中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

浦和宿の一本杉(旧中山道を歩く 32)

2005年04月30日 09時43分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(浦和宿の看板)

(浦和宿の一本杉)
調神社(つきじんじゃ)から約300mも歩くと浦和宿の石碑が歩道上にある。
浦和駅に近く道路上には沢山の人が歩いている。

県庁通りをまたいで進むと左側に古い立派な山門がみえる。
真言宗の古刹、宝珠山 玉蔵院の総欅造りの門である。
ここには、平安末期の地蔵菩薩立像があり、地蔵信仰の寺として
古い歴史を持っている。江戸時代には奈良の長谷寺の移転地であり、
本山の修行を終えた者が、命により住職となって移る寺で、
由緒あるお寺であった。
(浦和宿の石碑)

(宝珠山玉蔵院の山門)

(浦和市文化財となっている玉蔵院地蔵堂)

ボクが訪ねた時は、春の陽射しに囲まれて、
境内には、沢山の親子連れや若い男女が添いあって、
楽しい時間を送っていた。

中山道に沿って進むと、左手歩道上に婦人がうずくまっている
銅像がある。
歩道上に銅像があるのも珍しいが、
有名人の像でなく、平和の象徴でもなく、
ごく普通の婦人の像がしかも膝を折ってたたずむ姿に
驚かされる。

地面にかぼちゃを置いて、左手にナスのような野菜さげている。
その脇に「市場通り」とあり、近隣農家の野菜などが
販売された姿のようである。
(農産物を商う婦人の像)

その先に常盤公園があり、ここは御殿山といわれ徳川氏の
御殿が置かれ、鷹狩や各支城間の往来の時の休憩・宿泊所であった。
その先左側に、慈恵稲荷の鳥居があり、その手前に
「浦和宿二・七市場」の案内板が立っている。

一ヶ月の二・七のつく日にちに市が立つことを指し、
日常雑貨、衣類、野菜類の売買で賑わったようである。
このように月に六回定期的に開かれる市を「六齋市」という。
この形態は昭和初期まで続き、蕨(一・六)鳩ヶ谷(三・八)
与野(四・九)大宮(五・十)として賑わったという。
             (浦和市教育委員会)
(常盤公園)
(浦和宿二・七市場跡の石碑)

道はやがて、JRの陸橋(浦和橋)を渡り、ひたすら歩く。
左側を注意しながら行くと、歩道橋の下に「廓信寺」の石塔と
鎌倉時代の阿弥陀如来坐像の説明板があり、
その奥に廓信寺がある。すこし見つけにくいので注意しよう
境内には樹齢約300年という、幹周り2.46mの
カヤの木がある。
また敵討ちで討たれた讃岐丸亀藩の浪人のお墓があるという。
             (浦和市教育委員会)
お墓を見渡したが、それらしきお墓は見当たらなかった。
敵討ちに遭った浪人では、よほどのことが無い限り、
見捨てられてしまうのが人情というもの。
何時の時代も弱いものは見限られてしまうのだろうか?
(廓信寺の標柱)
(廓信寺の阿弥陀様でカヤの木はこの近くに生えていた)

その600m先の歩道上に一本の杉の木と「一本杉」とかかれた
石碑があるが、石塔の文字が車道に向かって記入されているので
見落としがちというより、素通りしてしまう。
この一本杉の付近で前述の讃岐丸亀藩の浪人が敵討ちにあったとされる。
なぜその一本杉が残っているのか不思議である。

話によれば敵討ちは文久4年(1864)と
時代は最近であり、武家時代も終わりの頃の話として、
敵討ちが珍しかったからに違いない。
(何代目かよく分からないが小さな一本杉と石碑)

道はJR「与野駅」入り口に差し掛かる。
道路の右側に一本の大きなケヤキがある。
一里塚と一里塚の間にある半里塚の跡といわれる。
(半里塚のケヤキ)

もう少し進めば、旧大宮市に到着するが、
中山道四日目の旅はここで打ち切り、
JR京浜東北線「与野駅」で帰る。





蕨宿から浦和宿へ(旧中山道を歩く 31)

2005年04月25日 09時42分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(枝垂桜2005.Apr.撮影)

(蕨宿から浦和宿へ)
中山道へ戻り進むと国道17号と交差する。
手前左側に交番がある。ここで蕨宿(わらびじゅく)は終わる。
(旧中山道蕨宿の京都側入り口)

旧中山道に沿って歩くと道は右の方に緩やかに曲り、
浦和市に入る。
外環高速道路の手前右側に辻一里塚公園がある。
一里塚跡の石碑を右に見ながら進むと、
六辻水辺公園に突き当たる。右折すると17号に交差する。
さらに進むと、すぐ先の左上に中山道の案内表示板が
あるので案内に沿って左折する。浦和駅方面である。
(一里塚公園)

(六辻水辺公園)

(中山道の案内看板)

やがて道は登り坂になるが、ここが焼米坂である。
横断歩道橋の下に石碑が建っている。
元は浦和坂といったが、この辺りで焼き米が売られ、
それが名物になったので名前がついたといわれる。
旅人はこのあたりでお腹が空いたのであろうか?
坂道を見て、ちょっと一服したかったのであろうか?
道の行く手には、結構な上り坂が見える。
(焼き米坂)

しばらくするとケヤキやムクノキの林に囲まれた
「調(つき)神社」が見えてくる。
この神社は、平安時代朝廷が作成した「延喜式神名帳」に
書かれた古い歴史と格式を誇る。
昔、朝廷に納める調物(みつぎもの)を集める所であったので、
「調(つき)神社」と名づけられたという。
          (浦和市教育委員会)
神社でありながら鳥居がないのは、荷物の出し入れを
自由にするためと言われる。
また、「調(つき)」が「月」をイメージし、
「月」→「うさぎ」が連想されたのか、普通は神社には
狛犬がつき物であるが、ここでは代わりに兎が置かれている。
普通、水盤なども龍の口から水が吐き出されるのに対し、
ここでは、うさぎの口から水が流れ出ている。
(調神社の扁額)

(神社の神殿)

(月に因んで、狛犬ならぬウサギが一対並んでいる)

(水は龍などが吐くが、ここではウサギの口から水が・・・)




三学院(旧中山道を歩く 30)

2005年04月20日 09時40分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(桜「フクロクジュ」2005.Apr.15.荒川土手で撮影)

(三学院)

蕨城址を後に旧中山道に戻る。
三学院(真言宗智山派のお寺)に入る道がある。

三学院は金亀山極楽寺という。
(格式ある三学院の山門より)

本尊は平安時代後期の作といわれる木造十一面観音像である。
天正19年(1591)には徳川家康から寺領二十石を寄進する
朱印状を与えられた、関東七ヶ寺の役寺として格式が高い。
                 (蕨市教育委員会)
蕨本陣家、岡田氏の菩提寺で、仁王門と本堂など立派な寺院であるので、寄り道をしたい。

(三学院の入り口)

(京都にありそうな荘厳さを持つ三学院本堂)

(三学院の境内)

参道中央の山門前の右側に馬頭観音塔がある。
塔身正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」
(南無・馬頭観世音)と陰刻されている。
銘文から、江戸後期寛政12年(1800)
2月に蕨宿の馬持講中により、宿場の安全を願って
造られたものという。(蕨市教育委員会)
(梵字の馬頭観音)

山門をくぐって右側の一角に「子育て地蔵」
「六地蔵」「目疾(めやみ)地蔵」が安置されている。

「子育て地蔵」は元禄元年(1695)三学院住職が
中心となって造立された身の丈七尺(2.4m)の
見上げるほど大きな地蔵尊で、火伏・子育・開運を
願う人々に、現在も信仰されている。

その手前左側に「六地蔵」が安置されている。
基礎の上に蓮台と地蔵菩薩が丸彫りにしてあり、
蕨市内最古・最大の六地蔵。

六地蔵とは、
地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に
分身し、人々を救済する姿を現している。
(蕨市教育委員会)

