中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

舟つなぎ石(旧中山道を歩く 122)

2007年10月25日 07時04分37秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(舟つなぎ石)

(塩名田宿)
塩名田の交差点から西に進み、千曲川までが塩名田宿である。
天保14年の記録によれば、町内は東西4町(約440m)と小さな町で、
今も古い寂れた感じの町が残っている。
町の中ほどに、塩名田宿本陣・問屋跡の標柱があり、本陣を勤めた丸山家が現存している。
(塩名田宿本陣・問屋跡)

広重描く浮世絵「木曽海道六十九次の内 塩なた」にあるように、
千曲川は大きな川幅を持つ川である。絵は、時刻は早朝、渡し場の茶屋で、
仕事の始まるのを待つ船頭の一群とそこに合流する三人が描かれている。

(広重描く浮世絵「塩名田宿」蕨宿にあったタイルより)

(広重画く浮世絵 木曽海道69次之内 「塩名田宿」)

塩名田の町は小さく、すぐ道路は左へ大きくカーブしているが、
カーブする右角に、旧中山道の案内標柱があるので、案内に従って
右のわき道に入るとすぐ千曲川に出る。
川岸に出ると河原に妙な形の岩があり、岩のてっぺんに孔がある。
「船つなぎ石」という。昔千曲川を渡るのに、船をつなぎ、その上に
渡した板の上を歩いて川を渡った。その船をつないだ石である。

(道路は左へカーブするが旧中山道は右側を行く)

(河原にある舟つなぎ石)

今は、左上に立派な橋が架かっているのが見えるが、
先ほど左へ大きくカーブした広い道路がこの橋に通じている。
橋は中津橋といい自動車専用道路で、橋の左側に歩行者用の道路が作られている。
対岸の「御馬寄(みまよせ)」(地名)の橋の袂に、小公園があって、
塩名田の「舟つなぎ石」の説明が書いてある。

(右が車専用の中津橋)

(中津橋の歩道橋のマーク、上の写真の左側が歩行者用)

(塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。
今は頑丈な中津橋が架けられているから、何の支障も無いが、
江戸時代にはここを渡るのは大変であった。橋を架けてもすぐ洪水で流されてしまうからである。
しかもここは江戸時代の主要街道の一つ中山道であったため、
橋が流されたからといって、いつまでも放置することができなかった。
このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地方の人々は、
渡川を確保するために大変な苦労をした。

「中山道千曲川往還橋」木内寛著によれば、
・~享保5年(1722)御馬寄側が投げ渡し橋・塩名田側が平橋で
両側から中州へ架橋
・~寛保2年(1743)御馬寄側跳ね橋・塩灘側が平橋
・~寛延2年(1750)舟渡し
・~享和2年(1803)御馬寄側跳ね橋・塩灘側が平橋
・~明治5年(1873)長さ70間の平橋

このように江戸時代を通じて架橋方式がたびたび変わったのは、
千曲川が「近郷無類の荒川」であり、2,3年に一回以上の割合で
橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による
「千曲川橋組合」での維持管理方式が継続不可能になってしまった。
そこでつくられたのが船橋会社で、明治6年(1873)に
船橋(九艘の舟をつないで、その上に板を架け渡して橋とした)が
架けられ、渡川が確保された。「舟つなぎ石」はその船橋の舟をつなぎとめたもので、
だから石の上部に穴があけられている。
明治25年県によって木橋がかけられ、船橋の役割は終わった。)
(浅科村教育委員会)

中津川橋を渡って中山道は西に向かうが、道路は長い上り坂が続く。

(中津橋を渡った御馬寄)

(古い民家と上り坂)





駒形神社(旧中山道を歩く 121)

2007年10月19日 08時26分46秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(駒形神社入り口)


(石橋から見た渓谷のせせらぎ)


(岩村田宿3)
「旧中山道を歩く」も121回目になってしまった。京都に到着する頃は、何回目になっているのであろうか?

