(顕正寺の石柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c1/c12118ecfd05c148ae0b84eaf24fd9e3.jpg)
(栗橋宿2)
道路を挟んで顕正寺(けんしょうじ)がある。
ここには久喜市指定有形文化財の
木造阿弥陀如来立像があることで知られる。
久喜市に拠れば、寄木つくり阿弥陀如来立像は、
像高79cm、鎌倉時代の作と言われる。
本堂右横に(池田鴨之介の墓→)の大きな案内があるのでそちらに向う。
(池田鴨之介の墓の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/ec/2212e9dde7c9436446d28e3a583ddba1.jpg)
久喜市教育委員会の説明によれば、
(池田鴨之介は「新編武蔵風土記稿」によると、
並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、
慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、
村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また下総の国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より、
顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(1648)12月9日に没し、
法名「光明院釈常薫」と言います。(中略)
代々栗橋宿の本陣役を務め、
子孫は明治22年私立淑徳女学館を設立し、
早くから女子教育に力を入れ、旧栗橋町の第三代町長として、
町政のために尽くした。久喜市教育委員会)とある。
(池田鴨之介のお墓、法名「光明院常薫」とあった)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/d3/643dfb13d3133d0c0b69d534070095be.jpg)
顕正寺を出て、旧日光街道を行くと左手に(深廣寺)の案内がある。
左に進むと深廣寺(じんこうじ)の石柱があり、
正面に本堂があり、寄木造の単信上人の椅子に腰を掛けた座像が、
厨子に納められているとのことで、
深廣寺の第二代住職になった。
本堂左手に、樹齢300年の松の大木と21基の六角名号塔が目を引く。
この名号塔を造ったのが、単信上人であると言う。
(深廣寺の案内杭)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/68/42b11089b1146cc2dc95d2f3e4de855b.jpg)
(深廣寺の石柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/ca/2c6433f9d931bf16e5cc65eb718fbda8.jpg)
(深廣寺の本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/bc/5326eac03aa5fa76c29ec479f04faebb.jpg)
(本堂の無涯山の扁額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/3d/8608f93edcfe20443fa0507c253a59b4.jpg)
(大松と21基の名号塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/f0/82c53af4fb07df71a8ecc653221afc2f.jpg)
久喜市指定文化財(歴史資料)となっている「六角名号塔」について、
(高さ約360cm、一面の巾約50cm、
六角からなる石塔で、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている。
この塔は、深廣寺二代住職 単信上人が伊豆より大石を船で持ち帰り、
承応3年(1654)~明暦二年(1656)の間に供養塔を20基建立、
その後明和三年(1766)に九代住職 法信上人が一基建立したもの。
基礎部右側面の地名の表記が、右から①~④番目までと、⑬~⑳番目までが、
「武州栗橋」となっており、⑤~⑫番目までは「武蔵野国新栗橋となっている。
(石柱の基礎部分)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/fe/6b3034719623b80946861807c7a350e7.jpg)
(武州栗橋 深廣寺と書いた基礎部分)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/56/dba3aa45e77eeed75be14154c1333560.jpg)
(武蔵国新栗橋 深廣寺とかいた基礎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/ea/e89fd9ab0eb3e15de4e2883a7e31492b.jpg)
(21番目には「現世安穏 後生浄土」とある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/46/21dc83bcd45e627ff7baae7369c81d5b.jpg)
深廣寺を出て、旧日光街道を進むが、時間が17時近くなったので、
(栗橋駅入り口)の信号を左折、帰宅の用意をする。
栗橋駅までは、歩いて歩いて、疲れた身にはかなり遠く感じられたが、
街の雰囲気が駅に近く感じられたので、
T字路に指しかかったところで、左右どちらが駅か分からず、
右折した所に、車が停車していたので、近寄って道を訊ねると、
栗橋駅は左折するのが正しいとのこと、
「真直ぐですよ」と大声で念を押され、
内心ホッとして、駅に向った。
(「栗橋駅入り口」の信号機)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/86/fa30752fa2da5170296e25ab90f38099.jpg)
前方右手に駅らしき建物が見え、タクシーが待っているのが見え、
栗橋駅であることが分かった。JRと東武の栗橋駅が一箇所にあった。
(栗橋駅の建物)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/87/14ecf8be3aaa442bad686d1ee8e0b683.jpg)
駅が見えたところで、左手に小公園が見える。
入り口に「静御前の墓」と書いた石塔が建っている。
(静御前の墓と書いてある小公園)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/83/32a5dfb51fd7128a18e18aad0baa211e.jpg)
静御前の墓がこんな所にあるとは、全く予想すらしなかった。
しかし、調べて見ると、日本全国に数箇所、静御前の墓があり、
伝説多き源義経が平泉から北海道に渡って、
さらに蒙古でジンギスカンになったと言われることから考えれば、
その妾の静御前の墓が、あっちこっちにあっても可笑しくはない。
静御前の墓として、久喜市教育委員会の説明をご覧ください。
(静御前は、磯の禅師(ぜんに)の一人娘として仁安3年(1168)に
生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが三年も続き、加えてその年も長い日照りで、
農民が大変困っておりました。
そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、
「雨乞いの舞」を命ぜられました。
最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し、
三日三晩、雨が降り続いたといいます。
後鳥羽上皇は、静が15歳でありながら類稀な才能を賞嘆され、
褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。
この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されています。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が、
初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。
その後義経は兄頼朝の不興を蒙り、
奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ち延びました。
静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向いましたが、
途中下総の国下辺見付近で「義経討ち死」の報を耳にして、
悲しみにくれ仏門に入り、義経の菩提を弔いたいと再び京へ戻ろうとしました。
しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、
文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱(ことじ)はこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、
墓のしるしの無いのを哀れみ、
享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が
「静女之墳(はか)」の墓碑を建立したものと考えられています。
また境内にある「舞う蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」と言う歌碑は、
江戸の歌人坐泉の作を村人が、
文化3年(1806)3月に建立したものであります。久喜市教育委員会)とある。
(静御前のお墓、遠景)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/d4/6fe451783d24103360fe4e54cdc2e211.jpg)
(静御前之墳とある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/aa/11882d62d93d93fd004b6d70670f7da7.jpg)
墓石の右側にある歌碑、
「 静や志づ
しづのおだまき
くり返し昔を
いまになすよしも
がな」
墓石左側にある歌碑には、
「 吉野山
みねのしらゆき
ふみわけて
いりに志ひとの
あとぞ恋し
き」
(左手に旧墓石がガラス張りになって保存されている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/1e/928be47f30ccf96c2d8c7b2d6d314968.jpg)
(旧墓石がガラス張りになって保存されている2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/95/9a2e1690d3334bcd69c05fe93e92fc4f.jpg)
(栗橋駅舎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/87/14ecf8be3aaa442bad686d1ee8e0b683.jpg)
本日の歩行数4、5万歩、約28kmの歩行であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c1/c12118ecfd05c148ae0b84eaf24fd9e3.jpg)
(栗橋宿2)
道路を挟んで顕正寺(けんしょうじ)がある。
ここには久喜市指定有形文化財の
木造阿弥陀如来立像があることで知られる。
久喜市に拠れば、寄木つくり阿弥陀如来立像は、
像高79cm、鎌倉時代の作と言われる。
本堂右横に(池田鴨之介の墓→)の大きな案内があるのでそちらに向う。
(池田鴨之介の墓の案内)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/ec/2212e9dde7c9436446d28e3a583ddba1.jpg)
久喜市教育委員会の説明によれば、
(池田鴨之介は「新編武蔵風土記稿」によると、
並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、
慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、
村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また下総の国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より、
顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(1648)12月9日に没し、
法名「光明院釈常薫」と言います。(中略)
代々栗橋宿の本陣役を務め、
子孫は明治22年私立淑徳女学館を設立し、
早くから女子教育に力を入れ、旧栗橋町の第三代町長として、
町政のために尽くした。久喜市教育委員会)とある。
(池田鴨之介のお墓、法名「光明院常薫」とあった)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/d3/643dfb13d3133d0c0b69d534070095be.jpg)
顕正寺を出て、旧日光街道を行くと左手に(深廣寺)の案内がある。
左に進むと深廣寺(じんこうじ)の石柱があり、
正面に本堂があり、寄木造の単信上人の椅子に腰を掛けた座像が、
厨子に納められているとのことで、
深廣寺の第二代住職になった。
本堂左手に、樹齢300年の松の大木と21基の六角名号塔が目を引く。
この名号塔を造ったのが、単信上人であると言う。
(深廣寺の案内杭)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/68/42b11089b1146cc2dc95d2f3e4de855b.jpg)
(深廣寺の石柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/ca/2c6433f9d931bf16e5cc65eb718fbda8.jpg)
(深廣寺の本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/bc/5326eac03aa5fa76c29ec479f04faebb.jpg)
(本堂の無涯山の扁額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/3d/8608f93edcfe20443fa0507c253a59b4.jpg)
(大松と21基の名号塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/f0/82c53af4fb07df71a8ecc653221afc2f.jpg)
久喜市指定文化財(歴史資料)となっている「六角名号塔」について、
(高さ約360cm、一面の巾約50cm、
