは、もうパソコンに載っていましたか?」
「まだです。今か今かと、待っている所です。」と言う。
「じゃあ楽しみにしていてください」と言ってお礼を述べて別れた。
ボクがPCに載せる訳でもないのに、
(楽しみに)なんて余計な事を言ってしまったと、思った。
以前通った方は東海道を歩いている人、
ボクは中山道を歩いている。
いずれどこかで接点があるかもしれない。

道路を進み、おばちゃんが言ったとおり、
左手に三階建ての交番があるので、交番手前を左折する。
左折してすぐ右手に「南無妙法蓮華経 佛立寺」の石塔がある。
なお直進する。
道路は左方に登りながら曲線を描いて行くと、道路は突き当たり状態で、
二又路になる。突き当たりにある「京都右 左宇治」の看板横に、
石柱がある。
正面に「みぎ 京みち」、左側面に「ひだり ふしみみち」、
右側面に「柳緑 花紅(やなぎみどり はなくれない)」が彫られている。
伏見街道への分岐点――つまり大阪道の追分である。
普通、東海道53次を東海道57次という場合、
ここから大阪までは、伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えることになる。


(下り坂の東海道、右は1号線、その隣の高架は東海道線)


(東海道線の高架下をくぐる)


(東海道をくぐるとすぐある三階建ての交番)


(右に折れたすぐ右にある佛立寺)


(道路は右に曲がりながら上る)


(二股道路に出る)


(正面に右京都、左宇治の案内)


(左ふしみみちの碑)


(柳緑 花紅)

東海道は「みぎ 京みち」を進むと、追分町である。
追分町について大津市の案内看板によると、
(この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の
分岐点に当たっていました。
追分の名は、このような街道の分かれ道で、
馬子が馬を追い分ける事から来たものです。
なお、江戸時代、この付近の街道沿いには、髭茶屋町、
南北追分町、追分町の三か町が並んでいました。)とある。


(追分町の案内)

道を進むと右手に櫓を乗せたお寺の門がある。
「放光山 閑栖寺」がある。
車石と大津絵、蓮如上人御蔭道中御立寄処で知られる。
車石は大津から京まで、
大八車の両輪にレールのように花崗岩に溝をつけ、
その花崗岩のレールの上で車を引いた。
ぬかるみの山道を引くより、
石の上を引いた方がはるかに楽で、早かったに違いない。
国道を施設するにあたり、大津から京まで、
大量の車石が発掘されたといわれる。
その車石が展示されている。


(櫓の載っている門)


(放光山 閑栖寺)

また、大津絵については、
「大津絵の源流 
       追分絵

追分の絵師もしらしな
         けさの春


元禄二年 和風」の石碑があり、

車石の上を荷を運ぶ大津絵が展示してある。
また、「従是西寺領(これよりにしじりょう)」の石碑もある。
(ここから西はお寺の知行地である)の石碑で、由緒ある寺院とみうけられる。


(展示されている車石)


(大津絵の元は追分絵の石碑)


(大津絵)


(ここから西はお寺の知行地)

閑栖寺を後に進むと、旧道は国道1号線が平行接近して行く。
国道をまたぐ歩道橋が二つあるが、
最初の歩道橋手前には「旧藤尾小学校跡地」の碑が建っており、
その左には、旧東海道の案内が電柱の上部に、でかでかと張られている。
この歩道橋には、おばちゃんが言った「東海道」の案内は無く、
渡るのはこの歩道橋ではない。
東海道と案内がある歩道橋を渡らなければならない。
道路を直進すると、先のほうに右へカーブして歩道橋が見える。

近づくと歩道橋の手すりに旧東海道の案内がある。
歩道橋をわたり、道路の向こう側を降りようとする所に小さく、
旧東海道左への矢印案内がある。

この歩道橋の先に、大津市と京都の分岐点がある。


(旧藤尾小学校敷地跡の碑)


(碑の先に見える歩道橋は渡らない)


(電柱の上にある旧東海道の案内)


(もう一つの歩道橋、上る前に東海道は登ると案内がある)


(歩道橋にある旧東海道の案内)


(歩道橋渡りきった先にある東海道は下るlの案内)




芸道の神さま 関蝉丸神社(旧中山道を歩く 331)

2012年06月12日 10時10分37秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(関蝉丸神社下社の碑)