定額 蘇民寺の妙楽寺を出て、民家のまばらな田んぼ道の
旧中山道を西に進む。しばらくすると右側にこんもりとした森が見える。
近づくと駒形神社の石碑があり、深い流れに石橋がかかっており、
橋を出たところに三基の道祖神がある。
橋の向こうにある階段を登ると平坦地があり、石の鳥居の奥に
小さな神殿が見える。


(三基の道祖神)


(階段と鳥居)

(この地方はいわゆる信濃牧の地であり、
神体は馬に乗った男女二神体が安置されていることから、牧に関連した神社と推定される。
再建は文明18年(1486)と伝えられるが、
形式手法から見て、その頃のものと考えられる。)(佐久市教育委員会)

神殿をのぞいたが社殿は堅く閉ざされ、
男女の神体を見ることができなかった。
平坦地は深閑として、鳥のさえずりとせせらぎの音が聞こえるのみで、
東京の喧騒からは想像することもできない静寂である。


(平坦地と神殿)

帰り道、神社の階段を下りるところに、
女と男をあらわす石造物に出会い、
神殿が堅く閉ざされている理由がおおよそ想像できそうである。


(神格化された?シンボル/正面女性、右/男性)

駒形神社を出ると道は下り坂になって、これを駒形坂というが、
坂を下りきったところにある信号の左側に「塩名田」の
標柱と道祖神の碑が並んで建っていた。

ここから「塩名田」である。


(「塩名田」の標柱と道祖神)





蘇民将来の物語(旧中山道番外記 6)

2007年10月16日 09時09分15秒 | 中山道番外記

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(定額 名覚山 妙楽寺の標柱、蘇民寺大祭の文字も見える)
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(妙楽寺の本堂)

(岩村田宿2)
妙楽寺の参道入り口の木柱に「佐久の蘇民寺」と書いてある。
しかも(毎年1月8日には蘇民将来を祈願する法要を千年以上執り行っている。)の記述には驚かされる。
百年ならまだしも千年の歴史ある祈願法要とはどんなものであろうか?

千年以上現代まで続いている蘇民将来の祈願法要については、
蘇民将来の物語が起源となっている。
その物語を、牛頭天王(ごずてんのう)の祭文
(祭文とは神仏に対する讃歌)より要約して以下に述べますが、
つたない現代語訳ですので、なにとぞご了承ください。

{蘇民将来の物語}
昔、蘇民将来(そみんしょうらい)、
巨丹将来(こたんしょうらい)という兄弟がいました。
兄の蘇民は貧乏でしたが、他人と接するとき自分の家族のように扱いました。
一方、弟の巨丹は大金持ちで、大金持ちによくある、
けちん坊を絵に描いたような男でした。

お釈迦様のいらっしゃる祇園精舎をお守りする神様に、
牛頭天王(ごずてんのう)という独身男性の神様がいました。
まだお嫁さんが決まっていないときに、
天竺の南から山鳩がやって来て、天王の庭の梅ノ木に止まり大声で、
さえずり言うには、
「南の国の竜宮には竜王の王女がいて、それはそれはたいへん美しくて、
三十二相(そう)、八十種好という特長を備えています。
(女性の容姿が美しく気立てがよく、女性として何事も器用にこなす女性。
つまり才色兼備の美人と言うこと。)
その王女こそきっと牛頭天王のお后(きさき)にふさわしいでしょう」
というのです。

牛頭天王はこれを聞きつけて、不思議な思いに駆られ、
ついに長本元年(999年)一月十三日恋の道にあこがれ、
南に向かって王女のもとに出発されました。

旅の途中、疲れもたまり、日も暮れかかったので宿を探すと、
運良くそこにお金持ちと思われる家がありました。
主人の名は巨丹将来(こたんしょうらい)といい、
蘇民将来(そみんしょうらい)の弟の家でした。
一夜の宿をお願いすると、けちな巨丹は「貸す宿はない」と断ります。
天王は再三お願いしますが、「くどい」とばかり巨丹は怒って、
仲間や一族と共に天王を追い出しました。

