中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

小林一茶(旧中山道を歩く 70)

2005年10月31日 11時10分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(一茶の「七番日記」の石碑。カメラを構える筆者の影が見える。)


(新町宿 5)
JR新町駅から旧中山道へ出る。
JR新町駅入り口交差点を左折すると旧中山道である。

旧中山道を歩くとすぐ左側に「史跡 高瀬屋旅館跡」の
石碑が立っている。そこには一茶がしたためた日記
「七番日記」の一節が記されている。

それによれば、一茶が高瀬屋旅館に逗留したところ、
前日からの雨で烏川が川止めとなった。しかたなく雨に疲れて
眠ってしまったが、夜明け前の午前四時頃、
「神流川に灯篭を建てて、旅人の夜の往来を助けたい。
少しでも良いから寄付をお願いしたい」と言ってきたので、
「一人くらい見逃してくれても仏様もお咎めにならないだろう」と
寄付から逃れようとするが、良心がとがめて、
どうも閻魔様の前に引き出されて、蹲っているように思えて、
12文寄付をすることになった。
と記している。

朝の五更(午前四時)に、寄付を募りに来たという。
寄付を募る時間としてはずいぶん早く感じられるが、
童謡の ♪お江戸日本橋七つだち...♪の
七つは、朝の4時。
少しでも遅れると、旅人は出立してしまう。お出かけ前が
一番捕まえやすいと考えたのであろう。
そして寄付を募った。

話がそれてしまったが、芭蕉の句碑はいたるところに
見受けられるが、一茶の句碑はそんなに見かけない。
しかし、長野県信濃町には沢山の句碑があるらしい。
暇を見つけて訪ねたいものである。

参考までに、「七番日記」の原文の一節を以下に、
文と俳句を載せておきたい。

文化七年五月
「11日雨
きのふよりの雨に烏川留まル。かかることのおそれを思へばこそ、
彼是(かれこれ)日を費やして首途(かどで)はしつれ。
今は中々災いの日をよりたるよう也。道急ぐ心も折れて、
日は斜めならざれど、
           新町
               高瀬屋五兵衛に泊まる
雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更の頃、専福寺と
ふとく染めなしたる挑灯(ちょうちん)てらして、
枕おどろかしていふよう、「ここのかんな川に灯篭立て、
夜の行き来を助けんことを願う。全く少なきをいとはず、
施主に連なれ」とかたる。
「かく並々ならぬうき旅一人見落としたらんとて、
さのみぼさち(菩薩)のとがめ給おふにもあらじ、
ゆるしたべ(給へ)。」とわぶれど、せちにせがむ。
さながら罪ありて閻王(閻魔様)の前に蹲るも、
かくやあらんと思ふ。十二文寄進す。

・手枕や 小言いふても 来る蛍

後へ帰らんとすれば神流川(かんながわ)の橋無く、
前へ進まんと思へば烏川舟なし。ただ駕籠鳥の空を窺ふばかり也。

・とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
・山伏が 気に食わぬやら ゆく蛍」

としるされている。

ここ高瀬屋こそ小林一茶が逗留し常夜灯の寄付をさせられた
旅籠である。当時の様子がこの日記に記されている。

この一茶の「七番日記」は、文化七年(1810)から十五年までの九年間の
綿密な見聞が書き加えられた日記と
一茶の作品(俳句)を収めたノートである。

巻頭に
「安永六年旧里を出でてより漂白すること36年也
日数15960日  千辛万苦して一日も心楽しきことなく
終(つい)に己を知らずして 白頭翁となる」

地震火事は勿論のこと、乞食の行き倒れ、夜盗、
篭脱け詐欺、売春婦の部屋で往生を遂げた男、芝居始めの役者の噂、
殺人、酒乱、夜這いの若者の記録、一茶の好奇心は並外れている。
俳句は7500句が収められているが、
日常生活のメモといって良い。

旧中山道を進むと、左側に「小林本陣跡」の標柱がある。
向かい側に久保本陣が、その他脇本陣もあったというが、
今は何も残っていない。

(新町宿 小林本陣跡の標柱)


参考:岩波文庫「七番日記」 丸山一彦校注(上、下巻 約480頁)






胴塚稲荷と首塚八幡(旧中山道を歩く 69)

2005年10月28日 22時54分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(新町駅北口の案内看板。左下に見える胴塚稲荷と首塚八幡)


(新町宿4)

日本橋をスタートして14日目、2005.Apr.05.無風快晴、最高気温20℃。

JR新町駅南口から約1.5km歩いたところに、
「首塚八幡宮」は左、の案内看板が電柱から突き出ている。
看板の右脇に酒屋さんがある。

(首塚八幡宮の案内看板.。電柱の右側の酒屋さんの裏側に胴塚古墳がある)