(子育て地蔵)

(六地蔵)
(目疾地蔵)

ボクが訪ねた4月10日には、この六地蔵が誰に貰ったのか
寒さ避けの赤いマフラーをしていたのが可愛らしく、
季節の暖かさと共に、ふんわりとした暖かさを振りまいていた。

(赤いマフラー暖かそうな地蔵さん)

六地蔵の手前に「目疾(めやみ)地蔵」が安置されている。
万治元年(1658)念仏講を結んだ人々が、「この世」と
「あの世」の安楽を願って造立したもの。
地蔵菩薩立像と舟形光背彫り上げており、高さ1.9mの
大きな地蔵尊である。
「目疾(めやみ)地蔵」として、地蔵尊の目に味噌を
塗ると目の病気が治る、あるいは目の病気にかからないと
言われており、訪ねた時には片目(左目)に赤い味噌が
塗ってあった。どなたかお祈りをされたに違いない。

(目の廻りに味噌が残った地蔵さん)

境内に入ると、広場の右手に「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が見える。
「宝篋印塔」は、宝篋印陀羅尼経を納めるための塔で、
後には、供養塔、墓碑塔として建てられました。
三学院には二基並んで建っているが、
江戸時代中期 寛政9年(1797)に、
蕨宿の町田氏により造立されたもの。
三学院住職が銘文を書き、江戸霊岸島の石工
栗屋勘兵衛が製作した。
切石積基壇に基壇をすえ、塔身には金剛界四仏の種子、
基壇の各側面には唐獅子が刻まれ、笠には風鐸(風鈴)を
つるした青銅製の金具が残されている。
(蕨市教育委員会)
「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」

その「宝篋印塔」の左手は墓地になっている。
一番手前に、蕨宿本陣家の岡田氏代々の墓がずらっと並んでいる。
代々本陣を勤めた「加兵衛家」と「五郎兵衛家」、
脇本陣を勤めた「新蔵家」などのものがあるので、
丹念に見ることをお勧めする。
お墓は「蕨宿関係墓石群」の看板(蕨市教育委員会作成の)があって判りやすい。
(本陣家 岡田氏の墓)


青春賦(旧中山道を歩く 29)

2005年04月16日 09時36分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(コブシ、2005.Apr.07.撮影。北の丸公園にて)

青春賦 (旧中山道を歩いて五日目 Apr.10.’04.)

蕨市立民族歴史資料館で頂いた資料(歴史散歩案内)を基に、
史跡などを見学してみたい。

頂いた資料によれば、
南北朝時代に足利将軍の一門の渋川氏が築いた蕨城があった。
永禄10年(1567年)上総の国三舟山合戦で、
里見氏に破れ戦死した渋川公とその戦死を悲しみ
群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったお墓がある
お寺(宝樹院)を訪ねたい。

渋川公夫妻の250年忌を記し文化13年(1816年)に
子孫が造立したお墓がある。
寺の本堂脇の木陰にひっそりと夫婦の墓が建っている。

寄り添うように立っているお墓を見ると、
生前の仲の良さが感じられ、微笑ましい。
ボクたち夫婦もかく在りたいと願うばかりである。

(宝珠院)

(本堂左横に寄り添うように立っている夫妻のお墓)

元来た道を戻り、蕨城址へ。ここは和楽備神社に隣接している。
場所は蕨市役所の裏手に当たる。

和楽備神社は戦国時代に渋川公が八幡大神を祀ったもので、
神社名については土地の名前「わらび」としたが
「蕨」一字では重みに欠けたので、万葉仮名を用いて
「和楽備神社」としたという。

境内の水屋には、大型の水盤がある。
これは安山岩製の大型の水盤で、寛永寺旧在とも言われている。
この水盤の特徴は、大型で四隅を入隅式とするところにある。
こうした大型水盤は江戸時代初期に限られ、しかも大名家墓所や
格式のある社寺に見られる程度。
また入隅式は徳川家ゆかりの場合が多いようである
           (蕨市教育委員会)
(和楽備神社。左側に水盤がある)