天王の望みはかなわず、松の根方に隠れていますと、女が出てきました。
天王が「私に宿を貸してくれぬか」と頼むと、女が言うには
「私は、巨丹長者の家のものですが、巨丹は自分がお金持ちのため
人の悲しみがわからず、道行く人を気の毒に思う事がありません。
こうした事情でお宿はお貸しできませんが、
ここから東方に一里ほど行ってお宿をお借りなさると
よろしゅうございます。」と親切に申しました。

言われたように行ってみると、松ノ木の林がある所に、
一箇所木陰がありました。宿とするにはもってこいの場所です。
そこに立ち寄って宿を借りることにしました。

その時女が出てきて言うには「私が人間に見えますでしょうか?
雨風を着物として、松ノ木に寄り添うて過ごして来たものです。
これより東に一万里ほど行きますと、親切な人がいます。
そこでお宿をお借りになるとようございます。」

言葉にしたがって、天王はそこでお宿をお借りになりました。
すると蘇民将来というものが出てきて言うには、
「私は大変貧乏で、一夜の宿の食事とするようなものも、
あなたのような身分の高い方をお泊めするような所もございません。」と。
牛頭天王が重ねて
「ただ宿をお貸しいただければ、それで結構です。何も気にしません。
あなたが食べる食事をいただければ結構です。」といわれました。
蘇民将来は住んでいるところを片付けて粟がらを敷き、干した筵を
敷いて牛頭天王の休みどころとし、また粟の夕飯でもてなしました。

牛頭天王は、心安らかにお休みになり、翌朝出発というときに、
蘇民将来が「これからどちらにお出でになりますか」と尋ねると、
「私は龍宮の王女を恋してしまいました。王女にお逢いするために、
南海を目指して旅をしています。ところが昨夜巨丹長者が
宿を貸してくれないので、悔しい思いをしました。
いつか巨丹長者を罰して滅ぼしてしまおう。」といわれました。

すると蘇民は「巨丹長者の嫁は、自分の娘です。
巨丹長者を罰しなさっても、どうぞ私の娘はお除きください」
と頼みました。
「それは簡単なことである」と天王は仰って「柳の木でお札を作り
(蘇民将来の子孫なり)と書いて、男は左側、女は右側の腰紐に
掛けておきなさい。それを目印として許してやろう」といわれ、
南海を目指して出発なさいました。

その後、牛頭天王は龍宮の姫君に出会い結婚されて、
十二年のうちに八人の王子をもうけて帰国されました。
その従者は九万八千人もありました。

巨丹長者はこのことを聞くと、魔王が通るといって、
四方に鉄の塀を築いて、上空には鉄の網を張り、
屋敷を守り固めていました。
また、蘇民将来は天王が帰国されることを聞いて、
金の宮殿を造って待っておりました。
牛頭天王はこれを見て「これはどうしたことか?」と問われました。

蘇民が答えていうには、「以前、あなた様がお通りなされた後、
天より宝物が、地より泉が湧き出て、貧乏であった我が家は
あらゆる宝物で一杯になりました。
それであなた様を三日の間お泊め申したいのです。」と。
そんな訳で、天王は三日間お泊りになり巨丹長者のところへ使者を送り、
様子を窺わせたところ、天地を封鎖してアリの入る隙間もないという。

その時、目鼻の利く間者を入れて見張る中に、
善智識の水が流れているところ
(=わずかな油断の隙間)がありました。
そこから侵入して、九万八千人の従者たちによって七日七夜のうちに
巨丹長者の一族を滅ばしてしまいました。
その後は「巨丹長者の子孫というものは、一人も生きることはできない。」
と大王は言いました。
またその時より蘇民将来の子孫は許され、繁栄したということです。

ここまでが蘇民将来についての物語で、この物語からわかるように、

蘇民将来の大祭は、
(病気が治り、身も心も安穏で、長命になり、幸福がましますように!
七種の災難が無くなり、七種の幸いが生じ、家内は富んで、
子孫は繁盛しますように!
ことに邪気、怨霊、呪詛が遠くに追い払われますように!)
を祈願したものであることがわかる。
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(妙楽寺の鐘楼)




岩村田宿(旧中山道を歩く 120)

