中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鳥居峠Ⅱ(旧中山道を歩く 168)

2009年05月30日 08時27分55秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(峠の茶屋2)


(鳥居峠の眺望所、神社への距離案内)

(鳥居峠2)
水場の後ろに案内看板があり、
(中山道鳥居峠
御岳山眺望所まで 180m
明治天皇駐蝉所石碑まで 200m
御嶽神社・御嶽遥拝所まで 600m)とある。

道路の先を見ると、今来た道の左脇に急坂を登る狭い道が見える。
やっとの思いで登ってきたボクには、とても600mも左上に登る勇気が無く、
進むべき道路は平坦な広いほうの道と勝手に決める。

とりあえず美味しい水をたらふく戴き、小用も済ませて山間の道を行く。
峠とあるからには、向こう側は下り道に違いない。
山と山の間を通り抜ける風が強く、帽子が吹き飛ばされそう。
峠を抜けると目の前がひらけて道路は、二つに分かれる。
さてどちらかと見渡すと、
左手に「熊除けの鐘を鳴らしてください」の看板が目に付いた。


(熊除けの鐘)

案内書に寄れば、熊よけの鐘がおいてあるので
「鳴らして進もう」とあったことを思い出した。
碓氷峠、和田峠で活躍した熊除けの鈴を持ってきたが、今回も役に立った。
鈴を忘れてきた人たちのために、大きな鈴がぶら提げてある。
子供が悪戯でもするように、カミサンと二人で交互に大きく鈴を鳴らす。
鈴は山にこだまして、もし熊がいればびっくりするほどだ。

その先は新緑に燃える栃の木の群生地があり、
「鳥居峠のトチノキ群」として木祖村の天然記念物に指定されている。
鳥居峠は中山道三大難所の一つに数えられているが、
碓氷峠の上り8.3kmが最もきつかった様に思う。次が和田峠であるが、
これは碓氷峠と比較して、上りは気にならなかったが、長い下りが大変で、
それらに比べると鳥居峠の登りは約2km、
下りも短く難所というほどのことは無かった。


(栃の木群生地の石塔)


(栃の木群)


(道路脇のお地蔵様)


(道路案内標識)


(御嶽神社の石柱)

話を戻して、さらに進むと案内標識が見え、
右薮原宿、左奈良井宿、正面丸山公園とある。
正面道路には石の鳥居、石柱があり、「御嶽神社」とある。
奥の神殿の左右には沢山の石造物群があり、

その左側に御嶽山遥拝所がある。
そこから上に見える山が御嶽山であろうか、雪を頂いた山が見える。
遥拝所の前に急な階段があるので丸山公園に向かって下りていく。


(御嶽山神社)


(御嶽山神社2)


(御嶽山神社3)


(御嶽山神社脇の石造群)


(神殿右横の石造群)


(神殿左横の石造群2)


(さらに左の 遥拝所)


(遥拝所から下る急階段)


(遥拝所から見た山、何山でしょうか?御嶽山?)

下りきったところが少し広場になっており、
右側に「義仲硯水」の案内看板が見える。
(昔、木曽義仲が平家打倒のため旗揚げして、北国へ攻め上がるとき、
鳥居峠の頂上で、戦勝祈願の願書をしたためるのに使った水と伝えられている。)と
「硯水の伝説」が残っている。
本来の硯水は、この場所より5~6m上に登ったところにある
水場であると案内があるので登ってみる。


(今の硯水/すずりみず)


(数メートル山上の本来の硯水)

「義仲硯水」の場所よりさらに一段下ったところに丸山公園はあり、
そこにはまた多くの石造物がある。

「木祖村史跡鳥居峠」「信濃十名所鳥居峠」

松尾芭蕉の句碑、

・木曽の栃(とち) うき世の人の 土産かな

・雲雀より うへにやすらう 嶺(とうげ)かな


(木祖村史跡鳥居峠の石碑)


(中央が「信濃十名所鳥居峠」右側が「雲雀より」の芭蕉の句碑、左は「嶺は今朝」の法眼の句碑)
 

(「木曽の栃」の芭蕉句碑)

さらに碑の頭部は欠けているが、雪月花の句碑で次の三句と推定されている。
・雪ならば 動きもしように 山桜
・染め上げし 山を見よとか 二度の月
・雪白し 世はほのぼのと あけの山


