中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

左右にある一里塚と宿場の本陣(旧中山道番外記 27)

2012年07月06日 10時20分03秒 | 中山道番外記
dsc000552
(志村の一里塚、左右一対の一里塚①番目)

(左右一対の一里塚)
徳川幕府は、五街道を制定すると、その街道の一里ごとに塚を造らせた。
街道の両側に造った一里塚は、中山道69次の中でも、
現在(2012.4.24.)一対で残っているのは、僅かに15個しかない。
全部で135個在ったうちの15個である。
左右の開きでは、地形の関係で道幅が異なり千差万別であるが、
左右で前後にずれているもので、16mもずれているものがある。

国の指定史跡になっているのは、中山道上では二つあるが、
一つは板橋区の志村の一里塚であり、もう一つは垂井の一里塚である。
しかし、道路左右に残っているのは「志村の一里塚」で、
ほぼ原形をとどめており、頂上に榎が植えられている。

当初一里塚が造られた時、「植える木は余の木にせよ」、
あるいは「ええ木にせよ」と、名古屋弁で「良い木にせよ」と家康が言ったらしいが、
良く聞こえなくて、聞きなおすのもはばかられ、
榎の木ということにした。

榎も初代のものでは無さそうであるが、現在残っている木は、
しだれ桜、松、ケヤキだったりする。
明治になって伝馬制度がなくなり、参勤交代もなくなり、
鉄道が敷かれてからは、まさに無用になった。
0007
(平出の一里塚、松の木が植えられている)

勿論、本陣も脇本陣も無用になり、
不要になった大きな建物は、郵便局や警察署、学校に当てられた。
もともと本業で酒造業であった所はそのまま酒造を続けたが、
旅館業に変ったものもある。

ボクの記憶に新しいのが、新宿にあった「ホテル本陣」。
もう50年も昔の話で、今はどうなったか知らない。
木曾の「細久手宿」では、今でも旅館業を営んでいる。
もっとも本来の本陣でなく、尾張藩領指定の本陣であったらしいが。

尾張藩領と言えば、木曾福島も尾張藩であったらしいが、
尾張徳川家が中山道の長い道のり(名古屋から木曾福島にいたる)を、
管理していたのは、徳川家康が敵の攻撃を事前に察知するためであったに違いない。
碓氷峠の関所も信用できる家来に守らせている。
0005
(馬籠本陣跡の門、藤村記念館になっている)
0008_2
(「夜明け前」に出てくる馬籠本陣裏手の土蔵の隠居所)

本陣を紹介した本が島崎藤村の小説にある。
「夜明け前」である。
ここで本陣の条件なるものが述べられていたが、
その中でボクにとって衝撃的であったのは、
緊急の場合逃げ延びる事ができる裏口が必須条件であったことだ。

本陣とは、武士たちにとっては戦場の中の本部であり、
敵に襲われた場合に、逃げ出す事が出来る街道につながる裏口が
必要条件である事だ。

このときすぐに思い出したのが、桶狭間の合戦である。
信長は、休憩中の今川義元の本陣へ攻撃をかけ、
見事これを討ち取るが、
このときとっさに逃れる事が出来る裏口があったら、
今川義元は逃げおおせたに相違ない。
すると歴史は変わってくる。

これは偽らぬボクの気持ちだ。そうすると秀吉もなく、
家康もなかったかもしれない。
家康が無ければ、中山道もなく、
ボクのこの一文も無かったであろうに・・・。
と考えると、歴史はとても面白い。
0023
(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)






琵琶湖畔の古城たち(旧中山道番外記 26)

2012年05月11日 11時11分02秒 | 中山道番外記

0027
(安土城天守閣(文献により復元)

0029
(天守閣内部、上段の床)

(安土、長浜、小谷、彦根、佐和山の古城たち)

戦国時代、天下取りを夢見た名将たちが居城を築いて、
戦った逸話が数々残る滋賀県。
とりわけ琵琶湖の東岸では、
名だたる武将の城跡をたどることができます。

「第六天魔王」などの異名で恐れられ、
武力で天下統一を推し進めた織田信長。
その信長が、天下取りの拠点として築いたのが「安土(あづち)城」でした。
琵琶湖東岸のほぼ中央(現在の滋賀県蒲生郡安土町)にある、
湖を見下ろす安土山の山上に築かれていた安土城。
五層七重の巨大な天守閣は、最上部の6階が正方形、
その下の5階が正八角形という特異な形状だったそうです。
0028
(正方形の天守閣とその下が八角形であることが判る)

1579年に完成した安土城ですが、3年後の1582年、
本能寺の変で信長が討たれて間もなく、謎の失火によって、
天守閣や本丸などが焼失してしまいます。
以後、安土城は再建されることなく廃城となり、
安土山には石垣と城跡を残すだけです。

築城時の図面はおろか、
城を描いた絵なども見つかっていないため、
安土城は「幻の名城」とも呼ばれ、
真の姿は謎に包まれています。
ただ、文献などをもとに、
安土城の5・6階を原寸で再現したという「安土城天主 信長の館」が、
安土町に開設されています。
安土城の発掘調査は今も続いているそうですから、
いつの日か、その全容が明らかになる日がやってくるかもしれません。
0032
(信長の館、この中に安土城は復元されている。)

浅井長政が、悲運の最期を遂げた「小谷(おだに)城」は琵琶湖の北東岸、
滋賀県東浅井郡湖北町にあった山城です。
標高約495mの小谷山の最高峰から南へ延びる尾根伝いに、
本丸など小谷城の主要な城郭が築かれていました。
浅井長政は信長の妹お市の方を妻に迎え、信長と同盟を結びます。
ところが、信長は、浅井と縁の深い朝倉氏を滅ぼそうと出兵します。
信長との同盟維持か、朝倉とのきずなを守るかで悩んだ浅井長政は、
信長に対抗する道を選びました。
1573年、織田軍に攻め込まれた浅井長政は、
降伏を勧める羽柴(のちの豊臣)秀吉にお市の方と3人の娘たちを託して、
自刃して果てます。享年29歳でした。
浅井家が滅んで、小谷城は廃城となりました。
今は石垣など城の遺構のいくつかが、
小谷山の山中に残っているようです。

