中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

ジャカランダ(南部アフリカ紀行 最終章)

2008年03月16日 11時07分00秒 | 南部アフリカ紀行
(満開のジャカランダ)

(ジャカランダ)
旅行社のパンフレットを見ると、
紫色の花が満開になった写真が私たちの目を引く。
南部アフリカ旅行のハイライトとしてジャカランダが一役買っている。
ジャカランダといえばプレトリアが有名で、
此処では街の街路樹にジャカランダを植えてある。
日本の桜のように春先にいっせいに花が咲き、
これまた日本と同じように花見が行われると言う。
南半球は北半球と気候がまったく逆になるため、
春先は10~11月になる。
また、赤道が北にあり、北へ行くほど温暖になる。
北半球とは逆である。
太陽の陽射しは北から差し込み、
日当たりのよい家とは北向きの家ということになる。

プレトリアは南アフリカの北のほうにあり、
桜前線ならぬジャカランダ前線は、
北から南へと移っていく。
プレトリアではジャカランダの花を楽しむ時期は、
10月頃であるが、
プレトリアより南に位置するヨハネスブルグでは
11月になって満開になる。

(ジャカランダ2)

この木は水を良く吸う木で、
これが街路樹として沢山あることは、
乾季に水不足となるアフリカでは問題になっている。
しかしその美しさは、
桜と同じように人々を魅了している。
桜は花びらが一枚ずつはらはらと落ちていくが、
ジャカランダの花の形は筒状になっており、
(ちょうどギボシやハナトラノオ、桐の花、
サルビアのような形の花を想像していただければよい)
一つずつポトンという感じで落ちてくる。
緑の芝生に落ちたこの紫色の花は、とても美しい。

(少し分かりにくいが花の拡大部分)

ジャカランダの実は、カスタネットのよう形で
硬い殻の間に種が沢山入っている。
木の上で乾燥によりカスネットが開き、
中なら種が空中にばら撒かれる。
種は、直径1センチほどの薄い柔らかいグレーの和紙のようなもので、
その数は計り知れないほど入っている。
種を撒き散らすと、カスタネット状の実は枝から落ちるが、
時には中の種がまきちら無いまま落ちてくるものがある。

面白いかっこうの実を、孫たちのお土産にと幾つか拾ってきた中に、
まだ種が入っているものがあった。
種は先ほど述べたが、
大きさ1センチほどの軽い柔らかなグレーの和紙のようで、
長年着た洋服のポケットの隅に溜まった綿埃を思い起こしてもらえればよい。
それを1センチほどの大きさに平らにしたものが種だ。

早速、種を鉢に播いてみると、10日ほどで芽が出てきた。
10本くらいを株分けして、一鉢に2本宛て植えたらぐんぐん伸びて、
さらに株分けの必要が生じた。
成長の早い木で、昨年一年で、120センチほどに背が伸びた。
一株を一鉢に植え替えたが、残り5株の始末に困った。
一株を娘にプレゼント一株は近所のハナ好きの方に、
残り3本は育つかどうか分からないが庭に植えた。

(カミサンが育てたジャカランダ。左に置いたブロックで大きさを想像してください)

それでもまだ五株残っており、3株はカミサンが育て、
2株はボクが花を咲かせるための実験用に育てている。
聞くところによると開花まで7~8年かかると言う。
早く咲かせるために、肥料の与え方、
水のやり方など少し試行錯誤して
育ててみようと言う算段である。

先日、住所の自治体が運営する植物園へ行ったら、
ジャカランダの木がないので、
事務所によって差し上げたい旨話をすると、
お役人らしい回答が返ってきた。
「木はしかるべきところからキチンとした苗を
購入しますので頂戴は出来ません」という。
なんだかボクのジャカランダがまがい物で、
病気でも持っているようなことをいうので、
アフリカ旅行をして種を蒔き育てた事情を話すと、
「東京は寒いので育たないのではないか」とか、
「大きくなる木は無理です」とか言う。
つまり購入の権限が無いのだ。

一般にアフリカと言うと日本人は、
熱いところというイメージしか持っていないのが普通である。
「アフリカと言っても、北半球と南半球の違いはあるが、
春夏秋冬があり日本と変わりないですよ。
東京では寒いと言いますが、
西馬込には街路樹として生えていますよ。
木が大きくなると言っても、この植物園には杉やヒノキ、
しいの木やケヤキ、榎だってありますよ。
大きくなる木がダメなら、
秋に枝を切り落とすぐらいのこと考えたらどうです?」
回答があまりにもいい加減であったので、
つい言い過ぎたが
「つまりいらないと言うことですね」と
言って帰ってきた。

それにしても、早く花が咲かないものだろうか、
7~8年かかるでは、
残念だが命と競争になってしまう・・・

(美しかったブーゲンビリア)




テーブルマウンテン(南部アフリカ紀行 8)