(頭が欠けた石碑が雪月花の三句の碑)

また法眼護物の句碑
・嶺は今朝 ことしの雪や 木曽の秋

そして鳥居峠古戦場の碑は、
明治32年木曽村の有志によって建立された。戦国時代木曽氏が
甲斐の武田軍を迎え撃ったことや奈良井の「葬り沢」、
峠の様子が書かれていたようだ。


(古戦場の碑随分古ぼけて見える)

下りの急勾配の中山道を降りていくと、
林の間から山のふもとに広がる藪原宿が、
こじんまりと美しく見渡せる場所に出る。

この峠からが木祖村藪原宿である。


(下る途中に見える薮原宿)





鳥居峠(旧中山道を歩く 167)

2009年05月25日 06時49分43秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(鳥居峠への階段)

(奈良井宿5)
鎮(しずめ)神社を出て、街道を進むと右手先方に狭い階段が見える。
いよいよ旧中山道鳥居峠への上り口である。

道路はそのまま直進し右のほうへ大回りして登っていくが、
人が歩いた旧中山道はその道をショートカットして、急坂を登る。


(階段の先の草道)


(ガードレールの間から国道に合流する)


(道路はこの先半円を描いて左へ)

すぐに大回りしてきた道路に合流するが、
その道路は今度は左に半円を描くように曲がる。
車が坂道を行くには止むを得ない。
箱根の山や碓氷峠、日光のいろは坂のようなものである。

左に折れると道路は二又になっており、間に案内看板が立っていて、
右手の道路の4~50m先にもう一つの案内看板が立っているのが見える。
案内に沿って進めば、右手に見える案内看板の横をさらに登れとある。


(二股の間にある案内看板、右手奥にもう一つの案内看板が見える)


(案内看板)


(右奥に見えた看板と石畳)

石畳のひなびた道は旧街道にふさわしいが、
その勾配を見ると行き先が思いやられる。
とても急だからである。
鳥居峠が、中山道の三大難所の一つといわれる所以(ゆえん)が理解できる坂道だ。
しばらく歩いて道路標識を見るとまだ35メートルしか進んでいない。
山登りなんてこんなものだ。ボクには300mも歩いた気分である。


(急勾配の石畳)


(谷を越え)


(山道を越え進む)

覚悟を決めて登り始めると、左へ降りる道に出るが、奈良井への近道とある。
ここまで来てまた奈良井に戻ってはたまらないと、
さらに登ると展望台と書いてある場所に出る。

左上のほうに東屋らしきものが見えるので、疲れた足を引きずりながら進む。
南の方の梢の上のはるか先に雪を頂いた山が見える。
とても厳かで美しい。
山のことには特にうといボクには山の名前さえわからない。


(展望台)


(展望台から見えた山、ご存知の方山の名前を教えてください)

展望台を降りてもと来た道に戻りさらに登ったり下ったり、
谷間の木橋を二回ほど渡ったりして、しばらくすると、
休憩所のような山小屋がみえる。近づくと「中の茶屋」とある。

(菊池寛の「恩讐の彼方に」の一舞台となった場所で、
ここから遠く「青の洞門」へと舞台は移っていく。)と、
奈良井宿観光協会の手で、小屋の中に掲示されている。


(何度か渡った木橋、手すりが腐って落ちている)


(奥に見える山小屋)


(中の茶屋)

その先に「本沢自然探勝園」の看板がある。
確かに新緑に包まれた美しい山道ではあるが、
上りの厳しさに負けて、とても公園とは思えない。
元気はつらつの、帰りには「抱っこして」の子供には公園に思えるであろうが、
間もなく後期高齢者入りのボクのようなジジイには、
地獄の一歩手前――煉獄――への道とでも言いたい所。

(天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、
大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。
このとき武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、
戦死者を葬った場所として、
「葬り沢(ほうむりさわ)」と呼ばれる。)(楢川村)とある。


(急坂を登る)

