中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

木曽路の入り口(旧中山道を歩く 157)

2008年10月30日 09時00分25秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(「是より南 木曽路」の碑)

(贄川宿/にえかわじゅく)
「木曽」の大看板から100mほどで「是より南 木曽路」の石碑がある。
石碑の横には桜の木が植わっており、
一段下がったところは休憩場所としての東屋がある小公園になっている。
その先の下のほうは渓谷で、水の流れる音が聞こえる。


(木曽路の碑がある小公園)

説明の案内板が建っている。
(この地は木曽路の北の入り口であり、
江戸時代には尾張藩領の北境であった。
石碑は、桜沢の藤屋 百瀬栄が昭和十五年に建立。
石碑の裏側に
「木曽路はここ桜沢より、神坂に至る南20余里なり」)とある。

長野県のこの辺りから尾張藩領があったと聞いて、
尾張藩の大きさに驚く。
もっとも尾張名古屋の城の大きさ、
屋根に載せた金の鯱の豪華さを考えると、
領国の広さは斯く有らんと思われる。
しかし尾張徳川家は所領61.9万石で、
前田家の102万石から比べれば約半分。
前田家の所領の広さは想像もつかないほど大きなものであろう。

藤村の「夜明け前」は、中央公論に昭和4年から昭和10年まで連載されたと言うから、
この石碑が建ったのは「夜明け前」が完結した後、五年が経過している。

旧中山道はこの石碑のある道路の向かい側にある細い道を登っていくよう案内がある。
左側の山の上を行き、桜沢の集落あたりで国道に合流するようである。
帰りの電車に間に合うかどうか気が急いて、
先を急ぐので、国道19号線の歩道を進む。


(旧街道はこの坂を登る)


(明治天皇桜澤御小休所)


(明治天皇桜澤御膳水の碑)


(桜澤茶屋本陣跡の藤屋)

右手の渓谷の崖上を歩く感じで歩道がある。
下を見ると川の流れが美しく白く波立っている。
紅葉には未だすこし早いが景観は素晴らしい。
間もなく右手に桜沢茶屋本陣跡が見える。
「明治天皇櫻澤御小休所跡」の石碑が門前にある由緒ありげな建物である。

この茶屋本陣は「藤屋」と言うが、
「是より南 木曽路」の石碑を造ったのは「藤屋」とあったが、
この茶屋本陣の「藤屋」が造ったものだろうか。


(川の上を行くような渓谷の上の歩道)


(片平橋)


(白山神社)

道路をさらに進むと、やがて右側の川に取水口らしきものが見え、
川は左に蛇行し、道路はその川を橋でわたる。
片平橋である。。
その先50mほど進むと右手に階段があり、
その上に白山神社の鳥居が見える。
さらに500mほど進むと、
国道19号の名古屋から「167K3」(167.3km)の地点に
(さすが尾張領、起点が名古屋になっている。)右に入る道があるので、
国道19号と分かれて右に進む。

およそ100mでまた国道に出て道は右に大きくカーブする。
カーブが終わったところに赤錆びたような歩道橋があり、
階段のたもとに鶯着寺がある。


(名古屋から167.3K地点)


(19号線より右に入る道)


(鶯着寺)


(鶯着寺の地蔵尊)

「飛梅山 鶯着寺」の名前の由来については、
贄川宿に伝わる民話に、
(参勤交代の加賀藩主前田候が中山道を通り、
片平のある寺に立ち寄り休憩された。
この時、和尚様が寺の名前が定まっていないことを幸いに寺の名を請うた。
折は春で、庭に鶯が飛んできて「ホーホケキョ」とさえずった。
そこで前田候は鶯が着く寺と言う意味の「飛梅山 鶯着寺としたらよかろう」と申された。
以後前田藩から毎年下げ渡し金が届いた。)
(楢川村むらおこし農家組合)とある。

なぜ前田候がこんなところに出てくるのだろうと不思議に思った。
加賀藩の参勤交代は北国街道で越後高田へ、
そして軽井沢の追分に出て、
その後は中山道を通ったはずである。
よくよく調べてみると、参勤交代の通り道は、
時に金沢から福井を抜けて、近江に入り中山道を通る行列が、
過去に五度あることが判った。
この五度の通行の際に鶯着寺で休憩したのであろう。