落城寸前の小谷城から、お市の方とともに脱出した浅井長政の3人の娘。
そのうちの1人が、
のちに豊臣秀吉の側室となる茶々(淀殿:よどどの)でした。
秀吉と淀殿との間には、後継者となる秀頼(ひでより)が誕生します。
ところが、秀吉の死後、幼い秀頼を総大将に豊臣家を支持する勢力と、
徳川家康とが対立し、
豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)が天下を二分して対決する
「関ヶ原の戦い」がぼっ発することになります。

関ヶ原の戦いで、西軍の参謀として家康に挑んだのが、石田三成でした。
その石田三成の居城「佐和山(さわやま)城」もまた、
琵琶湖の東岸にありました。
佐和山は、JR琵琶湖線で安土町から湖北町へと向かうちょうど中間あたり、
滋賀県彦根市にある標高約232mの山です。
佐和山城はその山上に建っていました。
築城は鎌倉時代とも伝えられていますが、
石田三成が城主になって大規模な改修を行い、
五層(他説では三層とも)の天守閣を備えた
壮大な山城に生まれ変わったのだそうです。
0042
(彦根城の天守から見た佐和山)

石田三成が、関ヶ原の戦いに敗れ、一族が滅亡したあと、
佐和山城には家康の側近、井伊直政が入城します。しかし、
井伊直政は新たに「彦根(ひこね)城」を築いて居城としたため、
佐和山城は廃城となりました。
彦根城は、国宝に指定されている天守閣をはじめ、
重要文化財となっている天秤櫓(てんびんやぐら)など、
現在でも往時の姿を目にすることができますが、
佐和山城は、今では石垣の一部が山間に埋もれて残るだけだそうです。
0037
(彦根城入り口)

0043
(彦根城)

0055
(彦根城を借景にした玄宮園)

琵琶湖の東岸にはこのほか、
豊臣秀吉が築いた「長浜(ながはま)城」(現在は天守閣を模擬復元して長浜城歴史博物館に)や、
秀吉のおいで、のちに養子となるものの、
最後は切腹させられてしまう豊臣秀次(ひでつぐ)が築いた
「八幡山(はちまんやま)城跡」などが残っています。
0059
(復元された長浜城)

戦乱の世に天下統一の野望を抱きながら、
夢かなわずに散っていった武将たち。
道半ばで倒れた城主と運命をともにするかのように、
城もまた、あるものは焼け落ち、
あるものは朽ち果てて歴史のかなたに埋もれて消えてなくなりました。
滋賀県の琵琶湖畔に、戦国時代を駆け抜けた英傑たちの足跡をたどる旅。
今はもうない城で繰り広げられた物語を歴史書片手にひもときながら、
皆さんも歩いてみませんか?
0061
(美しい琵琶湖)

0063
(竹生島)

0066
(宝巌寺へ登る信者群)

0067
(この中へ行くと、鶯廊下があり、観音堂があり、信者の皆さんが般若心経を詠まれる。)

0071
(竹生島神社)

0068
(竹生島の西国三十番札所、観音堂)






平宗盛 斬首さる② (「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」より

2012年03月27日 10時11分10秒 | 中山道番外記
(平家物語 巻十一 平宗盛斬首される②)
前回のつづきで、平家物語の巻十一のボクの勝手な現代語訳です。

京より来た高僧が言うには、
「今はご子息のことをあれこれ考えてはいけません。
仮に最後の様子を清宗さまがご覧になることがあっても、
お互いの心は悲しいものでございましょう。
生まれてよりこの方、栄華を極めた人は、
昔からほんの稀(まれ)にしかいらっしゃらないのです。
ご一門の母方の親族であなた様は内大臣になられたのです。
この世での栄華は何も残る所ではありません。
今このような目に遭われることも、
前世での所業がこの世の報いとなって現れたのでございます。
この世間や他人に恨みを抱いてはなりません。
大梵天が宮殿で深い瞑想の境地に入られる楽しみも、
束の間のものでございます。
まして稲妻や朝露のように、目まぐるしい人間社会では、
生命ははかないのは当たり前の事でございます。
刀利天(とうりてん=欲界第六天中の第二の刀利天は、人間界の百年を一昼夜として、
一千年の寿命を保つと言う。)の億千年も、
ただ夢のように短いものでございます。
三十九歳になられましたが、刀利天にとっては、
その三十九年もたった一瞬のことでございます。
不老不死の薬草を誰かなめた人がいるでしょうか。
誰が、東方の父、西王の母、の命を永らえることが出来ましたでしょうか。
力を世に示した秦の始皇帝は、贅沢三昧で好きなことをしましたが、
不老不死の薬草を手に入れることはかなわず、
ついには離山の墓に葬られました。
また、漢の武帝は若くして即位し、内外に多くの治績をあげ漢帝国を
揺るぎなき確固たるものとなさいました。
そして、同じように不老不死を願い神仙思想に傾倒しましたが、
苔むす茂陵に眠っております。
生あるものは必ず滅します。
お釈迦様でさえ栴檀や沈木による火葬を避けることが出来ませんでした。
楽しみは尽きて終り、悲しみがはじまります。
天上界の天人も臨終には、五衰の日、すなわち、

衣服汚れ、
頭上の花萎れ、
身体は異臭を放ち、
腋には汗流れ、
楽しみは無くなる、

そんな日が来る。」と言われます。
そのように思いなさいませ。

そうすればお釈迦様は観普賢経の経文にある、
「我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法
(がしんじくう、ざいふくむしゅ、かんじんむしん、ほうぶじゅうほう)」
と申しまして、
善も悪も空虚なものと思いますが、
まさに仏の御心にかなうものと申されます。

どういうわけで阿弥陀如来は、
気が遠くなるような長い時間をかけて思索をめぐらし、
衆生救済と言う困難な大願を起こされたと言うのに、
我らはそのことに気づかず、億万年の長い長~い間生死をくり返し、
宝の山に入るも、何も得ることなく、
空しく宝の山を出てくるようなことをしているのです。
これ以上の恨めしいことはなく、
これ以上愚かなことは無く、
愚かな上に愚かで、こんな口惜しいことはないではありませんか。
どんなにことがあろうとも、浄土を願う思い以外に、
決して雑念を起こしてはなりません。」
と仏の定めた戒律を授けて、
お諌め申し上げ、ひたすら念仏をするようお勧めした。