2008年03月08日 09時26分24秒 | 南部アフリカ紀行

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(ケープタウンから見たテーブルマウンテン)

(ケープタウンとテーブルマウンテン)
南アフリカのケープタウンは近代化された町である。
東京にもニューヨークにもロンドンにもある施設が完備しており、
トイレもショッピングも、
ホテルもレストランも近代的に整備されている。
そして街の背後にあるテーブルマウンテンがとても美しい。

そして逆にテーブルマウンテンから見たケープタウンも美しい。
海岸からテーブルマウンテンに広がる街は、
清潔で明るい太陽の下に輝いて見える。

そのテーブルマウンテンにはケーブルカーで登ることが出来る。
何人乗りか知らないが、相当の人数が乗れることは間違いない。
そのケーブルカーのゴンドラはテーブルマウンテンの降車駅に突くまでに、
360度1回転して、ケープタウンを、
ライオンが座り込んだ形を作っている山を、
地面に生える赤い花の群生を、
一望できる仕組みになっている。
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(ケーブルカーから見たケープタウン)
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(ライオンが座っているように見える山)

ケーブルカーを下りた山は、
その名の通りテーブルのように平らで、
海から吹き上げる風が強く、
吹き飛ばされそうになる。
高所恐怖症のボクには、
テーブルの端にあたる場所には恐ろしくて近づけない。
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(テーブルマウンテンから見た下界)
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(カーブルカーの下に咲き乱れる赤い花の群生)

テーブルの上、つまり山の頂には、
いろいろな花が咲き乱れていたそうであるが、
高いところから下界を見るのは、
足元が振るえる高所恐怖症のボクには、
見下ろすことにだけ集中していて、
周りの花には何も気づかなかった。

テーブルの上を渡る冷たい風が、
海から吹き上げる湿って暖かい空気を冷やして雲を作るが、
その雲が山の上から流れ落ちていく様を、
テーブルクロスと名づけているのも頷ける。
その純白なテーブルクロスと言われる
雲の眺めを間近で見るのもまた美しい。
そのテーブルクロスの雲の様子をビデオに撮っていたら、
ボク一人ゴンドラに乗り遅れて
ツアー客の皆さんに迷惑をかけてしまった。
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(テーブルの端からテーブルクロスが垂れ下がっているように見える雲)





南アフリカ大統領(南部アフリカ紀行 7)

2008年03月02日 22時21分59秒 | 南部アフリカ紀行

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(左側がマンデラ氏の住居入り口)

(アパルトヘイトとマンデラ大統領)
ノーベル平和賞を授与されたマンデラ大統領は、
アパルトヘイト(人種隔離政策)から
黒人を救った偉大なる指導者である。
だから、南アフリカの観光地として、
マンデラ氏が生活した住居が、
観光名所として残されており、
教育の一環としてアフリカの子供たちが毎日のように見学に来ている。

ガイドさんから、その住居を訪問する際の注意があった。
「バスを降りて、物売りの子供にお金をせびられても、
絶対買わないで欲しい。
子供たちは楽にお金を稼ぐ方へ流れて、
働いてお金を稼ぐことをしなくなるからです。」と。

しかし幸いなことに、マンデラ氏の住居に行く途中で
そうした子供たちに出くわすことは無かった。
よほど注意が徹底されているのであろう。

ネルソン・マンデラ氏は、1918年アフリカに生まれる。
その自伝によれば、
「アフリカ人は、アフリカ人専用病院で生まれ、
アフリカ人専用バスで自宅に連れ帰られ、
アフリカ人専用地域で育ち、アフリカ人専用学校に通う。
就職も、居住区も、汽車やバスも「専用」の差別――
アフリカ人の人生は、成長をむしばみ、
可能性を狭め、生活を妨げる差別的な法律や規則で
がんじがらめになっている。」と述べている。

白人優先黒人差別のアパルトヘイト(人種隔離政策)と
戦い続けたアフリカ人の指導者、
ネルソン・マンデラは、今では世界遺産に指定されているロペン島で、
27年に及ぶ投獄生活を経て、
アフリカ民族の人種・階級の差別を撤廃し、
アフリカ人に希望と勇気を与えた大功労者である。
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(マンデラ氏の食堂)
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(リビング)
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(寝室、ダブルベッドであった)

マンデラ氏の住んでいた家は、大変質素なもので、
居間、食堂、寝室ともに狭く、
日本人のウサギ小屋と大差なかった。
それでも偉大な指導者の住いには、
子供たちが引率されて大挙して見学に来ていたのを目の当たりにして、
マンデラ氏の偉業を肌で感じることが出来た。
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(見学に来ている子供たち)