しかし、なぜわざわざ遠回りして通行したのかは、
金沢の方にお訊ねしたが納得できる返事をいただけなかった。
その中で、唯一納得できそうな回答は、
「途中にある(親知らず子知らず)の難所が、
何らかの都合で通り抜けることが出来ない事情があったのではないか」
と言う回答であった。

それにしてもさすが加賀102万石の殿様、
その後鶯着寺に幾ばくかの下げ渡し金を毎年送ったという。
裕福で義理堅く、庶民が苦労を共にしたい良き施政者であったように思われる。

鶯着寺を出て道なりに国道19号を歩く。
道路は両側に山が迫り木曽路を思わせる。
やがて道路の右上の草の中に白い看板が見える。
若神子(わかみこ)の一里塚である。


(頭のはるか上にある一里塚)

(塩尻市の中の中山道に設けられた一里塚は五箇所あり、そのうちの一つ。
当初は道路の両側に二基あり、塚の上には榎が植えられていたが、
明治43年鉄道施設のため一方の塚は取り壊され、
残る一基も国道19号に取られ高さ1mがここに残る。)
(塩尻市教育委員会)と説明がある。


(崖の上に登ったが桜の木が植えてあった一里塚)

もともと一里塚は幅9メートル、高さ3メートルが基準であるから、
その上の1mが残ったと言うことである。
見上げるほどのところにあり、
どうも説明の残り1メートルは無いようである。
もっとも道路を切り下げていれば別だが、
道路よりさらに下に線路があって、
列車が通っても列車の屋根さえ見ないようだから、
片方の一里塚が線路に取られたというのなら、
この一対の一里塚の高さは、左側が下に右側が上に、
段違いにあったのかもしれない。


(右に入る道、若神子の集落へ行く)

中山道は19号線の左下にあったようであるが、
案内書によれば、JRに道を寸断されて今はないと言う。
50mほど先に右に登る小道がある。
注意してみると右側に「中部北陸自然歩道」の標柱があり
「左贄川駅1.7km」とあるので、
右脇の坂道を行く。古い家が並ぶ若神子の集落で、
道路わきに清水が流れ出ている。


(若神子の清水)

集落を過ぎると道路は下り坂になるが、
その手前右上に諏訪神社がある。
鳥居は、安芸の宮島の鳥居に似て、
両足に補強(?)の足が何本かついている。
歩きつかれて下を向いて歩くと見落としそうである。


(右上にある諏訪神社)


(諏訪神社の補強足(?)のある鳥居)


(道路左の石造群)


(半円を描く道路)


(半円の終り19号線に出る手前の坂道。贄川へ1.3kmとある)

諏訪神社の前の下り坂が右に急カーブしているが、
カーブが始まる左手に道祖神の石造群がある。
ほとんど半円を描いて坂を下り終わると国道19号線に出るが、
その手前に右に上がる道があるので登っていく。
案内標識で「贄川駅1.3km」とある。
道なりにひなびた田舎道を進むと道が開け美しい景観が広がり、

その先に小さく贄川駅が見える。


(ひなびた山道)


(道路左先に小さく贄川駅が見える)





蕎麦切り発祥の地「本山宿」(旧中山道を歩く 156)

2008年10月25日 10時03分17秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(広重の本山宿(蕨宿にあったタイル)

(本山宿)
牧野の一里塚から500mほどで、左から来る国道19号線に合流する。
合流地点の「牧野」の信号に近づくと、
歩いてきた車道は大きく右のほうへ迂回するが、
歩行者は草むらの道を直進すると右に迂回していた車道に合流する。
ここが「牧野」の交差点で道路の反対側にセブンイレブンがある。

しばらく19号線に沿って歩くと、左側に牧野団地
(団地と言ってもマンション群があるわけではない。戸建の団地)がある。
さらに進むと大規模な本山浄水場がある。
その先で国道19号線は左にカーブし、旧中山道は右の道に入る。

((右の道に入る)

脇道に入るところに「本山そばの里」の幟旗がはためいている。
もっとも幟旗は何時風で無くなるかもしれないから、目印にはならないが、
本山は「そばきり発祥の地」であるから、「本山そばの里」を訊ねればよい。
とは言うものの、ものを尋ねる人には滅多にお目にかかれないくらい人通りが無い。