「葬り沢」をすぎて、最後の長い急坂を、
ヨイショヨイショと気持ちの上で掛声を掛けながら進むと、
前方が開け、山小屋「峠の茶屋」がある。
小屋の右横にはとうとうと流れる水場があり、
左横には三箇所のお手洗いもある。
峠を登り初めておよそ二時間。小屋の扉を開くと総ヒノキ造りで、
綺麗に掃除が行き届いた板張りは、
中央に通路左右に十畳間ほどの仕切りなしの部屋がある。
お手洗いも綺麗に掃除されており、豊富な水量を利用した水洗であるが、
下水道があるわけでなく、必要量以上に水を流すということではない。

ここから先が木祖村藪原に入る。


(峠の茶屋、右手に水場が)




木曽大橋、高札場、鎮神社(旧中山道を歩く 166)

2009年05月23日 09時26分58秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(駅横の奈良井宿の看板)

(奈良井宿4)
日本橋を出発してから28日目。
2009年5月14日(木)快晴 [最高気温 東京20℃の予想。奈良井16℃の予想。]
あずさ1号新宿発AM7:00~塩尻着9:30.
駅前の地域振興バス(どこまで乗っても100円)
10:00発~奈良井駅前着10:55.


(JR奈良井駅)

奈良井駅前で下車する。快晴で気温も低く歩くには快適。
駅前には、ジャージ姿の男子中学生を沢山見かける。
ある人は腰を下ろしてスケッチブック筆を走らせ、
ある者は立ったまま筆を立てて、構図を取る構えを見せている。
今日は写生会のようで、先生方も見かける。

伝統的建造物群に囲まれた奈良井の街並みには、絵になる材料がいくらでもある。
プロの画家や文人の中には、一生この町で過ごす方もいるほどである。
奈良井宿の街並みが朝の光の中に輝いて、前回 訪問したときと違った美しさを感じた。

今日は中山道三大難所の一つ「鳥居峠」を越える予定で、
本来ならバスの終点「権兵衛橋」停留所で降りて、
高札場を過ぎ、鎮(しずめ)神社、歴史民族博物館を観て、鳥居峠に入るところである。

しかし今日は、持病を持つボクの身を案じて、
この三大難所だけは同行するというカミサンが一緒である。
せっかく一緒に来たカミサンに、奈良井宿の美しい伝統的建造物群を見せてやりたい。
それでJR奈良井駅のまえでバスを降りることにし、古い町並みを歩くことにした。


(木曽の大橋)

建造物群を観る前に、前回ボクが見落とした「木曽の大橋」を訪ねる。
JR奈良井駅の先で斜め左に入る道路を進み、
JRをガードでくぐると目の前が開けて、芝生の公園に出る。
公園を横切った先に「木曽の大橋」が見える。
ここでも沢山の女子中学生が、写生をしていた。
すがすがしいのは、この年頃の子供たちは変に色気づいて、
普通挨拶などしないものなのに、
男子も女子も通りかかった人にはきちんと挨拶をすることだ。

紳士淑女の第一の用件は、きちんと挨拶が出来ることである。

先に挨拶をされるようでは、
ボク自身、紳士としての資格が無いようなものだから、
彼らに負けず先手を打って先に挨拶をする。
写生の手を止めている人に、
「この木曽の大橋はどこから見ると一番綺麗に見えますか?」と質問すると、
立ち上がってきて、橋の右側に行き
「ここからです」
という。その写真をご覧ください。


(女子生徒が教えてくれた大橋の美しいアングル)

太鼓型の木曽の大橋」は、樹齢300年以上の木曽ヒノキで造られた
日本一幅の広い木橋である。
幅がわかる写真が無いのが残念、是非現地にお出かけの上お確かめください。
(余計なことであるが、ヒノキは年に一ミリしか年輪が刻まれず、
材木として利用できるのは樹齢100年。そのヒノキは一本百万円するという。)


(重要伝統的建造物群)


(重要伝統的建造物群2)

旧中山道に戻り、重要伝統的建造物群を観ながら、カミサンに説明して歩く。
「旧中山道の杉並木」「八幡宮」「二百地蔵」や枡形、
大宝寺の「マリや地蔵」「奈良井義高公の墓」「櫛問屋の中村邸」「上問屋の手塚家」など。
(以上「旧中山道を歩く163~165」参照願います。)

