中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

蕎麦切り発祥の地「本山宿」(旧中山道を歩く 156)

2008年10月25日 10時03分17秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(広重の本山宿(蕨宿にあったタイル)

(本山宿)
牧野の一里塚から500mほどで、左から来る国道19号線に合流する。
合流地点の「牧野」の信号に近づくと、
歩いてきた車道は大きく右のほうへ迂回するが、
歩行者は草むらの道を直進すると右に迂回していた車道に合流する。
ここが「牧野」の交差点で道路の反対側にセブンイレブンがある。

しばらく19号線に沿って歩くと、左側に牧野団地
(団地と言ってもマンション群があるわけではない。戸建の団地)がある。
さらに進むと大規模な本山浄水場がある。
その先で国道19号線は左にカーブし、旧中山道は右の道に入る。

((右の道に入る)

脇道に入るところに「本山そばの里」の幟旗がはためいている。
もっとも幟旗は何時風で無くなるかもしれないから、目印にはならないが、
本山は「そばきり発祥の地」であるから、「本山そばの里」を訊ねればよい。
とは言うものの、ものを尋ねる人には滅多にお目にかかれないくらい人通りが無い。

(本山宿の碑と秋葉神社の祭壇と道祖神などの石造群)

あまり案ずることはなく、少し前に進めば、
左側に「中山道本山宿」(しののめみち)と書いた案内標柱があり、
その先に小ぶりの秋葉神社と道祖神などの石造群が並んでいるのを見つけたら、
道は間違っていない。

(咲き乱れるコスモス)
道路の脇にはコスモスの花が咲き乱れ歩く旅人の心を和ませてくれる。
しばらくして右側に「本山そばの里」の幟旗が沢山はためいているところに出るので,
ぜひ本場のそばを味わってみよう。
建物はプレハブ風の簡易建物で、「蕎麦切り発祥の地」と聞くと、
何か古めかしい連子格子の重厚な建物を連想してしまうが、
本山宿の主婦(?)が集まって創めた村おこしみたいなものだから、
建物には期待しないことだ。

盛りそばは870円。
それに野沢菜、沢庵、パセリのオシタシにそば饅頭が出てきた。
信州のおそばでは、以前小諸で失敗しているので、
今回は慎重に盛りそばを注文した。

以前、失敗したのは、東京のいつもの調子で「大盛りそば」を頼んだら、
店員の方が妙な顔をしたので、
メニュウを見直してみると「もりそば」「中もりそば」「大盛りそば」がある。
中もりそばがあるということは、「大盛りそば」はかなり大盛りになると、
注文をしなおした。その時大盛りそばの量は多いですかと聞くと、
なんと「はい、1kgあります」という。
それで「盛りそば」に変更した経験があるからだ。
その盛りそばは東京で食べる「大盛り」ほどの量があった。

本山のそばも同じように東京の「大盛り」ほどの量はあったが、
とても美味しくいただいた。

(本山宿の石碑)


(古い家並み)


(古い家2)

そばを食べ終わって町の中心に向かう。
古い家並みなど興味は尽きないが、この町並みも短くすぐ町外れに出る。
途中の、町の中央辺りに中山道本山宿と書かれた石碑に出会う程度で、
本陣も脇本陣も高札場もあったのであろうが見当たらない。
両側を山に挟まれ、道路右側を川が平行して流れている美しい町である。

(町外れの高台)


(高台にあるもう一つの秋葉大権現の碑)


(小学校跡の碑)


(本山神社)


(神社脇の道祖神など石造群)

町外れの左側が高台になっており、
中段にもう一つの秋葉大権現の石塔が、
上段は小学校跡地であり、国道を陸橋で渡ると本山神社がある。
神社の屋根に大きな音を立てて、
榧(かや?)の実が落ちてきて深まる秋を感じさせる。

高台を降りてくると、向こうから中山道をうつむいて歩くひとりの旅人が寂しそうに見えた。
ボクも同じように寂しく見えるに違いない。
今後は上を向いて胸を張って楽しそうに歩こう。

本山神社を出て国道19号線に合流する。500mほどで
JRをまたぎ右へカーブする道路で19号線と別れると
日出塩の町並みである。

(長泉寺)


(優しい姿の地蔵尊)

左側に、真言宗長泉寺と優しい顔つきのお地蔵様、門前の庚申塔、
さらに進めば日出塩駅入り口があり、秋葉大権現、筆塚などの石塔がある。
わずかな距離の間に火の神様「秋葉大権現」が二箇所にあるのは、
よほど火に懲りている証拠である。
そのまま進むと道路の頭上を国道19号が追い越して行く。
中山道はすぐ先でその国道に合流するようになるが、
国道19号線には左側に歩行者用道路が無いため、
もう一度国道19号線の下を潜り抜けて、国道の右側に出る。

(筆塚もある秋葉大権現の石塔)


(木曽の大きな看板)

およそ1キロメートルも歩くと、「木曽」と書いた大きな看板に出くわす。
ここから「いよいよ木曽路」にはいる。
「いよいよ」と書いたのには訳が有る。
それは島崎藤村が書いた歴史小説「夜明け前」の
冒頭の「木曽路はすべて山の中である」の名文句が頭をよぎるからである。

ここで信濃路とはおさらば!
と言っても同じ長野県の中である。

ここから険阻な木曽路と思うとすこし気分が引き締まるのは、
きっとボクだけでは無いだろう。

ここから木曽十一宿が始まる。     



「あふたの清水」(旧中山道を歩く 155)

2008年10月20日 06時49分56秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(あふたの清水)

(洗馬宿2(せばじゅく2)
「分か去れ」の道標の先、洗馬宿寄りの右側に、
白地に黒で(あふたの清水)と書いた案内がある。
(静かな洗馬の町並と「あふたの清水」の看板)

案内書には(大田の清水)で木曽義仲と今井兼平がここで遭遇し、
兼平が義仲の馬の足を清水で洗い、馬を癒した。
洗馬(せば)の地名はこれに由来するという。

(大田の清水)は案内書によると(あふたの清水)、
(おうたの清水)の二通りの表現があり、
旧カナ使いにしてもどちらなのか、ずいぶん解りにくいと思っていた。
現代仮名遣いなら「大田」は(おおた)になるはずである。
(邂逅(あふた)の清水入り口)

