中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

音痴で困った(ポーランドを旅して1)

2009年08月29日 06時21分36秒 | ポーランドを旅して

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(ワルシャワの朝日)

(音痴で困った)

何時のことっだたか忘れてしまったが、
もう何年も前のことである。
あるホーム・ページの掲示板を訪ねたところ、
ショパンのピアノ曲が添付してあり、その美しさに聞きほれて
掲示板に次のように記入しました。

「今夏、(戦場のピアニスト)を見て、
さらにCHopin(ショパンと読む)が好きになりました。
そこでポーランド大使館を訪ね、
ポーランドはどんな国か、調べる資料を探しに行きました。
話しをするうちに、ショパンのピアノ曲「エチュード」
(何番か知りませんが)を弾いていただき、
聞かせてもらいました。
大使館員の妻(桐朋大学ピアノ科卒の)が
たまたま いらっしゃったので。

学生時代に、英文で出てきた「Chopin」が読めず、
恥ずかしい思い出があります。
この10月、ショパンを訪ねてポーランドを旅します。
添付のショパンの曲 素敵ですね!」
そうしたら、返信に

「来て下さってどうもありがとう(ペコ)
私は・・・クラシックの事は、ほとんどわかりません・・・」

とあった。

とんでもない!ボクは音楽なんて何も知らない。
文字は恐ろしいものです。
ボクの書き込みで、読まれた方はきっと
ボクがショパン、いえクラシックに詳しいとお思いになったようです。

生来、音痴で音とか音楽とかに全く無縁のボクには、
音楽にまつわる苦い思い出がある。

掲示板に書いた、学生時代、英文に出てきた「Chopin」が
人の名前ということは前後の脈絡で分かったものの、
まさかこれが有名なショパンとは知らず、
「チョピン」と読んでしまった。
周りの同級生がドッと笑った。苦い思い出。
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(ワルシャワの夜景)

その次が社会人になってから。
「カラオケ」全盛の時代の苦い思い出。

仕事の都合でバーだったかクラブだったか忘れたが、
沢山の人の前で歌う破目になった。
音痴なことは自分が一番良く知っているので、
固くお断りしたが、しきりに勧めるので、
止む無く唄うことにした。
よせば良いのに、
聴くのは好きな歌だった「抱擁」を選んだ。

唄い始めると、
お客さんの態度の異様さが目に映った。
ボクの歌が下手だからと思ったが、
笑いを堪え切れなかったのか、

次の瞬間、
誰かが噴出すとドッと爆笑の渦が巻いた。
面白い落語や漫才を聞いてお腹を抱えて笑う、

そんな光景。

普通、下手な人が歌うと、周りは静かになり、
うつむいて「お気の毒さま」と言う態度をとるものであるが、
ボクの場合、はそれをはるかに通り越したに違いない。
悔しかったので、この一曲だけ教わることにした。
教師は、「覚えるよりは、
歌うことを諦めるほうが良い」と言ったが
まがりなりにも唄えるようにはしてくれた。

ところが、歌が下手なことを知っている私は、
恥ずかしいから相当酔ってからでないと唄えない。
いえ 唄う度胸がつかない。
酔ってしまうと 
シラフの時覚えたメロディ、テンポ、リズムは
すべて忘れてしまい何処かへ行ってしまう。
「抱擁」を「佐渡おけさ」のメロディで唄うようなものである。
想像してみてください。(苦笑)

それでも音楽の美しさに惹かれることがある。
それは映画の中でおきる。

最近では、
「千と千尋の神隠し」のラストシーンで歌われた歌。
「戦場のピアニスト」が弾くショパンの曲。
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(ショパンの生家)

さすがに美しい。
感動するととことん好きになる。
好きになると、熱くなるのがボクの悪い所であり良い所である。
そしてすぐ行動に移す。

ポーランドとはどんな処?
アウシュビッツ以外に何も知らない。
ショパンが生まれたポーランドへ、
戦場のピアニストのシュピルマンの故郷
ポーランドへ行きたくなる。
その国を知りたくなってポーランド大使館を訪れる。

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(紅葉の森)

そして知る。

♪森へ行きましょう! 娘さん!ハッハ!♪ 

これがポーランド民謡だということを。

そんな ボク。

ポーランド大使館員(ポーランド人)が
日本語とポーランド語で歌ってくれた。
どうして外国人はこんなに表情豊かに歌えるのだろう。
日本人がこんな場合、
踊ったり歌ったりしてくれるだろうか?
歌うことが出来ないボクには、無理な相談だが...