(大津宿 7)
関蝉丸神社の蝉丸は、百人一首の中の一人で、ボクは子供の頃、
坊主めくりで(トランプのババ抜きのような遊び)、
この蝉丸が坊主であった。

百人一首にある歌は、
「これやこの ゆくもかえるも わかれては
            しるもしらぬも 逢坂の関」である。

謡曲「蝉丸」では、
(幼少から盲目の延喜帝(醍醐天皇885~930)第四皇子 蝉丸の宮を、
延喜帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
この世で前世の罪業の償いをする事が、
未来への助けになるとあきらめた宮も、
孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方、延喜帝第三皇女 逆髪の宮も、
前世の業因強く、遠くの果てまで歩き回る狂人となって、
逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音色に引かれて、偶然にも弟の宮 蝉丸と再会し、
二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、
姉宮は心を残しながら別れていく、
という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、
冷泉天皇の頃、日本国中の音曲芸道の神と勅し、
当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。)
(謡曲史跡保存会)


(「これやこの・・・」の歌碑)

境内には、紀貫之の歌碑がある。
逢坂の 関の
     しみずに影
       見えて
いまやひくらむ
      望月の駒」
                          貫之



(紀貫之の歌碑)

蝉丸神社の本殿左横には、国の重要文化財「時雨灯籠」がある。
石灯篭については、
(時雨燈篭の名称で知られる六角形の石燈篭です。
六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、
その上に立つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、
六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。
六角形の火袋は簡素なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、
壁面も上部にだけ蓮子(れんじ)を彫っています。
六角形の笠もうすく、蕨手(わらびて)はよく古式を留めています。
最上部の宝珠と請花は後補。――後略)よある。(大津市教育委員会)
鎌倉時代の特色を持った石燈篭として貴重なものらしい。
鎌倉市の寺院へ行ったらよく見てみよう、と思った。


(蝉丸神社の本殿)


(本殿左横にある石灯篭)


(時雨灯篭)

勿論、蝉丸の歌碑もある。
蝉丸神社下社を出て、旧東海道を進むと、踏切を越える。
右手に見える安養寺を過ぎて、
道路は上り坂を国道一号線と合流する。
交通量はここから格段に増えるので、充分注意が必要である。
合流地点に信号があるので、進行方向の道路右側に行く。
次の蝉丸神社上社が道路右側にあることになっているからだ。
左側には狭いながらも、歩道が付いているが、
右側には、歩行者用の白線で仕切られているだけで、
少し歩くのに恐ろしく感じる。


(旧街道をまた踏み切り)


(安養寺)


(合流直後の1号線、白線で囲まれた恐怖の歩道)

車におびえながら歩くと程なく蝉丸神社上社が右側にある。
階段を上がった所に本殿はある。
次に同じく右側に、(逢坂山 弘法太子堂)がある。
この先には歩道が確保されていて、すこし歩きやすくなるが、
すれ違う車の量が減る事は無い。


(関蝉丸神社上社)


(上社の神殿)


(太子堂)


(太子堂本殿)


(この先歩道が確保されいくらか安心)


やがて信号にでて、国道1号線の道路は左へ、
そして旧東海道は右への脇道に分かれる。
分かれ道の右角に、「逢坂山関跡」の碑と「
逢坂常夜灯」が並んで建っている。
蝉丸の歌にある「逢坂の関」である。
ここは小公園になっていて、トイレも用意してある。


(逢坂の関と常夜灯)


(逢坂の関の小公園)

逢坂の関については、京の都を守る重要な関所である三関
(鈴鹿の関、不破の関、逢坂の関)の一つとして、
弘仁元年(810)以降、重要な役割をしてきましたが、
平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社上社の周辺にあったと、
言われていますが、いまだその位置は明らかになっていない。

また、百人一首では、蝉丸の和歌のほかに、清少納言の
夜をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも
            よに逢坂の 関はゆるさじ
」(後拾遺集)

があるそうだが、昔の人は難しい歌を詠むものだ。
浅学のボクには意味がよく解らない。

清少納言は「枕草子」を著わした才媛で、知識が豊富すぎて、
故事などを織り込んで歌を詠むから、
ボクのような凡才には、とても理解に苦しむ。

歌の意味は、
(夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴きまねをして、人をだまそうとしても、
函谷関(かんこくかん)ならともかく、逢坂の関は決して開きませんよ。
=だまそうとしても、決して私はあなたに逢いませんよ。)という意味。

(*)鶏鳴狗盗の故事:(史記にある故事):
          猛嘗君が秦国を脱出するに当たって、
          函谷関を通ろうとしたが、鶏が朝を告げるまで関を開かないので、
          家来に鶏の鳴き声を真似させ、だまして関を開かせた。)

妙なところへ脱線してしまった。
国道一号線から分かれて、脇道に入るが右手に逢坂の関跡を見て、
坂を下っていくと右手にもう一つの蝉丸神社があり、
左手に京阪電車の大谷駅がある。

蝉丸神社は右手の石段を4~50段登った所にある。
石段下には、三条まで続いたという車石の花崗岩が展示してある。
少し行くと左手に京阪電車の大谷駅(無人駅)の改札かある。