JR新町駅の史跡案内看板に拠れば、
この酒屋さんのあたりに胴塚古墳があるはずと、
酒屋さんの周りを見渡すと、ちょうど酒屋さんの裏手に
胴塚稲荷古墳があるのを発見した。

(胴塚稲荷古墳)

古墳らしく、こんもりと盛り上がった場所に稲荷堂があり、
手前に7段ばかりの階段がある。
階段の手前には、お稲荷さんらしく赤い鳥居があり、
左脇に「胴塚稲荷古墳」と書いた標柱がある。
「藤岡市指定史跡」と書いてある。

新町とばかり思っていたのに、いつの間にか藤岡市に入っていた。
昔はこんな行政区域は無かっただろうから、本来は新町宿であったと思われる。

(胴塚は径十四メートル、高さ二・二メートルの円墳と推定され、
かって直刀や人骨が発見されたとの言い伝えが残っている。
天正11年(1582)六月、合戦史上、関東最大の神流川合戦に
おける戦死者の胴を埋葬したと伝えられるところから、
胴塚古墳と呼ばれている。近くには新町史跡指定首塚がある。)
(藤岡市教育委員会)
胴塚も首塚も神流川合戦で戦死した、兵士たちの首だけのものや
胴体だけのものを、集めて埋葬したものと見られる。

看板の案内に沿って胴塚古墳を背に、進むと道路沿いに
首塚八幡宮がある。

(首塚八幡、しだれ桜がちらほら、四月五日。)

やはり神流川合戦で討ち死にした武士の首を検視し、
この場所に埋蔵し、この地を実見塚『字(あざ)名を』といっている。
無縁の霊を祭り里人によって首塚と称し、
古くから首から上の病の神として参詣人が多い。)
(新町教育委員会)

(神流川合戦首塚の碑)






明治天皇行在所と於菊稲荷(旧中山道を歩く 68)

2005年10月19日 22時52分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(高札場跡の標柱)



(新町宿3)
しばらく中山道に沿って町なかを歩く。
右手の個人宅敷地内に高札場跡の碑が建っている。
ここまでを笛木新宿、そしてこの先が落合新宿となる。
もともと新町宿は、この二つの宿を合わせて新しい宿と
云うので新町宿と呼ばれたそうだ。

そこから少し先に、行在所公園が右手にあり、公園のおくに
「明治天皇新町行在所」の石柱がある。
説明によれば、
(明治天皇は明治11年北陸・東海地域の御巡幸(視察)を
行いました。その途中新町に宿泊されたのが、この行在所です。
当時は木造瓦葺平屋建ての本屋と付属家の二棟で、
旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、
庭には数株の若松を植えてありました。)とある。

(明治天皇行在所)

この行在所公園を左に見て進むと、右側に稲荷神社の
赤い旗竿が、はたはたひらめいているのが見える。

(お菊稲荷1)

(お菊稲荷2)

「於菊稲荷」である。
新町で評判の飯盛り女の「於菊」が、動けなくなってしまった。
日頃からお稲荷さんを信仰していたので、小屋を建てて
養生させたところ元気になった。との言い伝えを持っている。

飯盛り女は、当時、春をひさぐ女であった。
具合が悪くなったので「小屋を建てて養生させた」とあるが、
思うに、厄介払いをして「隔離した」ととるのが正しそうだ。
各宿場の遊女たちの雇い主が、お墓を建てて丁重に弔っている痕が、
各宿場のあちらこちらに残っているが、まだましなほうで、
実際には稼げなくなった年寄りの遊女たちの扱いは
どんなであったか想像が出来ない。

しかし、この稲荷神社にある水屋は新町文化財に
指定されているので、見ておきたい。
説明によれば、
「この水屋は文政六年(1820)新町の人々の浄財により
創建された。とくに、水屋の彫刻は、精巧を極め、
水鉢の冰香(ひょうこう)の筆跡は寛政の四大詩人
大窪詩仏(おおくぼしぶつ)によるものである。
同時代に生きた蜀山人の狂歌に
『詩は詩仏・絵は文兆・芸者は小万に狂歌こそ我』
と詠まれていることから、詩仏の高名さが判る。」
(新町教育委員会)

(水屋)

 ・大窪詩仏は明の古文辞格調派の影響を受けた詩風から、
  詩人の個性を尊重する新しい詩風を定着させた。
  詩仏はさかんに各地を遊歴し、漢詩の日本化、大衆化を進めた。