(本山宿の碑と秋葉神社の祭壇と道祖神などの石造群)

あまり案ずることはなく、少し前に進めば、
左側に「中山道本山宿」(しののめみち)と書いた案内標柱があり、
その先に小ぶりの秋葉神社と道祖神などの石造群が並んでいるのを見つけたら、
道は間違っていない。

(咲き乱れるコスモス)
道路の脇にはコスモスの花が咲き乱れ歩く旅人の心を和ませてくれる。
しばらくして右側に「本山そばの里」の幟旗が沢山はためいているところに出るので,
ぜひ本場のそばを味わってみよう。
建物はプレハブ風の簡易建物で、「蕎麦切り発祥の地」と聞くと、
何か古めかしい連子格子の重厚な建物を連想してしまうが、
本山宿の主婦(?)が集まって創めた村おこしみたいなものだから、
建物には期待しないことだ。

盛りそばは870円。
それに野沢菜、沢庵、パセリのオシタシにそば饅頭が出てきた。
信州のおそばでは、以前小諸で失敗しているので、
今回は慎重に盛りそばを注文した。

以前、失敗したのは、東京のいつもの調子で「大盛りそば」を頼んだら、
店員の方が妙な顔をしたので、
メニュウを見直してみると「もりそば」「中もりそば」「大盛りそば」がある。
中もりそばがあるということは、「大盛りそば」はかなり大盛りになると、
注文をしなおした。その時大盛りそばの量は多いですかと聞くと、
なんと「はい、1kgあります」という。
それで「盛りそば」に変更した経験があるからだ。
その盛りそばは東京で食べる「大盛り」ほどの量があった。

本山のそばも同じように東京の「大盛り」ほどの量はあったが、
とても美味しくいただいた。

(本山宿の石碑)


(古い家並み)


(古い家2)

そばを食べ終わって町の中心に向かう。
古い家並みなど興味は尽きないが、この町並みも短くすぐ町外れに出る。
途中の、町の中央辺りに中山道本山宿と書かれた石碑に出会う程度で、
本陣も脇本陣も高札場もあったのであろうが見当たらない。
両側を山に挟まれ、道路右側を川が平行して流れている美しい町である。

(町外れの高台)


(高台にあるもう一つの秋葉大権現の碑)


(小学校跡の碑)


(本山神社)


(神社脇の道祖神など石造群)

町外れの左側が高台になっており、
中段にもう一つの秋葉大権現の石塔が、
上段は小学校跡地であり、国道を陸橋で渡ると本山神社がある。
神社の屋根に大きな音を立てて、
榧(かや?)の実が落ちてきて深まる秋を感じさせる。

高台を降りてくると、向こうから中山道をうつむいて歩くひとりの旅人が寂しそうに見えた。
ボクも同じように寂しく見えるに違いない。
今後は上を向いて胸を張って楽しそうに歩こう。

本山神社を出て国道19号線に合流する。500mほどで
JRをまたぎ右へカーブする道路で19号線と別れると
日出塩の町並みである。

(長泉寺)


(優しい姿の地蔵尊)

左側に、真言宗長泉寺と優しい顔つきのお地蔵様、門前の庚申塔、
さらに進めば日出塩駅入り口があり、秋葉大権現、筆塚などの石塔がある。
わずかな距離の間に火の神様「秋葉大権現」が二箇所にあるのは、
よほど火に懲りている証拠である。
そのまま進むと道路の頭上を国道19号が追い越して行く。
中山道はすぐ先でその国道に合流するようになるが、
国道19号線には左側に歩行者用道路が無いため、
もう一度国道19号線の下を潜り抜けて、国道の右側に出る。

(筆塚もある秋葉大権現の石塔)


(木曽の大きな看板)

およそ1キロメートルも歩くと、「木曽」と書いた大きな看板に出くわす。
ここから「いよいよ木曽路」にはいる。
「いよいよ」と書いたのには訳が有る。
それは島崎藤村が書いた歴史小説「夜明け前」の
冒頭の「木曽路はすべて山の中である」の名文句が頭をよぎるからである。

