中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

越谷宿(旧日光・奥州道中を歩く 21)

2013年11月15日 10時41分09秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(草加松原の松並木)


(草加松原から越谷宿へ)
11月5日気温22℃快晴。東武伊勢崎線松原団地下車 PM14時。
旧日光街道にある千本松原に向う。

右に綾瀬川が流れる松並木の街道に出る。
日光街道は杉並木で有名であるが、
ここは松並木で松尾芭蕉も河合曾良も通った並木だ。

松並木の街道に入ると、芭蕉文学碑が目に付く、
「ことし 元禄ふたとせにや 奥羽長途の行脚 
只かりそめに思いたちて・・・・」で始まる。
天気が良いせいか普段の日なのに結構な人が歩いて居る。

(芭蕉の文学碑)


綾瀬川に架かる橋に立つと、奥のほうに高速道路の高架が見える。
あれが友人に聞いた外郭環状道路と確認する。
松並木の松は、一本として同じ形のものは無く、
あるものはそびえ立ち、またあるものは腹這う、
時には二重三重に重なり合うものあり、
東北大震災で残った一本松のようなものもある。

(重なる松並木と先に見える外郭環状線の高架)

(腹ばう木もあり)

(東北大震災で残った一本松に似たものもある)


地面に松原1000mと表示があり、
ここまで千メートル松並木が続いていることを示している。
その表示が1500mに変った所に、
草加松原がそろそろ終わると、丸い輪の彫像が置かれている。
道路は狭まり、松並木が切れる頃、
左手に「今様 草加宿」の標柱があり、草加宿もここまでを教えている。

左手を走る旧日光街道の車は、外郭環状道路に入るべく信号待ちをしている。
歩行者は外郭環状道路を地下へ潜り抜ければ良い。

(松原の終点、丸い輪の彫像)

(今様 草加宿の碑)
(日光街道の自動車道)

(外郭環状道路を地下へ)


潜り抜けた外郭環状線の基礎部分の壁面に、
奥の細道を想像して描いたタイル絵がある。
説明に、
(草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、
元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、
「その日ようやう草加といふ宿に着きにけり」と記しています。
これを想像して描いたものです。)とある。

(おくのほそ道のタイル絵)

(おくのほそ道のタイル絵2)

(おくのほそ道のタイル絵3と地下通路)


道路は細くなり、綾瀬川に沿って桜が植えられ、
右「松原遊歩道」左「槐戸橋(さいかちどばし)」の標柱が、風雨にさらされ、
半ば消えかかったようにして建っている。

道路は次の橋で交差しているが、車が多くて道路横断が容易ではない。
(さいかちどはし)の橋を横断すると、名前に似合わない、
かわいい鳥の飾りが川沿いに、橋脚にはカブトムシかカナブンが飾られている。

この橋の先にもうひとつの橋が見える。
その橋の右側には木がこんもり盛り上がって見えるが、
おそらくあれが「蒲生の一里塚」に違いない。

(綾瀬川と桜並木)

(槐戸橋の標柱)
(さいかちどばしの橋脚)

(川に沿ってある小鳥の飾り)

(橋のカナブン)

(先に見える橋と一里塚跡)


川沿いに歩いて行くと左手に愛宕神社の鳥居があり、祠もある。
町の鎮守であろうか。
次の橋に出ると、「がもうおおはし」とあり、橋脚に灯籠が据えられ、
壁面には、「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり  高浜虚子」
の俳句が刻まれている。
橋の反対側には、「そうかふるさと歩道と川に培ったふるさとのまち」とあり、
川に沿って「あやせ川コース 5・5km」の町の案内地図が描かれている。

(愛宕神社)

(がもうおおはし)

(灯籠と高浜虚子の句碑)

(そうかふるさと歩道の地図)


橋を渡ると予想通り「蒲生の一里塚」が右側にある。
若い男女が木陰のベンチで語らっている。
橋を渡る前は草加市で、渡り終えると越谷市、
何か駄洒落の中を歩いて居るようだ。

「草加、越谷、千住の先」これを受けて「幸手 栗橋 まだ先よ」

(蒲生一里塚)


埼玉県と越谷市の両教育委員会の説明を要約すると、
(「五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽掘が合流する地点に、
日光街道を挟んで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、
「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。
なお、日光街道上にある塚は、
埼玉県にはこの「蒲生の一里塚」のみで貴重なものである。
塚の上には、ムクエノキの古木のほか松・イチョウが生い繁っている。)とある。
中山道の志村の一里塚は、板橋区志村にあるから、
ここは越谷市蒲生であることが解かる。

(一里塚のエノキなど)



旧日光道中は、この一里塚のまん前の道路に入っていく。
橋を渡ってきたら川沿いに左折する感じだ。
途を進むと、歩道に当たる部分は、元小川があった上を歩くことになる。
街は静かで、穏やかな温もりがあるような感じである。
途中、左側に医院があり、右側に郵便局あって、生活道路の中を歩いていくと、
やがて右に黒い冠木門が見える。

(街道は真ん中の道)

(医院の看板がある暗渠の上を行く)

(郵便局が右手に)

(黒い冠木門)


これが清蔵院である。
その奥に山門が見える。これは越谷市の文化財に指定されていると言う。
山門の建立者は、日光東照宮造営に狩り出された工匠の一人で、
日光造営中にお世話になった因縁から、
東照宮造営の寛永13年(1636)の二年後、国許から再び蒲生に来て、
この山門を作ったという。
今や400年の時を刻む。

(清蔵院の山門)


山門をくぐり本堂に進むと左手に不動堂とその先に池があり、
にこやかなお地蔵様、観世音菩薩、弘法太子像があり、
右手には鐘楼が夕日を浴びている。

(清蔵院の本堂と鐘楼)

(鐘楼の鐘)

(左手の不動堂)

(不動堂先の池の前の地蔵尊、観世音、弘法太子像)

(県道49号線に合流)

(新越谷駅)


清蔵院を出ると旧日光街道に合流し、新越谷駅から帰宅する。
本日、2万歩=約12kmであった。
(越谷市のマンホール)


先日、松尾芭蕉が「おくのほそ道」をこんな姿で歩いたのではと、
想像させる人物に出会った。
東京では珍しい托鉢僧である。

(托鉢僧)





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