中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

仙台・おくのほそ道(芭蕉の道を歩く 48)

2015年01月29日 09時11分23秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【16】仙台・おくのほそ道)
芭蕉の「奥の細道」の題名になった陸奥(みちのく)の
(おくのほそ道)という名の道がある。

芭蕉は「奥の細道」を出すに当たって、
どうしてこの名をつけたのだろう。
長いことボクの疑問の中にあった。

これはボクの勝手な推測でしかないが、
おくのほそ道の「おく」は「みちのく」、
すなわち(陸奥(みちのく))⇒(道の奥)⇒奥の道=奥の細道に繋がっている思っていた。
奥の細道で芭蕉は、陸奥を最北端にして、引き返している。

ところがである。
仙台に「おくのほそ道」と云う道路があったのだ。
(〇〇通り)と道路をボクたちが呼んでいるように、
「おくのほそ道」という道路があることを、
芭蕉は「奥の細道」の中に記している。

「かの画図(えず)にまかせてたどり行けば、
おくの細道の山際に十符の菅(とふのすげ)有(あり)。
今も年々十符の菅菰調て(ととのへて)国守に献ずと云えり。」
(奥の細道より)

とあるように、芭蕉は、「十符の菅」を探して歩いて、東光寺に寄り、
「おくのほそ道」を歩いて、十符の菅を見ているのだ。
「十符の菅」とは、網目の十ある菅菰を編む材料の菅の事で、
伊達家の保護政策により名所として整備されていた。

曽良の旅日記、歌枕覚書に、「十符の菅」のある場所は
今市を北へ出ぬけ、大土橋有。
北のつめより六、七丁西へ行ったの所の谷間百姓屋敷の内也、
岩切新田と云う。囲い垣して有。今も国主へこもあみて貢す。
道 田の畔なり。奥の細道と云う。ー以下省略

とある。

説明が長くなったが、今では、岩切の東光寺門前に、
今市橋がかかっており、ここから西へ五~六百メートルの道が
奥の細道と云ったらしい。

そこで、題名となった「奥の細道」を見たくて、
東北本線 岩切駅を下車して、バスに乗り(今市橋入口)で下車、
東光寺を訪ねる。
今市橋は目の前にあるが、
川沿いの細い道は今は見当たらなくて、二車線の広い道路しか見当たらない

(今市橋)


今来た道路の反対側に、東光寺はあった。
見回すと今市橋は道路左手に見える。
門前に「本松山東光寺」の石柱があり、
少し奥まったところに「おくのほそ道」の石碑がある。

(東光寺入口)

(東光寺本堂)

(おくのほそ道の石碑)

(今は二車線の「おくのほそ道」)


「おくのほそ道」と縦に書いてあり、下段に英語で、
「The Narrow Road to the Deep Northwest」と書いてある。
これだと直訳では「北東の奥深くに続く細い道」であるが、
欧米では、南北が主となり南東、北東と言うが、
中国系の日本では、東西が主となり西南・西北、東南・東北となり、
Northeast=北東は東北と同じ方角を示す。
意訳すれば、「東北の奥に続く細道=おくのほそ道」となる。

日本を愛し日本文学をたしなみ、90歳になって、
アメリカから日本国籍を取って日本に移住した、
芭蕉研究家:ドナルド・キーンは「おくのほそ道」を翻訳するのに手こずったと書いている。
ドナルド・キーンによれば、
「おくのほそ道」を最初は「The Narrow Road of Oku]」としており、
間違いではないが、
芭蕉の意図に合わないとして「The Narrow Road to Oku」としたと言っている。

脱線してしまったが、
芭蕉の言う「おくのほそ道」を今や見ることはできない。
堂々たる二車線の道路は見ることが出来る。

この東光寺には、磨崖仏がある事で有名である。
裏山の崖に、穴をうがち修行した痕跡があるが、
そこに仏を刻んで、祈りを捧げたものと思われる。

(磨崖仏への道)

(修行場)

(修行場2)

(磨崖仏)

(磨崖仏2)

(磨崖仏3)


磨崖仏を見て、バスに乗って帰ろうとしたが、
バス停を見ると20分以上待たねばならない。
思い切って岩切駅まで歩くことにした。
東光寺を出ると歩道上に、
「青麻道」の石碑がある。青麻神社への道しるべである。
青麻神社は、
仙台市宮城野区にある神社で、源義経の家臣であった常陸坊海尊が、
中風を治す霊験を顕したことにより、祀られていると言う神社である。
(Wikipediaにより)

(青麻道)


さらに岩切駅方向に進むと、古い道標がある。

 従是  右へしおがまみち(一り二十五丁)
     左へまつしまみち(三り二十七丁)