内大臣宗盛は名のある聖ー仏門の導き手ーのお話と思い、
今まで生き延びることばかり考えていたが、
即座に迷いの心を翻して、西方浄土に向って手を合わせ、
声高らかに念仏をなさっている所へ、
橘右馬允公長(たちばなうまのすけ きんなが)は、大刀を引き寄せ、
宗盛の左から後ろへ立ち回り、すぐにでも斬首の用意に身構えると、
内大臣宗盛は念仏をやめて、
「息子の右衛門督ももう斬られたのか」とお聞きになったのは、
本当に哀れなことでございました。
公長が宗盛の後ろへ回り込むように見えたので、
宗盛は、往生の作法に従い、首を前に出し下を向いた。

鎌倉より呼んだ聖も涙を流された。
勇猛の武士も、この場に及べばいかにも憐れと思わずにいられない。
まして公長は平家譜代の家人であった。
新中納言 平知盛のもとで、朝晩側近く仕えた人である。
「いかに世間にこびるのが常とはいえ、ただ単に情けなしと思えるものか」
と、周りの人は心恥ずかしく思った。

その後、右衛門督 清宗にも、聖は父親 宗盛と同じように、
浄土への道への心構えを説き、
念仏なさるようお勧めした。
「父 内大臣殿は、どのようなご様子でしたか」と
お聞きになったのは、子の思いとして、いとおしいものであった。
「立派なご最期でございました。。ご安心なさいますよう」と話を聞くと、
悦んで涙を流し、
「今はもう思い残すこともありません。では、早く斬るように・・・」と申された。
今度は堀弥太郎が斬って落とした。

二人の頚を持たせて、九郎判官義経は都へ入った。
遺骸は公長が宗盛の希望で父子一つの穴に埋めた。
人の罪劫は、罪深ければ、父が子をこれほど離れがたく思うものだろうか。
その希を叶えて、一つの穴に葬った。

同じ6月の23日、
内大臣殿 父子の首が都に入る。
検非違使ども、三条河原に出てこれを受け取り、
都大路を引き回して、
西洞院の西にあった左獄の門前にある
樗(おうち=栴檀のこと)の木にかけられたのでございます。。

昔より三位以上の人の首は、都の大通りを引き回して、
獄門にかけられることは、異国ではいざ知らず、
わが国では前例を聞いたことがない。

例えば、平治の乱の首謀者 藤原信頼は、あれほど悪名高き人であったのに、
首を刎ねられたが、獄門にはかけられなかった。
獄門にかけられるのは、平家になって始めてのことでございます。
西国より都に入り六条から東へ渡され、
東国から帰っては、死んで三条の橋を西へ渡らせられた。
生きての恥、死んでの恥、いずれ劣らず憐れなことでございました。

                    (おわり)


平宗盛 斬首の地① (「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」より

2012年03月22日 11時00分40秒 | 中山道番外記

0114
(義経元服の池の碑)
0115
(元服の池の説明板)

(武佐宿)
旧中山道を行くと武佐宿の鏡の里に、「源義経元服の池」がある。
その正面に「かがみの里」という道の駅があり、
旧中山道はこの先で左折する。
旧街道らしい雰囲気の道が少し続く。

左手にガソリンスタンドを見て、旧道は国道8号線に合流するが、
合流する手前に左へ入る山道があり、
「平宗盛胴塚跡」の看板があり、左方向を指している。
左へ入る狭い山道がそれである。
0122
(平宗盛胴塚の案内)
0127
(胴塚への山道)

山道を少し入ると、薄暗い森の中に大小二基の石塔が建っている。
「平宗盛・清宗父子」の胴塚である。
平宗盛・清宗父子の最後については、
「平家物語」に詳しく記されているというので、
「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」を、
図書館で読みましたので紹介したいと思います。

なお、現代語訳は筆者の独断、気ままな訳です、
読み難いでしょうが、どうぞお許しを願います。

平家物語の大臣殿被斬(おおいどのきらる)にある、
大臣殿(おおいどの)は、
平清盛を父に持ち内大臣であった宗盛を指しています。
巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)は、
平宗盛が斬首された場面です。

0123
(胴塚)

それでは現代文訳をどうぞ!

「平家物語 巻十一 平宗盛斬首される。①」
鎌倉殿(頼朝)は、平宗盛に対面するに当たり、
自分の居場所から中庭を挟んだ向かい側の棟に、
宗盛の座所を設け、そこに控えさせた。
頼朝は自分の場所から簾越しに宗盛を見て、
比企藤四郎義員(ひきのとうしろうよしかず)を通じて言うには、

「平家の人々には、特別な恨みがあるわけでは、決してありません。
清盛殿の継母で尼になっておられた方が、
私、頼朝助命の嘆願に どんなに力を尽されようとも、
故清盛入道殿のお許しがなければ、
この頼朝が許されることはなかったのに、
流罪に軽減されて、命は助かったのです。
なんと言っても清盛殿のお陰であって、このご恩は忘れません。
そうこうして二十余年過ぎましたが、平氏は朝敵となり、
天子の院宣により追討するよう命じられた頼朝には、
天子が治める時代に生まれた身で、
むやみに命令に背くことが出来ません。
自分の力が及ばず、このようにお目見えすることは、
はなはだ不本意でありますが、
止むを得ないことに存じます。」と申された。

このことを伝えるために、義員(よしかず)が平宗盛の前へ参ると、
宗盛は居ずまいをただし、かしこまった態度をとられた。
今は、いかに囚われの身とは言え、
もとはと言えば内大臣であられたお方が、
哀れで、このようなしぐさをされるのを、
とても情けなく見てはいられない。

周りには、各国の諸大名が並みいる中には、京都の者も居り、
中には平家の家人であった者もいたが、
すべての人が知らん顔で言うには、
「居ずまいをただし、恐れ多いと畏まりさえすれば、
お命が助かると思っておられるのだろうか?
西国の壇ノ浦で最期を遂げるのが筋なのに、
生きて捕らえられ、
ここ鎌倉まで下ってこられたのだから仕方がないことだ。」という。

中には涙を流す人もいて、そんな中の人が言うには、
「(猛虎が深山にあるときは、百獣振るえ恐れおののき、
折の中に入れられると、尾を振って餌を欲しがる。)と故事にあるように、
いかに猛けき大将軍と言われようとも、
このように囚われの身と成っては、
気持ちも改まって、内大臣であったことも忘れ、
宗盛様でさえもこうせざるを得ないのでしょう。」という人もあるとか。