義仲と兼平が邂逅(遭遇)したと説明を見て、
どうやら「邂逅(あふた)の清水」が正しいことを知った。
なお、「あふたの清水」の案内看板の裏側には、
「邂逅(あふた)の清水入口」と邂逅の文字に(あふた)と振り仮名がついていた。

この看板の道路反対側は、宗賀小学校の校門があるが、
学校らしきものは見えない。
「宗賀」は洗馬がもと「宗賀村」と言った名残である。
どうやら学校はJR中央本線をくぐった向こう側にあるあるものと思われる。
(宗賀小学校入り口)

(清水へ入る狭い道)

(左下が清水)

さて「あふたの清水」であるが、
入口から先に入ると細い道は急な下りになり、
階段を降りていくと坂の途中に水のみ場がある。
木枠で囲まれたその水のみ場には清らかな清水が流れ出ている。
昔は馬の足を洗った水を、飲むと言うのもどうかと思うが、
今は飲める水と、空のペットボトルに水を満たし、喉を潤した。
冷たくて乾いたのどには美味しい水であった。
(義仲と兼平が邂逅した故事が記された石碑)

この清水の先には、のどかな田園風景が広がっているが、
案内書には、奈良井川の流れを確認できるとあるが、
目の前は黄色に色づいた稲穂の波しか見ることが出来なかった。
田園風景としてはとても美しいと思った。
(美しい田園風景)

今回訪問する中山道の宿場、
洗馬宿、本山宿には特筆することが少なく、
洗馬宿では「あふたの清水」が唯一の目玉、
本山宿にいたっては「そばきり発祥の里」として
美味しいお蕎麦目当てで他に何も無い。

「あふたの清水」から先が洗馬宿の中心地に入っていくが、
普段の日では、人通りもなく静かな佇まいである。
道路わきに並ぶ家並みがすこし古い感じがするぐらいで特に何も見当たらない。
古い家並みと言うものの江戸時代を思わせるものはなく、
昭和のはじめに建てられたものの感じである。
(本陣跡)

(貫目改め所(重量制限を見張るところ)

(脇本陣跡)

本陣跡も脇本陣跡も問屋場跡も、跡の碑が在るだけである。
そして中山道では板橋宿、追分宿、洗馬宿の三箇所にしかないという貫目改め所、
これも跡の碑だけが残されている。
町の中心付近と思われるところにJR洗馬駅があり、
やがて洗馬宿の高札場跡に洗馬宿の石碑があり、この石碑で町は終わる。
この高札場跡の後方は金網で仕切られた広場になっているが、
もと宗賀村(洗馬)役場があったところで、隅に芭蕉句碑が建っている。
(洗馬宿の碑)

(芭蕉句碑)

信濃の洗馬
「入梅(つゆ)はれのわたくし雨や雲ちきれ」 芭蕉
               俳諧一葉集より

と読めるようであるが、どうも意味が解りにくい。
「梅雨の合間の晴れで空には雲が切れ雨もやんだ」は解るが
「わたくし」が理解できない。
普通、芭蕉の俳句はとても明解で理解し易いのに、
解りにくいのは読み方が違うのかもしれない。
どなたかご教授いただけると幸いです。

中山道は左折してJR中央本線のガードをくぐる。
潜った先に滝神社の鳥居が見え、
道路はJRに沿って右にカーブして行く。
(滝神社の鳥居)

すこし上り坂を進むと左側に「牧野の一里塚」の古い木製の碑がある。
薄れかかった字を読むと「江戸へ六十里、京へ七十二里」と書いてある。
江戸から60番目の一里塚である。

この先は本山宿に入って行く。
(牧野の一里塚)

(一里塚跡の標柱)



「肱懸けの松」(旧中山道を歩く 154)

2008年10月13日 09時00分18秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(肱懸け松)

(洗馬宿(せばじゅく)
洗馬宿に入って、二百メートルほど進むと、
右手に手入れされた赤松の木と石碑、
案内看板があるのが見える。
「細川幽斎ひじ懸けの松」である。

説明では、
(「洗馬のひじ松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の銘木。
細川幽斎(*)が「ひじ懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」
と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、
肘をかけて休んだとの説もある。)とある。(塩尻市洗馬区)

赤松は何代目か解らないがよく手入れされており肱懸松(ひじかけまつ)・
肱松の名に相応しい。

(*)細川幽斎は細川藤孝とも言い、細川ガラシャの夫細川忠興の実父で、
戦国武将・歌人であった。)

(ストーンサークル?)

中山道を先へ進み、坂を下ると右側の下のほうに、
イギリスのストーンサークルを思わせる石の一群が、
白い砂の上に集まっているのが見える。
道路脇に下に降りる鉄の網で作った階段があるので降りてみると、
南無阿弥陀仏や青面金剛像、地蔵尊が刻まれた石造物の集まりで、
街道のどこかにあったものが集められているようである。

それよりも、下に降りたところの先に
「分か去れ(追分)」に置いてあったとされる常夜灯を
観ることができるので寄ってみたい。

(安政四年建立の常夜灯)

説明によれば、
「中山道は右に折れて肱懸の坂(相生坂)を上り、
桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。
江戸へ30宿59里余。
左は北国脇往還の始まりで、
松本を経て麻績から善光寺へ向かう善光寺街道とも呼ばれる。
善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯は安政4年(1857)の建立で、
洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ、
伊勢へ、御嶽へ、そして京、江戸へと別れていった。」(塩尻市洗馬区)とある。

今歩いている道路を肱懸の坂(相生坂)というらしいが、
この坂を下りきると、道路は逆Y字路になっている。

(分か去れ、後ろに道祖神と南無阿弥陀仏の石塔が見える。)


(右中山道と刻まれている)


(左北国往還 善光寺道とある)

右角に「分か去れ」の道標があり、
洗馬宿のほうから見て「右中山道」、
左側に「左北国往還、善光寺道」と刻まれている。
先ほど観た常夜灯も以前はこのあたりに置いてあったものであろうか。
道標の後ろのほうには、旅の安全を守る道祖神、
その後ろに南無阿弥陀仏の石碑がある。
旅の安全を願ったものであろう。

