中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

高崎城の遺構(旧中山道を歩く 80)

2006年07月28日 17時41分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(東門)


(高崎宿2)
高崎城記の石碑の近く、その真向かいにある東門は、
その由来によると、
高崎城には16の城門があったが、その中、本丸門、刎橋門、東門は
平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として
使われていた。この門は、寛政十年(1798)と天保12年(1843)の
二度の火災により焼失し、現在のように建て直されたもの。
くぐり戸は、乗篭が通れるようになっている。
門は築城当時より低く出来ており、乗馬のままでは通れない。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、
高崎市下小鳥町の梅山大作氏の門となっていた。(高崎市教育委員会)

(美しい三の丸土塁)

また、高崎市指定史跡となっている高崎城三の丸土塁は、とても美しい風情を残しています。
「箕輪城(高崎城)に封ぜられた井伊直政は家康の命により、
慶長3年(1598)中山道と三國街道の分岐点に当たる高崎に城を構えたのが
高崎藩おこりです。
直政は箕輪から町屋や寺院を移転させ城下町の基礎を築きました。
今は三の丸の土塁と堀が残っているだけですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、
二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置きました。
また、遠構えとよぶ城下町を囲む堀と土塁を築きました。
明治四年の廃藩まで273年間、高崎の歴史は高崎藩政
を中心に展開したといっても過言ではない。」とある。
(高崎市教育委員会)

その高崎城の遺構もさることながら、何よりも中山道を歩いている間中
気になっていた、ライトブルーの美しい高層ビルが目の前にある。
これが高崎市庁舎である。
高崎のシンボルといえば、以前は白衣の観音像であったが、
いまやこの高崎市庁舎が取って代わっている。

(憩いの場となっている公園)

この高崎市庁舎の南側に広場があり、その先に高崎公園がある。
園内には各種の木が植えられて市民の憩いの場となっており、
老若男女が散策していた。公園を入って右手の西の端、国道17号に
隣接するあたりに、樹齢380年の木蓮の木が目立った存在になっている。
ボクが訪ねたときは、木蓮はすでに新緑であったが、早春の花が満開のときは、
さぞ美しいものと思われる。

(樹齢380年の木蓮)

(頼政神社。左側は国道17号線)

その高崎公園のさらに南に位置するところに、ひっそりと頼政神社がある。




高崎城(旧中山道を歩く 79)

2006年07月24日 17時30分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(下和田町の踏み切りの標識)


(高崎宿)
倉賀野宿を出てからの旧中山道は、特にお伝えすることが無い。
ただただ、ひたすらに高崎を目指して街なかを歩き、
高崎市上佐野町で国道17号と立体交差するガードをくぐり、
下和田町で上信電鉄の踏み切りを越える。
その辺りから高崎市に入った感じで、道路の左右に商店や会社のビルが目に付く。
この通りは、南大通りで一直線に西に向かう。
やがて南町の信号に出るが、道路は右に曲がり、ここから北へ向かう。


(みなみ町の信号。道路が右にカーヴしている)

やがて連雀町の交差点に出でるが、ここを左折してしばらく歩くと、
高崎城の石組みが見え、乾櫓が見える。並んで東門、
三の丸土塁と外堀が見える。
これらが高崎城の名残を見せ、周りの広場に若者達が沢山集って、
談笑していたのが印象的であった。

(高崎城の石垣)

(いぬい櫓)

(乾櫓を裏側から見る)

(東門)

(三の丸土塁と外堀)

こうした遺構の前に、高崎歩兵第十五連隊跡の碑がある。
ボクは昭和の生まれだから、これは「第二次世界大戦の碑」と思ったら
大きな間違いであった。
説明によれば、明治五年国民皆兵令に伴い出来た東京鎮台第一大隊の、
歩兵第十五連隊の記念碑であるという。

(第十五連隊の記念碑)

御影石に刻まれた高崎城記を要約すると、
高崎は王朝時代、赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、
この地方の中心地にまでは至っていなかった。
十三世紀の鎌倉時代に和田氏が城を築き、ようやく中心的存在となり、
十六世紀末の天正18年、小田原の北条氏と運命を共にするに至るまで、
和田城は三百数十年の歴史を誇った。
慶長三年 井伊直政が箕輪城12万石の城主から移り、
城主になるに及んで、和田の地を高崎と改めた。
城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは交通の要衝たるに伴い、
要害の名をうたわれた。
中仙道は後に中山道と改称された。
――中略――
明治6年東京鎮台高崎分営が置かれ、明治17年には歩兵第15連隊が創設され、
以来第二次世界大戦に敗れるまで、滅私奉公、
国家護持のために散った郷土出身の将兵は五万といわれる。
戦に破れ、つわものどもが夢の跡には、市の行政、教育、文化の中心地となって...
――以下省略――
明治百周年を迎えるにあたり、高崎城の回顧を記録する。
(昭和43年10月    高崎市)