このような中、九郎判官義経はさまざまに釈明なさったが、
梶原景時の讒言により、
鎌倉殿(頼朝)からのはっきりした返事もなく、
「急ぎ京へ上るように」と言われたので、
平宗盛父子をお連れして、京の都へ帰って行かれた。

内大臣、平宗盛は鎌倉で処刑されると思っていたのに、
京へ帰れとの仰せで、少し命の日数が延びたことを、
うれしく思われた。

道中も、処刑されるのは、この国で処刑されるだろうか、
いやこちらの国であろうといろいろ思案されたが、
何事もなく国々を通過し、宿場などをも通り抜けていく。

尾張の国(今の愛知県)内海(うつみ)というところに差し掛かる。
ここは故左馬頭(さまのかみ)義朝が殺された所であるから、
ここで処刑されるかもしれないと思われたようだが、
そこも何事もなく過ぎたので、
内大臣平宗盛どのは、心の内で少し安心されて、
「さては命が助かるかもしれない」と仰るなど、
いかにも虚しく哀れなことでございました。

宗盛の息子 右衛門督 清宗(えもんのかみ きよむね)は、
「どうして命が助かることがあろうか、
このように暑い時季であるから、
斬首した首が痛まないよう、
京に近くなってから斬ろうとしていることが、
父上はお分かりにならないのだろうか」と思われたけれど、
父上の内大臣殿が、
ずいぶん心細く思っているようにみえたので、
気の毒に思い話はされませんでした。
そしてただただ念仏だけを唱えられた。

日数が経ち、京の都が近づいて、
近江の国篠原の宿に一行は近づいた。

判官義経は情け深い人であったので、
京までの道のりで、あと三日という所に来て人を遣わし、
囚われ人に仏法の解脱を得させんために、
大原の本性房湛豪(ほんしょうぼう たんごう)
という高僧を招いていた。

昨日までは、親子一所においででした宗盛父子を、
今朝より別々の場所に引き離されました。
「そうか、今日が最後になるかもしれない」と
内大臣宗盛殿はずいぶん心細く感じられたようです。

宗盛殿は涙をはらはらと流されて、
「そもそも右衛門督(えもんのかみ)清宗はどこにいるのか。
たとえ首を刎ねられても、息子清宗とは手と手を取り合ってでも、
遺体は一つのところに埋めてもらいたいと思っているのに、
生きながら別れ別れになるのは大変悲しい。
十七年の間、一日一時も離れたことがなかった。
海底に沈まず死ななかったことで、
悪い評判を西海の波に流したのも、
あの清宗を案じてのことだったのです。」
と言って涙を流されると、
京より来た高僧も哀れに思われたが、
自分がこんな時に気が弱くては、
自分の務めが出来ないと思い、
涙をぬぐい、素知らぬ顔をして宗盛をもてなした。
               (つづく)
0128
(首洗い池)




感動した小さな親切(愛知川宿外れのショップ)(旧中山道番外記 25)

2012年03月08日 10時23分56秒 | 中山道番外記

0086
(五個荘町の常夜灯の道標)

(愛知川宿―武佐宿)
「泡子延命地蔵御遺跡」を過ぎた旧道は坦々とした田舎道で、
時間もそろそろお昼近くになった。

気をつけないと持病の糖尿病で低血糖症状を起こしかねない。
低血糖症状を知らずに進むと昏睡状態になって倒れる恐れがある。
そうなってはこの誰も知人が居ない地方の田舎道では、
救急車もおぼつか無い。

食べるものは、飴やら、クッキーやら、リュックの中にあるから、
取り出して口に入れれば良いが、
昼飯らしきものが食べたいが、沢山は食べられないのが不便である。
せいぜいお蕎麦くらいが丁度良いが、蕎麦屋さんは見当たらない。

それどころかお昼ごはんが食べられるような、
お店さえ見つけることが出来ない場所である。
いつもなら電車を降りると、
駅にあるキオスクでおにぎりを購入するのだが、
今日は買うのを忘れてしまった。

少々焦りながら歩くと、
左手に、東京ならコンヴィニエンス・ストア、
田舎ではショップと呼ぶお店があった。
ガラス越しに見るとパンも置いてあるし、
何かお弁当もありそう。

大変失礼だが、この田舎でお弁当を買いに来る人があるのか、
疑いたくなるようなお店である。
ボクにとっては大変便利な、好都合なお店ではあるが、
それでもやはり儲けがあるかどうか、少し心配である。
これで本当に商売になるのだろうかと、疑心暗鬼であるが、
ボクにとっては大変有り難いお店であった。

ガラス戸をあけて入ると、陳列棚にアンパン、クリームパンなどなど、
他にも糖分になりそうな炭水化物がおいてある。
お店の中にはもう一つのガラス戸があって、
其の奥になんだか分からない機械が置いてあり、
女性が二人動いているのが見える。

「ごめんください」と大声で案内を乞う。
機械の側で作業中の人がこちらを見て、
大声で何か言ったようだが、こちらまで聞こえない。
こちらの案内が聞こえたことだけは分かった。
0202
(近江八幡のマンホール)

仕事の邪魔をして、店先にわざわざ来てもらうにほどの
たいそうな買い物をするわけではないのに、
作業を中断してもらうのは、申し訳ない。
「アンパンを指差してこれが欲しいのですが」
「ハイ、どうぞ。105円です。」
金額が少なくて、少し恥ずかしくなって、
欲しくもないのに250円のクッキーもついでに買った。
五百円玉を出して、おつりをもらう。

歩きながら食べるのも、お行儀が悪いので、
「すみませんが、ここで食べさせていただいてよろしいですか」
お尋ねすると、いともあっさりと、
「どうぞ、そこに椅子がありますから、お使いください」と返事して、
店の奥に入ってしまった。

また作業でも始めるのだな、と思いながら、
リュックを下ろし、椅子に腰かけて、もさもさとアンパンを食べていると、
先ほどのお姉さんが、マグカップにお茶を入れてきてくれた。
思わぬ親切につい、
「たかだか350円のお客に、全部儲かっても350円なのに、
ご親切にお茶まで入れていただいて、有難うございます。」と言うと、
お姉さんは笑顔で、
「どうせたいして儲かっていないのですから、
私たちが食べていけるほどの儲けがあれば良いのですから」と言って、
作業場へ戻ってしまった。