(国道1号線と別れた旧東海道の脇道)


(蝉丸神社)


(階段を登った所に本殿はある)


(展示してある車石)


(京阪電車「大谷駅」)

時間はPM14時のため、本日はこれで帰京する事にした。
家に着いたのは21:10であった。
本日の歩行数48516歩=約30kmであった。



大津事件のロシア皇太子(旧中山道を歩く 330)

2012年06月08日 10時33分50秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(京阪電車の踏み切り)


(踏み切りの先の二股道路を左へ)

(大津宿 6)
京阪電車の踏切を越えると、道路は二股になっているが、
旧東海道の案内が建っているので、左の方へ行く。

少しすると「平野神社」の石碑がある。
この神社は平安時代に行われた、
優雅な遊びの蹴鞠が伝承されている神社で、
8月に蹴鞠の儀式が行われるという。


(蹴鞠で有名な平野神社)

その後道路は、旧東海道らしい古い家が点在し、広い通りと交差する。
この道を右に行くと三階建ての琵琶湖文化館(総合博物館)がある。
道路をなおも直進する交差点では、今度は左手に滋賀県庁が見えてくる。
次の交差点では、左手にJR大津駅が在る筈である。
在るはずというのは、現に確認したわけでなく、
地図の上で確認できているという事だ。
どの交差点にも、旧東海道の地図つきの案内板が立っているので安心だ。


(東海道の古い家)


(東海道の古い家2)


(三階建ての文化館)


(次の信号左の滋賀県庁)


(この先にJR大津駅がある筈)


(地図でご確認を!)

点在する古い家の間を抜けていくと、
「此付近露国皇太子遭難之地」の石碑がある。
世に言う(大津事件碑)である。
去る事120年余の事件である。


(東海道の古い家3)


(東海道の古い家並)


(東海道の古い家と「露国皇太子遭難」の碑)

露国皇太子が日本視察中、
警備担当の滋賀県警察官に切りつけられる事件が発生した。
ここで問題は、小国日本が大国露国の皇太子を、
日本の国を挙げて大歓迎している最中の出来事で、
露国からいかなる仕返しがあるかわからない状態であったのに、
この事件の警察官を裁くのに、
政治が口を挟んで司法に介入しなかった事である。
司法の独立を守った事である。

ボクの父は明治の警察官で初めは十手を持っていたそうです。
十手そのものは大きくて重いので、
引越し途中に前の住まいの庭に突き刺して置いてきたとのことでした。
十手がどうして不要になったかというと、
サーベルが代わりに貸与されたからだそうです。
このサーベルは、子供の頃チャンバラごっこでよく使って、
抜いて叱られた事があるが、抜いても刃がなく、
鉛筆さえ削ることが出来なかった事を覚えている。
しかし、剣道の素養のある人の手に掛かれば、
一撃で脳天唐竹割くらいはできると思われる。

話がとんだ所に反れてしまった。
この先旧東海道らしい道を進んで、札の辻交叉点に出る。
ここの道路には京阪電車の路面電車が走っているから解りやすい。
道路を渡った向こう側に、大津市道路元標があり、旧東海道の案内もある。
(札の辻)の由来について、この案内板に説明がある。
(札の辻の名は、江戸時代、
幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、
旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所も、
この角にあった。
ここは、東海道と北国海道(西近江路)の分岐点でもあった。)とある。


(東海道の古い家並2)


(札の辻交差点、路面電車のレールがある)


(大津市道路元標と東海道の案内)

交差点には、左手にはクリーニング屋さんがあり、
信号を渡った向こう側には(大津市道路元標のあるところ)、
(らくらくクラブ 札の辻支所)がある。
旧東海道はここ(札の辻)で左折する。


(左かどのクリーニング屋さん)


(らくらくクラブ 札の辻支所)

道路は上り坂になり、途中右手に(蓮如上人近松御旧跡)
の石碑が建っている。
碑の左面には、(是より半町 京大阪 江戸大津 講中)とある。
蓮如上人御旧蹟の本願寺別院が石碑の奥にある。

この石碑を見ているときに路面電車の京阪電車が通りかかった。
電車は坂の途中で右折して行く。


(道路は上り坂になる)


(蓮如上人近松御旧跡の碑)


(是より半丁・・)


(本願寺別院)


(京阪電車)

路面電車の後を追いかけるようにして、先へ進む。
右手に南無妙法蓮華経、妙光寺の石碑があり、
参道には線路があり、その向こう側に山門がある。
道路を進むと、同じく右手に「関蝉丸神社」と
「音曲藝道祖神」の二つの石碑が建っており、
その先に灯籠と踏切がある。
踏み切りの先に鳥居があって、奥に神殿がある。

関蝉丸神社 下社である。


(京阪電車を追いかける東海道の登り道)


