中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)(旧中山道を歩く 160)

2008年11月20日 08時17分38秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(秋の色)

(贄川4)
贄川関所をあとに、旧中山道を南に歩く。
二百メートルも行かないうちに、
右側に麻衣廼神社の石塔がある。
石塔の脇から道路奥を見ると、白い観音像がみえるので
道路を横道に入る。


(麻衣廼神社)


(白い観音像)

秋の陽射しを浴びて、のどかな田舎道を行くと、
中央本線の弧線橋に出るので渡る。
その先の国道19号線を信号で渡り、観音寺に近づくが、
道路と線路は両側から迫る山の谷底を這うようにして延びている。
ススキの穂がまとまって風になびき、紅葉がとても美しい。


(山間を走る線路)


(すすきが美しい)


(観音寺)


(六地蔵が並ぶ山門前)

麻衣廼神社までの途中、右横にある観音寺は、
六地蔵が並んだ奥に山門がどっしりと威厳ある姿を見せている。
いつもと同じ山門であるのに、どうしてこのような威厳を感じるのだろうか、
まわりに人影も見えず、明るい太陽のスポットライトを浴びたように
ポツンと山門が立ちはだかっているからに違いない。
観音寺をそんな風に観察しながら歩く。


(麻衣廼神社の鳥居)


(神社の本殿前)

麻衣廼神社は、観音寺の裏手にある墓地のさらに奥の山すそにある。
変わった名前の神社は、

(天正十年(1582)木曽義昌と武田勝頼の戦が鳥居峠にあり、
武田氏敗退の折社殿を焼失。
文禄年間(1592~1595)に現在地に移され
現在の社殿は延享四年(1747)に建立され、
拝殿は慶応元年(1865)に再建された。
おんばしら祭りの記録は安永五年(1776)のものがある。
麻衣廼は木曽にかかる枕詞であり、
ここが木曽の地であることを物語っている。)
(麻衣廼神社縁起)に書かれている。

鳥居峠にあった神社が移されてきたようだ。
それにしても、古色蒼然としたたたずまいを見せる神社である。
拝殿前に置いてある御手洗鉢に、
普通、水は龍の口から流れ出るものが多いが、
ここでは亀が水を吐いている。


(手水鉢の亀)


(三間社流造りの神社の前面)

今まで見てきた神社は、一間社流造りが多いが、ここでは三間社流造りと説明にある。
三間社流造りとは、神社の間口の桁行きが三間と広く取ってあり、
屋根が流れるような流線型になっていることだ。間口の柱は四本立っている。
七年に一度御柱祭りが行われるようであるが、
それなりの格式を誇るものなのであろう。

神殿前には巨大なヒノキが枝を広げて、晴天にもかかわらず薄暗く、
古色蒼然と感じるのはこの大木のせいであろう。


(灯篭右側の大ヒノキ)


(巨木)




脅迫と強請(ゆすり)藤村の「夜明け前」より(旧中山道番外記 13)

2008年11月13日 08時32分17秒 | 中山道番外記

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(高山陣屋)

(脅迫と強請「夜明け前」と「ならかわの民話」から)

街道には脅迫と強請(ゆすり)が横行していた。

山中に山賊は言うに及ばず、
権威ある宿泊者の威を借りた従者たちが、
ちょっとした事に因縁をつけ強請(ゆす)る。
それを表ざたにしないからといってご祝儀、
ご酒肴代をせしめるのが常であった。

ならかわ村には、
「家康の命日4月17日に、
朝廷より日光へ幣帛をお供えすることが慣わしであった。
この使いをする人を日光例弊使と言い、贄川宿を常宿と決めていた。
天皇の使いを良いことに、無銭飲食、無銭宿泊や献金、
献品を強要する厄介者であった。
この例弊使は権威ばかりで、
「やれ、泥をはねた」「やれ、触れた」とか
難癖をつけて、その都度迷惑料を巻き上げた。
村人はそれを知っていて、例弊使が来ると、
宿場の人は戸障子、雨戸を閉めて居留守を使ったと言う。
触らぬ神にたたりなし、と言うことか・・・」
(ならかわの民話より)
いずれも木曽路の馬篭宿と贄川宿の話として残っている。
木曽路だけが強請りやすかったわけでもあるまいに・・・