ポーランド民謡 の全文は以下の通り

1.森へ行きましょう 娘さん(ハハ)
  鳥が鳴く(ハハ)あの森へ(ララ ラララ)
  僕らは木を切る君たちは(ハハ)
  草刈の(ハハ)仕事しに
    ランラララ ランラララ ランラララ.....
2.お昼の休みに娘さん(ハハ)
  まんまるい(ハハ)輪を作り(ララ ラララ)
  話をしながら面白く(ハハ)
  お弁当(ハハ)食べましょう
   (以下同じ)
3.仕事が済んだら娘さん(ハハ)
  花の咲く(ハハ)草原で(ララ ラララ)
  みんなで手を組み元気よく(ハハ)
  歌いましょう(ハハ)踊りましょう
   (以下同じ)

カミさんにいたっては、下手か音痴か知らないが、
結婚以来、唄を歌ったのを一度も聴いたことがない。
にもかかわらず、ボクが少しでも歌うと妙な顔をして
ボクを見る。
(やめた方が良いのでは...)と言わんばかり。

そこで、子供たちには、
恥ずかしい思いをさせてはならないと
自分では苦手の音楽と水泳を習わせた。
3歳ころからピアノを習わせ、
音感教育(?)に努め、
同じ頃、近くのスイミング・クラブにいれた。
甲斐あって二人の子供たちが歌う唄は、
曲がりなりにも聞いていて恥ずかしくないし、
水泳にいたっては、クロールから
バタフライまで何でもできるし、
見ていて美しい泳ぎをする。

60歳定年を過ぎて、
この後の人生やりたいことは沢山あるが、
子供たちが残していったピアノを弾けるようにならないか、
スイミング・クラブへ行って泳げるようにならないか、
懸命になって何年も経っているが、
どうやらものになりそうも無い。
水泳では、泳ぎながら呼吸が出来ないし、
ピアノはテンポが取れないままである。

そんな ボク。

すぐに旅行手配をして、
カミさんを無理やり連れてポーランドに行く。
その実行力がボクの魅力。

ポーランドでショパンの生家を見て、
ショパンのミニコンサートを聴いて、
アウシュビッツを観て来ました。

(つづく)
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(ショパンの生家の庭の木)





木曽の桟(かけはし)(旧中山道を歩く 182)

2009年08月22日 06時41分08秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(木曽の桟の案内)


(木曽の桟が見える橋)

(上松宿)
沓掛の一里塚を後に国道19号線を行くが、
国道には、狭いが歩道らしきものがあり、
ぶんぶん飛ばす大型トラックを避けるには丁度良かった。
間もなく「木曽の桟(かけはし)」が見える橋が右手に見えてくる。
昔は、山の崖にぶら下がる様にあったといわれる「木曽の桟」も、
今では山を切り崩し、道路を広げているが、
それでも道路の一部は木曽川に平行にオーバーハングしている。
つまり桟になっている。

「木曽の桟」を見るにはこの赤い橋を渡り、
対岸から見るのが良いと案内看板がある。
橋の中ほどから見た「桟」はコンクリート作りで、
今は昔をしのぶことは難しい。


(木曽の桟)

