(浦和宿の看板)
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(浦和宿の一本杉)
調神社(つきじんじゃ)から約300mも歩くと浦和宿の石碑が歩道上にある。
浦和駅に近く道路上には沢山の人が歩いている。
県庁通りをまたいで進むと左側に古い立派な山門がみえる。
真言宗の古刹、宝珠山 玉蔵院の総欅造りの門である。
ここには、平安末期の地蔵菩薩立像があり、地蔵信仰の寺として
古い歴史を持っている。江戸時代には奈良の長谷寺の移転地であり、
本山の修行を終えた者が、命により住職となって移る寺で、
由緒あるお寺であった。
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(浦和宿の石碑)
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(宝珠山玉蔵院の山門)
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(浦和市文化財となっている玉蔵院地蔵堂)
ボクが訪ねた時は、春の陽射しに囲まれて、
境内には、沢山の親子連れや若い男女が添いあって、
楽しい時間を送っていた。
中山道に沿って進むと、左手歩道上に婦人がうずくまっている
銅像がある。
歩道上に銅像があるのも珍しいが、
有名人の像でなく、平和の象徴でもなく、
ごく普通の婦人の像がしかも膝を折ってたたずむ姿に
驚かされる。
地面にかぼちゃを置いて、左手にナスのような野菜さげている。
その脇に「市場通り」とあり、近隣農家の野菜などが
販売された姿のようである。
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(農産物を商う婦人の像)
その先に常盤公園があり、ここは御殿山といわれ徳川氏の
御殿が置かれ、鷹狩や各支城間の往来の時の休憩・宿泊所であった。
その先左側に、慈恵稲荷の鳥居があり、その手前に
「浦和宿二・七市場」の案内板が立っている。
一ヶ月の二・七のつく日にちに市が立つことを指し、
日常雑貨、衣類、野菜類の売買で賑わったようである。
このように月に六回定期的に開かれる市を「六齋市」という。
この形態は昭和初期まで続き、蕨(一・六)鳩ヶ谷(三・八)
与野(四・九)大宮(五・十)として賑わったという。
(浦和市教育委員会)
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(常盤公園)
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(浦和宿二・七市場跡の石碑)
道はやがて、JRの陸橋(浦和橋)を渡り、ひたすら歩く。
左側を注意しながら行くと、歩道橋の下に「廓信寺」の石塔と
鎌倉時代の阿弥陀如来坐像の説明板があり、
その奥に廓信寺がある。すこし見つけにくいので注意しよう
境内には樹齢約300年という、幹周り2.46mの
カヤの木がある。
また敵討ちで討たれた讃岐丸亀藩の浪人のお墓があるという。
(浦和市教育委員会)
お墓を見渡したが、それらしきお墓は見当たらなかった。
敵討ちに遭った浪人では、よほどのことが無い限り、
見捨てられてしまうのが人情というもの。
何時の時代も弱いものは見限られてしまうのだろうか?
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(廓信寺の標柱)
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(廓信寺の阿弥陀様でカヤの木はこの近くに生えていた)
その600m先の歩道上に一本の杉の木と「一本杉」とかかれた
石碑があるが、石塔の文字が車道に向かって記入されているので
見落としがちというより、素通りしてしまう。
この一本杉の付近で前述の讃岐丸亀藩の浪人が敵討ちにあったとされる。
なぜその一本杉が残っているのか不思議である。
話によれば敵討ちは文久4年(1864)と
時代は最近であり、武家時代も終わりの頃の話として、
敵討ちが珍しかったからに違いない。
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(何代目かよく分からないが小さな一本杉と石碑)
道はJR「与野駅」入り口に差し掛かる。
道路の右側に一本の大きなケヤキがある。
一里塚と一里塚の間にある半里塚の跡といわれる。
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(半里塚のケヤキ)
もう少し進めば、旧大宮市に到着するが、
中山道四日目の旅はここで打ち切り、
JR京浜東北線「与野駅」で帰る。