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(馬篭にある鉤の手の水車)

日光例弊使は日光までを中山道を使い、
帰りは京都まで、東海道を使ったと言うから、
東海道にも同じような話が残っているに違いない。

「夜明け前」では、
『そこで「実懇(じっこん)」という言葉が生まれた。
「実懇になろう」とは「心やすくなろう」という意味であって、
その言葉を武士から掛けられると、
旅館の亭主はご祝儀をねだられるのが常であった。
街道の人足が駕籠をかついで行く途中で、
「実懇になろうか」と武士風の客から声をかけられると、
心づけ1分(=一両の25%)とか1分2朱(=一両の37.5%)とか
ねだられることを覚悟しなければならなかった。
貧しい武家や公家衆の質(たち)の悪いのになると、
京から江戸との間で一往復して、
少なくとも千両の金を強請し、それで2~3年は寝食ができるといわれた。

一方で賄賂の公然と行われていたのも不思議は無い。
「将軍のお召し馬は焼酎を一升も飲む」といって口取りの別当が凄んだ。』
程である。(宿場の苦労:「夜明け前」より)

昔も現代もお金について、人間の心根は変わらないのであろうか?
「夜明け前」の時代では、徳川将軍の権威も地に落ち、
参勤交代の制度を廃止すると、
江戸にとってあった人質の大名の女房も、
それぞれ国許に帰り、地方の大名が力をつけ将軍の命に背くものも出てくる。

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(白川村の合掌造り)

政治は天皇を中心に進める尊皇派と
徳川幕府の将軍を中心に政治を行う佐幕派(幕府を佐(たす)ける)に
大名たちは分かれていく。
薩摩、長州の尊皇派、徳川幕府擁立の水戸、会津藩などの佐幕派。

両派とも主張を一歩も譲らず、生死をかけて自分の主張を通そうとする。
日本は二つに分かれて、戦争になる。

260年の長きにわたって君臨してきた徳川将軍派と、
将軍を任命する側の天皇を有する朝廷派が激突する。

そこで浮上したのが、苦肉の策の公武合体。
つまり、天皇家と徳川家に縁戚関係を持たせようと言う策――
天皇の妹を徳川将軍に嫁がせる策――を取った。

ご存知、皇女和宮の降嫁である。
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(白川村2)




贄川(にえかわ)関所(旧中山道を歩く 159)

2008年11月09日 09時05分50秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(関所脇の紅葉)

(贄川宿3)
今日は贄川関所前のバス停で降りて関所に入る。
前回、受付にいらっしゃったお姉さんは本日は都合でお休み、
ピンチヒッターの妙齢の女性が受付に現れた。


(橋の下、山間の隘路にある関所)


(贄川関所の入り口)

復元された関所は「贄川関所」とされているが、
当時の資料では「贄川番所」と番所と呼ばれていることが多い。
番所は関所よりも格落ちするように思われるが、
さしたる根拠はなく「番所」=「関所」である。

受付嬢は関所のガイドも勤め、その案内によると、
「源義仲(木曽義仲)の孫讃岐守家村建武二年(1334)頃
贄川に関所を設け守らせたことに始まる。
贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役目を果たした。
慶長19年(1614)大阪冬の陣の際は、山村良安の家臣原彦左衛門、
荻原九太夫がこの関所の警備に当たった。
元和元年(1615)大阪夏の陣の際は、荻原九太夫、千村大炊左衛門、小川源兵衛
この関を守り、酒井左衛門尉の家臣八人の逃亡者を捕らえる。
江戸時代は木曾代官山村氏が臣下に贄川関所を守らせ、
特に婦女の通行と白木の搬出を厳しく取り締まった」という。