今日売れ残ったパンやおすし、お弁当はどうするのだろう。
急に心配になってきたが、
ボクが心配してもどうにも手助けする方法がない。
パンを食べ終り、戴いたお茶をゆっくり飲み、
リュックを手に大声で、
「ご馳走様でした」と叫んでも、一向にこちらを気にするでなく、
何の機械か知らないが、機械を操作している。

仕方がないから、先ほどもらったお釣りをお礼代わりのお茶代にして、
マグカップに添えて台の上に置いて、
深々と頭を下げ御礼をしてお店を出た。

金額があまり多くてはこちらも先方様も気が重い。
外国の旅先ではずむチップだとに思えば、ボクも先方様も気が軽い。
そんなふうに勝手に決めてお店を出た。
末永くお元気でいらっしゃいますよう祈るばかりである。

こんな小さな親切が見知らぬ土地では、
大変身に沁みて嬉しいものである。
0018
(67番目は間違い。これでは中山道70次になってしまう。)







「桜田門外の変」と天寧寺の五百羅漢(旧中山道番外記 24)

2011年12月18日 10時22分05秒 | 中山道番外記

0077
(「五百らかん」の石碑)
0078
(彦根インターの出口と入り口の高架)

(鳥居本宿)
原八幡神社をあとに中山道を進む。
高速道路の彦根インターチェンジ入り口と出口の高架下をくぐる様になっているが、
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
地図には彦根駅まで30分と記されており、
「五百らかん」のある天寧寺はその中間にあるから、
15分くらいで行けるだろうと訪ねることにする。
0002_2
(天寧寺のらかん堂)
0003_3
(らかん石庭から彦根城が見える)

天寧寺によれば、
(天寧寺は、井伊直弼の父である直中公が、
自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の菩提を弔うため建立した。
文政二年(1819)の春、
男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で大椿事が持ち上がった。
奥勤めの腰元若竹が、お子を宿しているらしいという風評が広まり、
それが藩主の耳にも届いたのである。
大奥の取締りのためにも相手の名を詰問したが、
口を閉ざして相手を明かさない。
遂には付議はお家のご法度であるという掟により、
御手打ちということになった。
後になって若竹の相手が長男直清であったということが明らかになり、
直中公も知らぬこととは言え、
若竹と腹の子(初孫)を葬ったことに心痛め、
追善供養のため京都の大仏師駒井朝運に命じて、
五百羅漢を彫らしめ安置された。)とある。
0009_2
(らかん堂内部)
0008_3
(五百らかんさま)
0010_2
(五百らかんさま2)
0012
(五百らかんさま3)
0014_2
(五百番のらかんさま)
0015
(第七番のらかんさま)
0016_2
(第一番のらかんさま)

その木像の五百羅漢は羅漢堂に安置され、
それは見事で圧倒される雰囲気にある。
なお、天寧寺は高台に位置して彦根城を見ることも出来、
井伊家の別荘としてよく利用されたとのことであるという。(天寧寺談)
また、後に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある。
0019_2
(井伊直弼の供養塔、血染めの遺品が祀ってある)
0043
(彦根城)

話が変わるが、
以前、桜田門から皇居内を見学したことがあるが、
その時、ガイド役の知人に
「井伊直弼はどこで暗殺されたのですか?」と聞くと、
桜田門のお堀の上を指差して、
「ここで暗殺された。井伊直弼が屋敷を出たと、
愛宕山から連絡があった。」と言った。
ボクは暗殺された場所について興味はあっただけなのだが、
「井伊直弼が屋敷を出たのを、愛宕山から連絡があった。」
と余計なことを言ったばかりに、
ボクの疑問がもくもくと湧いてきた。

0000_2
(愛宕神社、鳥居の後ろに階段がある)
0002_2
(講談では40段といわれた階段、寛永三馬術の曲垣平九郎が馬で登ったことで有名)
0007_2
(今も山上の愛宕神社前にある曲垣平九郎と馬ー記念写真用)
0006_2
(平九郎が手折った将軍献上の梅ノ木)
0004
(桜田烈士愛宕山遺跡の碑ー井伊大老襲撃の水戸浪士が集合した所)

そもそも井伊直弼の屋敷は、昔の地図を見ると、
桜田門から300メートルと離れていない所にあったはずである。
お堀端に待ち伏せしていた刺客に、
愛宕山からどんなに早い伝令を飛ばしても、
1500メートル以上はなれた山の上から見ていて、
井伊直弼の行列が出発したのは見えるかもしれないが、
井伊直弼が桜田門に到着するより早く、
お堀端の刺客に伝令で伝えることは出来ないはずである。
しかも当日は雪が積っていた。

0013_2
(外桜田門)

00122
(桜田門と井伊直弼の屋敷の地図と距離)

知人のガイド役は話を面白くするために、そう言っただけかもしれない。
でもボクは疑問を持つと、実際に調べてみることにしている。
念のため、後日愛宕山に行き、
水戸浪士が集まった場所があったので、
そこから可能な限りの速足で桜田門まで歩いた。

井伊直弼の行列の速度の3倍の速さで愛宕山から歩いて、
いや、走っても、桜田門に到着するのは同時で、
4~5倍の速さで走って伝令が伝えなければ、
刺客たちはタスキをし、袴の股立ちをとって、
鉢巻を締める準備は不可能であることが判った。

0021
(井伊直弼の屋敷址と加藤清正が作った井戸)
0020
(屋敷址の碑)
0024
(屋敷址は写真上、国会議事堂の手前右側)

何よりも刺客たちに伝令など不要であったに違いない。
桜田門には当時、どの紋はどこの御家中か、
判るように鳥居家、大岡家などなど、
家紋と大名の一覧表が売り出されており、
庶民はそのガイドブックを片手に、
お堀端に見物に来ていたらしいので、
刺客たちはそうした群衆にまぎれて、
まんまと待機できたようである。

それにしても「愛宕山から知らせがあった」と漏らした知人の言葉は、
不用意であったことは間違いない。
0015
(外桜田門から入って内桜田門へ直角に右折)
0016
(外桜田門から右へ鉤の手で曲がった内桜田門)
0025
(桜田門前の法務省の古い建物)
0027
(皇居前のお堀に写るイチョウの紅葉)