話が中山道からそれてしまった。
中山道に戻って進むと、JR新町駅入り口交差点があるので、
左折し駅に向かう。
駅前のロータリー脇に、新町の史跡の案内看板があるので、
参考にして今度は歩こうと思う。

(新町駅前の案内看板)

看板の下の方に下の方に胴塚稲荷と首塚八幡宮が見えるので訪ねようと思う。




太平記の名場面(旧中山道を歩く 67)

2005年10月15日 22時49分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(八坂神社)



(新町宿2)
旧中山道は「見透し灯篭」を右に入ると、すぐに
八坂神社がある。
赤い鳥居に土蔵作りの社殿は、気をつけなければ
通り過ぎてしまいそうな小さな神社である。

今は大きなケヤキの木と、その脇に子供用の滑り台があり、
その滑り台に大きなトカゲが昇ろうとしているので、一瞬驚く。


(オオトカゲ)

先年、カンボジアに旅をして、初日にレストランの
屋外で夜食をとったが、見上げるとレストランの壁に、
横綱の太ももほどもあろうかと思われるほどの大トカゲが
二匹へばり付いていた。
たまたま、ボクが見上げたところにいたので、
ドキリとしたのを、思い出す。
カミさんは、背を向けていたので、知らないまま
舌鼓みを打っていた。

八坂神社のトカゲは、よく見ると作り物であるが、
それにしてもよく出来ている。

そのトカゲの後ろに、芭蕉の句碑がある。

・傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな

昔は大きな柳の木と茶屋で知られたと言うが、
その昔を、芭蕉が僅か十七文字でよく表現している。

(芭蕉の句碑)

ここからしばらく中山道を行くと、右側に諏訪神社がある。
本殿の三方に太平記にある名場面-楠木正成・正行、新田義貞、児島高徳など、
南北朝時代の南朝方主要人物の有名な史実を彫刻にしてある。

(諏訪神社)

楠木正成・正行は
「桜井の別れ」場面が刻まれている。
太平記には、
正成が湊川へと死を決した悲壮な出陣をする。
父子の永遠の別れの場面を物語っている。
「今度の合戦、天下の安否と思う間、今生にて汝が顔を見んこと、
これを限りと思うなり。正成すでに討死すとき来なば、
天下は必ず将軍(足利尊氏)の代になりぬと心得べし。
然れといえども、いったん身命を助からんるに、
多年の忠烈を失いて隣人に出ること有るべからず。」とある。
元弘元年(1331)楠木正成は後醍醐天皇の命を受け、
倒幕の兵を挙げ、時の執権 北条氏の大軍と戦い、北条氏を倒した。
これを「建武の中興」という。
しかし間もなく、足利尊氏が背き、一度は楠木正成に破れ、
九州へ敗走するが、勢力を盛り返し京都へ進攻してきた。
延元元年(1336)正成は湊川に出陣し、足利軍の大軍と
戦ったが、ついに全滅した。
この時の父子の別れの図が彫られている。

(楠木正成・正行の菊水の別れの場面)

新田義貞は、
戦勝を祈願して竜神に刀をささげる場面が刻まれている。
義貞は、鎌倉攻めの際、北条軍の強固な守りにより、
鎌倉を攻めあぐんでいた。稲村ガ崎に至りて岩頭に立ち、
戦勝を竜神に祈り刀を捧げた。義貞は潮の引いたのを見て、
6万騎を率いて稲村ガ崎の岸壁沿いに鎌倉へ攻め込み、
頼朝以来150年間続いた鎌倉幕府を滅亡に追いやった。
この図は竜神に刀を捧げる義貞を彫っている。

(戦勝を祈願する新田義貞の図)

児島高徳は
太平記によれば、
「然るべき隙も無ければ、君の御座ある御宿の庭に
大なる桜木ありけるを、押し削りて大文字に、
一句の詩をぞ書付たる。

天莫空勾践 
時非無范蠡

と二行に書き記した」とある。

元弘の乱の時、南朝方の忠臣 児島高徳は、後醍醐天皇が
北条方に破れて隠岐の島に流される途中、その身を奪い返そうと
行列を追い、今の岡山県の院ノ庄で行在所(あんざいしょ)に
潜んだものの、近づくことが出来ず、庭の桜の木を削って

天莫空勾践 
時非無范蠡

の十文字を二行に書き記したという。

十文字は
『天 勾践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ、
時 范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず』と読み、

勾践(こうせん)は、中国の越の国王で、
呉の国王閘閭(こうりょ)を破ったが、
その息子夫差(ふさ)に敗れて降伏しました。
雌伏する勾践に仕え、呉王夫差を討ち取って
「会稽の恥」をそそぐことが出来たのは、
ひとえに忠臣 范蠡(はんれい)がいたからによる。
と漢の史書は彼の名とその忠節を伝えていた。