前回見落とした「徳利屋」の前の説明には、
(江戸300年、木曽街道は日本の二大幹線道路の一つとして、大いに繁栄しました。
中でもこの奈良井宿は街道中最も大きい宿場として、
諸国からの諸人往来のため大きな役割を果たして来ました。
奈良井にはその大宿であったことの代名詞として、
「奈良井千軒」という言葉が残っています。
徳利屋はこの奈良井宿のほぼ中央に位置し、七間間口という往還構えで、
しかも総二階という大きな旅籠でした。
旅籠や経営の歴史も古く、徳利の縁起に因んで屋号を延宝三年(1675)に
「徳利屋」と改めてからでも300年になります。――後略――)
長々とこの倍以上の長さで文面はつづくが、
つまり、江戸時代から300年以上の歴史ある旅館を営んできた由緒ある建物らしい。
ことに文人墨客の多くが宿泊し、中でも幸田露伴、坪内逍遥、
島崎藤村等もここに泊ったようである。


(徳利屋)

奈良井宿のはずれに古ぼけた高札場が、そして鎮(しずめ)神社、楢川歴史民族資料館がある。
高札場に掲げられた高札の文字はほとんど読めず、
読めないほど古いものかと思ったが、
説明によれば、昭和48年に復元されたものである。
高札というのは、各村各宿場に設置され、幕府の定めた決まりなどを周知徹底させる目的で、
掟、条目、禁制などを板に書き掲示していた場所で、
主として名主(関東では名主そのほかでは庄屋)が管理した。
高札前では、旅人は立ち止まり、笠など被り物を取って見たし、
文字の読めないものには読み聞かせたという。
また宿場には、宿場から宿場へ荷物の継ぎ立て駄賃なども掲げた。


(高札場その奥に鎮神社が見える)


(高札場とその奥に見える水場)

高札場の横には水場が設けられており、旅人の渇きを癒したに違いない。
奈良井と言わず、信濃、木曽(長野県)に入ってからは、
街道の脇に沢山の水場が設けられており、
飲料にして問題は無く、ペットボトルの水よりミネラル分が多いのか水温の関係か、
とても美味しく頂いた。

高札場の隣には、赤い鳥居があり「鎮(しずめ)神社」とある。
(奈良井の氏神で、寿永から文治(12世紀後期)のころ、中原兼遠が鳥居峠に建立。
天正年間(1573~92)にいたり、奈良井氏が現在地に移したと伝えられる。
また、元和四年(1618)に、疫病の流行を鎮めるため、
下総の香取神宮を勧請したことから「鎮神社」と呼ばれるという。
本殿は寛文四年(1664)の建築で、楢川村指定文化財、社叢(しゃそう=神社の森)は、
楢川村指定天然記念物)(楢川村)とある。


(鎮神社の鳥居)


(1664年建築の本殿)

神社の南側に歴史民族資料館があるので歴史に興味のある方はぜひ観覧をお勧めします。
資料館を出て街道を進むと、右側に登る階段があり、

鳥居峠を目指す旧中山道の上り口である。


(鳥居峠入り口の階段が旧道)





草加せんべい(芭蕉の道を歩く 10)

2009年05月16日 09時18分22秒 | 芭蕉の道を歩く
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(草加小学校前の信号)
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(草加小学校の石柱前の案内「右→でおせん茶屋、東福寺」がかすかに読める標柱)
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(おせん茶屋)

(草加 2)
草加といえば、ボクの頭に浮かぶのは草加せんべいと
駄洒落の「そうか(草加)越谷・千住の先」しか思い浮かばない。
旧日光街道を歩くと電柱に「せんべい元祖」の看板が目に付く。
芭蕉とは縁もないが、草加せんべいを避けては通れない。

前回の続きで、氷川神社の隣の草加小学校を過ぎると、
およそ50m右側に「おせん茶屋」跡がある。
旧日光街道に面し、ちょっとした休憩所であり、奥にお手洗いがある。
普通、公衆トイレは暗くて汚れたイメージがあるが、
このお手洗いは公衆トイレの暗いイメージは無く、
明るくすこぶる清潔であった。入り口の暖簾もさわやか。
元草加町役場、鳩ヶ谷警察派出所があった場所である。
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(こんなところへトイレの紹介もないが、あまり綺麗で明るかったので)