しかし一方で黒人指導者の現在の施政について、
ガイドさんの話によれば、
「雇用主は必ず何%かの黒人を雇わなければならないとされ、
黒人であれば、誰もが無償で家を支給される」のは、
黒人優位のゆがんだものという。
それにしても、バスが走る沿道には、
木の柱に石を載せたトタン屋根の、
腰をかがめなければ住まいに入ることが出来ない家が
びっしり並んだスラム街が
延々と続いているのはどういうことなのだろう。
一度この生活に慣れると、その自由さに、
あるいは近隣の人情の機微に出会って、
離れることが出来なくなるのであろうか。

ガイドさんの話は続く、
「マンデラ氏は三回離婚して四度目の結婚をしているが、
その四度目の結婚相手は、
アフリカの大統領と四度目の結婚を果たした女性」であると言う。

話が変わるが、アメリカ人は白人であれ、黒人であれ、
とても動物的であるように思う。
例えば映画。
アメリカ映画の中には、
必ずと言っていいほどセックスシーンが出てくる。
日本で有名になった映画「マジソン群の橋」の初老の男女。
「プライベートライアン」における女性新聞記者と将校。
戦争映画の中にもセックスが出てくる必要はなさそうなのに・・・
「プリティウーマン」社会的地位の高いインテリ弁護士と
街の女の関係などなど。
その他数えだしたらきりが無い。
映画の中に必ずこのシーンが出てくると言うことは、
このシーンが出てこないと
映画を見に来る人がいなくなることを恐れての
製作と思えてならないのである。
もちろん人の営みとして、必要なことであり、
開けっぴろげに出来ないことであるから、
余計興味をそそるのであろうが、
「それにしても恥知らずな」と思うのは、
儒家思想の日本人だからであろうか?
人間とは、「知恵、意志、感情を持った動物」と定義されるが、
その中の動物部分が拡大された人種のように思えてならない。

話を戻す。
ノーベル平和賞を貰ったネルソン・マンデラ氏は、
アフリカ人を守った偉大な指導者であることは認める。
しかし人として四度の結婚はどう見るべきなのだろうか。
相手の見極めが出来なかっただけでは片付けられない。
結婚するとき男女は、まったく別々の環境、
別々の両親、別々の考えで育っている。
従って二人の間には、一部は共感できるところはあっても、
共感できないところのほうが多いはずだ。
その共感できないところを、お互い補完しあいながら、
あるところでは一方が我慢・妥協し、
あるところでは他方が我慢・妥協して
生活が成り立っていき、新しい家庭が築かれていく。
どの家庭をとっても、一つとして同じものは無い。
一つ一つまったく違う家庭で育つ男女の結婚であるから、
どこかに違和感があるのはごく当たり前である。

それを我慢できずに四回結婚をするとなると、
ボクに言わせれば
「これはもう人としては0点である。動物でしかない。」
27年間の投獄生活での抑圧された生活からの開放感が影響しているのか。
あるいは投獄生活で抑えに抑えられた闘争心が
姿を変えて現れてきたものだろうか。

マンデラ氏について、ガイドさんの説明を聞き、
住居を見学しながらそう思った。
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(ストリート・ミュージシャンたち)





サファリ(南部アフリカ紀行 6)

2008年02月12日 09時06分40秒 | 南部アフリカ紀行

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(サファリ・カー)

(ボツアナのチョべ国立公園)

(サファリドライブとボートサファリ)
サファリと言う言葉をよく聞く。
○○サファリパーク、サファリ・ルックなどと使うが
サファリの本当の意味をボクは知らない。
そこで辞書を引いてみた。
safari=アフリカでの狩猟旅行、とある。

ボクがサファリで思い起こすのは、
へミングウエイの「キリマンジェロの雪」だ。
これはまさにアフリカの狩猟旅行である。
へミングウエイは狩猟や釣りをこよなく愛した。
そしてヘミングウエイの最後は、
事故か自殺か分からない彼の趣味の途中で死んでいった。
いくつかの小説を読むと分かるが、
人生どんなに努力しても何も残らないと、
虚無思想がどの本にも貫かれているから、
きっとどんなに良い小説を書いても何もならない、
と自ら死を求めたようにボクには思える。
本当はそんなこと判りきった上で、
生きる道を見出すのが、人間本来の姿であると思う。

話がそれてしまったが、
ボクにとって最初のサファリは、
サンセットザンビア川クルーズであった。
あいにく曇り空でサンセットは望むべくも無かったが、
川には、野生のカバや鰐を見ることが出来た。
なによりも、日本では黒人を見ると、アメリカ人であったが、
ここでは正真正銘のアフリカ人を見ることが出来、
僕の好奇心を揺さぶった。
夕日が見えなくても、
はじめてみるアフリカ人にすごく興味を持ち、
退屈する事は無かった。
この土着の人たちが、サンセットクルーズの船長を勤め、
英語を堪能に話し、観光客相手に説明するのは、
ボクには目を見張る光景であった。
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(説明する船長)
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(船長の素顔)