とあり、岩切歴史探訪会によると、
(ここは二つの路線にわかれる分岐点であり、追分と云った。
一つは利府・松島方面への道、
一つは岩切の町を経て多賀城・塩釜への道であった。以下省略。)
とある。

(追分の道しるべ)


この道標を左に見て、右塩釜方面へ進み、JR岩切駅へ。
次は道順から行けば、多賀城である。

(JR岩切駅)



・落ち葉道 分け入るほどの 道もなく  hide-san

武隈の松(芭蕉の道を歩く 47)

2015年01月25日 09時07分48秒 | 芭蕉の道を歩く
奥の細道【14】武隈の松)
芭蕉は、斎川の甲冑堂を見て、籐の中将実方の墓は、横目で通り過ぎ、
岩沼の歌枕で名高い「二木の松(武隈の松)」を観に行っている。

岩沼教育委員会の説明によると、

(この松は、陸奥(みちのく)の歌枕中でも、
詠歌で多い事では屈指の銘木である。
千余年前、陸奥の国司として着任した藤原元義が植え、
以後能因・西行をはじめ多くの歌人に詠まれるようになった。
元禄二年五月四日(1689年新暦では6月20日)、
この松を訪れた芭蕉は、
武隈の松にこそめ覚める心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、
昔の姿失はずとしらる。
(中略)
めでたき松のけしきになんはべりし。
」と書き、

・桜より 松は二木(ふたき)を三月越ㇱ

と結び、曽良の随行日記には、
岩沼入口の左の方に、竹駒明神と云う有。
その別当の寺の後に武隈の松有。
竹垣をして有。その辺侍屋敷也。
」とある。
この松は植え継がれて七代目と言われ、
文久二年(1862)に植えられたものと伝えられている。)とある。
説明のように大きな松が、竹垣に囲まれて植えられている。
大きくて一枚の写真には入らないので、先の方だけご覧ください。

(武隈の松の碑)

(武隈の松)

(根元は今も柵で囲まれ根元から分かれているのが解る)

(歌枕として読まれた歌碑)


歌碑の解説説明板から、次のように書かれていることが解った。

                  藤原元良
「宇恵し登き ち起里やしけ舞 多計久満の
        松をふたたび あ飛見つ留嘉那」
 
(植しとき ちぎりやしけむ 武隈の 松を再び 相見つるかな)

                  橘  季通
「堂希九万の 松八二木越 美屋古人
         い可がと問八ば み起とこたへ舞」

(武隈の 松は二木を みやこびと いかがと問はば みきとこたへむ)

武隈の松の後ろには、「二木の松史跡公園」があり、
お休み処の東屋と芭蕉句碑がある、
手入れの行き届いた静かな公園となっている。

(二木の松史跡公園入り口)

(芭蕉句碑までの公園の雰囲気)

(芭蕉句碑)


竹駒神社が近くにあるはずで、
ここは日本三大稲荷と言われる立派なお稲荷さんがあるはずである。
三大稲荷とは、伏見稲荷、笠間稲荷と当竹駒稲荷らしいが、
日本全国に三大稲荷と称しているお稲荷さんはほかに沢山あるようだ。
例えば、子供の頃に「こっくりさん」で占う時、豊川稲荷大明神が出てきたが、
考えると稲荷神社でなく寺院であった。

とんだところへ話が飛んでしまったが、話を戻すと、

二木の松の歩道を少し東へ歩くと、参道入り口があり、
右手を覗くとお稲荷さんの赤い大鳥居が見える。
これが竹駒神社だ。
(竹駒神社への道案内の赤い灯篭)

(右手に見えた赤い大鳥居)


武隈(たけくま)と竹駒(たけこま)と読んで似ているところから、
もともとは竹駒神社にあった松のことではなかろうか。
そう思って竹駒神社に入って行くと、
すぐそばに同じような二木の松があった。
どちらが先でどちらが後か判らないが、二木の松はある。
でもこれは根元から二つに分かれていない。

(神社入口)

(神社の中の松)

しかし、曽良の旅日記には、
「岩沼入口の左のほうに竹駒神社と云う有り。
その別当の寺の後ろに武隈の松有。」とあるから
竹駒神社の二本の松は、武隈の松ではないことが分かった。

(山門)

日本の松の奥に山門があり、
その横に土井晩翠の歌碑がある。
土井晩翠は仙台の人で、有名な荒城の月の作詞家で知られるが、
戦後の荒れ果てた時代に、この竹駒神社で講演し、
近隣の青年達に深い感銘を与えたと言われる。
その時に詠んだ歌、晩翠の真蹟を石に刻んだもの、