(蕨宿にあった洗馬宿の浮世絵)

広重・英泉の「木曽海道六拾九次乃内」の「洗馬」によれば、

(「木曽路名所図会」に「義仲馬洗い水」の記述がある通り、
洗馬は、木曽義仲が馬を洗ったところから名づけられた地名である。
広重「洗馬」の図は、洗馬宿西方を流れる奈良井川の景を描いたものである。
上りかかった満月を柳越しに望みながら、柴を積んだ船と筏がゆっくりと
川を下っていく。
ー中略ー
色、叙情性は映画のラストシーンのような感傷的な光景といわれ
広重の最高傑作といわれる。
船を操る櫓の音さえ聞こえてきそうである。)
この記述どおりしんみりした気持ちになる情景である。



塩尻宿から洗馬宿へ(旧中山道を歩く 153)

2008年10月07日 08時23分03秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

0012
(「下大門」の信号)

(塩尻から洗馬へ)
2008年10月4日(晴)最高気温24℃の予想。
新宿駅発7時の「あさま 1号」で塩尻駅AM9:29着。
塩尻駅より旧中山道の信号「下大門」に向かう。
塩尻宿からは、この信号で道路は三つに分れ、
右側の道は松本方面に向かう道だ。
中央の道は今来た塩尻駅であり、
旧中山道は左の道をとり「平出の一里塚」を目指す。

道路は歩道が無く車の往来が多いので歩きにくい。
出来れば道路の右側を歩いて行きたい。
と言うのは、すぐ先の中央線のガードは狭くて車が二台すれ違うことが出来ないどころか、
歩行者の通路は右側にしかないからだ。

「下大門」信号から中山道は塩尻の町中を左に大きくカーブして進み、
中央線のガードをくぐると、
コンクリート塀の内側に防風林のようなヒマラヤスギが生えている
大きな工場が右側にある。昭和電工の工場である。
0011
(昭和電工の長い塀)
0007
(平出の一里塚)

その工場を過ぎた先の左側、ブドウ畑の中に
「平出の一里塚」が見えて来る。
久しぶりに見る立派な一里塚であるが、もう一方の一里塚が見えない。
残っているのは一つだけかと近づいて、道路の向かい側を覗くと民家の裏側の
奥まったところにもう一つの一里塚が見える。
0008
(道路を挟んで真正面にあるもう一つの一里塚)

左側の一里塚と同じように塚の上に松の木が見事な枝振りを見せている。
当初作られたときはどの一里塚も榎を植えたようであるが、
明治になり街道の役目が終わった後では、植えられた榎が枯れた後では、
植えられた木が、松の木であったり、しだれ桜であったり、
ケヤキであったりする。
近所の方が手入れをされていると思われるが、
塚の上は綺麗に雑草が刈り込まれていて、とても綺麗な景観である。

「一里塚は慶長九年(1604)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、
同十二年には完成を見た。
秀忠は永井白元、本田光重等を一里塚奉行に任命して、
中山道筋の幕府領、私領を問わず人足を徴発して道を整備し、
江戸日本橋を基点にして、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ
塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜を図った。―中略―
この一里塚は日本橋より59番目のもので、宝暦六年(1756)頃には、
この付近に茶屋が二軒あることがわかっている。」(塩尻市教育委員会)と案内がある。

周りはぶどう園が続き、手を伸ばせばたわわに実ったぶどうを摘むことが出来るほどである。
そうしたブドウ畑の中をしばらく歩くと、
今度は中央本線の踏切を渡ることになる。
右方向が塩尻駅で左方向が洗馬駅である。
さらにブドウ畑や、ぶどう狩りができる観光農園や、
産地直売所を数件、横目で見ながら進む。
ぶどう園の店先には、数房盛り付けたぶどうの笊が並んでおり、
値段が五百円と表示されている。
東京では一房三百円ほどの値段が付いているので、ずいぶん安く感じられる。
ぶどうは一笊何キログラムあるか知らないが、
安いからといって購入するわけに行かない。
重い荷物を持って歩くわけには行かないからだ。
考えてみると、都会まで出荷するには輸送費が掛かり、
この原油高の中では、輸送費がぶどうの値段より高くなるかもしれないのだ。
そう考えると、都会で求めるぶどうの値段と、
産地で購入する値段は共に妥当に思えてくるから不思議だ。
0005
(「平出の一里塚」の信号を左折する)
0004
(ガソリンスタンドの後ろの道)
0003
(砂利道はすぐ突き当たりになり右手の「平出歴史公園」の信号を渡る)

間もなく右から来た国道19号線と交差する。
その交差点の信号は「中山道一里塚」で、ここを左折し、
相変わらず続くブドウ畑の間を進むと、コスモ石油のガソリンスタンド左側にあるので、
その裏手の砂利石で草が生い茂った道に入る。
まもなく、草道は一段高い道路に突き当たるが、
左に折れて高い道路に上がり右手に進む。
すぐ先の国道19号線と交差する信号「平出歴史公園」を直進する。
(国道19号線には入らない。)

信号を渡ったところのすぐ右に、

「洗馬宿の北の岐路(わかれじ)碑に残す
  北国往還(ほっこくおうかん)善光寺道」

の看板が見える。
ここから洗馬宿に入ったと解る。
0055
(ここから洗馬宿の案内看板)




塩尻宿(旧中山道を歩く152)

2008年09月24日 06時56分01秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(高札場の跡)

(塩尻宿2)
「スズメオドシ」の家に別れを告げ門を出ると向かい側に高札場の名残がある。
高札は法律を守らせるためのもので、それを名主が管理に当たった。
そのように考えると、スズメオドシが屋根の上にあるのも頷ける。

(永福寺入り口)


(永福寺の美しい山門)

旧中山道は火の見櫓のあるところで、二手に分かれる。
右を行く道といずれまた合流するのであるが、旧中山道は左の道をとる。
歩きながら右のほうを見ると、右側の道を行った先に立派なお寺が見える。
これは永福寺と言い、観音堂がある。

