(東門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/3e/d5d2c090b2cf8b2fe1d9af364ead1555.jpg)
(高崎宿2)
高崎城記の石碑の近く、その真向かいにある東門は、
その由来によると、
高崎城には16の城門があったが、その中、本丸門、刎橋門、東門は
平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として
使われていた。この門は、寛政十年(1798)と天保12年(1843)の
二度の火災により焼失し、現在のように建て直されたもの。
くぐり戸は、乗篭が通れるようになっている。
門は築城当時より低く出来ており、乗馬のままでは通れない。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、
高崎市下小鳥町の梅山大作氏の門となっていた。(高崎市教育委員会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/1a/cc324fac3a04ca30a9eb9b0cd3a820f5.jpg)
(美しい三の丸土塁)
また、高崎市指定史跡となっている高崎城三の丸土塁は、とても美しい風情を残しています。
「箕輪城(高崎城)に封ぜられた井伊直政は家康の命により、
慶長3年(1598)中山道と三國街道の分岐点に当たる高崎に城を構えたのが
高崎藩おこりです。
直政は箕輪から町屋や寺院を移転させ城下町の基礎を築きました。
今は三の丸の土塁と堀が残っているだけですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、
二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置きました。
また、遠構えとよぶ城下町を囲む堀と土塁を築きました。
明治四年の廃藩まで273年間、高崎の歴史は高崎藩政
を中心に展開したといっても過言ではない。」とある。
(高崎市教育委員会)
その高崎城の遺構もさることながら、何よりも中山道を歩いている間中
気になっていた、ライトブルーの美しい高層ビルが目の前にある。
これが高崎市庁舎である。
高崎のシンボルといえば、以前は白衣の観音像であったが、
いまやこの高崎市庁舎が取って代わっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/ab/11aa1f77df188a52dda1d5ecc16cd84c.jpg)
(憩いの場となっている公園)
この高崎市庁舎の南側に広場があり、その先に高崎公園がある。
園内には各種の木が植えられて市民の憩いの場となっており、
老若男女が散策していた。公園を入って右手の西の端、国道17号に
隣接するあたりに、樹齢380年の木蓮の木が目立った存在になっている。
ボクが訪ねたときは、木蓮はすでに新緑であったが、早春の花が満開のときは、
さぞ美しいものと思われる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/e6/0fb1f2c4f18b1a84fd678a66a65f9ef5.jpg)
(樹齢380年の木蓮)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/07/02e533ad356efcb6f017c27662525280.jpg)
(頼政神社。左側は国道17号線)
その高崎公園のさらに南に位置するところに、ひっそりと頼政神社がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/3e/d5d2c090b2cf8b2fe1d9af364ead1555.jpg)
(高崎宿2)
高崎城記の石碑の近く、その真向かいにある東門は、
その由来によると、
高崎城には16の城門があったが、その中、本丸門、刎橋門、東門は
平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として
使われていた。この門は、寛政十年(1798)と天保12年(1843)の
二度の火災により焼失し、現在のように建て直されたもの。
くぐり戸は、乗篭が通れるようになっている。
門は築城当時より低く出来ており、乗馬のままでは通れない。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、
高崎市下小鳥町の梅山大作氏の門となっていた。(高崎市教育委員会)
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(美しい三の丸土塁)
また、高崎市指定史跡となっている高崎城三の丸土塁は、とても美しい風情を残しています。
「箕輪城(高崎城)に封ぜられた井伊直政は家康の命により、
慶長3年(1598)中山道と三國街道の分岐点に当たる高崎に城を構えたのが
高崎藩おこりです。
直政は箕輪から町屋や寺院を移転させ城下町の基礎を築きました。
今は三の丸の土塁と堀が残っているだけですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、
二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置きました。
また、遠構えとよぶ城下町を囲む堀と土塁を築きました。
明治四年の廃藩まで273年間、高崎の歴史は高崎藩政
を中心に展開したといっても過言ではない。」とある。
(高崎市教育委員会)
その高崎城の遺構もさることながら、何よりも中山道を歩いている間中
気になっていた、ライトブルーの美しい高層ビルが目の前にある。
これが高崎市庁舎である。
高崎のシンボルといえば、以前は白衣の観音像であったが、
いまやこの高崎市庁舎が取って代わっている。
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(憩いの場となっている公園)
この高崎市庁舎の南側に広場があり、その先に高崎公園がある。
園内には各種の木が植えられて市民の憩いの場となっており、
老若男女が散策していた。公園を入って右手の西の端、国道17号に
隣接するあたりに、樹齢380年の木蓮の木が目立った存在になっている。
ボクが訪ねたときは、木蓮はすでに新緑であったが、早春の花が満開のときは、
さぞ美しいものと思われる。
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(樹齢380年の木蓮)
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(頼政神社。左側は国道17号線)
その高崎公園のさらに南に位置するところに、ひっそりと頼政神社がある。