長野県教育委員会の説明によれば、「木曽の桟跡」と題して、
(桟は、けわしい崖に橋をかけ、わずかに通路を開いたもので、
木曽桟は歌枕にもなっていると共に、県歌「信濃の国」にも歌いこまれており、
寝覚ノ床とともに木曽路の旅情をあたためたことでその名が高い。
昔はけわしい岩の壁に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟であったが、
正保四年(1647)にこれが通行人の松明で焼失した。
そこで尾張藩は翌慶安元年(1648)に、
長さ56間(102m)中央に八間(14.5m)木橋をかけた石積みを完成した。
このことが、今も大岸壁と石垣に銘記されている。
寛保元年(1741)の大改修と、明治13年(1880)の改修と、
二度にわたる改修で、木橋下の空間は全て石積みとなり、
残されていた木橋も明治四十四年(1911)には、
国鉄中央線工事のため取り除かれてしまった。
現在、石垣積みの部分は、国道19号線の下になっているが、
ほぼその全ぼうが完全な姿で残されているのが判る。
この史跡は、慶安年間に築造された石垣を根幹とし、
その後いく度か改修された遺構をほぼ完全な姿で留め、
往時の木曽路の桟を偲ばせる貴重なものである。)
と長野県指定史跡になっている。

こうゆう説明文は、教育委員会が書くにしては随分冗長で、
立ち寄って読むには長すぎる。もう少し簡潔に出来ないものだろうか。
教育委員会の中には国語学者も居るだろうに・・・

話がそれてしまった。中山道を歩くには橋を渡らずに進むのであるが、
橋を渡らずに国道を歩くには、この先歩道もなく危険を伴うので、
橋を渡った対岸を歩くよう案内がある。


(木曽川)

夏の陽射しの中で、木曽川は深い緑色にひかり、
崖から転げ落ちた沢山の岩が川岸に白く反射して見える。
車さえ通らなければ、
静かな流れとせり出した山に生い茂る緑の木々に囲まれた川は、
静寂の中に素晴らしい景観であるに違いない。
轟々と音を立てて引っ切り無しに通る大型トラックを、
チョットどこかで止めて欲しいと歩行者のボクはわがままを言う。

歩いているときは自動車が邪魔で、自動車を運転しているときは、
歩いている人が邪魔になるのが人間の自分勝手な心である。
こんな人間のわがままな心を、自動車が出初めたばかりの時代に、
チャールズ・チャップリンが無声映画で表現していたのを思い出すが、
チャップリンの恐るべき洞察力と言いたい。
さすが「Sir」の称号をもらうだけの事はある。


(明治天皇聖跡の碑)


(芭蕉句碑、碑の上に見える草道)


(草道)

話をもとに戻そう。

橋を渡った先に、

明治天皇聖跡の碑と

・桟や 命をからむ 蔦かずら 
の芭蕉句碑がある。

対岸の道路に出るには、この碑の後ろに見える草道を登るのが近道である。
川沿いにかなりの時間歩く。
河原と左手にそびえる雪を頂いた山を見ながら歩くと、
見学者用に上松町が作った木製の桟があるので階段を降りて観て置きたい。
昔の蔦が絡む桟ではないが、木曽の木材で造った桟も立派なものである。


(8月なのに川の向こうに見える雪を頂いた山)


(観光用に新たに作られた木造の桟)


(十王橋)


(直進しないで左折する)


(右手奥のガードのほうへ行く)


(中央本線のガード、手前に案内看板がある)

長い道を歩くと道路は左に曲がり、十王橋にでる。
桟の橋から十王橋まで3km弱ある長い道のりであった。
十王橋の袂を右折すると自然赤沢休養林方面に行くが、
中山道に出るには国道に出なければならないので、
十王橋を渡り進むが、渡り終えたらループ橋方向に進まず、
左のほうへ進む。
左折後に右手を見ると中央線のガードが先に見えるので、
そちらに向かう。
ガード入り口に中山道方面の案内があるので確認しておきたい。
ガードをくぐると、十王橋交差点で信号を渡る。


(ガードを出た十王橋交差点)


(上松町交番案内)

信号の先に十王沢川があり橋があり、
上松宿入り口の棒示杭(丸太の標柱)がある。
橋の袂には、大日如来像を初め沢山の石造群がある。
小さな川であるが一級河川「十王沢」とあり、
左矢印で(裏側から見れば右矢印)上松交番の案内看板がある。