(永福寺観音堂)


(自ずと合掌する気になる観音堂の荘厳な正面)

慈眼山永福寺は木曽義仲ゆかりの地で、元禄十五年(1702)
現在地に伽藍と馬頭観世音が本尊とする朝日観音を建立したが焼失、
安政二年(1855)再建された。姿の美しいお堂で、馬頭観世音の赤い旗が石段の脇にゆれていた。


(「是より西 塩尻宿」の碑)

二手に分かれた道路は先で合流し、信号の右角に

「是より西 塩尻宿」の石碑がある。

左角には、大きな道祖神と南無妙法蓮華経の二つの石碑が並んでいる。
さらに進むと左側に三州街道と刻まれた石碑がある。
右側には庚申塔が何基も並んでいる。

(道祖神と南無妙法蓮華経の石碑)


(三州街道の碑)


(沢山並ぶ庚申塔、道祖神などの石造群)

塩尻とは、富山から運ばれてきた塩も三州街道から運ばれてきた
三河・尾張の塩もここで終り(塩尻)になったという、塩の道の終りを意味した。
地名の由来には、いろいろないわれがあるものと解った。

その三州街道の塩尻側の入り口である。
当然近くには塩を扱う問屋、本陣、脇本陣、旅籠等が集まっている。

右側にまず旅籠の小野家住宅が、向かい側に上問屋跡の碑が、
その先に中山道塩尻宿本陣跡、その隣に脇本陣跡と並んでおり、
最後に造り酒屋の立派な杉玉がぶら下がっている武井酒造店がある。

(小野家住宅)


(上問屋跡の石碑)


(本陣跡)


(脇本陣跡)


(酒造店)

道路を進むと右に折れる道があり、角に中山道
「鉤(かぎ)の手跡」の碑がある。

宿場町防衛のため、敵がまっすぐに侵入できないよう、
宿場の入り口と出口を「鉤(かぎ)の手」に曲げた。その跡である。
京都側から宿場への入り口に当たり、ここから東に向けて本来の塩尻宿があった。

(鉤の手の碑)

旧中山道は「鉤(かぎ)の手跡」の碑を右に曲がり進むと、
右手に阿礼神社の森が鬱蒼としている。左隣には塩尻東小学校があり、
道路には「是より東塩尻宿」の石碑がある。
男女が手を取り合った微笑ましい双体道祖神もある。
さらに進むと、同じく右側に堀内家住宅が残っている。

(阿礼神社の森)


(阿礼神社)


(堀内家住宅)

説明によれば、
(堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。
建築の年代については十九世紀初頭、
下西条の川上家(当時は造酒家)からの家を移築したとの言い伝えがある。

また構造手法から十八世紀後半頃(約二百年前)の建築と見られる。
建物は南に面し桁行、梁間共に十間で、切妻造、板葺になり、妻を正面に見せる。
現状における間取りの大略は表、中、裏の三列に区切り、
表の列は上手(東から二室続きの座敷「上座敷」「げんかん」と土間、
中列は三間に四間の「おえ」(=戸口脇の部屋)と土間、
裏列は「裏座敷」ほか数室からなる。
数人にわたる改造の結果、当初の姿が不明なところも多いが、
「おえ」まわりは縦横にかかる梁組を現し軸部をよく残している。
堀内家住宅はいわゆる「本棟造り」の中で、
大形上質の家であり改造の結果であるが、
正面の概観意匠は力強くこの系統民家の一頂点を示すものとして価値が高い。)
(塩尻市教育委員会)

(スズメオドリのある堀内家住宅)

道路はこの先で国道に合流し、さらに先の信号「下大門」で三っつに分かれる。
交差点で旧中山道は左の道をとり「平出の一里塚」を目指す。

今日はここ塩尻宿で終わりにする。

塩尻駅から特急「あずさ」で帰る。
下諏訪宿から一日で歩いた距離約24.2kmであった。(2008年5月26日)

(双体道祖神)




夜通道(よとうみち)と「スズメオドシ」(旧中山道を歩く151)

2008年09月17日 08時35分33秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1
(英泉画く浮世絵「木曽街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」蕨宿にあったタイル)

(塩尻宿)
歌川広重、渓斉英泉画く浮世絵集「木曽海道六拾九次之内」の
「塩尻嶺諏訪湖水眺望」解説には、
(季節は厳冬、下諏訪を出て塩尻峠を登り行くと、
眼下には諏訪湖、はるかに富士山を望むことが出来た。
左は八ヶ岳連邦、湖に向かって立つ城は高島城。
馬上の旅人も馬子も、足を止めてすばらしい景色に見とれているようだ。
湖面に見えるひびは「御神渡り(おみわたり)」であろう。)とある。
(ボクの撮った写真には残念ながら富士山は見えない)

塩尻峠を越えれば、もう塩尻宿に入ったようなもの。
登りと対照的に急な下りの坂道を、転げるように下る。
下って行くとすぐ左に山の中にしては立派な家がある。
案内書では、茶屋本陣であったというが、
山中で営業しているのか人が住んでいるのかさえ分からない。
(親子の地蔵?)

急ぎ足で通り過ぎると右手に二基の地蔵様が並んでおり、
左側の地蔵様が少し小さい。
両方とも赤いエプロンを書け、どう見てもこれは親子に見える。
地蔵様の後ろにはせせらぎが音を立てて流れ、
喉を潤せそうな清らかな澄んだ水のようだ。

この地蔵様の横に白い標柱が建っており、
伝説「夜通道」とかかれ、その伝説の内容が簡単に書かれている。
(「よとうみち」標柱)

「夜通道」なんてどんな辞書を引いても掲載されていないし、
まして「よとうみち」とはとても読めない。
伝説「夜通道」の標柱が塩尻峠を下る途中の林の中にある。

(いつの頃か、片丘(地名)あたりの美しい娘が岡谷の男と親しくなり、
男に会うために毎夜この道を通ったので「夜通道」という。)とある。
(昼間は緑も美しい山道)