第二次世界大戦直後、アメリカ兵が上陸し、
街中をジープで颯爽と走る姿を見て、
片言英語で話しかけた記憶がよみがえった。
しかし考えてみれば、
彼らはイギリス植民地内に居住していたので、
英語を話すなんてことは、わけなく出来るのだ。
どちらかというと、
現地語はとっくの昔に忘れているのかもしれない。
供応される夕食もひょっとすると鰐の刺身や
サルのステーキが出てくるかと思ったが、
ボクの好奇心はいとも簡単に破られて、
ごくありふれた温野菜と焼いて塩コショウで
味付けした牛肉や豚肉が出てきた。
飲み物だけは、ボクの期待通り美味しいワインが出てきた。

翌日、本格的なサファリに出かける。
サファリといっても狩猟抜きのサファリである。
動物は乱獲で激減しており、今や保護されている状況である。
だから逆に野生動物見学が商売になるということだ。

発展途上国はどこへ行ってもそうであるが、
日本製の車が多い。
ここでも日本製の4WD(四輪駆動車)が使われている。
車の後部座席を改造し、
運転席から後部座席まで、階段状に競技場の観覧席様にしてある。
どの席に座っても、前後左右見渡せる状況である。
屋根にはシャワー除け、日よけを兼用してホロが張ってある。
高い天井だから雨が振り込んだらずぶ濡れになりそうだが、
普段乾燥しているから、現地の人は気にも留めないのだろう。
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(サファリ・ジープ)
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(インパラの群れ)
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(立ち上がったインパラの仔の姿は美しい)

最初に見たのは鹿の仲間のインパラである。
それも遠くに居るが、
初めて野生のインパラを見るヤポネ(日本人)は、
キャアキャア喜んでいる。
毎日案内しているドライバーには、
馬鹿みたいに思えるに違いない。
水場に近づくと、遠くに鰐がトカゲが、水鳥がいる。
彼らには何も珍しくない、ごく当たり前の風景である。

しかし、野生のワニやトカゲは日本では見ることが出来ない。
ボクも含め日本人は大喜びである。ロボットが音楽を奏でたり、
介護のために人を入浴させる姿を見てアフリカ人が驚き喜ぶのと、
きっと同じに違いない。
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(トカゲ)
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(水鳥)
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(国鳥の鷹)

米粒ほどにしか見えない象やキリンの姿をみて、
躍起になってカメラの望遠レンズに納める。
やがて道路の、手を伸ばせば届きそうなすぐ脇に、
インパラが木の芽を食べている。
25mほど先のすぐそばに、象が子供をつれて群れ、
僅かな木陰を求めてたむろしている。
ホロホロチョウや鷹、見たことも無い極彩色の小鳥や水鳥を楽しむ。
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(魚をくわえたワニ)
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(象の親子)
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(恋人同士?)
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(えさをむさぼるカバの群れ)
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(木の芽を食べるインパラ。手を伸ばせば触れるほど近い)
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(ホロホロ鳥)
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(キリン)
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(キリン2)

午後はボートサファリである。船に乗って川面から、
水を求めてやってくる動物達を観る企画だ。
もちろん水中に住むカバ、鰐の観察も、
水辺に集まる水鳥たちも観ることが出来る。
陸上で見るジープサファリより、
動物達を間近か観ることが出来る。
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(小さくしか見えませんがボートサファリの船)
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(マーキングで糞を撒き散らすカバーよく見えないのが残念)
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(糞を撒き散らすカバの横に咲く白い睡蓮が印象的)
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(川を移動する象たち)
ただ、それだけのことで、動物たちから見れば、
乗り物に乗った人間と言う動物たちが、
なんだか大声を上げながら、
今日も通って行くが、いつもと違って髪の毛は黒いし、
肌の色は小麦色をしている。いつもの動物とは少し違う。
最近良く見かけるようになったが、餌をくれるではなく、
なにやらガラスの目玉(カメラ)のようなものを向けているが、
まさかこれで殺されることは無いのだろうな・・・
そう思いながらこちらを見ているように思えてならない。


喜望峰(南部アフリカ紀行 5)

2008年02月04日 09時35分54秒 | 南部アフリカ紀行
(この写真を見る限り喜望峰は峰である)

(喜望峰)

喜望峰に着くと看板が立っており、

 Cape of Good Hope

と書いてあった。日本語では「希望岬」と言うのだろうか。
喜望峰を直訳したような英語であるのにハポネのボクは嬉しくなった。
(Cape of Good Hopeの看板)

インド洋と大西洋がぶつかり合う荒々しい海にその岬は突き出ている。
大洋と大洋とがぶつかり合い激しい風がうずをまいている。
時には、立っていると吹き飛ばされそうになる。
風速25m以上はありそうだ。

つい最近、青森県の竜飛岬を訪ねた。太平洋と日本海がぶつかり、
暖かい空気と冷たい空気がぶつかり合い、激しい風に見舞われた。
ほんの10m程度の道路さえ、風で吹き飛ばされそうになり、
体重の軽いカミさんは動けなくなった記憶がある。
道路を渡り終えたボクがまた元のところへ戻って、カミさんの腕を取って
道路を渡ったほどである。