・竹駒の 神のみやしろ もうで来て
       綻びそめし初桜見る  晩翠
(晩翠の歌碑)


その奥に本殿がみえるが、芭蕉の句碑が見えないので探す。
山門の手前、一の鳥居をくぐり直進し道路が直角に左折しているところの右側に、
二木塚として残されている。
石柱は並んで二本あり、その一つは

「芭蕉翁 佐くらより松は 二木を三月越し」とあり、
左面に
(當社よ里二木の松へ二丁程)とあり、
もう一つの石柱には、

(芭蕉翁六世 東龍斉 謙阿 桜よ里 松は二夜の月丹(に)こ楚(そ)
とあり、こちらは名月塚と呼ばれている。

(並んで建っている二木塚と名月塚)




道祖神社と実方(さねかた)の墓(芭蕉の道を歩く 46)

2015年01月21日 17時01分43秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【15】笠島2)
甲冑堂の二人の嫁のしるしを見て、
松尾芭蕉が、
籐の中将 実方の塚はいずくのほどならんと、人にとへば、
「是より遙か右に見ゆる里を、みのわ・笠島と云ひ、道祖神の社、
かたみの薄(すすき)、今にあり」と教ふ。
この頃の五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身つかれ侍れば、
よそながら眺めやりて過ぐるに、(攻略)


と奥の細道で述べているように、
「籐の中将 実方の塚」は、道がぬかるんでいるので立ち寄らないで通り過ぎた。

しかしボクがこれから訪ねようとしているのは、
時期が秋だし、路がぬかるんでいる訳でも無いからだ。
もっともぬかるんで居ようと居まいと、タクシーだから気にならない。
東北本線名取駅で下車し、道祖神社とかたみの薄を見に行く。
道祖神社は、道路交差点を少しった入った所ですぐに分かった。

(道祖神社の鳥居)

ボクもたたり(?)が恐ろしくて、タクシーに乗ったままではなく、
タクシーを降りた。鬱蒼とした木に囲まれた場所で、
これなら往時はもっと寂しい場所であったろうと推測された。

(道祖神社の狛犬?)

(道祖神社の山門)

(道祖神社本殿)

籐の中将 実方とは、平安時代の歌人藤原実方で、
正歴二年(991)右近衛中将、同五年には左近衛中将に任じられたので、
籐の中将と言われた。
書物によると、優秀であったが、大層横着な人で、これを見かねた主上が、
「歌枕(名所・旧跡の事)見て参れ」と陸奥守にして、奥州へ左遷した。

(実方橋)

(実方の塚・西行歌碑)

奥州へきて、あちこち草枕を訪ね歩いて、ある時、
笠島の道祖神社の前を下馬して通らなければならないところ、
馬に乗ったまま通ると、馬が倒れて、実方落馬して死んだ、と言う。

後に西行法師が訪ねてきて、実方の塚があり、
すすきなど生い茂っているのを見て、

・くちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて
        かれのの薄(すすき)かたみとぞ見る


と詠んだところから、「かたみの薄」と言われる。

(かたみの薄)

これを知っていた芭蕉は、歌人の実方の墓も興味はあるが、
西行法師にも心惹かれたに違いない。
芭蕉は、

・笠島は いづこさ月の ぬかり道(*)

俳句を詠んで居るが、立ち寄ってはいない。
(実方の墓)

(「笠島は・・」の句碑・)


(*)(実方の墓のある笠島は、どの辺りであろうか、
   尋ねてみたいが、五月雨のためぬかった道で足を取られて、
   行くこともできない)

甲冑堂(芭蕉の道を歩く 45)

2015年01月17日 19時39分29秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【15】笠島)
福島の医王寺で佐藤継信・忠信の嫁の鎧姿をみて、
息子が凱旋したと間違えて、母親が喜んだ話は前に書いた。

奥の細道で、
芭蕉がいう「二人の嫁がしるし」は医王寺にはなく、
「曽良の旅日記」に「次信・忠信が妻の御影堂あり
とある甲冑姿の人形は宮城県の白石市斎川にある田村神社にある。
ここのお堂に甲冑姿を芭蕉は見た。
二人の嫁の鎧姿を木造にしてあったのを観て感動したのを、
医王寺の項で書き、有名な俳句、

笈も太刀も 五月のかざれ 帋幟(かみのぼり)

を残した。

芭蕉は、その後、飯坂温泉で泊まり、次のように記し、
路縦横に踏んで伊達の大木戸を越」して、
宮城県入りしている。更に
鐙摺、白石の城を過ぎ」て、
「甲冑堂」を見に田村神社に行っている。

その「甲冑堂」を観に東北新幹線で出かけた。
東北新幹線の「白石蔵王」で降り、タクシーを拾い、
甲冑堂のある田村神社に向かう。

(白石蔵王駅)