ここで信濃路とはおさらば!
と言っても同じ長野県の中である。

ここから険阻な木曽路と思うとすこし気分が引き締まるのは、
きっとボクだけでは無いだろう。

ここから木曽十一宿が始まる。     



「あふたの清水」(旧中山道を歩く 155)

2008年10月20日 06時49分56秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(あふたの清水)

(洗馬宿2(せばじゅく2)
「分か去れ」の道標の先、洗馬宿寄りの右側に、
白地に黒で(あふたの清水)と書いた案内がある。
(静かな洗馬の町並と「あふたの清水」の看板)

案内書には(大田の清水)で木曽義仲と今井兼平がここで遭遇し、
兼平が義仲の馬の足を清水で洗い、馬を癒した。
洗馬(せば)の地名はこれに由来するという。

(大田の清水)は案内書によると(あふたの清水)、
(おうたの清水)の二通りの表現があり、
旧カナ使いにしてもどちらなのか、ずいぶん解りにくいと思っていた。
現代仮名遣いなら「大田」は(おおた)になるはずである。
(邂逅(あふた)の清水入り口)

義仲と兼平が邂逅(遭遇)したと説明を見て、
どうやら「邂逅(あふた)の清水」が正しいことを知った。
なお、「あふたの清水」の案内看板の裏側には、
「邂逅(あふた)の清水入口」と邂逅の文字に(あふた)と振り仮名がついていた。

この看板の道路反対側は、宗賀小学校の校門があるが、
学校らしきものは見えない。
「宗賀」は洗馬がもと「宗賀村」と言った名残である。
どうやら学校はJR中央本線をくぐった向こう側にあるあるものと思われる。
(宗賀小学校入り口)

(清水へ入る狭い道)

(左下が清水)

さて「あふたの清水」であるが、
入口から先に入ると細い道は急な下りになり、
階段を降りていくと坂の途中に水のみ場がある。
木枠で囲まれたその水のみ場には清らかな清水が流れ出ている。
昔は馬の足を洗った水を、飲むと言うのもどうかと思うが、
今は飲める水と、空のペットボトルに水を満たし、喉を潤した。
冷たくて乾いたのどには美味しい水であった。
(義仲と兼平が邂逅した故事が記された石碑)

この清水の先には、のどかな田園風景が広がっているが、
案内書には、奈良井川の流れを確認できるとあるが、
目の前は黄色に色づいた稲穂の波しか見ることが出来なかった。
田園風景としてはとても美しいと思った。
(美しい田園風景)

今回訪問する中山道の宿場、
洗馬宿、本山宿には特筆することが少なく、
洗馬宿では「あふたの清水」が唯一の目玉、
本山宿にいたっては「そばきり発祥の里」として
美味しいお蕎麦目当てで他に何も無い。

「あふたの清水」から先が洗馬宿の中心地に入っていくが、
普段の日では、人通りもなく静かな佇まいである。
道路わきに並ぶ家並みがすこし古い感じがするぐらいで特に何も見当たらない。
古い家並みと言うものの江戸時代を思わせるものはなく、
昭和のはじめに建てられたものの感じである。
(本陣跡)

(貫目改め所(重量制限を見張るところ)

(脇本陣跡)

本陣跡も脇本陣跡も問屋場跡も、跡の碑が在るだけである。
そして中山道では板橋宿、追分宿、洗馬宿の三箇所にしかないという貫目改め所、
これも跡の碑だけが残されている。
町の中心付近と思われるところにJR洗馬駅があり、
やがて洗馬宿の高札場跡に洗馬宿の石碑があり、この石碑で町は終わる。
この高札場跡の後方は金網で仕切られた広場になっているが、
もと宗賀村(洗馬)役場があったところで、隅に芭蕉句碑が建っている。
(洗馬宿の碑)

(芭蕉句碑)

信濃の洗馬
「入梅(つゆ)はれのわたくし雨や雲ちきれ」 芭蕉
               俳諧一葉集より

と読めるようであるが、どうも意味が解りにくい。
「梅雨の合間の晴れで空には雲が切れ雨もやんだ」は解るが
「わたくし」が理解できない。
普通、芭蕉の俳句はとても明解で理解し易いのに、
解りにくいのは読み方が違うのかもしれない。
どなたかご教授いただけると幸いです。