喜望峰の西側はインド洋、手前側は大西洋で、竜飛岬と同じように風が激しく吹いて、
立っているのがやっとである。
未開地のアフリカのさらに先の喜望峰には、風の強いのも物ともしない動物達が歩いている。
やわらかい毛並みを風になびかせながら、餌を求めてオランウータンの親子、
野生のダチョウや鹿が子ずれで歩いている。
(オランウータン)
(ダチョウの親子)
(鹿の群れ)

15世紀の終わりに、ヴァスコ・ダ・ガマがこの岬に到達して以来有名になった。
ヴァスコ・ダ・ガマが、最初に目をつけたのが、気候が温暖なこと。
この地に野菜を栽培し、船旅の敵である(壊血病)の解決のため
食糧補給基地にすることであった。

ボクの知識の中では、喜望峰はヴァスコ・ダ・ガマによって
最初に発見されたと思っていたが、なんとヴァスコ・ダ・ガマより
先に喜望峰に到着した人が居た。
南アフリカの人里はなれた丘陵にその記念碑は立っている。
到達した人の名前はバーソロミュー・ディアスという。
道路を挟んだ反対側に、同じような記念碑が建っており、
これがヴァスコ・ダ・ガマの記念碑である。

ヴァスコ・ダ・ガマはバーソロミュー・ディアスより十年遅れて
喜望峰に到着、さらに船を進めてインドに到達した最初の人である。
大冒険家がこの岬を抜けて、この先に何があるか分からない、
いや、何もないかも分からない海の上を、風に任せて船を進めるには
よほどの好奇心と勇気が必要だったに違いない。

好奇心が勇気を鼓舞し、勇気が行動を駆り立てる。
明日の命が無くなるかもしれない恐怖を乗り越え、船を進める。
進む船の先に好奇の目は釘付けになっているに違いない。
仮に蜃気楼であろうとも、そこに島影が見つかれば、その島に好奇の目は注がれ、
島の上にある植物はもちろん、動くものは何にでも目は注がれる。
それが波であれ、雲であれ、風に動く木の葉であれ、そこに目新しい何かが無いか
注目される。冒険者のもつ好奇心だ。何物にも代えがたい。

船員は壊血病で一人また一人と倒れていく。
その中でさらに先に船を進めようとする勇気と好奇心に敬意を表したい。

ボクは長いことこの「喜望峰」に来て、
「バスコ・ダ・ガマはいったいどんな気持ちでこの喜望峰を通り抜けて行ったのか」
現地で大冒険家に成りすまして体感してみたいと思っていた。
判ったことは、インド洋と大西洋の風がぶつかり、荒れ狂う海を越えていくには、
余計な感傷に浸っている余裕は無い。
船の舵をどちらに向け、帆をどのようにするか、乗組員に迅速に指示しなければならないだろう。
水先案内人はいない。
海の状況はどうなのか、浅瀬なのか深いのか、岩が出ていないか、
時々刻々と動く気象の変化、海の変化に対応して、
速やかに判断し指示を下していかなければならないのだ。

未知の世界に挑む人が、ほっと反省するときが来るのは、
船を故郷に向けて引き返すときにしかないだろう。

喜望峰に来て、大冒険家の心を、今回ほど偉大なものに感じたことがない。
(喜望峰国立公園内のレストランで)
(レストランから見る景色)






世界三大瀑布:ビクトリアフォールズ(南部アフリカ紀行 4)

2008年01月28日 08時23分03秒 | 南部アフリカ紀行

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(ビクトリアの滝)

(ジンバブエ川とザンビア側から見るビクトリアの滝)
世界の三大瀑布は、南米のイグアスの滝、アフリカのビクトリアの滝、アメリカのナイヤガラの滝の三つである。
有名な滝ばかりであるから、どの滝も世界一と言われるだけあって、テレビ映像に何度も出てくるから、
おそらく知らない人はいないと思われる。

アフリカの探検家と言うとすぐ思い出すのがリビングストーン。
そのリビングストーンが発見した滝は、
雨季にはジンバブエからザンビアに掛けて1,7kmにわたる長さになるという。
アフリカの雨季をテレビでよく見かけるが、
乾季には砂漠化する陸地が浅い湖になるほどの雨量である。
滝を流れ落ちる水量をにわかに想像出来ないが、
ガイドさんの話では、流れ落ちる向こう岸の滝を観ることが出来ないほど水煙が上がるという。

ボクたちが訪れたときは雨季に入る前で、ジンバブエ側からは、
遠くザンビア側で流れ落ちる滝が奥のほうに見え、
手前には一本の糸のような滝が見えるばかりであった。
雨季には、はるか奥のほうから、手前の糸のような滝があるところまで、1,7km続く断崖が滝になるという。
乾季の今は、切り立った岩の断崖絶壁が見えるばかりであった。
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(この断崖が滝になる)
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(水量のあるところの滝)