関所の女改め(旧中山道番外記 22)

2010年10月04日 09時53分09秒 | 中山道番外記

022
(東門から見た木曽福島の関所跡)
0019
(木曽福島の関所跡2)
045
(西の関所入口門)

(「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)

中山道の木曽福島宿に関所があったのは良く知られている。
木曽福島を描いた広重の浮世絵には、
広重美術館の説明に次のように記してある。

(江戸と京のほぼ中間にあるこの木曽福島には、
東海道の箱根、荒井、中山道の碓氷、
と共に四大関所の一つに数えられている関所があった。
両側から山が迫る木曽川の断崖の上、
江戸方向から歩いて急坂を上り詰めた所にこの関所はある。
検問を終えて出てきた武家と飛脚が
これから向かう旅人とすれ違う場面が描かれている。
画面奥には、土下座をして今まさに検問を受けている旅人がいる。――下略)

Kiso161
(木曽海道69次之内 広重画「福し満」)

関所の通行は、男性は比較的簡単で手形があり、
発行者の確認が取れればOKであるが、
女性の場合は厄介である。
「入り鉄砲に出女」が取締りの最重要課題であるからだ。

そもそも昔は女性が旅をするのは珍しく、
せいぜい嫁に行くか
嫁ぎ先で親の危篤で実家に帰るときくらいなものであった。
それでも女の一人旅は無く、必ず男性が付き添っており、
先に付き添いの男性が関所にお伺いを立てて通行の許可を取ってから、
女性を伴って通行したものらしい。
それでもチェックはそれほど厳しくなく、
独身と言う触れ込みなのに「鉄漿(おはぐろ)」があるとか、
眉毛が無いとか、結婚しているのに振袖を着ているとか、
不審な点があるとチェックは厳しくなる。
また、女性が男装している疑いがあるときも厳しい。

027
(嫁入りの女手形)

関所には上番所と下番所があり、
審査は下番所で行われるが、
下番所の奥に窓なしの部屋があり、
疑わしき女性の場合は、
窓なしの部屋で下番所役人の妻か母親が、
役人に代わって身体検査を手探りで行う。

その窓の無い部屋にカミサンと入ってみたが、
異様な感じがした。

どのように手探りで検査したのか知らないが、
女性が男装してくるのをチェックするには、
胸元に手を差し入れるのか、
あるいは股間に手を差し入れて、
あるべきものがあるかないか探るのであろうか・・・

女性だと思って手を差し入れ男性のものが有ったとしたら・・・
チェック役が母親の場合はまだしも、
妻の場合はつい悲鳴が起こってしまうに違いない。
役柄とは言え、ご苦労なことである。(笑)

話は変わるが、
木曽福島の関所に女一人旅の手形が展示してあった。

「文久元年皇女和宮様の御通行に際し
人足に出ていた父親が藪原宿で病気になったので
娘が看病のため関所を通して欲しいという手形」である。

なんとも気の毒な話であるが、
最近読んだ「皇女和宮御下向御用日記留」
蕨宿本陣 岡田加兵衛が書き残した膨大な冊子には、

和宮通行に際し、
物を運ぶ人足に駆り出された百姓たちの中には、
食い物をろくに与えられず、
具合の悪くなった者たちがいることを書き残している。
手伝いをさせるのだから飯ぐらい食べさせたであろうに・・・

034
(和宮お供の父親見舞の「女一人旅の手形」)

そんな一面があるのに、
食べ物については、
人足に与えるために炊き出した大量の赤飯が、
10日も経って酸っぱくなってきて、
糸を引くようになってきており(心配している)
などと他人事のように書いている。

こんなものを食べさせられているのだから堪ったものではない。
この頃の農民は荷物を運ぶ牛馬と同じように扱われていたのであろうか?

話がとんだ方向に行ってしまったが、

(皇女和宮の御通行は人数も多く警備もさることながら、
荷物運搬にも随分人手がかかったようである。
また建物の修復にも、細かな所まで指示して修復させておきながら、
大工の手間賃や材料費をなかなか支払わず、
皇女和宮通行の一年後に、業を煮やした名主たちが幕府に請求しているが、
一年も支払いを延ばしておいて、
事もあろうに、
支払い遅延で利息を付けると言うのなら理解できるが、
千両に付き五十両値切り倒している。)

こんなことが蕨宿本陣家 岡田加兵衛が書き残した
「皇女和宮御下向御用日記留」に記載されている。

幕府には、余ほどお金が無かったのであろうか・・・

江戸城明け渡しの折、金蔵(かねぐら)には一両も無かったという。
確かめたわけではないが、もっぱらの噂である。




皇女和宮「戸田の渡し」と献上品(旧中山道番外記 21)

2010年09月27日 12時35分45秒 | 中山道番外記

0000
(蕨宿の道路にあった浮世絵タイル「戸田の渡し」)


(戸田の渡し「皇女和宮御下向御用日記留」より)

皇女和宮が将軍家茂に降嫁される時、
京都から江戸まで中山道を
25日かけた道中は、皇女和宮も相当なご苦労であったが、
途中御泊りになる本陣や御小休みされる場所は、
その準備が大変であったようである。

道中は東海道(500km)のほうが距離も短く、
文字通り海道で、海辺近くに道路があり、歩くのに楽であろうに、
何故、山坂の多い中山道(533km)を選んだのであろうか?
中山道は藤村の「夜明け前」にあるように、
道中は「全て山の中である。」

中山道を選んだ理由は、
①東海道は川が多く、川止めなどにより日程に変化が生じ易い。
②東海道には薩た峠(さった峠)があり、「去る」に通じ婚姻には縁起が悪い。
③東海道は旅人の往来が多く、警備上問題がある。
④特に東海道は外国人の通行があり、問題がある。
などの点である。

その点、中山道は警備の上で、東海道と比べ安全で警固がし易い。
そこで中山道を通行することに決定した。
和宮の行列は、旧暦の10月20日京都を出発し、
11月13日に桶川に宿泊、翌14日に上尾、
大宮両宿で御小休みして、昼食を浦和宿で、
その後蕨宿で御小休止して「戸田の渡し」で荒川を渡り、
板橋宿でこの旅の最後の宿泊をされた。

蕨宿の本陣家 岡田加兵衛が綴った
「皇女和宮御下向御用日記留」が残されているが、
この時期和宮下向に当たり、
将軍家はもちろんのこと家来たちが大童であったことを
この「日記留」に書き記している。