周りの林は昼間明るくて、
緑が美しいが毎夜娘が通うには淋しい場所に思われる。
もっとも淋しくも恐ろしくても好きな男を慕う乙女には、
恋は盲目の喩え通り、
周りも見えず怖いと思う余裕さえなかったかもしれない。
夜通し歩いた乙女の心を思うと、せつない。

「夜通道」の先は開け、すぐに先に「東山一里塚」がある。
日本橋から57番目の一里塚で南側だけが残っている。
(一里塚57番目のはずが52番目と書かれている)

(一里塚横の案内板、書かれた歌:
 「大名行列も 皇女降嫁も 野仏は
        黙し(もだし)迎へむ 中山道に」が面白い)

説明によれば、
(東山一里塚は古図には道を挟んで二基描かれているが南側のみが現存する。
元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、
中山道は牛首峠経由(諏訪―三沢峠-小野―牛首峠―桜沢口)から
塩尻峠経由(下諏訪―塩尻―洗馬―本山)に変更され、
この一里塚もそのころ作られたと推定される。
市内には、東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五箇所に一里塚は築かれたが、
現在は東山と平出の一里塚が形を残しているだけである。)(塩尻市教育委員会)

ぐんぐん坂を下ると国道20号線にぶつかる。
国道は左に大きくカーブしている。
国道に沿って300mも進むと右に入る小道があるので右折する。
(地下道の先の杉並木、防風林であろうか?)

今度は国道を地下道で向こう側に抜けると、右側に杉並木が続く。
杉並木の向こう側は、放牧場のようで広い牧草地のようである。
杉並木が切れると長野自動車道があり、
今度は橋を渡って高速道路を渡る。
右手は丸い形の山があり、すぐに柿沢集落の中に入っていく。
(首塚)

(胴塚)

まもなく左の家の壁か塀に(首塚・胴塚左)の看板があるので案内に沿って道路を左折する。
すぐに畑の中にさらに左折の案内があるので左に入ると、
あぜ道のような道の上に首塚があり、その奥に胴塚が見える。
武田信玄と松本の小笠原長時が塩尻合戦の戦死者の墓で、
両軍で千人あまりが死んだといわれる。
戦死者の首は掻き取られて、手柄の証拠とされたのであろう。
そのため首は首だけ、胴は胴だけが埋められたと言うことになる。

周りで畑を耕す農家のご夫婦に聞くところによると、
最近この塚を見に来る人が増えたらしい。
ボクが両塚を写真に収めている間に
二人もこの塚を見学に来たくらいである。
月曜日というのに。

塚を後に中山道を下ると「スズメオドシ」と呼ばれる
奇妙な形の鬼瓦に変わる飾りを屋根につけた家が目に付く。
庭の手入れも良く、家の手入れも良いと思われる美しい家に魅せられ、
臆面も無く門から中に入り、この屋根の写真を撮っていたら、
この屋の奥様がお出かけになるらしく、
家の奥から車で出てこられた。

邪魔とは知りつつ、帽子を取り挨拶をして、
屋根の上にある飾りは何というのかお尋ねすると、
エンジンを止め、サイドブレーキをかけて車から降り、
わざわざ裏の畑で耕運機を操縦されていたご主人に
「私は出かけなければならないので、その説明をしてやってほしい」と伝えてくださる。

ご主人は耕運機のエンジンを止めてにこにこして、
屋根の飾りは「スズメオドシ」といい、
信州の代表的な建物で、間口十間、奥行き十間ある農家の建物だと言う。
「現在何人でおすまいですか?」と尋ねると、
夫婦二人らしい。
(屋根に「スズメオドシ」のある旧家)

この農家の一階の建坪は100坪、その四分の一の我が家は、
たかだか24坪で毎日の生活で持て余しているのに、
この家を管理するのは並大抵ではなかろうと思った。
それにしても玄関の窓ガラスのほこりも見えないが、
この手入れを一体どのようにしておられるのか、
今度ゆっくりお聞きしたいものである。

帰りがけに玄関口までお送りいただき、
その玄関先にある木の柵について何の役目をするものかとお聞きすると、
それは皇女和宮が徳川家に降嫁されたとき、
お触れが在ってこの柵を作らされ、
ここから外に人を出してはならないと厳命があったという。
(右奥に見える柵)

(柵の向こうは式台で昔は玄関だったという)

自分を戒める柵を自分が作るなんてことは、
現代ではとても考えられず、
柵外に出てはならぬと命令するなら、
命令する側が柵を作るか、費用を出すとかあってしかるべきと、
今なら言い出し兼ねない。
武家社会と現代社会の差がよくわかる。

懇切丁寧な説明に、頭を深々と下げ、お礼を言って分かれた。

(高札の跡?)

門前の道路の向こう側に古びた高札場があるが、
これは当時のものかどうかわからない。
帰宅後信州出身の友人に「スズメオドシ」の話をすると、
この様式の建物は、松本平を中心に庄屋、
名主など身分の高い人の家であるという。

お訪ねした家のご主人は信州の農家の典型的な建物といっていた。
また、家は500年続く旧家で、現在の建物は170年経っていることが、
数年前に建物と土台石がずれたのを修正したとき、
棟木に建築年代が墨書してあった事から解ったと言う。

周りに二軒ほど同じ「スズメオドシ」をつけた屋根を持った家があるが、
交代で名主を勤めたのであろうか?
高札跡があるくらいであるから名主の家であったように思われる。

先に進めばいずれ解かるかも知れない。 


後日譚:あまりにも親切に、説明いただき本当にうれしかったので、
後日手土産を持参してお礼に立ち寄った。二ヶ月ほど後のことである。





塩尻峠(旧中山道を歩く150)

2008年09月11日 07時31分09秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(56番目の一里塚)
 
(下諏訪宿6)
「旧中山道を歩く」も150回になった。
まだ、中山道の中間地点にさえ来ていない。
いったい何回連載すると京都にたどり着けるのか、
考えるだけで恐ろしくなってきた。
歩いた日程は、まだ24日間。
京都までは50日くらい掛かるのであろうか?