(水盤の角の切れ込みが入隅式と云い徳川家ゆかりの格式あるもの)

和楽備神社の隣が蕨城址で、蕨城址は小公園になっており、
ここを挟んで市役所がある。

この蕨城は大永4年(1524)に北条氏綱により攻撃され
破壊され、江戸時代には家康が御殿をおいた。
城址の遺構は僅かに堀が残されているだけ。
大正14年埼玉県指定史跡。  (蕨市教育委員会)

(蕨城址の碑)

この城址跡の小公園に、ボクの好きなサムエル・ウルマンの詩
「青春賦」の石碑が英文と日本語で紹介されている。

  (青春)  

青春とは人生のある期間を言うのではなく、
心の持ち方を言う。
たくましい意志と、ゆたかな創造力、
炎える情熱、弱気を退ける勇気、
安易を振り捨てる冒険心、
こういう様相を青春という。

年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いが来る。

―途中省略―

十六歳であろうと六十歳であろうと、
人は信念と共に若く  疑惑と共に老いる。
人は自信と共に若く  恐怖と共に老いる。
希望ある限り若く   失望と共に老いる。

頭を上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと青春であり続けることが出来る。

サミュエル・ウルマン

この分ではボクは何時までも青春であり続ける。

(ここでは英文の碑を紹介しておく)

石碑に書かれた文章を下記に紹介しておく、

Youth  (Samuel Ullman)

Youth is not a time of life; 
it is a state of mind;
 it is not a matter of rosy cheeks red lips and supple knees; 
it is a matter of the will a quality of the imagination a vigor of the emotions; 
it is the freshness of the deep springs of life.

Youth means a temperamental predominance of courage 
over timidity of the appetite for adventure over love of ease. 
This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty. 
Nobody grows old merely by a number of years. 
We grow old by deserting our ideals.

Years may wrinkle the skin but to give up enthusiasm wrinkles the soul. 
Worry fear self-distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.

Whether sixty or sixteen there is in every human being’s heart the love of wonder the unfailing child-like appetite what’s next and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; 
so long as it receives messages of beauty hope cheer courage and power from men and from the infinite so long are you young.

When the aerials are down and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism then you are grown old even at twenty but as long as your aerials are up to catch the waves of optimism there is hope you may die young at eighty.


蕨(わらび)宿 (旧中山道を歩く 28)

2005年04月11日 09時34分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

蕨宿 (わらびじゅく)

「中山道蕨宿」石碑の右側に旧街道の入り口がある。
道路はよく整備されており、歴史街道を想わせる佇まいである。
進むと郵便局があり、道路に面して高札場の型をした
掲示板があるので良く見よう。

(中山道蕨宿の石碑)

掲示板には、
旧中山道の案内地図と史跡が記されているので
およそ頭に入れておくと便利である。
地図によれば、旧中山道の中央付近に
蕨本陣と蕨市立歴史民族資料館があることが解かる。

道路のマンホールには、中山道(武州)蕨宿の文字と
菅笠に道中合羽の旅人をあしらったデザインになっている。
また、歩道には中山道69次の浮世絵をタイルにして
埋め込んである。
(道中合羽の旅人を描くマンホール)

(浮世絵のタイル、大宮宿のもの69次分ある)

(本庄宿のタイル)

一枚づつ、見て歩くと時間がいくらあっても足りない。
そのうちの何枚かを紹介しておく。
また、商店も歴史を思わせる店構えとなっており、
看板は常夜灯の形にして、昔を偲ばせる。
400年前にタイム・スリップしたような気分になる。
蕨市立歴史民族資料館は是非見学したい。
その隣に復元された蕨本陣岡田家の門構えがある。

(常夜灯の形をした看板)

(旧道の並木をイメージした道路つくり)

(蕨宿本陣を再現したもの)

歴史資料館には、本陣内部を復元した部屋が
展示されており、当時の旅人の旅の心得なども、
興味は尽きない。
蕨宿史跡の資料(歴史散歩案内)を係りの人にお願いすれば、
無料で分けて頂けるから、申し出てみよう。

(旧街道のイメージに合った建物の一例。あちこちに沢山見受けられる)


戸田橋から蕨宿まで(旧中山道を歩く 27)

2005年04月07日 09時33分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(戸田橋から蕨宿まで)’04.04.07.