長い暑い山歩きであったが、やっと上松の宿場に入る。


(上松宿入り口の棒示杭と十王沢川の橋)


(石造群)








沓掛観音堂(旧中山道を歩く 181)

2009年08月16日 06時13分00秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(国道に合流地点)

(木曽福島宿 7) 
トンネルを出ると新緑がまぶしく目に映る。 
しばらくは新緑の山道であるが、やがて坂を下り、
国道19号線に合流する。国道に沿って歩くと、すぐに信号に出る。
右折すると木曽川を渡る橋「本橋」、橋の手前は自動車修理工場。
この信号を左に渡り左にある中央本線に沿って歩くと、
信号のすぐ先にガードがあるのでくぐる。
このガードは見落としやすく、通り過ぎてから戻ってくるようになってしまう。
上記の「信号を左に渡り」を守れば通り過ぎることもない。


(本橋信号手前右側の自動車修理工場)


(本橋信号)


(信号右折は御岳への本橋)


(信号を左折しすぐのガードを左折)


(神戸架道とあるJRのガード)


(下に中央本線と国道と陸橋が見える)


(林に囲まれた道路。ここに御岳遥拝所がある)


(木曽御岳遥拝所)

ガードを出て坂道を登ると、右下に中央本線と歩道橋が見える。
国道を右下に見ながら、山の中腹の道を歩くと、
やがて道が下り坂になり、林の中に突っ込むような道になる。
その林の左に御嶽山遥拝所があり、
階段を登ると林の中に石の鳥居と石積みの社殿?らしきものが在る。
遥拝所というから、此処から御嶽山が見えるものと期待して、
場所を変えながら山があるであろう方向をのぞいてみたが、
それらしき山は見えない。あきらめて階段を下り山道を進む。
しばらくは薄暗い林の道が続く。

木曽節の唄にある
♪心細いよ、木曽路の旅は、笠に木の葉が舞いかかる・・・♪
の一説がぴったりの場所であるが、やがて道は開け、
このあたりで後ろを見ると天空に御嶽山がその威容を見せてくれる。


(遥拝所の石の鳥居)


(振り返ると御嶽山が山並みの間に見える)

道路は右下に国道と中央本線を見ながら進むが、
やがて道は下りとなり右側に中央線のガードがあり、
左手に案内看板で
「中山道コース 至上松町・木曽の桟 1km」行き先を示してくれる。
案内通りガードをくぐり出ると国道に面するが、
ここにも案内看板があり、「上松駅3.5km 木曽の桟1km 
沓掛観音300m」と左を指している。


(木曽の桟1kmの案内)


(中央本線のガードをくぐる)


(沓掛観音300m)


(国道脇の道)

国道を少し歩いて、すぐ左に脇道があり、
案内ではこれが旧中山道とあるが、怪しみながら脇道を進む。
登り坂を少し進むと、道は二股になり、
股の間に赤い消火栓があるので、消火栓がある方向に進む。
案内書にはそのように示されている。
その先はやや下り坂で、左手の枯れた松と高野槙が目印で、
その先は中央本線に沿って草の道を行くように案内書にあるが、
本当にこんな道が中山道かと疑ってしまう。

道路沿いの民家のお姉さんが居たので、挨拶して
「これが中山道で間違いありませんでしょうか?」とお訊ねすると、
「はい、そうですよ」とご返事。
「皇女和宮や明治天皇がこんな道を通ったとは思えませんね」と言うと、
「そうですね、昔は大変だったでしょうね。
この先の桟(かけはし)はもっと難儀だったのではないでしょうか」という。
そうだ桟はもう近い、そう思いながら御礼を言って別れた。


(赤い消火栓がある方へ行く)


(左手の枯れた松と高野槇が目印)


(線路脇の草道が中山道)


(草道は終り)


(沓掛観音堂の案内)