説明によれば、
(「おせん茶屋」は、旧日光街道に面し、
かっての宿場町の雰囲気を漂わせた茶室風の造りになっています。
「おせん茶屋」という名前は、
草加せんべいの伝説上の創始者といわれる「おせんさん」にちなみます。
1988年(昭和63)、建設省(現国土交通省)主催の
第三回手づくり郷土賞「小さなふれあい広場30選」に選ばれました。)(草加市役所)

旧街道は先で県道49号線に合流するが、
その手前左側に「おせん公園」がり草加せんべい発祥の地になっている。
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(元祖せんべい屋)
その草加せんべい「元祖せんべい」のお店があるので「せんべい」を購入。
一袋800円とあるが、どんなせんべいであるか現物が見えないので、
実物はドレですか?と聞くと、
ガラスの容器に入ったせんべいを見せてくれた。1枚八十円。
午後の3時をまわっていたので、早速袋から出したが、
湿度を嫌うせんべいのためか厳重に一枚づつ包装されている。
口に入れるとパリッとして醤油の味が良く合う。

草加せんべいは、
(現在、市内にあるせんべいの製作所や販売所は60軒以上に及び、
名実共に草加市を代表する名物になっています。
製造工程は機械化されつつありますが、
昔ながらの天日干しや手焼も行われています。
「草加せんべい」は円形の醤油味の固焼きで、
「草加せんべい醤油のかおり」は、
かおり風景100選(環境省)に選ばれています。)(草加市役所)とある。
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(おせん公園)

また、せんべい発祥の地「おせん公園」には草加せんべいのルーツが記載されている。
(草加せんべいのルーツはいくつかの伝説がありますが、
その代表的なものは、日光街道草加松原に旅人相手の茶屋があり、
おせんさんの作る団子が評判だったということによります。
おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていましたが、
ある日それを見た武者修行の侍が「団子を捨てるとはもったいない、
その団子をつぶして天日で乾かし焼餅として売っては」と教えました。
おせんさんが早速売り出したところ大評判になり、
日光街道の名物になったと言われています。)(草加市役所)

「草加せんべい」としてのボクのイメージは、味は醤油味で同じでも、
価格は10枚買っても300円ほどと思っていたが、
十枚800円はやや高価の感触。
それにしても美味しくてあっという間に二枚平らげてしまった。

また「おせん公園」にある「せんべい発祥の地碑」の解説版によると、
(草加せんべいの本家本元を全国にPRしようと、
草加煎餅協同組合と草加地区手焼煎餅協同組合の二つのせんべい組合が、
市民から募金を募り1992年(平成4)この碑を建立しました。
左に煎餅に見立てた円形の花崗岩、
右にせんべいを焼く箸に見立てた御影石が置かれています。)(草加市役所)
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(草加煎餅と箸に見立てた記念碑、おせん公園で)

なるほどやっと謎が解けた。
安価な草加煎餅は草加煎餅協同組合が機械を駆使して作った「せんべい」。
そしてボクが買った高価なせんべいは、
草加地区手焼せんべい協同組合が作った手焼の「せんべい」なのだ。

思い出してみれば、確かに味は「手焼せんべい」のほうに軍配が上がる。

ボクの一句、

・しょうゆ味 あつあつ煎餅 頬ばりて (hide-san)



う~む どう考えても座布団はあげられないなァ!




草加(芭蕉の道を歩く 9)

2009年05月10日 11時56分21秒 | 芭蕉の道を歩く
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(草加駅)

(草加)              (19.Apr.2009.)
東武伊勢崎線「草加駅」東口に降りる。

「奥の細道」には、元禄二年(ふたとせ)に旅立ち
「その日、漸(ようや)く早加(=草加)と云(い)ふ宿(しゅく)にたどり着きにけり。」とある。
日光奥州道中で第一の宿場が千住宿で、次が草加宿である。
草加宿は千住宿と越谷宿の
「間(あい)の宿(しゅく)」として寛永七年(1630)に設けられたという。