世界三大瀑布のビクトリアの滝がある公園入り口には、
民芸品を売るみやげ物やがずらりと並び、キリン、象、バッファローの木彫り、
黒人の顔を彫ったお面などがぎっしり並べて売られている。
その広場の奥に立派な銅像が建っているが、これがビクトリアの滝を発見したリビングストーンの銅像であった。
ポルトガル人のリビングストーンは、この70年間ボクの記憶の中では探険家としてのイメージしかなかったが、
リビングストーン博物館を訪ねて、実際にはキリスト教の宣教師であることを知った。

アフリカにキリスト教を布教するのに、未開の地を切り開いた苦労は並大抵ではなかったことを、
たった二日のアフリカ滞在で容易に想像する事が出来る。

午前中はジンバブエ側からほとんど水のないビクトリアの滝を眺め、
はるかザンビア側の崖の上に、観光客の赤い日傘がポツンと点になって見えるのが印象に残った程度であった。
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(ごつい岩ばかりの滝に赤い傘が印象的であった)

午後からはザンビア側に歩を進め、約1,7kmを歩いてビクトリアの全貌を観光する。
ザンビア側は水量が多いところでは、
滝は水煙で対岸がかすかに見える程度である。
突き出した断崖の端にある展望台には、デインジャーポイント、
リビングストーンポイント、のように名前がつけられ、滝を展望できる。
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(雨季にはこの断崖がすべて滝になる)
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(デインジャーポイント)

午後からは太陽を背に受けての観光であったため、水煙に太陽が
反射して、虹が良く見えた。よく虹がかかる滝には、レインボウ滝と名づけられている。
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(レインボウ滝?)

乾期で水量がなかった所為か、三大名瀑も今のところナイヤガラに軍配が上がる。
その水量や均整の取れた美しい姿はナイヤガラのほうが、
今のところ群を抜いていると感じた。



芋虫の夕食(南部アフリカ紀行 3)

2008年01月21日 08時55分50秒 | 南部アフリカ紀行

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(夕食に出た芋虫/ボクのヴィデオから)

(サンセットクルーズ)
16時からのザンベジ川のサンセットクルーズは、飲み放題、食べ放題と言うが、
その後ホテルで民族舞踊を見ながらの夕食が待っているので、ほんのおつまみ程度にお腹に入れる。

乗船前に黒人の民族衣装に身を包んだ数人が、
(民族衣装とは上半身裸で、腰蓑をつけた例のターザンのジャングルに出てくる土人用の衣装
―-女性は、もちろんのことトップレスではなくビキニスタイルの上に腰蓑を着用)
笛や太鼓で踊りを披露して大歓迎してくれる。

しかし、あいにくの曇り空でサンセットは望むべくもない状態であった。
もし空が晴れ渡っていたら、ジャングルの向こうに沈む真っ赤な太陽が美しいはずであるが・・・
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(草むらで魚をくわえたワニ)
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(川面に姿を見せるカバ)

ジンバブエの船は国境を越えて、対岸のザンビア側に近寄る。
ザンベジ川の岸辺にはワニが寝そべっており、川底から時折カバが顔を出す。
野生のワニやカバを見るのは、日出る国のヤポネ(現地人は日本人に向かってそのように呼んだ)は、
始めての体験であるから嬌声があがる。
黒人の船長は苦笑している。彼らは毎日見ているのだ。
その船長が英語で歓迎の辞を述べ、英語で舟のロケーションなどを説明するのを異様に感じた。
アフリカの黒人は、ズールー語を話すものと思っていたからだ。

アフリカ人とは、ボクの頭の中では、ターザン映画に出てくる黒人のイメージしかない。
まさに、ターザン映画に出てくる黒人船長の説明によれば、
ザンビアとジンバブエはこのザンベジ川が国境になっている。
舟はジンバブエの国籍で、今は川の中心よりザンビア寄りを航行しているが、
ザンビアの入国管理局に許可をとることもありません、などとユーモアたっぷりに話しているが、
ヤポネの日本人にこの冗談が分からず笑うものは誰もいない。
日本でもそうだが、県境は川の中心であるように、アフリカの国境もザンベジ川の流心であった。

クルーズの客は、日本人だけでなくヨーロッパからの白人も混じっていたが、
昼寝をしているのか、寝そべって動きもしない鰐を見てもわれわれと同じように大騒ぎである。

この様子は、東海道新幹線で富士山を見つけた異邦人のようなものである。
サファリドライヴやボートサファリでも同じように案内する彼らは毎日見ているから、
動物を見つけると歓声を上げる観光客が馬鹿に見えるであろう。
でも、金儲けのため、あきらめ顔なのに違いない。

ザンビア川のサンセットクルーズを終わりホテルの夕食の席に着いた。
民族舞踊ショーを見ながらの夕食である。

ヨーロッパの国々で、ショウのある夕食の時は、
東洋人はいつも後ろのほうの見にくいところに座らされる。
ホテルの部屋もそうであるが、東洋人の部屋は裏通りに面した部屋で、見晴らしが悪いことが多い。

しかし、アフリカでは東洋人の肌の色が仲間意識を持たせるのか、
ホテルの部屋も特等室で見晴らしの良いところが選ばれ、
ショウ付きの夕食でも一番良い席が与えられた。
その昔奴隷として虐げられてきた遺恨が、未だ心の奥底に残っていて、
白人を避ける気持ちが働くのであろうか?