すぐ、左手に枯れた松と槇の木があり、
道路は右に曲がっていくが、
旧中山道は線路沿いに草むらの狭い道を行く。
草道は100m弱と思われるが、その先に背の高い草が生えており、
どうなるか興味津々で進むと、
草が生い茂っている所はその先が右へ下りになっている。
そのすぐ先に案内看板があり、
「沓掛馬頭観音堂」と左矢印がある。
左側は背丈ほどの草が伸び、
小山になっていて山上に祠らしきものが草の間から見える。
道を少し戻ると、草を掻き分け人が登った形跡があるので、
そこを登る。
堂の前も後ろも草が伸び放題で堂の前に庚申塔の石碑が一つある。


(沓掛観音堂、通りから背を向けている)



(観音堂の正面)

沓掛馬頭観音の縁起に寄れば、
(昔、木曽義仲公の名馬は、人の言葉が解り、
義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり、
目算で「七十三間飛べ」と号令をかけました。
馬は命ぜられるまま正確に七十三間飛びましたが、
実際は七十四間あったので人馬共に川中へ転落してしまいました。
義仲は九死に一生を得て助かりましたが、
かわいそうに名馬は亡くなりました。
そこで義仲は金の観音像を作らせて一堂を建てて、
馬の菩提を弔ったという。
以前は、もう少し南の観音坂にありましたが、
明治43年の鉄道工事の折に、
現在地一里塚の上に移築されました。)とある。

小山と思ったのは、一里塚であった。
中山道はこの観音堂の南を下っていたそうで、
南側を降りようとしたが、草に足を取られ前に進めない。
一里塚の麓を迂回し国道に合流する。
一里塚の南面から見ると、一里塚の小山の南面は崖になっており、
とてもお堂の前を通り抜けて中山道へ抜けることは出来ない。
草に足をとられて引き返したのが正解であった。
無理に進んだら崖から転落し、命の保証はない所であった。
この一里塚は江戸より71里、京より66里の一里塚である。

ここから上松町にはいる。

(坂を下ると国道19号線に入る、左側のわずかな幅の歩道を行く)






塩淵の一里塚跡(旧中山道を歩く 180)

2009年08月09日 09時52分00秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(JR木曽福島駅を背にして左側にある御岳神社)

(木曽福島宿 6)
「JR木曽福島駅」を通り過ぎると、坂下に鳥居が見える。                 
御岳神社とあり立派な神殿がある。道路はこの鳥居の前で左右に分かれ、     
右側は下り坂になり、さらに右手に木曽川が音を立てて流れている。          
そのせいか鳥居をくぐるとすぐ右側に「水神社」があり、
次いで「白河大神」の銅像がある。旅の安全を願って、手を合わせて神社を出る。 
左に行く道は登り坂になっており、
神社の塀と自動車道の間の狭い道を行くが、
これが旧中山道であると案内書(*)にはある。 


(神社本殿)


(右手の水神社)


(その先の白河大神)
      
(*)(この案内書は、宮ノ越宿の義仲館で見つけた。
「信州木曽路 中山道を歩く 是より南木曽路」とあり、
贄川宿より馬籠宿の「是より北木曽路」の碑までの道案内が、
微に入リ細に渡って記されているので、歩かれる方は是非参考にして欲しい。
木曽観光連盟発行の小冊子である。

木曽観光連盟事務局電話(0264-23-1122) ・HP http://www.kisoji.com/)

 
(神社鳥居前を左折して坂を登る)


(道路と神社の塀の間の狭い道)


(木曽町役場)


(役場の壁の「中山道」の案内)


(役場の建物の端に狭い草道が旧中山道)


(左側が旧中山道)


(街道としては考えられない草道であるがこれが旧中山道)
                     