この一冊の日記の厚さが20cm余り有ることからも、
役人、名主、本陣家が右往左往したことが推察できる。
(そのレプリカが、蕨市歴史民族資料館に展示してある。)
この「日記留」には役所とのやり取り、
前後の宿場とのやり取り、
行列通行に際し必要な人手、馬、食料から
宿泊場所の用意、建物の修復、
宿泊地での什器――行灯の数、タバコ盆の個数に至るまで、
細々した事をその都度役人に問い合わせ了解を取るなど、
事細かな打ち合わせの状況が書き記されている。
031424411_21
(「中山道戸田渡船場跡」の石碑)

戸田の渡しでは、
「荒川を皇女和宮が船橋(*)を利用して渡った」と
一般的には考えているようであるが、
戸田市では船橋でなく、
お召し舟に乗って渡ったと、
「戸田の渡しと旅日記」の中に記載している。

(*)船橋とは、川の上流に向けて川幅一杯に船を並べ、その上に板を渡して橋にしたもの。

実際には、輿を船に積んで対岸まで渡ったのか、
あるいは輿は別の船で運び和宮が船に乗り込んだかは分らないが、
いずれにせよ船をお召しになって渡られたようである。
荒川の川幅は普段55間(約100m)であった。

楽宮の降嫁と同じであれば、
川の両岸の渡船場の両脇に杭を打ちつけ、
杭と杭の間に麻綱を張り、その綱に幔幕を渡し、
幔幕の間を船は進んで対岸まで渡った。
この時お召し舟を三艘の船が曳いて対岸に着けたと記録がある。
(このときの様子は絵図面も残っている)

和宮の時は同じかどうか分らないが、
お役人が、
麻綱、お召し舟を用意させたり、
そのお召し舟や麻綱の出来上がり進行状況を点検をしたりした所を見ると、
少なくも船橋で渡ったとは思われない。

戸田の荒川が増水して船で川を渡れないときのことを考えて、
その場合は、蕨宿泊まりにして千住廻りとするから、
川口宿にも通行の準備をするよう役人が指示している。

実際に、和宮様が通る11月14日より前の11月1日、
朝から豪雨となり、増水が心配されたが、
蕨宿では和宮様宿泊の準備は11月6日には完了する旨報告している。
しかし当日は船渡しに問題なく、滞りなく板橋宿に到着している。

さて、面白いのは、蕨宿で和宮様に献上品を渡したことである。
もともと献上品は渡してはならないお触れが出ていた。
なぜなら献上品については、
後程お返しをしなければならず、
そのお返しの額が膨大になることを恐れたのだ。
宿泊所、休憩所は午前午後の2回、昼食所と、
それぞれ一日4箇所で行列は止まる。

その都度献上品が出ると、
江戸まで25日掛かって到着しているから、
25日×4回の献上品では、
最低でも100個の献上品になってしまう。
1両ずつお返しをしても100両になる。
まさか1両では済まないであろうから、
大変な出費になり、幕府はこれでは困る。

それでも蕨宿では、
御付のお役人に訊いて了解をとってから献上品を渡した。
品物は、

みかん35個、ぶどう5連。

それも板橋宿へ届けろと言うので、
品物の下に奉書を敷き、三宝に載せて絵符(立て札)に
「献上 蕨宿御本陣」と書き、
白木の長持ちに入れて運んだ、とある。
随分仰々しい。
たかだかみかん35個とぶどう五連なのに・・・

それにしても旧暦11月14日は陽暦では12月15日に当たる。
今は冷蔵庫もあり保存がきくが、
当時献上品のぶどうはどのように保存していたか気になる所である。

この時期に葡萄を収穫して献上に及んだとは考え難い。
そこで葡萄についてよくよく調べてみると、
当時の葡萄は山葡萄で、
山葡萄の収穫は遅いものは11月末ごろになると言うから、
12月15日頃まで在庫があっても不思議が無いことが分った。
それにしてもお姫様にとっては、
珍しいものであったに違いない。

珍しいものであるから、幕府からのお返しのお礼は、
まさか1両ということはあるまい。
下司の勘繰りであるが・・・

お返しがあったかどうか「御用日記留」には書いてなかった。

4
(木曽海道69次之内 浮世絵「戸田の渡し」広重画)


皇女和宮の宿泊地として唯一の脇本陣(旧中山道番外記 20)

2010年09月22日 10時19分03秒 | 中山道番外記

P1080513_6
(下諏訪宿の本陣)
P1080519_2
(皇女和宮が休憩した座敷)
P1080520
(その座敷前の庭)

(脇本陣--「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)
前回、皇女和宮御通行の折の炊き出しについて、
宿場は大変な人数を狩り出しおおわらわであったことを書いた。
皇女和宮の御通行のことについて、
調べて知り得た話を綴ってみたい。

皇女和宮の降嫁に当たって、
京都から江戸に下る道筋を東海道から中山道に変えたことを、
文久元年(1861)2月5日に中山道の各宿場に伝えている。

実際に和宮様が京都を出発し、
中山道を下り始めるのは10月20日であった。
つまり、およそ一年前に決まったのである。
その通達では、宿泊は何処で、昼食は何処で、
三時と十時のお休みは何処と決まっていた。
宿泊場所は一箇所を除いて、全て本陣であった。

本陣でないその一箇所は、板橋宿の脇本陣であった。
受けとり方によっては外された本陣家は不審に思ったに違いない。
板橋宿の、時の名主 豊田市右衛門は、
蕨宿本陣岡田加兵衛が残した「和宮御下向御用日記留」によると、

板橋宿のお泊りが脇本陣宇兵衛宅に決まったことは
「まことに嘆かわしきことに存知候」と書き送ってきている。

現代でも本陣家(子孫の飯田家)の方が和宮様は、
我が家に宿泊したと主張されていると聞いたことがある。
もともと板橋宿では、本家の本陣家は新右衛門を、
分家の脇本陣家が宇兵衛を代々名乗っていたが、
何時のことか、そしてどんな理由であったのか判らないが、
本陣家の新右衛門の名を脇本陣家に譲ってしまったことから
問題がややこしくなっている。
本陣家が宇兵衛を名乗ることになり、脇本陣となった。
つまり本陣家と脇本陣家が入れ替わってしまったのである。