(妙光寺)


(関蝉丸神社の石柱)


(関蝉丸神社の鳥居)








史跡 義仲寺(ぎちゅうじ)(旧中山道を歩く 329)

2012年06月03日 10時30分28秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(義仲寺の門前)

(大津宿 5)

期待して来た義仲寺は、大伽藍と思いきや、
巴御前がひっそりと義仲の菩提を弔ったといわれるように、
また、俳聖 芭蕉翁の遺言にふさわしい埋葬の場所として、
大変こじんまりしたお寺であった。

門前に「史跡 義仲寺」の石柱と、常夜灯が一基置かれている。
門柱には「義仲寺」と書かれている。
治承四年(1180)木曾義仲は信濃に平氏討伐の挙兵をし、
三年後の寿永二年(1183)北陸路に平氏の大軍を討ち破り、
京都に入った。
翌寿永三年(1184)鎌倉の頼朝の命で京都に上ってきた源範頼、
義経の軍勢と戦い、この地、粟津が原で討ち死にした。

その後、見目麗(みめうるわ)しき尼僧がこの地に草庵を結び、
義仲の御墓所のほとりで、供養した。
この尼が義仲の側室巴御前であったという。
尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、
あるいは巴寺といい、
木曾塚、木曾寺、また義仲寺と呼ばれたことは、
鎌倉時代後期の文書に見られる、という。

元禄七年(1694)松尾芭蕉は大阪の地で亡くなり、
「骸は木曾塚に送るべし」の遺言で当地に埋葬された。

伊勢の俳人の句、
「木曾殿と背中合わせの寒さかな」 又玄(ゆうげん)
の俳句により、この地を訪ねるまで、ボクは、
芭蕉の墓は義仲の墓と背中合わせだとばかり思っていた。
しかし、知識不足で、芭蕉十哲の其角の「芭蕉翁終焉記」には、
「木曾塚の右に葬る」とあるそうだ。
実際、義仲の墓の右手に芭蕉の墓はある。

義仲寺の門前にある灯籠の竿の部分に、
①「しぐれても 道はくもらず 月の影」 紫金(しきん)の句が。


(「しぐれても・・」の句碑)

門を入ってすぐ左トイレの前に、
「おもふまま 月夜にあひぬ 遅(おそ)さくら」 車友(しゃゆう)


(「おもふまま・・」の句碑)

その右前に、
「鶯の ほっと出らしき 初音色(はつねいろ)」 栃翁(とちおう)


(「鶯の・・」の句碑)

この句碑の向こうに
「行燈(あんどん)の ひとり消えけり けさの秋」 乙也(おとや


(「行燈の・・」の句碑)

その向こうに、
「身のほどを かへり見る日ぞ 初しぐれ」 羽州(うしゅう)


(「身のほどを・・」の句碑)

この背中合わせに、
「粟津野に 深田も見えず 月の秋」 露城(ろじょう)


(「粟津野に・・」の句碑)

木曾義仲の息女山吹御前の塚、山吹塚が元大津駅前にあったものが、
移設されている。


(山吹塚)

その向こうに木曾義仲の側室、巴御前の塚、巴塚がある。
手前右手に朝日堂があり、


(巴塚)


(朝日堂)

朝日堂前に芭蕉句碑、
「行春を あふミ(近江)の人と おしみける」 芭蕉桃青 がある。


(「行く春を・・」の芭蕉句碑)

巴塚手前には、
「木曾殿と 背中合わせの さむさかな」 又玄(ゆうげん) があり、
(写真はありません)

巴塚左手に、同じく芭蕉の句碑
「古池や 蛙飛び込む 水の音」芭蕉翁 がる。


(「古池や・・」の芭蕉句碑)

巴塚の向こうに肝心の義仲公の墓、別名木曾塚がある。
土壇の上に宝篋印塔がある。
その右となりに芭蕉翁墓がある。墓の右手に翁堂がある。

墓の向こうには芭蕉句碑、
「旅に病んで ゆめは枯野を かけ廻る」 芭蕉翁 がある。


(義仲公の墓)


(義仲の墓の右手にある芭蕉翁の墓)


(翁堂)


(「旅に病んで・・」の芭蕉句碑)

忘れてならないのは、今の義仲寺の存在に東奔西走した保田與重郎である。
この翁堂の裏手には、世界大戦後荒廃、壊滅に瀕した義仲寺再建のため、
尽力を尽した保田與重郎の墓があることだ。


(保田與重郎の墓)

義仲寺には名残惜しいが、先を急ぐ身ならば、ゆっくりも出来ない。
そこそこに切り上げて、旧東海道を進む事にする。

およそ500m進むと京阪石山・坂本線の踏切を越える。


(踏み切り)