昔(江戸時代には)15泊16日が平均歩行日数であったようであるが、
ただ目的地に到着するだけが目標であるから、
そんな日程で歩けたのであろう。

さて、現実に戻って、
56番目の一里塚を過ぎると道路は緩やかな登り道となる。
少し歩くと左側に「今井番所跡」の石碑があり、
その後ろに黒のいかめしそうな番所(関所)がある。
石碑も番所もまだ新しく、最近造ったものであろうか。
(今井番所跡)

石碑の左横に次のように刻まれている。
「今井地区は往古より道の存在が想定される。
古くは史実に出てくる鎌倉時代の街道があり、
戦国時代武将兵が往来した道があり、江戸時代の中山道がある。
徳川家康は関が原戦勝後、全国統治のため街道を制定した。
慶長6年(1601)に東海道を開削して、
よく慶長7年(1602)本州中部を横断する中山道を開削した。
中山道は当初ここから東方の東掘から川岸を経て木曽に通じる道であったが
防衛上の事情により12年後の慶長19年に塩尻峠越えの道を開削した。
この碑の前の道がその中山道である。道幅2間2尺――中略――
そして防備のため多くの関所を設け、
特に入鉄砲・出女を取り締まった。」と刻んである。

なるほど刻まれているように、街道は中山道の雰囲気である。
(今井茶屋本陣跡。明治天皇小休所の碑も見える)

(国の有形文化財らしく整った姿の門構え)

すぐ右側に今井茶屋本陣跡に着く。
黒い門構えの立派な茶屋で、
門前に「明治天皇御小休所跡」の石碑がある。
江戸時代の姿を残していると言うことで、
国の有形文化財に指定されている。

この茶屋本陣跡を過ぎると
坂は少し急になりすぐ先に石の道標が右上に建っている。
(道標)

「右しもすは 中山道 左しほじり峠」とある。
坂を上ると高速道路の上に出る。

高速道路の開通により、
道路は今までの中山道とは少し変わっており、
高速道路を橋で渡ると突き当たり、
左に折れるとさらに二股に分かれる。
一方は下り坂で一方は上り坂になるが、
この後塩尻峠に向かうので登り坂のほうへ向かう。
(振りかって見たらあった道路案内)

振り返ると上り坂の方角へ矢印で石船観音を指しているので、
間違いが無いことを確認して坂を登る。
間もなく道路は左に広い対抗車線の道、
右に狭い道路に分かれるY字路にでる。
(急な階段と道案内板)

(案内看板)

その右角に急な階段があり、階段の前に案内看板がある。
看板によれば、階段の上が石船観音、
先に進むと右側に金名水、
さらに先の左側に「大石」があり、
その先が塩尻峠で旧中山道の案内がある。

(階段の途中にあった石船馬頭観音の額)

せっかく来たのだから、石船観音の階段を登る。
かなり急な階段で「行きは好い良い帰りが怖い」と感じながら、石段の数を数える。
うろ覚えであるが、石船観音と書いた額がある途中まで31段、
さらに上方に奥の院の如くお宮はあり、そこまで34段ある。
(石船観音の奥の院)

一番上から下界を眺めるときっと眺望はよいのであろうが、
あいにくボクは高所恐怖症のため観ることができない。
これからの道中の安全を祈り、
お参りを済まして恐る恐る階段を降りる。

さて、いよいよ塩尻峠である。
脇にある清水でのどを潤し、急な坂を50mほど昇り、
(山賊が隠れたと言う「大石」)

左側の「大石」に着く。
この石の後ろに隠れて昔は旅人を襲う山賊が出没した、と説明にある。
なるほどと考え込んだときに
(そうだペットボトルにさっきの清水を入れてこようと)思いついた。
振り返ると急坂はかなり先まで降りないと清水が出ているところまで行けない。
それでも思い切って戻ることにした。

今まで持ってきたスポーツドリンクが暑さで生ぬるくなっており、
尚且つ三分の一くらいになっていたので、これを捨てて、
冷たい清水をペットボトルに詰め込んだ。
そして先程の「大石」のある場所を見ると、
ずいぶん先の上の方にある。
(塩尻峠の急坂)

案内書によれば、塩尻峠は石船観音より標高差230m、
道行800mとあるから、およそ3m進むと高さ1mを登ることになる。

それが800m続くと考えただけで進むのが嫌になったが、
進むも地獄なら、退くのも地獄、ここまで来たからやっぱり進もうと、

歩を進める。

200mも進むともう足が動いてくれない。
碓氷峠で山登りは懲りたが、中山道はすべて山の中である、
とは「夜明け前」の藤村の書き出しにある。
少し休憩してまた進む。

そして休憩。

半分も登ったかと思われるころ、
山の上から結構年配の男性が降りて来た。
挨拶をしてこの上はどのくらいあるかと聞くと、もうすぐ峠ですよという。
山家の人がもうすぐといっても、
相当あるんだろうなと訝しがっていると、
その先を左に行ったところにカーブミラーがあるが、
そこから右に曲がって二百歩程度です、という。

見えないカーブミラーまで2百歩はあるかな?
と思いながら、重い足を動かす。
50mも進むとカーブミラーが見えてきた。
あれを越えればあと二百歩か、
ボクの足は一歩が70cmあるが山道では20cmだから
400mもまだあるのかと思うと足はどんどん重くなる。

それでもやっとの思いでカーブミラーのところへ着く。
右に回って二百歩と覚悟を決めて50歩ほど歩くと、
木の枝に覆われていた道が急に開け、広場に出た。
右を見ると記念碑が建っている。馬頭観音、道祖神、など石造群があり、
ひと山向こうに展望台が見える。

どうやら峠に着たか?

と前方を見ると旧中山道はこちらの矢印が見え、道路は下リ坂になっている。
喜びの気持ちを抑え、展望台のほうへ向かう。

英泉画く浮世絵の「木曽街道塩尻嶺 諏訪湖水眺望」にあったような景色が見える。

山間の向こうに諏訪の人家が見え、先に諏訪湖が光っている。

まさに絶景!

撮った写真家(ボクのこと)が下手で、
この気持ちをご覧いただけないのが残念です。
(峠から見た下諏訪。諏訪湖が見え英泉画く浮世絵に似ている?)