途中、鐙摺坂(あぶみずりさか)が見えると言う馬牛沼(まぎゅうぬま)へ行く。
馬牛沼はある書物によると万牛沼と書いてあったので、
タクシーの運転者さんに「万」なのか「馬」なのか尋ねると「馬」だという。

なぜ万牛沼と書かれたとだろうと不審に思っていたら、
「曽良旅日記」に
万ギ沼・万ギ山あり。その下の道、アブミコワシと云う岩有。
二丁程下りて右の方に次信・忠信が妻の御影堂有。同晩、白石に宿す

と記されてあった。
ここが「万」の字の出所であった。

(馬牛沼)

(馬牛沼の説明板)

馬牛沼の説明板にあるように、北に見える山に鐙摺坂は見えないが、
この山のどこかにアブミコワシ坂があるのだろう。
馬牛沼を後に田村神社に向かう。

曽良の旅日記のように、右に入りすぐ右側にその神社、
と言うより「甲冑堂」はあった。
甲冑堂の看板がでかでかと掲げてあり、田村神社の影が薄い。

(甲冑堂の神社の鳥居)

(田村神社本殿)

(甲冑堂)

甲冑堂には人っ子一人いない。普段の日で観光客もいないのだ。
せっかく来たのに「楓」「初音」の二人の甲冑姿が見られないのは、
いかにも残念である。
タクシーの運転手さんに聞けば、
「見せて貰えないだろうが、声だけかけて見たら如何ですか」と言う。
どこへ訊けばよいのかさえ分からない。
甲冑堂の一段下がったところに社務所がある。
東京では神社の社務所は何時も留守で、七五三とか夏祭りとか、
でなければ人は居ないのが当たり前。
社務所に人を残すほど、暇人は東京には居ない。

でも念のため、社務所に寄って扉を開けると、ずいぶん軽快に開いた。
左手に人の気配がしたので、
「ごめんください。甲冑堂の中を見せて頂きたいのですが、どなたかいらっしゃいます?」
中から、やおら声がして、
「どちらからお出でなさった」と声がする。年配者の男性の声だ。
「奥の細道を訪ねて、東京からここの甲冑堂を見にきました。」
「何人ですか」「二人です」と声を掛けると、
本人が出てきて、「今行きますから、向こうで待っていてください」とのこと。

この際見せて貰えるなら、駄賃に1000円くらい払ってもよいな、
と思って外に出て待つことにした。

甲冑堂のドアーをあけると、スリッパが何足も置いてある。
おじさんが「どうぞ、お使いください」
中へ入れと言うのだが、一歩進んだらもう奥になるという広さである。
ボクハ靴を脱ぐことと、座敷に座ることが好きではないので、
カミさんを促して中へ入ってもらう。
ボクは入口に立っていると、予期もしないことが起きた。
おじさんが案内を始めたのだ。これは案内料に千円では不足かも・・・。

(甲冑堂の二人の嫁の木像、右が楓、左が初音)


以下はおじさんの説明、
(外にあります「奥の細道」抜粋では、医王寺で(二人が嫁のしるし まずあわれなり・・・)と
芭蕉は述べていますが、実際にはここの甲冑堂で見た二人の嫁の甲冑姿でした。
(中略)
ここにある木造は、宮城県柴田町出身の彫刻家(日展無鑑査)小室 達さんで、
壁画は仙台市出身の日本画家 岡田 華郷さん、
甲冑堂の設計は元東北大教授の 小倉 強さんで、
再建落成されたのは昭和14年です。
以前のものは文亀年間にでき、明治8年に消失しました。

この甲冑堂は(文部省高等小学校読本 女子用)に掲載されていて、
唱歌もあります。)

と言って歌い始めた。
せっかくですので、ボクの説明より簡潔に説明されていますので、
以下に紹介して置きたい。

文部省高等小学校唱歌 第三学年女子用 第十六 「甲冑堂」
1 義経の 家来となりて
  上方に のぼり行きけん
  奥州の 兄弟二人
  継信よ 忠信よ
2 年若き 兄と弟
  ををしくも 敵とたたかひ
  主のために 命おとしぬ
  梅かとよ 桜とよ
3 まのあたり 主は帰れども
  かへらざる 子等の形見よ
  今し見て 母は嘆きぬ
  ことわりよ 母と子よ
4 なぐさめん いざいざ母を
  いでたちし 嫁御の二人
  太刀とりて かぶりぬ甲
  けなげさよ やさしさよ
5 その姿 刻みとどめし
  甲冑堂の 木造二つ
  火に焼けて 消失せたれど
  などかは失せん そのこころざし