六角からなる石塔で、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている。
この塔は、深廣寺二代住職 単信上人が伊豆より大石を船で持ち帰り、
承応3年(1654)~明暦二年(1656)の間に供養塔を20基建立、
その後明和三年(1766)に九代住職 法信上人が一基建立したもの。
基礎部右側面の地名の表記が、右から①~④番目までと、⑬~⑳番目までが、
「武州栗橋」となっており、⑤~⑫番目までは「武蔵野国新栗橋となっている。
(石柱の基礎部分)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/fe/6b3034719623b80946861807c7a350e7.jpg)
(武州栗橋 深廣寺と書いた基礎部分)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/56/dba3aa45e77eeed75be14154c1333560.jpg)
(武蔵国新栗橋 深廣寺とかいた基礎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/ea/e89fd9ab0eb3e15de4e2883a7e31492b.jpg)
(21番目には「現世安穏 後生浄土」とある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/46/21dc83bcd45e627ff7baae7369c81d5b.jpg)
深廣寺を出て、旧日光街道を進むが、時間が17時近くなったので、
(栗橋駅入り口)の信号を左折、帰宅の用意をする。
栗橋駅までは、歩いて歩いて、疲れた身にはかなり遠く感じられたが、
街の雰囲気が駅に近く感じられたので、
T字路に指しかかったところで、左右どちらが駅か分からず、
右折した所に、車が停車していたので、近寄って道を訊ねると、
栗橋駅は左折するのが正しいとのこと、
「真直ぐですよ」と大声で念を押され、
内心ホッとして、駅に向った。
(「栗橋駅入り口」の信号機)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/86/fa30752fa2da5170296e25ab90f38099.jpg)
前方右手に駅らしき建物が見え、タクシーが待っているのが見え、
栗橋駅であることが分かった。JRと東武の栗橋駅が一箇所にあった。
(栗橋駅の建物)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/87/14ecf8be3aaa442bad686d1ee8e0b683.jpg)
駅が見えたところで、左手に小公園が見える。
入り口に「静御前の墓」と書いた石塔が建っている。
(静御前の墓と書いてある小公園)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/83/32a5dfb51fd7128a18e18aad0baa211e.jpg)
静御前の墓がこんな所にあるとは、全く予想すらしなかった。
しかし、調べて見ると、日本全国に数箇所、静御前の墓があり、
伝説多き源義経が平泉から北海道に渡って、
さらに蒙古でジンギスカンになったと言われることから考えれば、
その妾の静御前の墓が、あっちこっちにあっても可笑しくはない。
静御前の墓として、久喜市教育委員会の説明をご覧ください。
(静御前は、磯の禅師(ぜんに)の一人娘として仁安3年(1168)に
生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが三年も続き、加えてその年も長い日照りで、
農民が大変困っておりました。
そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、
「雨乞いの舞」を命ぜられました。
最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し、
三日三晩、雨が降り続いたといいます。
後鳥羽上皇は、静が15歳でありながら類稀な才能を賞嘆され、
褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。
この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されています。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が、
初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。
その後義経は兄頼朝の不興を蒙り、
奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ち延びました。
静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向いましたが、
途中下総の国下辺見付近で「義経討ち死」の報を耳にして、
悲しみにくれ仏門に入り、義経の菩提を弔いたいと再び京へ戻ろうとしました。
しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、
文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱(ことじ)はこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、
墓のしるしの無いのを哀れみ、
享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が
「静女之墳(はか)」の墓碑を建立したものと考えられています。
また境内にある「舞う蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」と言う歌碑は、
江戸の歌人坐泉の作を村人が、
文化3年(1806)3月に建立したものであります。久喜市教育委員会)とある。
(静御前のお墓、遠景)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/d4/6fe451783d24103360fe4e54cdc2e211.jpg)
(静御前之墳とある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/aa/11882d62d93d93fd004b6d70670f7da7.jpg)
墓石の右側にある歌碑、
「 静や志づ
しづのおだまき
くり返し昔を
いまになすよしも
がな」
墓石左側にある歌碑には、
「 吉野山
みねのしらゆき
ふみわけて
いりに志ひとの
あとぞ恋し
き」
(左手に旧墓石がガラス張りになって保存されている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/1e/928be47f30ccf96c2d8c7b2d6d314968.jpg)
(旧墓石がガラス張りになって保存されている2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/95/9a2e1690d3334bcd69c05fe93e92fc4f.jpg)
(栗橋駅舎)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/87/14ecf8be3aaa442bad686d1ee8e0b683.jpg)
本日の歩行数4、5万歩、約28kmの歩行であった。