話がそれたが、左自動車道、右は神社のトタン板の塀の間の狭い歩道を歩くと、
正面に木曽町役場の建物がある。手前は広場になっており駐車場である。
建物の壁に右中山道の看板があるので壁に沿って右に歩く。
建物が途切れるとその先に道があるのか疑わしいほどの場所であるが、
建物の端まで行くとそこに二人並んでは歩けない狭い道があるが、
これが旧中山道であると案内書にある。
草道はすぐ二股になっており、右側は急な下りの階段に、
左側は緩やかな下りの草道で、建物の裏手を行くような道である。
急な下りの階段を避けて、なだらかな下りの草道を行く。
今まで歩いてきた旧中山道とは似ても似つかぬ草道で、
進むのに躊躇するような道である。
下りの坂道の崖下には広い自動車道が見えている。
間違っても下の道には出ると覚悟を決めて歩く。
しばらくして道は急な下りになり、崖下の道に出る。
道なりに歩くと、木曽町役場の案内があり、
そこが「塩淵」の地名であることが解る。


(山道を降りた所)


(写真奥の人家の後ろへ道路は出た、塩淵の集落)

木曽町役場の案内には昔の塩淵の名の謂れが書かれており、
旅の退屈しのぎに丁度良いので記して置きたい。
(天正十二年(1584)木曽義昌朱印状には、
「上塩淵」「塩淵中屋」「塩淵彦三郎」の名が出てくる。
享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には「家数十四軒塩淵」とある。
シオと言う地名は川の曲流部につけられることが多く、
塩淵も木曽川の曲流部にできた淵とすると地形的にあっている。
又、塩淵には次のような言い伝えがある。

昔中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ、
その馬が、木曽川の淵に転落し、塩をまいてしまったところから、
塩淵の地名がついたと伝えられている)


(塩淵の一里塚と公民館「塩淵クラブ」)

道なりに進むと、中山道と書いた丸太の柱と,
一里塚跡の石碑が塩淵クラブと書いた建物(公民館)の前にある。
日本橋から70里、70番目の一里塚である。
道路はこの先で少し右にカーブして正面に変電所が見え,旧国道に出る。
旧国道に出る手前に自動車販売店があり、
道路の向こう側にはJA木曽のスーパーがある。
旧国道に出たら左折。旧国道沿いに少し歩くと信号があり、
その手前で左脇に入る道があるので、そちらへ進もう。これが旧中山道である。


(突き当たりの変電所、右側の自動車屋)


(JAのスーパー)


(信号と旧国道脇の道路)


(道祖神二基)


(先の道路を右折)

自動車一台がやっと通れる道路で、
後ろや前方から自動車が来たら道路端によって自動車を避けねばならない。
登り坂である。この道をかなり歩くと右側に道祖神が二基並んでいる。
そろそろ人家が見え始める。
やがて広いアスファルト道路に出るので、
今度は右に行く。
しばらくすると左手に高架で登っていく国道19号が見えてくる。
その高架をくぐるように、道路が左脇へカーブする道路を見たら、


(右折した道路)


(国道19号が見えるわき道を左へ行く)


(国道19号脇のトンネル)

その脇道路に入り高架道路をくぐると、その先にトンネルが黒い口を開けて待っている。
明治時代にはこのトンネルを中央線が走っていたとのこと。
したがってトンネル内に電灯も無く、出口の明かりを頼りにトンネルを歩くより仕方がない。

トンネルを出ると新緑の木曽路はまばゆく美しかった。


(トンネル入り口)


(トンネル出口)





宿場と智勝山大通寺(旧中山道を歩く 179)

2009年08月03日 08時14分32秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(ナマコ壁の奥に見える山門)


(文化財に指定されている鐘楼門)

(木曽福島宿 5)
山門は鐘楼門になっており、木曽福島町の文化財に指定されている。
(当寺は関が原の合戦(1600)のあと、柱山(ちゅうざん)和尚を開山とし、
木曽代官 山村良勝によって建立されました。この鐘楼門は、
安永七年(1778)九月、施主向井休治、
大工棟梁は原源右衛門によって建てられたもので、
当町に現存する木造建築物として最古の一つ。
梵鐘は、寛文四年(1664)北伝和尚のとき、
山村新佐右衛門貞道によって寄進されたものでしたが、
第二次世界大戦中供出されたため、
昭和53年(1978)再鋳されたものです。
山門に掲げられている扁額は、
江戸中期の日本を代表する書家で、
特に篆書、篆刻を得意とする三井親和(*)の作です。)
(木曽町教育委員会)とある。