中山道は左折してJR中央本線のガードをくぐる。
潜った先に滝神社の鳥居が見え、
道路はJRに沿って右にカーブして行く。
(滝神社の鳥居)

すこし上り坂を進むと左側に「牧野の一里塚」の古い木製の碑がある。
薄れかかった字を読むと「江戸へ六十里、京へ七十二里」と書いてある。
江戸から60番目の一里塚である。

この先は本山宿に入って行く。
(牧野の一里塚)

(一里塚跡の標柱)



「肱懸けの松」(旧中山道を歩く 154)

2008年10月13日 09時00分18秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(肱懸け松)

(洗馬宿(せばじゅく)
洗馬宿に入って、二百メートルほど進むと、
右手に手入れされた赤松の木と石碑、
案内看板があるのが見える。
「細川幽斎ひじ懸けの松」である。

説明では、
(「洗馬のひじ松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の銘木。
細川幽斎(*)が「ひじ懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」
と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、
肘をかけて休んだとの説もある。)とある。(塩尻市洗馬区)

赤松は何代目か解らないがよく手入れされており肱懸松(ひじかけまつ)・
肱松の名に相応しい。

(*)細川幽斎は細川藤孝とも言い、細川ガラシャの夫細川忠興の実父で、
戦国武将・歌人であった。)

(ストーンサークル?)

中山道を先へ進み、坂を下ると右側の下のほうに、
イギリスのストーンサークルを思わせる石の一群が、
白い砂の上に集まっているのが見える。
道路脇に下に降りる鉄の網で作った階段があるので降りてみると、
南無阿弥陀仏や青面金剛像、地蔵尊が刻まれた石造物の集まりで、
街道のどこかにあったものが集められているようである。

それよりも、下に降りたところの先に
「分か去れ(追分)」に置いてあったとされる常夜灯を
観ることができるので寄ってみたい。

(安政四年建立の常夜灯)

説明によれば、
「中山道は右に折れて肱懸の坂(相生坂)を上り、
桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。
江戸へ30宿59里余。
左は北国脇往還の始まりで、
松本を経て麻績から善光寺へ向かう善光寺街道とも呼ばれる。
善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯は安政4年(1857)の建立で、
洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ、
伊勢へ、御嶽へ、そして京、江戸へと別れていった。」(塩尻市洗馬区)とある。

今歩いている道路を肱懸の坂(相生坂)というらしいが、
この坂を下りきると、道路は逆Y字路になっている。

(分か去れ、後ろに道祖神と南無阿弥陀仏の石塔が見える。)


(右中山道と刻まれている)


(左北国往還 善光寺道とある)

右角に「分か去れ」の道標があり、
洗馬宿のほうから見て「右中山道」、
左側に「左北国往還、善光寺道」と刻まれている。
先ほど観た常夜灯も以前はこのあたりに置いてあったものであろうか。
道標の後ろのほうには、旅の安全を守る道祖神、
その後ろに南無阿弥陀仏の石碑がある。
旅の安全を願ったものであろう。

(蕨宿にあった洗馬宿の浮世絵)

広重・英泉の「木曽海道六拾九次乃内」の「洗馬」によれば、

(「木曽路名所図会」に「義仲馬洗い水」の記述がある通り、
洗馬は、木曽義仲が馬を洗ったところから名づけられた地名である。
広重「洗馬」の図は、洗馬宿西方を流れる奈良井川の景を描いたものである。
上りかかった満月を柳越しに望みながら、柴を積んだ船と筏がゆっくりと
川を下っていく。
ー中略ー
色、叙情性は映画のラストシーンのような感傷的な光景といわれ
広重の最高傑作といわれる。
船を操る櫓の音さえ聞こえてきそうである。)
この記述どおりしんみりした気持ちになる情景である。



塩尻宿から洗馬宿へ(旧中山道を歩く 153)

2008年10月07日 08時23分03秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

0012
(「下大門」の信号)