戸田橋を渡った荒川の対岸の戸田市には、
舟渡し場所を示す案内板がある。

橋を渡り終わったところに、埼玉県の交番があり、
その右脇に土手を下りる階段がある。
道なりに歩くと左側に「水神社」がある。
境内にある「水神宮」の碑には、寛政8年(1796)の
銘があり、荒川の岸辺に住む人たちの氏神様であった。
(水神社)

その先の車道を登って、今来た方角へ戻ると、
「中山道戸田渡船場所」の石碑と
「戸田の渡し」の案内看板がある。

案内によれば、
(中山道は慶長7年(1602年)
街道として設置されましたが、江戸防衛の意味で
橋は架けられなかった。人々はここを越えるのに
渡しに頼らざるを得なかった。
これが「戸田の渡し」です。)
渡船場の管理は下戸田村が行っており、
天保13年には、十三艘の船があり、
組頭(渡船場の支配人)一人、船頭8人、
小揚人足31人が居ました。
―途中省略―
明治八年 木橋が出来上がり、「戸田の渡し」は
廃止になりました。
       (戸田市教育委員会)

(戸田の渡船場跡の碑)

来た道を戻り「水神社」の前を通り越して、
最初の道を右折すると、右側を入ったところに
いかにも古めかしい赤い色のお堂が見えます。
「地蔵堂」です。

戸田市内では最古の木造建造物という。
建築技術はお堂の大きさからは、
不似合いなほどの木組みを使用しての建築技法は、
注目すべき点が多い建造物とされている。
お堂の軒下の半鐘は1713年の銘が、
また境内の庚申塔には享保13年(1731)の
銘が刻まれている。
(戸田市教育委員会)
(地蔵堂)

古い板碑もあると記されているが、
境内を見回したところ見当たらない。
「地蔵堂」の脇の砂利道を行くと広い通りに出る。
左折して菖蒲川の川岸橋を渡る。

(菖蒲川)

戸田市内の旧中山道は見当たらない。
なお進み交差点に出たら左折する。
国道17号に出る手前を右折し、
これを旧中山道に見立て進む。

すこし先に行くと、右側がケヤキ並木となり、
よく整備された通りとなる。
「下前公団通り」とある。
ケヤキ並木の終わりに信号があり、
正面が川口信用金庫、その左手にポケット公園があり、
公園の左奥に旧中山道について案内がある。 

(ケヤキ並木)

(道標)

案内によれば、戸田市内の旧中山道の大部分は失われており、
僅かこの公園から17号線までの80mが残るのみで、
蕨までは17号と一緒になっているとのこと。

(公園にある案内看板、戸田の渡しから蕨宿までの旧中山道の地図を示す)

ひたすら17号を歩き、17号が左手に折れる地点の正面、
道路の真ん中に、「中山道蕨宿」の石碑がある。
ここから蕨宿である。



戸田の渡し(旧中山道を歩く 26)

2005年04月04日 09時21分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(戸田の渡し)

(旧中山道を歩いて四日目Apr.03.’04. 三田線志村坂上駅より)
志村一里塚から国道17号線を
進行方向に向かって右側を歩く。
志村坂上の交差点に出たら、東京三菱銀行を右折、
ユニバーサルドラッグの先を左折し、突き当りまで歩こう。