(大通寺の扁額)

(*)三井親和(みつい しんな)男性、
元禄13年(1700年) ? 天明2年3月7日(1782年4月19日))は、
江戸時代中期の日本の書家・篆刻家である。
字は孺�・、号に竜湖・深川漁夫・万玉亭などがある。
通称は孫兵衛。信州の人。深川に住んだので深川親和とも称された。

今から数えて220年前に建てられた鐘楼門をくぐると、
右手に立派な本堂、左手の壁際にお墓が並んでおり、                  
「武田信玄公息女 真理姫供養塔」の碑が建っている。

案内によれば、                                          
(真理姫は信玄の三女で、天文24年(1559)木曽へ攻め入った信玄が、       
領主 木曽義康と和睦した折に、その嫡子義昌のもとへ甲府から嫁いできました。 
そのとき真理姫はまだ6歳くらいだったと言われています。
天正十年(1983)信玄の死後、織田信長方についた儀昌と                
真理姫の兄勝頼が戦いを交え、勝頼は敗れて武田家は亡びてしまう。
そして天正十八年には徳川家康によって、義昌は網戸(千葉県旭市)へところ替えされ、
五年後に病没し跡を継いだ義利の乱行によって、
木曽家は取り潰される苦難の時代を過ごした。
真理姫は、晩年末子の義通と共に木曽へ戻り、三岳村で隠棲したが、         
正保四年(1647)九十八歳の長寿を全うし、波乱の生涯を閉じた。           
墓は三岳村の野口と、千葉県旭市網戸の東漸寺(とうぜんじ、
義昌の菩提寺)の双方にあり、戒名は「真龍院殿仁栄宗具大姉」です。
大通寺は慶長四年(1601)木曽家の屋敷跡に代官 山村良勝が創建した寺です。   
その良勝が父良侯(たかとき)と共に義昌の重臣であったことと、            
良勝の祖母が義昌の叔母であったという説もあり、                     
これらの縁により供養塔が建てられたものと思われる。                  
ちなみにこの寺は代官 山村良勝の奥方の位牌が安置されています。)(木曽町)とある。


(立派な本堂)


(信玄の娘真理姫の墓)

真理姫の供養塔に合掌して大通寺の鐘楼門を出る。                   
ナマコ壁の狭い通路を抜けて旧中山道に出る。左折すると又水場に出会う。
古い家並みを抜けて道はすぐ突き当たり、宿場の終わりとなる枡形になる。
左折して、すぐ右折した所に井戸がある。

説明によれば、
(この井戸は、江戸時代中ごろに造られたもので、深さ21尺(6.5m)あり、
過去数度の地震ににも少しも壊れることなく、
昭和の中ごろまで町民の飲料水として用いたものです。
この水は清く冷たく、中山道を往来する旅人ののどをうるおし、
また、毎年七月二十二日、二十三日の水無神社の祭礼には、
この水で砂糖水を作って枠持衆(みこしをかつぐ人)に供していたものです。)(木曽町)


(枡形を左折した所、突き当りを右折して井戸がある。)


(写真左手に囲まれているのが古い井戸)


(中八沢橋)


(長い坂を登ると左側にJR木曽福島駅がある)

古い井戸の先には中八沢橋がかかっており、道路は左右に広がる。
中山道を西に進む人は、此処で右折し道路に沿って緩やかな坂を登る。
少し進むと左手に「JR木曽福島駅」が見えてくる。

ここからの木曽の旧街道は此処から途切れ途切れになっており、               
案内に寄れば、たどるのが難しいそうである。
進むのに少し時間が掛かりそうで、駅前の食堂に入りお蕎麦でお腹を満たし、    

先に進むことにした。