もっとも、アパルトヘイト(人種隔離政策)から開放されたのもついこの間の出来事であるから、
気持ちを察することは出来る。

話が脱線してしまったが、夕食はヴァイキング方式であったが、
中に「いも虫」が食事の一つとして提供されている。
むかし、現地人の唯一の蛋白源として摂取された(今では珍味?)といわれる。
野菜と一緒に炒めてある感じで、芋虫がそのまま野菜と一緒に沢山いた。
聞くところによれば、食べた人には「いも虫をよくぞ食べました」とその勇気を称えて、
証明書をくれるそうである。
見た目には芋虫そのものであるから、食べるにはかなり勇気が必要だ。
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(皿の右端が芋虫)

子供の頃食糧難で、蛙、蛇、でんでんむし、蜂の子など食べた経験から、
芋虫を食べるなんて千載一遇のチャンスとばかり、二匹ほど口に入れた。
味はどうだといわれると、返事に窮する。
なんともいえぬ味である。それに噛めば噛むほど味が出る。
他に比較のしようのない味であった。

翌日、夕食は別のレストランであったが、やはり芋虫は用意してあり、
こちらは半熟の芋虫で、噛めば中からプチュッと中身が出てきそうで、
さすがに口に入れる勇気はなかった。

こうしてアフリカにだんだん慣れていくことになる。
一ヶ月もいれば、芋虫もおいしいおいしいと舌鼓を打って食べることが出来るに違いない。



ジンバブエ(南部アフリカ紀行 2)

2008年01月14日 08時32分35秒 | 南部アフリカ紀行

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(ホテル・キングダム)

(ジンバブエのホテル)

成田から香港、香港で南アフリカ航空に乗り換えてヨハネスブルグ、
さらに乗り継いでビクトリアの滝まで飛ぶ。なんと飛行時間通算20時間。
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(空港で)

飛び立つ成田では、夏に近い気温であった。
乗換えで最初に降り立った香港空港も夏姿で十分快適であった。
南アフリカ航空で13時間、一眠りして到着したヨハネスブルグでは、空はどんより曇り、肌寒く感じる。
出発前の東京で、テレビのニュースにアフリカは異常気象に見舞われ雪が降り積もったと報道されていたが、
その名残りかと、用意した衣類が心配になってきた。
何しろアフリカといえば暑いが代名詞のようなもの。
黒人が腰に蓑をつけ、弓矢と槍、チーターと象とターザンのイメージが強い。
ボクには想像も付かない気温である。
冷静に考えれば、アフリカは南半球にあり、今の季節は5月初めと考えれば、
時には寒さに震える時期があってもおかしくはない。
そのように用意したつもりでもなんとなく不安が頭をよぎる。
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(ショウのため腰蓑をつけた原住民)

ヨハネスブルグで乗り継ぎ、2時間でビクトリア・フォールズ空港に着陸。
今度は予想通りの暑さで、とりあえず衣類の心配はどこかに飛んでしまった。
ガイドさんの説明では、日中は最高気温38℃、
朝晩は17~18℃という。本来今頃は雨季に入っているのに、
世界的な異常気象で、まだ乾季の中にいるとのこと。
旅行者の皆さんにとっては幸いなことです、と慰められた。

長旅に疲れて、すぐホテルに案内されたが、飛行機を二回も乗り換えた所為もあって、
ツアー同行者のスーツケースが一つどこかへ行ってしまった事件が起きた。
このスーツケースは旅行中の五日目に航空会社から返送されてきたが、
この五日間スーツケースをなくした人は、毎日着物の洗濯を余儀なくされたのであろうか。

ボクたち夫婦のバッグ――二つのうち一つの鍵が破られ中身が引っ掻き回されていたが、
鍵を壊した人にとっては、ろくでもないものばかりだったのか、何の被害もなかったのが幸いであった。
幸いといえば、偶然にも予備の鍵を持っていたので、
翌日から間に合い、快適に旅を続けることができた。

宿はリゾートホテルで、その名も「Kingdom(王国)」。
夕方16時からのサンセットクルーズに出かけるまで一時間ほどを、休憩することになった。
スーツケースを広げ、就寝の準備をして、窓を見るとすぐ目の前が池になっていて、その先がプールになっている。
リゾートホテルの雰囲気で庭は広く、ここに三泊の予定。