(当時の日光道中の千住と越谷の間は沼地が多く、
大きく迂回して通らねばならなかった。
そこで、宿篠葉村(現・松江)の大川図書(*)という人物が村民と共に、
茅野(かやの)(=かやの生えている野)を開き、沼を埋め立て、
それまで大きく迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。
1606年(慶長11年)のことです。
このとき沼地の造成に沢山の草が用いられたことから
「草加」と呼ばれるようになりました。
その後、直線となった千住・越谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、
1630年(寛永7)に中間宿として、
新たに草加宿が日光道中第二の宿場として指定されました。)とある。(草加市役所)

そうか(=草加) そういうことか、と納得。
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(ロータリーの先の道)
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(二つ目の信号)
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(道路元標)
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(草加市役所が立てた道しるべ「今様草加宿」、芭蕉の旅姿が見える)

駅を降りて目の前のロータリーを右に回り、
中央の道を進み二番目の信号を左折する。
これが旧日光奥州道中である。

信号右手先には埼玉りそな銀行があり、
左手先に草加道路元標が、場違いであるかのように頭を見せ、
その後ろに草加市役所が建てた「今様草加宿」の道標があるので、
その道標に沿って歩く。
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(旧日光奥州道中)

この道を芭蕉と曾良が二人で奥州道中膝栗毛を楽しんだ道である。
やや前かがみで杖を持った僧の姿をした芭蕉の影絵が
「今様草加宿」に描かれている。

すぐ右側に八幡神社がある。
この神社には巨大な獅子頭が雌雄一対残されており、
草加市の指定文化財になっているらしいが普段は見る事ができない。
神社前にある狛犬が赤い舌を出しているのが珍しい。
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(八幡神社)
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(赤い舌を出している狛犬)
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(呉服屋さんのお屋敷と蔵)

宿場らしい古い呉服屋さんの店舗、蔵跡が、
工事中の養生シートに囲まれて建っている。
ご近所さんによると、古い建物を保存するらしい。
そのため工事に手間取っているという。

さらに先に進むと、草加小学校の手前の左側に氷川神社がある。
小さな神社であるが、中に書いてある縁起が面白く紹介したい。

「   平内さん(縁結びの神)
江戸初期の伝説的な人物で、夜な夜な辻斬りなど悪行を重ね、
自身の罪業消滅を願って自像を造って通行人に「踏(ふ)みつけ」させた。
これが後に「文付(ふみつ)け」に解され、
縁結びの神としてよく効く神様として親しまれ
拝されるようになった。」とある。
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(「縁結び」に霊験あらたかな氷川神社)

昔の信仰は時々馬鹿馬鹿しいと思うことがある。
罹(かか)れば70%の子供は死に至るという天然痘も、
疱瘡祠を建ててお祈りするより方法が無かった時代。
恋も思うようには行かず、特に男尊女卑の時代には、
女性が思いを寄せても言い出すことが出来ない時代。
手の打ちようが無い時代であれば
「縁結びの神」に祈るしかないのだ。

この時代、恋心を打ち明けるには、
恋文をそっと想う人の持ち物にしのばせる以外方法が無かった。
「恋文をそっとしのばせる」のを「文を付ける」といった。
もっとさかのぼって明治以前には、
恋心を、みそひと文字(短歌)に忍ばせておくる方法をとった。
これが縁となって結ばれることから「踏みつける」→「文を付ける」→「縁結びの神」になったのであろう。

第二次大戦後男女同権の時代になっても、
長い間「男女七歳にして席を同ぜうせず」の考えが残っており、
男女が手をつないで歩くことは無く、
女性は三歩下がって男性の後を歩くのが普通で、
現代のように、「あなた好きよ!」と手をつなぎ、
キスをして「はい!出来ちゃった結婚です」なんて、
堂々とテレビの前で報告することは考えられなかった。

脱線はそのくらいにして、本題に戻す。

この神社は七福神の大黒様をお祭りしている。

ボクの一句、

・神様に 助けられたる 膝栗毛  (hide-san)

                      (つづく)

(*)草加宿を開いた大川図書について
(大川図書は小田原の北条氏に仕え、土本氏を名乗っていたといいます。
1590年(天正18)小田原城落城によって浪人となり、
岩槻城主太田備中守のもとで年月を送っていたようです。
そして、徳川氏の天下統一の時、谷塚村に居住することになったと言われています。
その後、新しい土地を求めて現・松江近辺に移り住むようになり、
草加宿や東福寺の建設に尽力をすることになりました。)(草加市役所)