突き当たりは小豆沢グラウンド(野球場)になっているが、
そこに、現在の戸田橋に架け替える前の旧戸田橋の親柱が
置いてある。

「東京府」「戸田橋」の文字が見え、昭和53年以前に
架けられていた戸田橋の親柱である。
東京オリンピック(昭和39年)の時は
聖火リレーもその橋を渡った。
その橋が出来上がった時は昭和7年ですから、
32年間もの間お役に立った、三代目の橋です。
なお、戸田橋側の親柱は、戸田市立親水公園に保存されています。
(板橋区教育委員会)
なお、東京都になったのは昭和18年(1943)で、
都政になってから62年しか経っていない。


(戸田橋右側の親柱、東京府の文字が刻んである)


(東京府の文字)


(左側の親柱、戸田橋の文字がある)

ユニバーサルドラッグまで戻り、
志村坂上の信号で国道17号を渡り、
進行方向を見ると左側に交番が見えます。
その交番の左側が旧中山道で、道は左のほうへなだらかに曲がる。
ここが当時は難所といわれた、清水坂。

(志村坂上の交番、左が旧中山道、右側が国道17号)


(降りきった清水坂、ここを上から来て右折)


(練馬へ一里、柳沢(保谷市)へ四里、府中へ七里とある)

途中に庚申塚、大山道への道標などがあります。
清水坂は下る途中で大きく左に曲ります。
下りきったところに清水坂の石柱を左に見て右折、
地下鉄三田線のガードをくぐり直進し、国道17号にでます。

旧中山道は、国道17号を渡った斜め先にあり、
当時を偲ばせるお地蔵さんが志村坂下交差点の右角に
祀ってある。数メートルの旧中山道がある。
その先信号を渡り、左は国道17号、右が旧中山道になる。



(お地蔵さん)


(旧中山道名残の数メートルの道)


(志村坂下交差点右側が旧中山道/歩道橋から)

旧中山道へ進む前に、国道17号を右折し、
戻る格好で、すぐ先の信号で17号を渡り、
「薬師の泉」という小公園に寄ってみる。
清水坂は、当時はかなりの難所でした。
途中湧き水があり、旅人は癒されたそうですが、
その湧き水が「薬師の泉」にあります。

(薬師の泉)

江戸時代徳川吉宗が鷹狩に来て、休憩しこの湧水で
喉を癒したところ、あまりにも美味しかったので、
これを賞して清水薬師にちなんで
「薬師の泉」と命名したのが始まり。
(板橋区教育委員会)

今は庭園として板橋区民の憩いの場となっているが、
この庭園の奥を見るとかなりの崖になっており、
清水坂が難所であったことを思い出させる。


(急坂の階段がある薬師の泉)


(湧き水)

元に戻り、国道17号に沿って環状8号線を渡り、
工場や住宅の間をしばらく進むが、特筆すべきものは無く、
また17号に合流する。
すぐ新河岸川を渡る浮間橋がある。
橋の手前の左側一角が元「志村が原」と云い、
鷹狩が行われた場所というが今は何も無い。

新河岸川は江戸と川越を結ぶ舟運で知られた河である。
大きな船が五穀を積んで行き来したし、洪水で難破し、
積荷の小豆が流れ川岸に小豆の沢が出来たという。
小豆沢(あづさわ)の地名が出来たゆえんである。
川の名は、以前は「荒川」で、下流が隅田川である。

現在の荒川は洪水が多いため、荒川放水路として
明治43年に着手、人工的に作られ、
20年後の昭和5年完成したものである。
(国土交通省荒川河川事務所)


(浮世絵荒川「戸田の川渡し場」)

橋を渡るとすぐ戸田橋に出る。
昔は橋がなくこのすこし下流に舟渡しがあった。
その為かどうか確かではないが、東京側の地名を
「舟渡」(ふなど)という。

なお、さらに下流に新荒川大橋(国道122号線)があり、
日光御成り道があった。

おなり道では、一般の旅人は、舟渡しであったが、
将軍が河を渡るときは、船の上に板をかけ、船橋にした。
(北区教育委員会)

この船橋や、舟渡しがあった埼玉県側の地名を
川口市「舟戸」(ふなと)というのも興味深い。