(関所の中の座敷)


(上番所)

関所の広さは前回書いたが、1062.6㎡で、
中央に座敷があり、ここは大名などが休憩する場所、
向かって左隣の上番所は、
関所の責任者が通行手形の発行者印を照合する手形改めや
通行の可否を決定する業務をした。
この部屋の壁には、関所破りに備えて道具(槍、弓、鉄砲、
ひねり、鳶口、棒、用水桶、梯子)がある。
さらに左側に囲炉裏のある部屋があるが、ここは台所である。


(台所兼休憩所)

(ここまで写真を撮っていたが、
資料室で何枚か取っているときに案内の方がおいでになって、
写真禁止を言い渡されてしまった。
ヨーロッパやアメリカでは絵画でも平気で写真を撮らせてくれるが、
発展途上国のロシア、インド、中国では、写真撮影は有料であった。
日本はただ禁止と言うところが多いのは残念!)

女性については道中手形が必要で、
その手形は数行にわたり長々と、
どこの誰がどんな用件でどこへ行くと書かれ、
奉行が発行した手形であったのに対して、
男性のものはいとも簡単に一行で、
どこの誰兵衛が通ると書かれたものであった。

座敷の右側の下番所(現在は資料室になっている)における足軽の勤めは、
諸道具(関所破りを絡め捕る道具)の管理や手形持参人と
上役との取次ぎ、荷物改めや通行許可の通達などであった。

下番所の奥に、窓がひとつも無い部屋があるが、
ここでは女改めと称し、
中間の妻が「改め女」「さぐり婆」の役目を遂行した場所である。
想像すると、なにやら艶めかしい場所のように思われるが、
光が当たらない部屋では、旅の途中で探られる女性は気味悪かったに違いない。

女改めの実際については
「当時女の旅人で男の付き添いの無い場合は珍しかった。
普通女の旅行一行が関所に到着すると、
まず付き添いの男が手形を持って下番所に行くわけであるが、
諸家中の者や、やや身分のある者以上になると付き添いの男が関所へ行き、
婦人は旅館に休息させておいて先に手形提示の手続きをした。
関所では、下番のものが「誰様のお女中でございますか」と
先方苗字を尋ねて上番のものへ申告する。
上番のものが直接手形を受け取る。
下番の者は取り次ぎ役であって、決して手形は受け取らない。
上番の者は手形を受け取って子細に検討をして文言その他不備なき点をみて、
なおかつ印鑑の照合を行った。
すべて不備がなければ女改めとなった。

女改めの要点は大女(おとな)、小女(こども)、尼などの区別だけの模様であった。
大女小女の区別としては、眉、髪の結い方、着物、
鉄漿(おはぐろ)の有無であり、
髪の模様は、髪切りであるか髪長であるかで、多くの場合解かせて改めた。
こうしてどの条項にも相違がなければ下番のものから上番への申達によって、
通行許可となった。そして下番の者の「通れ」の合図で事済となった。

けれども大女であるのに振袖を着ていたり、
鉄漿がなかったり、眉毛があったり、
髪切とあるのに髪が伸びていたりすると、不通用となった。
すべて手形と不符合の点があると家老へ申達し、
その指図を受けて処理しなければならなかった。
家老は先例を調査したりして、
内意を含めて手形に符合するようにさせて通用させた。」
とある。(贄川関所内説明)

(女の通行手形)

関所内に展示してあった通行手形を紹介する。
「女三人の内小女二人乗り物二挺、摂州大阪より
江戸迄、木曽福島御関所相違無く
相通らるべく候、右は大阪瓦町壱丁目
伊賀屋勘左衛門妹姪の由、人主勘左衛門、
同町年寄・五人組証文これを取り置く此の如く候