この中国の故事に児島高徳自身をなぞらえて、自分の気持ちを
後醍醐天皇に伝えようとした。兵隊には読めないし、
意味も通じないが、天皇はご理解されるのを期待して・・・
この木彫はその児島高徳が桜の木を刻み十文字を記入する
姿を刻んでいます。

(児島高徳が文字を記入する姿を刻む)

上州に入ってから、筆が止まってしまった。
それは、平家物語や太平記、そして慣れない一茶の「七番日記」などを
読んだからだ。ボクはどんな本を読むにしても、精読を心がけるから
時間がいくらあっても足りない。
勢い旧中山道を歩くのが疎かになっていく。

今度は筆が止まるのではなく、足が止まってしまう。
2005.4月に高崎に着いたのに、それ以降は、
高崎から一歩も進んでいない。すこし焦り気味である。
もたもたしていると冬が来てしまう。紅葉のうちに軽井沢を越えて、
下諏訪まで足を伸ばしたいと思っているが、山越えでもあるし、どうなることか。
すこしずつ、ゆったりと進めよう。


神流川古戦場跡(旧中山道を歩く 66)

2005年10月12日 22時46分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(神流川古戦場跡の石碑と案内)



(新町宿)
日本橋を出発して13日目。埼玉県は広い、通過するのに8日間かかった。
今日(2005.Jan.7.)、神流川を渡ると群馬県にはいる。昔の呼び名は上野国、上州である。

神流川の橋を渡り始めたら、後ろから自転車を押した、
土地の人と思われる初老の男性が、追い越そうとしたので、
右側に見える山の名を確認しようと
「あの山が赤城山ですか?」と尋ねた。
「そうですよ。どちらからお出でですか?」と
逆に質問に遭った。土地の人なら誰でも知っているはずの
赤城の山の名を聞いたからであろう。
「はい、東京からです」と答えると、
「何時に東京を出ました?」
今日、東京を出発したと勘違いしたらしい。
「いえ、今日は深谷から歩いてきました。」
空は晴れ上がり何処までも青い。風が強く帽子は飛ばされそう。
男性も押している自転車が倒れそうになるほど風が強い。
上州名物の空っ風だ。

そのうちに橋を渡り終えた。
橋を渡り終えたところに、「神流川古戦場跡」の石碑がある。
男性が立ち止まって、
「古戦場は向こう側の下であったようです」
石碑とは反対側の橋の上流の河川敷を指差して教えてくれた。

(古戦場跡の石碑)

古戦場石碑の案内に拠れば
(天正十年(1582)六月十九日、織田信長が本能寺に
倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと
京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は五万の大軍を
神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍
一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、
滝川軍は戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦で
「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建て、
首塚、胴塚も史跡として残され東(あずま)音頭にもうたわれ、
神流川の清流も今も変わりなく清らかに流れている。)
とある。(新町教育委員会)

川べりを農地にするための開墾時には、
「いたるところで、おびただしい数の白骨が発見されました」と
愛想の良い初老の男性が教えてくれた。
本庄側は神流川が流れ、新町側は、河口に行けば利根川になる
烏川が流れていた。
橋が終わると土手から道は下り坂になる。
好々爺の男性はお別れを言って
下り坂を自転車に乗って、勢いよく降りていった。

坂を下りきったところに、新町側の「見透かし灯篭」と
「見透かし灯篭再建乃記」がある。
ちょうど旧中山道と国道17号線の分かれ道の地点だ。
 見透かし灯篭を前にして右側の旧中山道を行くと
すぐ八坂神社が在る。


(新町側の見透かし灯篭。この右側が旧中山道)




見透かし灯篭(旧中山道を歩く 65)

2005年10月08日 21時54分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(本庄側の見透かし灯篭)

(本庄宿9)
中山道を進むと、右側に阿弥陀堂と一里塚跡の碑がある。
すぐ先で国道17号に合流する。
(阿弥陀堂)
(阿弥陀堂脇の一里塚の碑)

しばらくは17号沿いに歩くが、
神流川(かんながわ)の手前の信号を左折し、
高崎線のガードをくぐると、右側に大光寺がある。
(大光寺)

本堂への参道を行くと、左手に鐘楼があり、その先には、
文化12年(1815)本庄宿の商人 戸谷半兵衛が、
街道を往来する人々の寄付を募って、
神流川を越す旅人のために建立した
常夜灯が移築されている。
(見透かし灯篭)