2007年10月01日 08時32分06秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(岩村田の商店街)

(岩村田宿2)
岩村田は内藤家一万五千石の城下町であった。

旅人は城下町を好まなかったのか、本陣脇本陣はなく旅籠も少なかった。
しかしこの近辺の経済の中心地として、現在も商店街が活動している。
街道の右手に見えた大きなお寺は、西念寺といい、
内藤家の菩提寺で、七代目岩村田城主 内藤美濃守正国のお墓がある。


(西念寺)

また小諸城主 仙石権兵衛秀久のお墓もあるという。
仙石権兵衛は出府しての帰りに埼玉県鴻巣市で発病し、亡くなっており、
鴻巣市の勝願寺に分骨されお墓が残っている。(旧中山道を歩く 43を参照願います)
また、仙石権兵衛の本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。

その西念寺は龍雲寺と同じく由緒ありげな厳かな雰囲気のお寺である。
本堂といい、鐘楼といい、山門といい、どれをとっても凛としている。
信濃に有るお寺はみんなこんな雰囲気を併せ持っている。


(西念寺の山門)


(鐘楼)


(山門から見た本堂)

中山道に戻って商店街を抜けると、相生町の信号に出るのでこれを右折する。
すぐ小海線の踏切を渡ると、右側に「西宮神社」があり、
踏切には中仙道踏切と書いてあるので、道を間違うことはない。


(相生町の信号、ここを左折)


(中仙道踏み切り)


(西宮神社)

すぐ左側の万年塀脇に道祖神の石碑が三基並び、その先の左側に八幡神社がみえる。
中央に神社、手前の境内には石造群が並ぶ。石には月神尊、庚申、妙見尊などと刻まれている。


(万年塀脇の道祖神)


(八幡神社)


(八幡神社境内の石造群)

中仙道を進むと、道路は右手の岩村田高校、左手の浅間総合病院を過ぎると、
田んぼ道で日陰になるところはない。
やがて道路正面に「相生の松」の史跡がある。
相生の松は日本のいたるところに在り、縁結び、和合、長寿の象徴とされる。
またここにある石碑には、
「其むかし 業平あそんの尋ねけん おとこ女の松の千とせを 」の歌が彫られている。


(相生の松)

何よりもこの「相生の松」を有名にしたのは、
皇女和宮が下向のおり、休憩された場所であることだ。

皇女和宮東向の行程表(板橋区教育委員会の資料による)では、
前日宿泊した八幡宿を出発し、午前の休憩を「相生の松」で、
昼食を小田井宿で、その日は沓掛宿に宿泊された。
八幡から岩村田まで約8kmあり、
岩村田から沓掛まで14kmあって、
一日22km進んだことになる。


(稲荷神社)

「相生の松」から中山道は直角に右に折れる。
しばらくは田んぼの中の道をテクテク歩く。
右手に稲荷神社があり、そこからしばらく歩いて、
やがて左側に定額名覚山妙楽寺というお寺がある。

佐久観光協会によれば、
(妙楽寺は貞観八年(866)「信濃の国五ヶ寺を定額(*1)に列する」と
日本国史に明記されてある信濃五山(*2)の一寺に当たる。
妙楽寺では一月八日、薬師如来を本尊に蘇民将来を祈願する法要を
千年以上今日まで執り行っています。)とある。

(*1)定額(じょうがく)とは、延暦二年(783)以降朝廷が定めた官寺であり、官稲などが給されるお寺を言う。
(*2)信濃五山は伊那郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺の五ヶ寺をいう。
 
妙楽寺の参道入り口の木柱に「佐久の蘇民寺」と書いてある。
しかも(毎年1月8日には蘇民将来を祈願する法要を千年以上執り行っている。)
の記述には驚かされる。百年ならまだしも千年の歴史ある
祈願法要とはどんなものであろうか?

「定額」といい「蘇民寺」といい仏教には解からない言葉が多い。
それともボク自身無教養ということか?

蘇民将来について次回につづく


(定額 名覚山妙楽寺、右側に蘇民寺の字が見える)