元文五年(1741)申五月朔日   水谷信濃守 ?
         福島
            人改中 」

これは、大阪の伊賀屋勘左衛門なる者の身内の女三人が
江戸へ下る際の関所手形である。

手形発行者は堺奉行であった。

なお、飛脚などは状箱を提示すれば通行することが出来たという。






贄川(にえかわ)宿(旧中山道を歩く 158)

2008年11月04日 08時43分15秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(贄川宿の立派な看板。そのはるか先に橋がある)

(贄川(にえかわ)宿2)
贄川(にえかわ)駅は時代を思わせる古い駅舎である。駅員も見当たらない。
駅前には朝通勤で出かけたであろう人たちの自家用車が数台並んでいた。
駅舎の右手にお手洗いがあったので利用する。
建物は古臭いが便器は水洗で思ったより綺麗であった。
障害者用のトイレが隣にあったので覗いてみたが、
広さもたっぷりあって、使いやすそうである。


(贄川駅舎)

駅のホームを覗くと工事関係の方がいたので、
聞き及ぶ贄川(にえかわ)関所の場所を訊いた。
「この先坂を登ってすぐそこに橋があるので、渡ったところです。」という。
駅を出たらいきなり大きな看板「贄川(にえかわ)宿」が目に入る。
橋はどこか?と見渡したが見当たらないので、坂道を歩くが、
教わった「すぐそこは」500m以上先で、
疲れた体には1kmもあるように感じた。
バスでは贄川駅前の次が贄川関所前で一駅分の距離がある。

(贄川宿入り口の看板)

坂を上りきったところに線路をまたぐ橋があり、
「贄川(にえかわ)宿入り口」の大きな看板がまた出迎えてくれる。

その橋には、
「昭和の終わりごろ着工して、
平成元年(1964)に完成した時代のかけ橋であり、
末永くこの地から未来へこだまを響かせ、
希望を照らすことを期するものです。」
(楢川(ならかわ)村・贄川(にえかわ)郵便局)と碑文がある。


(線路を越える橋、中央にガラスのモニュメントがある)


(ガラスのモニュメント)

今ひとつの碑文はは、橋げたの切り絵作家、
橋中央にあるガラスの造形作家が記念文を残している。

「木曽谷を賑々しく往来した大名行列に往時をしのぶとき、
渡る風に馬の嘶きを聞く。時代を超えて、
草木はまっすぐに天へ伸び、人々は、
今を確かめるために節を奏でてみる。
いま、そして未来を照らすガラスのかがり火に果てしない夢を描いて、
永遠のふるさとを抱きしめる。」
(柳沢京子(きりえ作家)高橋禎彦(ガラス造形作家)とある。


(切り絵)


(屋根に石を置いた関所)

橋を渡って線路の上から反対側を見ると、
なるほど坂の下に関所が見える
「贄川(にえかわ)関所跡」である。

贄川と言う地名は、当初は温泉が川の中に湧き出して、熱川(にえかわ)と言ったが、
温泉が枯れてからは麻衣廼神社(あさぎぬのじんじゃ)の本社である
諏訪神社の神事としての生け贄として、
この地方で取れる鯉や鱒を献じたところから、
「熱(にえ)」から「贄(にえ)」に改めたことによると伝承にある。

坂を下り幔幕の掛かった関所に入る。
入り口に若いお姉さんがいて、
「入場料200円」と言う。
さらに「聞きたいことがあったら声をかけてください」と。

聞くところによれば、関所内のガイドもなさると言うが、
時間が30分以上掛かると言うので、今は時間がなく、
今度もう一度お訪ねしますからと一人で見学した。

関所は、敷地322坪(=1062㎡)
     間口八間(=14.56m)奥行五間(=9.1m)であった。
(参考:現在復元された関所は970㎡であるからこれよりやや大きい)

贄川(にえかわ)関所については、
今度詳しく説明を聞いてからご報告したいと思います。
電車の時間に追われて、そそくさと内部を見学して帰った。

塩尻発17:07新宿着19:35.

歩いた距離26.5km、44087歩であった。


(丸一の紋は関所番を仰せ付かった山村家の家紋)