神流川は洪水のたびに、橋の位置や川の瀬が変わるので、
薄暗くなれば常夜灯が必要であった。

署名が入っていないので、英泉の作品と推定される
「支蘇路ノ駅(きそじのえき) 本庄宿 神流川渡場」によれば、
川の中州までは橋があり、その先は舟で渡った。
画面右手には、石灯篭が描かれている。
(蕨宿の歩道上にあったタイルの「支蘇路ノ駅 本庄宿 神流川渡場」に見える見透かし灯篭)

江戸幕府は防衛上の理由で、橋を架けさせなかったが、
「常には 仮はし有」であったらしい。
神流川は本庄宿を越え、新町宿に近いところを流れ、
一般には武蔵国と上野国との国境に認識されていた。
常夜灯は神流川挟んで、本庄宿と新町宿の両側にあり、
「見透かし灯篭」と呼ばれた。

大光寺にある灯篭は本庄側の灯篭であり、
橋を渡り終えたところに、新町宿側の常夜灯は
残っている。

また、大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山という。
建保三年(12159に武蔵七党の一党である丹党の、
勅使河原権三郎有直が創建したもので、勧進開山は禅宗を
伝えた栄西禅師である。― 中略 ―
当寺には栄西禅師直筆の扁額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った
不背碑(親子地蔵)六角のガン部を持った石憧、神流川の渡しの
安全を祈った見透かし灯篭が現存し貴重な文化財として知られる。
(埼玉県・上里町 両教育委員会)
(臨済宗の創始者栄西禅師直筆の扁額)
(直重父子の不背碑)

中山道に戻り神流川をわたる。橋の親柱代わりに
「見透かし灯篭」のレプリカが置いてある。
その台座に「見透かし灯篭」のいわれが書いてある。

もう新町宿であるし、ここからは上州(群馬県)に入る。
(見透かし灯篭のレプリカ)
(見透かし灯篭のいわれ)






四天王(旧中山道 番外記4)

2005年10月03日 21時51分00秒 | 中山道番外記
(新田義貞の四天王の随一 畑時能の墓)


(四天王)

畑時能が新田義貞の四天王であったと説明にあるが、
新田義貞の四天王についての知識がないので調べた。

ここで四天王について、すこし述べようと思う。

広辞苑から
①仏教界の言葉で、帝釈天に仕え、四方を守る護法神。
須弥山の中腹にある四王天の主。
持国天(東方)増長天(南方)広目天(西方)多聞天(北方)
像容は、甲冑をつけた憤怒の武将形で、邪気を踏み、
須弥壇の四方に安置される四大天王。
②ある道、ある部門に最も秀でた4人の称。

イ.源頼光の四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部末武)  
ロ.義経の四天王(蒲田盛政、蒲田光政、佐藤継信、佐藤忠信)
        または(武蔵坊弁慶、伊勢義盛、亀井重清、常陸坊海尊)
ハ.新田義貞の四天王(栗生顕友、篠塚伊賀守、畑時能、由良具滋)    
ニ.信長の四天王(柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀)
ホ.家康の四天王(井伊直政、本田忠勝、榊原康政、酒井忠継)

とある。(広辞苑より。)

物語に寄れば、源頼光の四天王は、
大江山の酒呑童子を退治したことで有名である。
中でも渡辺綱(わたなべのつな)は羅生門に
夜な夜な現れる妖怪の腕を切り落としたことで知られ、
坂田金時は五月の端午の節句にでてくる、金太郎が幼少の名で、
足柄山で熊にまたがり馬の稽古をし、獣たちを集めて相撲の稽古をした
と歌い継がれて有名である。

しかし新田義貞の四天王、畑時能についてのエピソードを
ボクは知らない。日本歴史に疎いボクは、
金窪城主であったことで、今回始めて四天王であることを知った。

調べたところによると、
元弘の乱(1333)(後醍醐天皇を始めとする勢力により
鎌倉幕府が倒された乱)において、
新田義貞の家来として活躍した四人の家臣を
義貞の四天王と呼ぶ。
・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

 ここで不審に思うのは、秀吉に四天王がいないことである。
秀吉には確固たる家来がいなかった。
せいぜい、加藤清正、福島正則、片桐勝元、
蜂須賀小六くらいしか思い浮かばない。
お金や知行で釣って、たくさんの家来を引き込んでいるが、
いずれも寄せ集めで、身命を賭して秀吉に誓った人は少ない。
水のみ百姓の子倅から、関白太政大臣にまで上り詰めた割には、寂しい。
生まれが卑しいから、金の力が全てで、
魅力のない人となりであったのであろうか・・・
いつの世も「金の切れ目が縁の切れ目」であったのであろうか・・・