千住大橋と荒川の言い伝え(芭蕉の道を歩く 8)

2009年05月09日 11時15分26秒 | 芭蕉の道を歩く
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(千住大橋)

(千住)
千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。
この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。

昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。
こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた
伊那備前守忠次によって架けられました。

千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に
「・・・・中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。
船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。

川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、
橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。

ずっと以前から川の主と言われる大亀が住んでいて、
その棲家が橋の川底にあったので、
打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。
いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。
その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、
苦もなく打ち込めました。
しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、
橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、
橋脚にぶつけさせたと言われています。
船頭仲間でも大橋付近は難所として、
かなり年季の入った船頭でさえ、
最大の注意を払い航行するようになったといいます。

とこんな話しだ。良く似た話で、他に大緋鯉の話もあるとのことで、
そのお話が千住大橋の岸壁に書かれている。

その為かどうか解らないが、現在も橋げたの間隔がふぞろいな箇所もあると言う。
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(千住の橋戸河岸)
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(大緋鯉の話)


ボクの季語なしの一句

・語りつぐ 橋は水陸 役に立ち  (hide-san)

0004
(何番目の橋げたが広くなっているでしょうか?)






NASAケネディ・宇宙・センター(西カリブ海クルーズ 最終章)

2009年05月02日 09時34分52秒 | 船旅
057
(オークランドの夜明け)
010
(下船)
011
(客船)

(NASA=アメリカ航空宇宙局)
フロリダの港オークランドから豆粒のように小さく見える、
ケープカナベラルのNASA航空宇宙局の四角な建物までは、
バスに乗って小一時間掛かる。
やがてにょきにょきとロケットが立っているところに近づき、
NASAに着いた実感が湧く。
バスの駐車場から航空宇宙局の中に入るのに、
入場料を払って、航空機に乗るようなチェックインが必要である。
一人一人手荷物から身体検査まで済ませる。
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(四角に見える建物がNASA)
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(NASAの入り口)
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’入り口の屋根の上にある、宇宙遊泳中のシンボル)
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(NASA航空宇宙局)

総勢20人ほどが終わるまで、待合室で待つと、スクリーンにケネディ大統領が
ロケット発射成功の演説をしている場面が映し出される。
さすがケープカナベラルのケネディ・スペースセンターだと感心している間に、
全員がチェックイン終了し、いよいよ見学と思いきや、
センター内でさらにバスに乗り換え、さらに十数分走りやっと見学場所に到着。
何でも世界一が好きなアメリカ人、周りにはいろんな形のロケットが横たわっている。
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(ロケット群)
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(ロケット)
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(ロケット2)

いろいろ教わるが、記憶に残ったのは「ロケット打ち上げ仮想体験」であった。
(全員で沢山の椅子に座り、持ち物が宙を舞うといけないというので、
ポケットの中身から手荷物まで全てを取り上げられる。
椅子に座って4点式シートベルトをすると、
目の前のスクリーンにロケット打ち上げの
シーンが近づき、発射までのカウントダウンが始まる。
轟音と共にロケットが発射されると、体は強烈な力で椅子に押さえつけられる。
顔が風に押される感じで、頬が引きつれ猛烈な重力が掛かった感覚が強くなる。
ロケットが一段目が切り離され、
二段目が切り離され、
三段目になると頬に歯形が映しだれるのではないかと思われほどの力が掛かる。
やがて無重力の世界へ到着した感覚に襲われる。
そして重力を感じなくなったとき、この体験は終わる。)

体を見ると、最初に座ったときと同じ格好をしている。
身につけたものを取り上げ、轟音と、映像で、
錯覚を起こさせていると思われるが、どのような仕組みになっているのか
解らずじまいであった。
(残念ながらカメラも取り上げられており、仮想体験部分は撮影できていない。)
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(並んだ沢山の計器類)
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(暗転し発射までのカウントダウンが始まる)