山登りはもうこりごりとは言いながら、
この景色を見ると来た甲斐があったと思うのは、
登山家のようないっぱしの感想でしょうか?
(英泉画く浮世絵「木曽街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」蕨宿にあったタイル)

浮世絵は諏訪湖を望み、湖面は氷に覆われ左端から氷に亀裂が入っている。
御神渡りであろうか、この亀裂が入るときは轟音が響くと言う。

一度は聞いてみたいものである。




ああ!野麦峠(旧中山道を歩く149)

2008年09月05日 09時10分07秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(平福寺山門)

(下諏訪宿5)
旧中山道に戻り、西に向かうと「長地(おさち)」の信号に出る。
その手前の右手に平福寺がある。変額に平福密寺とあり、
山門を入ると正面に本堂、左手に地蔵堂がある。


(平福寺本堂)
(日限地蔵堂)

平福寺の由来によれば、
「地蔵堂は日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)が安置され、
日を限って願いごとをすると、不思議にもその願いが叶えられることから
日限地蔵尊と名づけられたお地蔵様です。
昭和初期のころには製糸工場の女工さんたちの心のよりどころとして、
毎月23日のご縁日は大いに賑わいを見せたと伝えられます。」とある。

飛騨の山の中から野麦峠を越えてやってきた女工さんは,
毎日毎日仕事に追われ、外出など思いもよらないが、
もし地蔵尊にお参りが出来たとしたら、彼女たちは何を願い、
地蔵様はどんな願いを聞き届けてくれたのであろうか?
若し外出が許されたなら、縁日はそれはそれは、
にぎやかなことであったろう。

「ああ野麦峠」より、
(♪工場勤めは監獄勤め 金の鎖が無いばかり
鳥の駕籠より監獄よりも 製糸勤めはなおつらい♪

 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。
逃げた女工があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、
各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、
それは文字通りの監獄であった。

 「それでも行かずばならない。
そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、
みんなのあとについていったのでございます」)
              (「ああ 野麦峠」より)

女工哀史に登場する女工が身を売り、
公娼になると一番長く続いたといわれるほどである。
製糸工場の女工の仕事のつらさから考えれば、
公娼の仕事がつらいなどと、問題にならなかったと言うことか。

こんな思いをしている女工さんたちには、
日を限って願いを叶えてくれるお地蔵様(日限地蔵尊)がいれば、
心のよりどころになったことは、容易に理解できる。
地獄、監獄といわれた製糸工場だったようであるが、
それでも、岡谷のこの近辺では、
縁日に日限地蔵尊を拝みに来て、
願い事をする自由が本当にあったのであろうか?

他ではそんな自由は許されることが無かったと聞く。
このような困難な女工を足場にして、
外国と肩を並べる通商を日本は進めることが出来、
今の日本の土台が出来たのであろうか?

(こうして搾取して生産した生糸の輸出額は、
総輸出額に対して、
明治元年 66%、 明治五年 50%、 
明治10年 46%、明治15年 51%
明治20年 42% 明治25年  44%。

就業時間は(6月を例にとる)
起床4:05 就業4:30 朝食6:00 就業6:15 
午餐10:30就業10:45 小休憩15:30 就業15:40 
終業予報19:10 終業19:30
就業時間合計14時間20分

食事(甲工場)
4/1 (朝) 香々、味噌汁 (弁当) 芋づる (夕) 葱 揚げ豆腐  (病室)葱 揚げ豆腐
4/2 (朝) 香々、味噌汁 (弁当) 目刺  (夕) 千切り、蚕豆   (病室)玉子、千切り
   (乙工場)
5/1 (朝) 菜漬、若布味噌汁 (昼) 筍、切昆布 (夕)塩鮭 (夜12時) 筍、切昆布
5/2 (朝) 梅干、沢庵、大根味噌汁 (昼)八つ頭の小芋 (夕)焼豆腐、切干 
(夜12時)八つ頭の小芋)

(ああ野麦峠 資料編)より抜粋。

この当時の生糸の輸出額は、総輸出金額の半分弱。
労働時間は14時間、食事は粗末であった。
口減らしのため奉公に出た彼女らには貧しい家にいるよりも、
はるかによき人生を送ったと考えている人のほうが多いという。

避妊用具の無かったこの時代に、人には言えぬ子を身ごもり、
雪の野麦峠を無理して越えることで、子供を流産することも多く、
峠のわき道の熊笹の中にかがんで、産み落とすということがあった。
彼女らは、人に言えず、子をひそかの腰巻にくるんで処理をしたらしい。

そして娘の人生を踏み台にして、
日本の貧しい農家は本当の幸せをつかんだのであろうか? 
娘の労働力で得た外貨で軍事力を蓄え、
シナ事変に突入した日本の政治は、
その後太平洋戦争に向かい、
惨めな敗戦に導くことになったのではなかろうか?
(以上「ああ野麦峠」を読んでの感想)

さて、現実に戻り、旧中山道に戻って西に進むと道筋は、
美しい手入れの行き届いた庭木の緑の中を進むようになる。

女工を使い金儲けをした地元の金持ちが住んでいるのかと疑いたくなるほど美しい。

(緑の美しい町並み)

やがて、20号線と交差する信号を渡ると、
道路は三方向に別れるので、真ん中の道をとる。
約20~30mほど右側の空き地の道路沿いに一里塚の碑がある。
「中山道 一里塚 江戸より五十六里」とある。

五十六番目の一里塚である。






長野県の宝(旧中山道を歩く148)

2008年09月01日 08時37分40秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(諏訪大社春宮に通じる常夜灯と大鳥居)

(下諏訪宿4)
魁塚の前の旧中山道を西に進むと諏訪神社下社(春宮)への参道と交差する。
右手に常夜灯と大鳥居が見えるので判りやすい。
なお直進すると、道路は砥川に突き当たり、旧街道は途切れているので、
右折すると赤い欄干のようなものが見え、富士見橋という信号が見える。


(砥川に突き当たる)


(突き当たりにある中山道右の案内)


(富士見橋の信号が見える)


(富士見橋を渡る)


(見落としそうな生垣の案内板)