ただ一軒だけ脇本陣家に決まったのには、
何か理由があったに違いない。
その理由については「和宮御下向御用日記留」には書かれていないが、
ボクの勝手な推測では、次のようではなかっただろうか。

【もともと、本陣、脇本陣は高貴な方がお泊りになるから、
従業員のしつけ、言葉遣い、極秘の会話を他にもらさぬとか、
挙措振る舞いに至るまで、
厳重に教育されている教養ある者が雇われていたと思われる。
高貴な方へ直接接待する人から、まかないのおばさんまで、
それぞれ心得のある人が雇われていたに違いない。
その者達は、今で言えば、特別な専門職であり、
大変な高給取りであったと思われる。
また、調度品にいたってもそれなりに格差があったのかもしれない。

P1090177
(和田宿本陣の門構え)

蕨宿本陣の岡田加兵衛が書き残した「和宮御下向御用日記留」では、
皇女和宮が宿泊するに当っては、調度品について役人から、
アンドンからタバコ盆、火鉢に至るまで、
こまごまと指図があったことが解っている。

板橋宿は、お互いの名前を取替え、
本陣と脇本陣が入れ替わったとしても、
雇われている人間や調度品は、入れ替えなかったと思われる。
また、本陣脇本陣の立地条件も宿泊地として、
大いに選定理由の中に入ったに違いない。

島崎藤村の「夜明け前」の中で、本陣家の条件を述べているが、
その条件として、高張り提灯が有る事から、
お駕籠が横付けに出来る広い式台、上段の間など、
こまごまとしたものが必要であるが、
中でも、暴漢に襲われた時逃げ出すことが出来る裏口があることが、
大前提になっている。

尊皇派と佐幕派と入り混じって、物情騒然とした時代であったから、
裏口からの逃げ道は、重要な要件であったに違いない。
もともと、和宮の御下向が、東海道から中山道に変更になったのも、
警備の問題が主たる要因であったことからであり、
案外そんな所に、元は本陣であった脇本陣を選ぶ理由があったのかもしれない。】

今となっては知る由も無い。
0034
(妻籠の脇本陣)
P1090468
(一段高くなっている上段の間)




翁塚と「夜明け前」の嵩左坊について(旧中山道番外記 19)

2010年09月06日 10時01分29秒 | 中山道番外記

0083
(是より北 木曽路の碑)

(翁塚と嵩左坊)
「夜明け前」は主人公青山半蔵
(藤村の実父がモデルで馬籠宿本陣の主人)の半生を通じて、
幕末から明治維新に至る、時代の夜明けを描いた歴史小説である。

その小説の中に、次のような一節がある。

{「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ 送りつ果(はて)は 木曾の龝(あき)   芭蕉翁

0082
(翁塚)

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、
それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。}

0081
(「木曽の」が「木曽の」に読める句碑。)

この文章にある「木曽の穐」の「穐」の字が「蝿」と読めると議論している。
勿論、芭蕉の俳句は「木曽の秋」が正しいのであるが、
俳句好きな父親の翁塚を建てるという生前の願いを、
実現させる金兵衛が塚を建てるのであるから、
まさか「木曽の蝿」と石に刻ませるはずはない。

しかし、石碑に彫られた文字は「木曽の穐」で、
これをくずし字で書くと「蝿」に見えるというのである。
確かに「禾(のぎ)」へんは、石碑を見る限り「虫」へんに見える。

この翁塚を建設供養に当って、お祝いに駆けつけた人たちについて、
「夜明け前」では次のように記している。

(翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。
あいにくと曇った日で、八(や)つ半時(はんどき)より雨も降り出した。
招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、
手土産(てみやげ)も田舎(いなか)らしく、
扇子に羊羹(ようかん)を添えて来るもの、
生椎茸(なまじいたけ)をさげて来るもの、
先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、
それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、
国も二つ、言葉の訛(なま)りもまた二つに入れまじった。
その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合(おちあい)の宗匠、
崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。)

この文の中に見られるように、
「夜明け前」の中では、崇佐坊(すさぼう)の名で出てくる美濃の宗匠とは、
嵩左坊を指している。

この翁塚を境にして、木曽(長野)と美濃(岐阜)の境であったから、
美濃の宗匠が居てもおかしくは無い。
もともと岐阜県在住の俳諧を趣味にする人は多く、
芭蕉門下で美濃派といわれるくらいである。

ボクの父は美濃の出身で、俳句をよくしたが、
俳句が盛んな地域であったのかもしれない。

0087
(新茶屋の一里塚、手前の石碑が、信濃と美濃の境界の杭)

0088
(美濃と信濃の国境とある)

話が飛ぶが、
「木曽路文献の旅」(北小路健著)のなかでは、
{翁塚建立の時集まった嵩左坊を含む俳句好きが巻いた歌仙の中で、
次のような句があるから、
「穐」の字は「蝿」が正しいという意見を述べている。

(その句とは、
蝿を追う迄を手向けや供養の日  峨 裳
憎まれず塚の供物に寄る蝿は   聴 古
蝿塚や木曽を忘れぬ枝折にも   霞外坊
蝿送り送り守らん恩の塚      逓 雄

と四句まで「蝿」を読み込んでおり、最後の句の如きは
「送られつ送りつ果ては木曽の蝿」と読んでこそ、
はじめて首肯できる作となっている。右の霞外坊の句にあるように、
この翁塚を蝿塚と詠んでいることからも「木曽の秋」ではなくて
「木曽の蝿」と素直に詠んだことになる。)と論じている。

しかし「夜明け前」にあるように、
俳諧好きの亡くなった親父のために作った記念碑の芭蕉句を
間違って「木曽の蝿」と刻んだとは思えない。
もし間違っていたら、造り直させたであろう。

翁塚の句会では、建立時の(蝿と読める)二人の会話を参考にして、
面白おかしく、「蝿塚」や「蝿」を入れて作句したに違いない。

また最近、古文書の読み方(初級講座)で学んだ所によれば、
「禾(のぎへん)」を崩して書くと「虫」に良く似ているのは事実である。
だから、やはり「木曽の穐」であって「木曽の蝿」であるはずは無い、
とボクが思うのは間違っているだろうか?

考えてみれば、人生は短いのだから、
こんな他愛の無いことで、

むきになって時間を費やすのはもったいない。