ロケット発射前の沢山の計器類がある部屋の前で、
スペースシャトルが飛び立つ映像が流れるが、
あたかも観覧者がロケットを打ち上げに参加しているような
臨場感たっぷりな映像であった。
この部分はマイビデオに収めて来たので、
帰宅後編集して孫たちに見せたが、大変好評であった。
NASA航空宇宙局からおよそ10km離れたところに、
ロケットの発射台が二基あり、肉眼では米粒ほどにしか見えないが、
10km以内に立ち入ることはメディア関係者といえども禁止であるという。

偶然とは言え、見学に行った日にスペースシャトルが打ち上げ予定日になっていた。
もし打ち上げられれば、世界で、そして我が人生で、
二度とない宝くじに当たるより大きな幸運であったのに、
残念ながら、気象の関係で延期されることになり、
翌年1月4日に延期、がさらに延期された。
気象の関係だけではあるまいが、ロケットは極めてデリケートな機械である。
説明では、過去100回以上打ち上げているが、
失敗はチャレンジャーとコロンビアの2機だけとのことで、
成功確率は高いと胸を張っていた。

皆さんにも、スペースシャトルを積んだロケットを写真でご覧いただきたい。
世界に誇る、日本製のカメラで撮った映像は、
10km先とは言え、見事にスペースシャトルを写し出している。
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(写真中央にポツンと見える発射台)
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(少し拡大)
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(さらに拡大)
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(ロケットの横にスペースシャトルの先端が見える)

航空宇宙局の博物館をその後見学、延長200mに及ぶ実物のロケットはさすがに凄い。
当然とことであるが、格納している建物も相当広く、
言葉に表現のしようが無い。
なんでも世界一を誇るアメリカならではの展示である。

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(ロケットの実物)
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(長さ200mの大きなものが展示してある。)

さて、昼食時にはスペースシャトルの乗組員だった
John M.Fabian氏との懇談会があり、
最後に質疑応答の時間が設けられていた。
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(自筆サイン入りのJohn M.Fabian氏の写真)

その質問の中に
「日本の宇宙衛星(かぐや)が世界で始めて月の裏側をハイビジョン映像で映し出し、
世界中で話題になっていますが、このニュースについてのご感想は?」と尋ねたところ、
以外や以外、
「そのニュースを知りません」と回答された。

このとき世界は(いや日本だけかもしれないが)
「かぐや」の美しい映像に固唾をを呑んで注目していた時期であったのであるが・・・

宇宙に出て、帰還したクルーの方たちの中には、
世間を離れて孤独な生活を送っていらっしゃる方が結構いらっしゃる。

・宇宙を覗いてくると、人生観が変わってしまうのであろうか?
・宇宙へ行くという目標が達成でき、その後の人生が空虚になってしまうのか?
・地球での人の生涯をどう感じているのだろうか?
・「大海にのみの小便」程に感じるのか?
・人は「大砂漠の中の一匹の蟻」のように感じてしまうのか?

この宇宙経験者も、世の中の出来事には、もう興味は失せてしまったようであった。
そんなことを考えていたせいか、
どこと無く生気が感じられない宇宙からの帰還者に見えた。

NASA航空宇宙局博物館の出口には、
商魂たくましくお土産物コーナーがあり、
見学者を引き寄せている。

重力の無い世界の宇宙でも書くことが出来るボールペン。
(普通ボールペンは、中のインクが引力に引かれて出てくることで書くことが出来る。
したがってペンを上に向けて書くと、間もなく書くことができなくなる。)
しかしこのボールペンは無重力の世界でも書けるから、上を向いても書くことが出来る。
想像ではあるが、インクに圧力がかかっていて、
インクが押し出されるようになっていると思われる。

もう一つのお土産が宇宙食。
宇宙食のアイスクリーム。
孫や子供たちに全部持っていかれてしまい、
食べることがかなわず、未だに味がどんなものか書くことが出来ないでいる。

唯一ついえることは、重量がほとんど感じられ無かったから、
アイスクリームから水分を取って、乾燥させたもののように思われる。

想像するに、きっと粉ミルクと砂糖を混ぜ固めたもの、そんな味であろう。
実際に食べられなかったのが、返す返すも残念で心残りである。

何方かケネディ宇宙センターに行く予定のある方、
私に宇宙食のアイスクリームをお土産に買ってきて頂けないでしょうか?
(「西カリブ海クルーズ」おわり)
061
(NASAに掲げられた星条旗)
080
(Kennedy・Space・Center)