![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/d0/413cc71f7fad18bfe305d9d32b686128.jpg)
(脇本陣跡)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/ff/832c33103fbe3088dfa3150d8c3c3a7b.jpg)
(365号線の交差点)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/f0/8d6bd32711a9b9cfea41dbd7442815eb.jpg)
(西首塚)
(関が原宿5)
中山道を歩き始めてから、今日で43日目。(2011年10月18日)
天候晴れ、気温24℃の予想。
東京発6:26新幹線で名古屋。
JR名古屋発8:39→JR大垣→JR関が原着9:27。
JR関ヶ原駅を出て、中山道となる国道21号線を右折する。
まもなく脇本陣跡があり、385号線と交差する信号に出る。
ここを右折すると北陸へ延びる北国街道である。
横断歩道でこの信号を渡り、中山道を直進する。
すこし行くと右手に戦国武将の旗指物がはためいている所があり、
近づくと西首塚とある。
奥のほうに小さな祠が二つ並んでおり、
馬頭観音や千手観音が祀ってある。
その中央が塚になっており、大樹の下に首塚はある。
しかし塚の上に建っている石柱には、
「関が原合戦戦死者胴塚」と刻まれている。
関が原教育委員会の説明によれば、
(戦死者数千の首級を葬った塚である。)としている。
また、塚の上には小さな五輪塔が沢山並んでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/1e/1591db37fa8df425ccf1dee094b3223a.jpg)
(千手観音と馬頭観音の二つの祠)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/fb/3aedb5d2b0dff0a11a9644c534946767.jpg)
(少し見難いが戦死者胴塚とある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/12/3e8f716e559aa66604b96a9649bd0d27.jpg)
(塚の上の数多く残るの五輪塔)
そこから少し先に国道21号線から分かれて左に入る道がある。
この道が中山道ではなく、少し先に(松尾)の信号があるところに、
左折道路があり、入り口に「是より中山道 関が原町」と書かれた
標柱があるところで左折するのが正しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/5c/599ddf5f50493ae8177add066e18f138.jpg)
(左折する道があるがここは曲がらない)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/e2/a67904534b72150cff70d6ee0a3bdc23.jpg)
(国道21号線上の「松尾」の信号を左折)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/31/2450e530a8c4433f257f99aab0735a6c.jpg)
(信号脇の左折道路の左手に「是より中山道」の標柱がある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/f6/e6b5af6fef10c85cb3f26f3552e7ff53.jpg)
)「中山道」の案内標柱)
やがて、不破の関の東城門(ひがしきもん)跡があり、
関が原町の説明によれば、
(東城門は日の出とともに開門され、
日の入りとともに閉門された。
また奈良の都での事変や天皇の崩御など、
国家的大事変が起きると、
中央政府の指令によって固関が行われ、
すべての通行が禁止された。)とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/c5/f17b78fff88bf5a09d3d43a3cc2e2e30.jpg)
(不破の関東側の大木戸ー東城門ー跡、と福島正則陣跡の案内)
ここに福島正則陣跡100mの案内があるので、
寄り道をすることにする。
そこは福島正則陣跡であると同時に、
春日神社にもなっている。
神社前には、その昔月見の名所であった場所に「月見の宮大杉」と呼ばれ、
樹齢800年余と推定される、
関が原町指定天然記念物の杉の大木がある。
ここに、関が原の合戦の折、福島正則が陣を敷いた場所である。
福島正則については、
(福島正則は関が原の合戦の折、先鋒となったが、
一番鉄砲の功名を井伊直政隊に横取りされるや、
正則自ら鉄砲隊を指揮して、
宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、
一進一退の攻防戦が続きました。)(関が原町)とある。
秀吉の出自が武士ではないので、
その家来たちは賢いとはいえない人々が多く、
粗野で直情径行にあり、腕力だけはひけを取らない。
福島正則も、おだてられれば、
すぐ敵の味方についてしまうような人だったに違いない。
中山道に戻り先に進むと、左手に白壁の美しい建物が見える。
不破の関である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/80/bffdbd61068ba95bededfc78e409ad7f.jpg)
(福島正則陣跡への道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/6d/80b3d09142a359604a584e51632c74e4.jpg)
(福島正則陣跡、月見の宮大杉)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ec/737137ad807923aed3d77a7533f33f1f.jpg)
(不破の関跡)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます