中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

春日部宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 23)

2013年11月30日 11時22分44秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(戸井橋と春日部市を示す案内看板)


(春日部宿)
11月19日快晴、気温16℃の予定。
せんげん台駅を降りて、国道四号線に合流している、
日光街道に進む。

すぐ、新方川に架かる戸井橋に出て、ここを渡ると春日部市で粕壁(*)宿に入る。
(*)江戸時代には粕壁と書いた。
少し歩くと、左手に背の高い松ノ木が二本立っているのが見える。
これが村の鎮守の大枝香取神社で、武里観音で知られる歓喜院に隣接して、
寺鎮守として祀られていた。
明治期の神仏分離政策で、境内が分けられ、
その後近隣の神社を合祀し、付近(旧大枝村)一帯の鎮守となった。
五穀豊穣の神として崇められている。

(二本松のある大枝香取神社)

(隣接する歓喜院の門)

(歓喜院)

大枝香取神社を過ぎると直ぐ、武里駅左の案内看板がある。
左方向に行くと武里駅を越えて岩槻に出るようだ。
「宮内庁埼玉鴨場」へ出る前に、道標付庚申塔があって、
「左じおんじ道」(慈恩寺道)の案内があったが、
岩槻にある慈恩寺に行くには左方向が正しいことが分かる。

(武里駅左、と岩槻左の道路標識)

旧日光街道は、国道四号線に合流して単調な道を何処までも進みます。
やがて左に「一ノ割駅」の案内看板を見て、
なお進むと東武野田線のガードをくぐります。
この野田線は先で春日部駅に通じています。
今日は春日部駅から帰宅予定で出てきましたから、
もうまもなく春日部と思って元気付きましたが、
まだまだ先があるようです。

(一ノ割駅)

(東武野田線のガード)


道路の巾が狭くなり、歩道も狭くなるとすぐ
「日本橋から35km」の案内があり、
先の信号が変則の交差点であることが解かる。
交叉点に近づくと、直進は四号線、左折は旧日光街道、春日部駅方向、
右折は松伏町方向である。

(日本橋から35kmの案内、四号線直進、左春日部駅、右松伏町)


正面に「東陽寺」が見え、右手に「東八幡神社参道」の看板が見える。
東陽寺は松尾芭蕉が奥の細道に旅立ち、最初に宿泊した場所と言われる。
看板目当てに東陽寺に入ると、長い階段の先に本堂があり、

階段横に石碑で
「廿七日の夜、カスカベニ泊マル。江戸ヨリ九里余」と書かれており、
左下に曾良と芭蕉の旅姿が描かれている。
これは芭蕉に同行した河合曾良の旅日記の一部である。
(直進左に東陽寺)

(東陽寺)

(直進右手に東八幡神社参道)

(本堂周辺の様子)

(本堂階段横の石碑)

そこで左手を見ると、山門らしきものが見える。
さては反対側から入ったと見える。
山門のほうに行くと、山門から反対側に通り抜けをお断りしますと書いてある。
ボクは逆に反対側から山門へと通り抜けてきた。
出てきた道路が春日部駅に向う道路で、
春日部駅東口行きのバスが通っていった。
(東陽寺山門と六地蔵)

どの当りで左折するかバスの行方を眺めていると、
バスはかなり先の信号で左折している、
疲れた足を引きずって歩き、左折するも駅はさらに奥にあって、
先ずロータリーをぐるりと回って駅入り口に向った。
4:30PMと言うのにあたりは、駅も電気の灯りの方が明るい。
4:38発の急行で家路に着いた。
(春日部駅)



越ヶ谷宿2(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 22)

2013年11月26日 11時01分32秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(新越谷駅)


(新越谷から春日部宿へ)
新越谷駅は、武蔵野線南越谷駅が出来てから、
これと連絡できるように出来た新駅のように思える。

駅を出て、日光街道へ向う。
街道に出ると、左に武蔵野線のガードがあり、潜って進む。
しばらくは、何の変哲も無い町の中を進んでいくと、
道路はY字路になり、左へ行くと道路が細くなる。
旧街道はこの細い方へ進むのであるが、この手前に歩道橋があり、
その右に照蓮院駐車場の看板が見える。

(武蔵野線のガード)

(道路はY字路となり、左が旧日光街道)

(照蓮院の看板)

(山門)

駐車場の先を右折すると山門があり、
門前に「真言宗 照蓮院」の石柱が建っている。
この寺院は、信玄の子 武田勝頼の遺児
 千徳丸の供養塔があることで知られる。

門を入り本堂に向うと、千徳丸供養塔の案内がある。
(瓦曽根(地名)秋山家の祖は、甲斐の国武田氏の家臣秋山信勝であり、
その子長慶は、天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、
勝頼の遺児千徳丸を伴って、この地瓦曽根村に潜居した。
千徳丸は早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となって、
その菩提を弔ったと伝える。
寛永十四年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と
刻まれた五輪供養塔が建立された。――後略)(越谷市教育委員会)
なお、照蓮院のご本尊は越谷市の文化財「木造地蔵菩薩立像」であるという。

(照蓮院の本堂)

(本堂左手の秋山家墓所)

(湯殿山千徳丸の五輪の塔真ん中の小さい墓石)


照連院を出て、Y字路を左へ進む。
ここからが越谷宿で古い建物を見ることができる。
元名主であったのか、黒塀に冠木門の大きな家、
蔵が横にある宿場の風情を残す家(塗師屋)、
その隣の鍛冶忠(以前は鍛冶屋だったのか)、
蓮子格子の家、などなど。

(黒板塀に冠木門の家)

(塗師屋の建物)

(元鍛冶屋?の鍛冶忠)
(蓮子格子の家)


その先で元荒川に架かる大橋にでて、越谷宿はここで終わる。
下流を見るともう一つの橋があり、これは49号線に架かっている。
この橋、元荒川橋の右横に道路があり、
その奥に越谷御殿跡の碑があるというので、
寄り道であるが進む。

徳川家康が日光街道を制定し、越ヶ谷宿に御茶屋御殿を造り、
鷹狩の拠点としていたが、明暦三年(1657)の江戸の大火で、
江戸城も被災したため、このお屋敷を江戸に運び、江戸城を再建した。
その後も家康・秀忠の別荘があったところとして、
「御殿」として今に至っている、と言う。

(元荒川の大橋)

(川下の49号線上に架かる元荒川橋)

(元荒川橋の橋脚)

(元荒川橋の右横の道路へ入る)

(越ヶ谷御殿跡の碑)

(越ヶ谷御殿跡の碑、左横に板碑の案内がある)

(左横に板碑の案内)

この御殿跡の碑の先50mの所に、建長元年の板碑があるというので、
寄り道ついでに、見て回ることにする。
板碑そのものは、建長年間によく造られたもののようで、
我が家の近くの龍福寺にもある。
秩父産の緑泥片岩で出来ている塔婆と言われている。
表面には梵字で阿弥陀三尊が刻まれているのが多いのですが、
ここの板碑はどうも線で描かれた阿弥陀像のようである。

(板碑のある場所)

(板碑にある線描画が仏を表している様)


元に戻って元荒川の「大橋」を渡り、街道を進むと、
左の奥に東武線元越谷駅が見える。
さらに進むと、東武線の高架と平行するが道なりに進むと、
道路は高架下へと左折する。

左折した道路は元荒川の土手にぶつかり、
右へ曲がっていく先に三体の石造物がある。
近寄ると、一番奥の碑の正面に青面金剛と刻まれ、
文字の下に三猿が刻まれている庚申塔である。
左横には難しい文字で「左 じおんじ道 乃じま道」と彫られていて、
道標にもなっている。
埼玉県には有名な慈恩寺(*)がさいたま市岩槻区にあるが、
ここまでの道しるべであろうか。

(大橋を渡る)

(東武線元越谷駅)

(東武線高架と並行する)

(高架を左折する)

(左折して出たところ元荒川の土手が見える)

(土手にある三体の石造物)

(青面金剛の文字と下部に三猿が刻まれている)

(道標左じおんじ道の文字)

(*)埼玉の慈恩寺は、天台宗の寺院。山号は華林山。院号は最上院。
本尊は千住観世音菩薩であり、この寺は坂東三十三箇所の第12番札所である。
戦争中、日本軍が南京で発見した、孫悟空が出てくる西遊記で有名な、
玄奘三蔵法師の頭骨を持ち帰り、
この寺に納められていると言う。

先に進むと、左手に「宮内庁埼玉鴨場」の入り口が見える。
冠木門で宮内庁が管理しているらしく、門は閉ざされている。
鴨の狩猟期間は11月~2月と言うが、
天皇のお客様接待の場として使用されるというが、
今までに使用されたと、ニュースでも聞いたことが無い。
この鴨場、埼玉鴨場というから、他にも鴨場はあるかと、
調べた所、千葉県市川市にもあるという。
(宮内庁埼玉鴨場入り口)

(閉鎖されている埼玉鴨場の冠木門)


街道を進むと東武線の踏み切りに出て、これを越えてしばらくすると、
国道四号線と交差する。四号線はこの先で左折するから、
今歩いて居る旧街道と平行して進み、この先で合流する。

合流して直ぐ東武伊勢崎線「せんげん台」駅左への案内看板が見える。
時間も16時を回ったところでもあり、
早くも日が落ちて、まもなく暗くなりそうで、
「せんげん台駅」から帰宅することにした。

(東武線の踏み切り)

(国道四号線と交差する)

(四号線は直ぐ左折する)

(せんげん台駅入り口)

(東武線せんげん台駅)




越谷宿(旧日光・奥州道中を歩く 21)

2013年11月15日 10時41分09秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(草加松原の松並木)


(草加松原から越谷宿へ)
11月5日気温22℃快晴。東武伊勢崎線松原団地下車 PM14時。
旧日光街道にある千本松原に向う。

右に綾瀬川が流れる松並木の街道に出る。
日光街道は杉並木で有名であるが、
ここは松並木で松尾芭蕉も河合曾良も通った並木だ。

松並木の街道に入ると、芭蕉文学碑が目に付く、
「ことし 元禄ふたとせにや 奥羽長途の行脚 
只かりそめに思いたちて・・・・」で始まる。
天気が良いせいか普段の日なのに結構な人が歩いて居る。

(芭蕉の文学碑)


綾瀬川に架かる橋に立つと、奥のほうに高速道路の高架が見える。
あれが友人に聞いた外郭環状道路と確認する。
松並木の松は、一本として同じ形のものは無く、
あるものはそびえ立ち、またあるものは腹這う、
時には二重三重に重なり合うものあり、
東北大震災で残った一本松のようなものもある。

(重なる松並木と先に見える外郭環状線の高架)

(腹ばう木もあり)

(東北大震災で残った一本松に似たものもある)


地面に松原1000mと表示があり、
ここまで千メートル松並木が続いていることを示している。
その表示が1500mに変った所に、
草加松原がそろそろ終わると、丸い輪の彫像が置かれている。
道路は狭まり、松並木が切れる頃、
左手に「今様 草加宿」の標柱があり、草加宿もここまでを教えている。

左手を走る旧日光街道の車は、外郭環状道路に入るべく信号待ちをしている。
歩行者は外郭環状道路を地下へ潜り抜ければ良い。

(松原の終点、丸い輪の彫像)

(今様 草加宿の碑)
(日光街道の自動車道)

(外郭環状道路を地下へ)


潜り抜けた外郭環状線の基礎部分の壁面に、
奥の細道を想像して描いたタイル絵がある。
説明に、
(草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、
元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、
「その日ようやう草加といふ宿に着きにけり」と記しています。
これを想像して描いたものです。)とある。

(おくのほそ道のタイル絵)

(おくのほそ道のタイル絵2)

(おくのほそ道のタイル絵3と地下通路)


道路は細くなり、綾瀬川に沿って桜が植えられ、
右「松原遊歩道」左「槐戸橋(さいかちどばし)」の標柱が、風雨にさらされ、
半ば消えかかったようにして建っている。

道路は次の橋で交差しているが、車が多くて道路横断が容易ではない。
(さいかちどはし)の橋を横断すると、名前に似合わない、
かわいい鳥の飾りが川沿いに、橋脚にはカブトムシかカナブンが飾られている。

この橋の先にもうひとつの橋が見える。
その橋の右側には木がこんもり盛り上がって見えるが、
おそらくあれが「蒲生の一里塚」に違いない。

(綾瀬川と桜並木)

(槐戸橋の標柱)
(さいかちどばしの橋脚)

(川に沿ってある小鳥の飾り)

(橋のカナブン)

(先に見える橋と一里塚跡)


川沿いに歩いて行くと左手に愛宕神社の鳥居があり、祠もある。
町の鎮守であろうか。
次の橋に出ると、「がもうおおはし」とあり、橋脚に灯籠が据えられ、
壁面には、「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり  高浜虚子」
の俳句が刻まれている。
橋の反対側には、「そうかふるさと歩道と川に培ったふるさとのまち」とあり、
川に沿って「あやせ川コース 5・5km」の町の案内地図が描かれている。

(愛宕神社)

(がもうおおはし)

(灯籠と高浜虚子の句碑)

(そうかふるさと歩道の地図)


橋を渡ると予想通り「蒲生の一里塚」が右側にある。
若い男女が木陰のベンチで語らっている。
橋を渡る前は草加市で、渡り終えると越谷市、
何か駄洒落の中を歩いて居るようだ。

「草加、越谷、千住の先」これを受けて「幸手 栗橋 まだ先よ」

(蒲生一里塚)


埼玉県と越谷市の両教育委員会の説明を要約すると、
(「五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽掘が合流する地点に、
日光街道を挟んで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、
「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。
なお、日光街道上にある塚は、
埼玉県にはこの「蒲生の一里塚」のみで貴重なものである。
塚の上には、ムクエノキの古木のほか松・イチョウが生い繁っている。)とある。
中山道の志村の一里塚は、板橋区志村にあるから、
ここは越谷市蒲生であることが解かる。

(一里塚のエノキなど)



旧日光道中は、この一里塚のまん前の道路に入っていく。
橋を渡ってきたら川沿いに左折する感じだ。
途を進むと、歩道に当たる部分は、元小川があった上を歩くことになる。
街は静かで、穏やかな温もりがあるような感じである。
途中、左側に医院があり、右側に郵便局あって、生活道路の中を歩いていくと、
やがて右に黒い冠木門が見える。

(街道は真ん中の道)

(医院の看板がある暗渠の上を行く)

(郵便局が右手に)

(黒い冠木門)


これが清蔵院である。
その奥に山門が見える。これは越谷市の文化財に指定されていると言う。
山門の建立者は、日光東照宮造営に狩り出された工匠の一人で、
日光造営中にお世話になった因縁から、
東照宮造営の寛永13年(1636)の二年後、国許から再び蒲生に来て、
この山門を作ったという。
今や400年の時を刻む。

(清蔵院の山門)


山門をくぐり本堂に進むと左手に不動堂とその先に池があり、
にこやかなお地蔵様、観世音菩薩、弘法太子像があり、
右手には鐘楼が夕日を浴びている。

(清蔵院の本堂と鐘楼)

(鐘楼の鐘)

(左手の不動堂)

(不動堂先の池の前の地蔵尊、観世音、弘法太子像)

(県道49号線に合流)

(新越谷駅)


清蔵院を出ると旧日光街道に合流し、新越谷駅から帰宅する。
本日、2万歩=約12kmであった。
(越谷市のマンホール)


先日、松尾芭蕉が「おくのほそ道」をこんな姿で歩いたのではと、
想像させる人物に出会った。
東京では珍しい托鉢僧である。

(托鉢僧)