初日はザンベジ川のサンセットクルーズ。
二日目は、ボツワナまで出向いてチョべ国立公園で、サファリドライヴとチョベ川のボートサファリを楽しむ。
三日目は、雨季には1,7キロあるというビクトリアの滝を、
ジンバブエ側からとザンビア側から観光する。

飛行機の上からは大草原と、ところどころに集落があり、回りを囲んで円形に紫色の塊が見える。
きっとジャカランダの花であろうと推測できる。
空港からホテルまでの道のりで、ジャカランダの大木を見つけ、ツアー客は歓声をあげたり、
桜のようにびっしり真紅の花をつけた木を見て奇声をあげたりしている。
ガイドさんの説明によれば、真紅の花の木は「火炎樹」というそうで、
まさしく大木が紅蓮の炎に包まれているようであった。
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(火炎樹)

一時間のホテルの休憩も、少し横になると朝まで起きられそうもないので、ホテルの建物の周りを散歩することにした。
部屋のある建物の裏庭はきれいに芝が刈り込んであって、
庭は金網に囲まれて外界から隔離されている。金網の先は熱帯樹林になっていた。
金網の近くに何か蠢く動物がいる。ちょっと目には「いたち」か「りす」のようであるが、
大きいのや子供と思われる小さなものまで、無数にいる。
餌を探し食べ歩いているようだが、リスでもイタチでもない。
カメラを持参して撮ればよかったと悔やまれる。
近づくとボスらしい一番大きなものが立ち止まり、こちらを伺うようにしてから、
一声鳴いた。「チエ!」とねずみのような鳴き声と共に全ての動物は茂みの中へ消えていった。
後で動物図鑑を調べてみるとシママングースであった。

芝生を歩くと裏門があり外へ出ようとすると、当然のことであるが黒人の門番が立っている。
呼び止められて、
「どちらへ?
この先15分ほど歩けば、ビクトリアの滝に出られるが、
途中、野生のバッファローの群れに出合うかもしれない」という。

アフリカに来て野生の動物に出会ったとき、どう対処すればよいか不安に思ったので、
門番に礼を言って、外出するのをやめた。



南部アフリカ四カ国(南部アフリカ紀行 1)

2008年01月07日 09時15分04秒 | 南部アフリカ紀行

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(喜望峰)

(ジンバブエ・ザンビア・ボツワナ・南アフリカを巡る)
長いことボクの夢であった、「喜望峰を訪ねる」旅を実現することになった。
2006.Nov.6.のことである。

その昔、大航海時代にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインドに向かった。
誰も通り抜けたことのない岬をどんな気持ちで通り過ぎたのであろうか?
現地で想像してみたかったからである。

しかしガイドさんの説明で、ボクの考えていたことが最初に砕かれた。
喜望峰に最初に到着したのは、ヴァスコ・ダ・ガマではなく、
バーソロミュー・ディアスというオランダ人であるというのだ。
その記念碑が堂々と建っている。そして反対側にヴァスコ・ダ・ガマの記念碑も立っている。
ヴァスコ・ダ・ガマはこの岬を越えてインドに到着した最初の人として有名なのだ。

ボクのつたない知識の中には、元イギリス領の南部アフリカで有名なものが、五つある。

その一が、アフリカ最南端「喜望峰」。
(これまた間違いでありアフリカ最南端の岬は別にあった。)
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(喜望峰)

その2が、美しい紫の花を咲かせる、ジャカランダ。
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(ジャカランダ)

その3が、アパルトヘイト(人種隔離政策)、そして黒人開放に尽力し、
ノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ氏。
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(マンデラ氏の住まい)
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(マンデラ氏の住まいを見学する子供たち)

その4、平原に生存する野生の動物達。特に象、犀、カバ、豹、ライオン、キリンなど。
その5は、その味ではフランスのボルドーを凌ぐといわれるワインがある。
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(象の親子)

そのほか数えだしたらきりがないが、オランダ人の開拓史、世界三大瀑布に数えられるビクトリアの滝、
ウオーターフロントから見るテーブルマウンテン、
南極に近づいたのかペンギンにオットセイなど、そして人類で最古?の人骨が発見された所などなど。

11月は南半球では日本の五月頃の気候。天気に恵まれ快適な毎日で、見るものも珍しいものが多い。
真っ赤な花が咲く火炎樹、紫色の花をつけるジャカランダ。
食べるものでは、ワニやら鹿やら芋虫やら。
飲み物では、ワインはもちろんのこと、名前さえ知らない果物で作った果実酒アマルーラ。

そんな予備知識のボクが訪ねた南部アフリカ。旅行社から送られてきた南部アフリカのパンフレットをみて驚いた。
人が崖の上に座り込んでおり、その下方の、はるかかなたに街が見える写真。
高所恐怖症のボクにとっては、見るだけで命が縮む想いである。