(塩尻から洗馬へ)
2008年10月4日(晴)最高気温24℃の予想。
新宿駅発7時の「あさま 1号」で塩尻駅AM9:29着。
塩尻駅より旧中山道の信号「下大門」に向かう。
塩尻宿からは、この信号で道路は三つに分れ、
右側の道は松本方面に向かう道だ。
中央の道は今来た塩尻駅であり、
旧中山道は左の道をとり「平出の一里塚」を目指す。

道路は歩道が無く車の往来が多いので歩きにくい。
出来れば道路の右側を歩いて行きたい。
と言うのは、すぐ先の中央線のガードは狭くて車が二台すれ違うことが出来ないどころか、
歩行者の通路は右側にしかないからだ。

「下大門」信号から中山道は塩尻の町中を左に大きくカーブして進み、
中央線のガードをくぐると、
コンクリート塀の内側に防風林のようなヒマラヤスギが生えている
大きな工場が右側にある。昭和電工の工場である。
0011
(昭和電工の長い塀)
0007
(平出の一里塚)

その工場を過ぎた先の左側、ブドウ畑の中に
「平出の一里塚」が見えて来る。
久しぶりに見る立派な一里塚であるが、もう一方の一里塚が見えない。
残っているのは一つだけかと近づいて、道路の向かい側を覗くと民家の裏側の
奥まったところにもう一つの一里塚が見える。
0008
(道路を挟んで真正面にあるもう一つの一里塚)

左側の一里塚と同じように塚の上に松の木が見事な枝振りを見せている。
当初作られたときはどの一里塚も榎を植えたようであるが、
明治になり街道の役目が終わった後では、植えられた榎が枯れた後では、
植えられた木が、松の木であったり、しだれ桜であったり、
ケヤキであったりする。
近所の方が手入れをされていると思われるが、
塚の上は綺麗に雑草が刈り込まれていて、とても綺麗な景観である。

「一里塚は慶長九年(1604)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、
同十二年には完成を見た。
秀忠は永井白元、本田光重等を一里塚奉行に任命して、
中山道筋の幕府領、私領を問わず人足を徴発して道を整備し、
江戸日本橋を基点にして、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ
塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜を図った。―中略―
この一里塚は日本橋より59番目のもので、宝暦六年(1756)頃には、
この付近に茶屋が二軒あることがわかっている。」(塩尻市教育委員会)と案内がある。

周りはぶどう園が続き、手を伸ばせばたわわに実ったぶどうを摘むことが出来るほどである。
そうしたブドウ畑の中をしばらく歩くと、
今度は中央本線の踏切を渡ることになる。
右方向が塩尻駅で左方向が洗馬駅である。
さらにブドウ畑や、ぶどう狩りができる観光農園や、
産地直売所を数件、横目で見ながら進む。
ぶどう園の店先には、数房盛り付けたぶどうの笊が並んでおり、
値段が五百円と表示されている。
東京では一房三百円ほどの値段が付いているので、ずいぶん安く感じられる。
ぶどうは一笊何キログラムあるか知らないが、
安いからといって購入するわけに行かない。
重い荷物を持って歩くわけには行かないからだ。
考えてみると、都会まで出荷するには輸送費が掛かり、
この原油高の中では、輸送費がぶどうの値段より高くなるかもしれないのだ。
そう考えると、都会で求めるぶどうの値段と、
産地で購入する値段は共に妥当に思えてくるから不思議だ。
0005
(「平出の一里塚」の信号を左折する)
0004
(ガソリンスタンドの後ろの道)
0003
(砂利道はすぐ突き当たりになり右手の「平出歴史公園」の信号を渡る)

間もなく右から来た国道19号線と交差する。
その交差点の信号は「中山道一里塚」で、ここを左折し、
相変わらず続くブドウ畑の間を進むと、コスモ石油のガソリンスタンド左側にあるので、
その裏手の砂利石で草が生い茂った道に入る。
まもなく、草道は一段高い道路に突き当たるが、
左に折れて高い道路に上がり右手に進む。
すぐ先の国道19号線と交差する信号「平出歴史公園」を直進する。
(国道19号線には入らない。)

信号を渡ったところのすぐ右に、

「洗馬宿の北の岐路(わかれじ)碑に残す
  北国往還(ほっこくおうかん)善光寺道」

の看板が見える。
ここから洗馬宿に入ったと解る。
0055
(ここから洗馬宿の案内看板)