信号で橋をわたり、すぐ先の路地を左折、
旧街道が直進すればこの辺りと思われるところまで歩くも、
旧街道らしい道は見当たらない。

うろうろしていると、
右側の生垣に「中山道右」の手作りの矢印看板が目に付く。
道は人一人やっと通れるような道であるが、
旧中山道であったらしいので、進むと広い道と交差する。
道路の向こう側に火の見やぐらが見え、
右を見ると「西大路口」の信号が見える。
富士見橋を渡って真直ぐ西に向かった最初の信号である。


(西大路口の信号)


(火の見櫓)


(中山道の小さな案内)

道路を横断し火の見やぐらのほうに行くと、
足元に「中山道」小さな案内看板があるので、
火の見櫓を左に見て直進する。
すぐ小さな用水路を渡り進むと、静かな町の中に入る。


(用水路にかかる橋)


(静かな町のたたずまい)

しばらくすると左手に岡谷市文化財
「旧渡辺家住宅入り口」の案内標柱があるので、
案内に沿って左折すると右側にわら葺の家がある。


(渡辺家の案内)

岡谷市教育委員会の案内によれば「長野県の宝」と題し、
「渡辺家は、代々諏訪高島藩(*)に仕えた
散居武士(城下町で無く在郷の村に住んだ藩士)の家でした。
安政年中(1854~)の「家中分限帳(=武士の身分や禄高を記録したもの)」によると
「郡方下役外様徒歩18俵二人扶持」(=騎乗を許されない年収約2百万円)であった。
住宅の規模は間口七間半(13,5m)奥行き5間(約9m)で、
外観はかやぶき寄棟造りで、内部は土間と炉の間がある。
また居間には中床がある。
18世紀に立てられた武士の家として貴重な資料である。

この一家から、三人の大臣が出ており、
渡辺千秋は宮内大臣、国武は大蔵大臣、
千冬(千秋の三男で国武の養嗣子)が法務大臣を務めた。」
(岡谷市教育委員会)

(*)諏訪高島藩は、近江高島藩が飛び地で諏訪に領地を持っていた。近江高島藩は現在の滋賀県の高島市にあった。

一軒の家から三人の大臣を輩出したという話はここではじめて聞く。
有能な家柄の住宅であるのに驚くばかりであった。

なるほど、長野県が誇る宝であることに違いない。


(かやぶきの渡辺家)


(渡辺家の庭先の咲く花)





魁塚(旧中山道を歩く147)

2008年08月28日 08時16分27秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(下諏訪宿歴史民族資料館)

(下諏訪宿3)
下諏訪宿本陣・岩波家を後にして。旧中山道を南下する。
旧街道の面影を残した家が左右に並び歩くものの目を楽しませてくれる。
古い建物は「ききょうや」、「みなとや」、「まるや」、などなど。
「4年前にもう一度来ます」とお約束した下諏訪宿歴史民族資料館は、
あいにく月曜日の定休日にあたっており、
館長さんには残念ながらお会いすることが叶わなかった。


(ききょうや)


(みなとや)


(本陣の向かいあるのは脇本陣の建物を再生した「まるや」)


(上の写真の奥の突き当たりにある「甲州道中山道の合流点」


(「みなとや」の前にある道標「左中山道」とある)

坂を下ると国道142号線に合流するが、
左手に前回紹介した「おんばしらグランドパーク」がある。
道路を右折して進み、信号を一つ越えると、
左に分かれる旧街道があるので左脇に進む。


(左側が旧中山道)


(魁塚)

100mも進むと左側に石垣に囲まれた「魁塚」がみえる。
階段を数段上ると、奥に石碑が三つ建っており、
中央の石碑には(相楽総三)の名があり、その下に七名の名が刻んである。

説明によれば、
「ここは 赤報隊長 相楽総三以下幹部八士その他の墓である。
慶応四年正月 江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒
嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて進んだが、
朝議一変その他によって賊視され、
明治三年同志によって墓が作られた。
名を(魁塚)として祭られた。
爾来地元では祭りを絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴し、
草莽として維新史の上に大きく輝く人々である。」(下諏訪町教育委員会)
昭和49年の説明であるが、下諏訪教育委員会も解りにくい案内を出している。


(中央の石碑に相楽総三と刻まれその下に七名の名がある)

解りやすく説明すると、
(相楽総三以下八名は、慶応四年(1868)江戸城総攻撃のため出発した
官軍の先触れ隊で赤報隊と言った。

官軍が江戸城を攻撃し、勝利したときは、
税金を半減するとお触れを出しながら進んだ。

ところが江戸城は徳川慶喜により無血開城され、
御金蔵は空っぽでびた一文無いことが判った。
国民を味方につける意味で税金を半減するといったが、
新政府には数万両と当てこんでいた幕府の御金蔵にお金が無いため、
税金の半減はおぼつかない。
そこで税金の半減を触れて進んだ赤報隊を偽官軍だということにして、
処刑することにより、税金の半減の約束を無いことにした。)と思われる。

つまり相楽総三以下八名は、官軍の言うとおり税金半減を触れ回って進んだが、
新政府はそんなこと言った覚えは無い。あれは偽官軍であると、
相楽総三隊長以下八名処刑(だまし討ちに)したのである。

現代でもありそうな事件である。
上司が「こうしなさい」と部下に命令しておいて、
結果が自分に都合悪くなると、「そんなこと言った覚えが無い」と逃げ、
部下に責任をなすり付ける、どこかの偽装事件みたいなものだ。
昔も今も人のすることは変わりない。
いや、以前このような事件があったのが、
連綿と受け継がれてきたのかもしれない。

それを知った相楽総三の孫が生涯をかけて、
祖父の無念を晴らそうと政府に呼びかけ、
昭和天皇即位に伴う御大典により、
(即位の儀式など、お祝いのときは罪人に恩赦が与えられた。)
恩赦だけでなく、総三には正五位(格段に優遇された位階)の位が授与されました。

処刑された人は、位階なぞ貰ってもしょうがないと思われるが、
汚名だけは晴らすことができた。

明治新政府が出来るまでは、
いろいろ不条理なことが起きているようである。


(陶板のレリーフは、文化二年(1805)の木曽名所絵図に描かれた諏訪宿の情景)