中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

魁塚(旧中山道を歩く147)

2008年08月28日 08時16分27秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(下諏訪宿歴史民族資料館)

(下諏訪宿3)
下諏訪宿本陣・岩波家を後にして。旧中山道を南下する。
旧街道の面影を残した家が左右に並び歩くものの目を楽しませてくれる。
古い建物は「ききょうや」、「みなとや」、「まるや」、などなど。
「4年前にもう一度来ます」とお約束した下諏訪宿歴史民族資料館は、
あいにく月曜日の定休日にあたっており、
館長さんには残念ながらお会いすることが叶わなかった。


(ききょうや)


(みなとや)


(本陣の向かいあるのは脇本陣の建物を再生した「まるや」)


(上の写真の奥の突き当たりにある「甲州道中山道の合流点」


(「みなとや」の前にある道標「左中山道」とある)

坂を下ると国道142号線に合流するが、
左手に前回紹介した「おんばしらグランドパーク」がある。
道路を右折して進み、信号を一つ越えると、
左に分かれる旧街道があるので左脇に進む。


(左側が旧中山道)


(魁塚)

100mも進むと左側に石垣に囲まれた「魁塚」がみえる。
階段を数段上ると、奥に石碑が三つ建っており、
中央の石碑には(相楽総三)の名があり、その下に七名の名が刻んである。

説明によれば、
「ここは 赤報隊長 相楽総三以下幹部八士その他の墓である。
慶応四年正月 江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒
嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて進んだが、
朝議一変その他によって賊視され、
明治三年同志によって墓が作られた。
名を(魁塚)として祭られた。
爾来地元では祭りを絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴し、
草莽として維新史の上に大きく輝く人々である。」(下諏訪町教育委員会)
昭和49年の説明であるが、下諏訪教育委員会も解りにくい案内を出している。


(中央の石碑に相楽総三と刻まれその下に七名の名がある)

解りやすく説明すると、
(相楽総三以下八名は、慶応四年(1868)江戸城総攻撃のため出発した
官軍の先触れ隊で赤報隊と言った。

官軍が江戸城を攻撃し、勝利したときは、
税金を半減するとお触れを出しながら進んだ。

ところが江戸城は徳川慶喜により無血開城され、
御金蔵は空っぽでびた一文無いことが判った。
国民を味方につける意味で税金を半減するといったが、
新政府には数万両と当てこんでいた幕府の御金蔵にお金が無いため、
税金の半減はおぼつかない。
そこで税金の半減を触れて進んだ赤報隊を偽官軍だということにして、
処刑することにより、税金の半減の約束を無いことにした。)と思われる。

つまり相楽総三以下八名は、官軍の言うとおり税金半減を触れ回って進んだが、
新政府はそんなこと言った覚えは無い。あれは偽官軍であると、
相楽総三隊長以下八名処刑(だまし討ちに)したのである。

現代でもありそうな事件である。
上司が「こうしなさい」と部下に命令しておいて、
結果が自分に都合悪くなると、「そんなこと言った覚えが無い」と逃げ、
部下に責任をなすり付ける、どこかの偽装事件みたいなものだ。
昔も今も人のすることは変わりない。
いや、以前このような事件があったのが、
連綿と受け継がれてきたのかもしれない。

それを知った相楽総三の孫が生涯をかけて、
祖父の無念を晴らそうと政府に呼びかけ、
昭和天皇即位に伴う御大典により、
(即位の儀式など、お祝いのときは罪人に恩赦が与えられた。)
恩赦だけでなく、総三には正五位(格段に優遇された位階)の位が授与されました。

処刑された人は、位階なぞ貰ってもしょうがないと思われるが、
汚名だけは晴らすことができた。

明治新政府が出来るまでは、
いろいろ不条理なことが起きているようである。


(陶板のレリーフは、文化二年(1805)の木曽名所絵図に描かれた諏訪宿の情景)






本陣として要求されるもの(旧中山道番外記 11)

2008年08月22日 08時38分56秒 | 中山道番外記

Photo
(和田宿本陣)

(小説「夜明け前」を読んで)

前回、下諏訪宿の本陣について記述しましたが、
「夜明け前」の主人公青山半蔵が父吉佐衛門から家業を受け継ぐ時に、
本陣の必要事項について述べている。(「夜明け前」第一部第八章参照) 

(その要件は、
1.諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関
2.長い槍を架けるところ
3.厩(うまや)
4.消防用の水桶
5.夜間警備の高張りの用意
6.いざというとき裏口へ逃げられる厳重な後方の設備
などなどである。)「夜明け前」より

最後の6番は、要件としては滑稽に見えるが、
重大事であったに違いない。
たとえば、寺田屋事件(これは本陣での出来事で無いが)など、
裏口にスムースに逃れる設備があったら、
見事に裏口から逃げおおせたかもしれない。

(「本陣」とは、その言葉が示すとおり、戦時における「陣屋」の意匠である。
諸大名は、食器から寝具まで携帯する大名はむかしの武人の行軍を意味する。
したがって宿には、必ず陣中の幕が張りまわされる。
大名以外には、公家、公役、武士のみが宿泊できる。

畳を新しくする、障子を張り替える、
時には壁も塗り替えるなどして、権威ある人を迎え入れる。

さらに屏風何双、手燭何艇、火鉢何個、タバコ盆何個、幕何張り、
それに供衆何十人前の膳飯の用意をする。)「夜明け前」より。
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(松井田の本陣の入り口)
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(本陣の母屋、人が見え、その大きさを感じていただける)

参勤交代などあるときは、おおわらわの忙しさであったろう。
時には、畳表も替える必要があったようだ。
現に、皇女和宮がご休憩のあった小田井宿では、小用所、大用所の
畳を取り替えたと記録されている。
《本陣家の厠(かわや)(旧中山道を歩く 117)参照
http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/09/post_ff12.html 》

なんだか忠臣蔵の浅野匠頭が吉良上野介に意地悪されて、
畳表100畳分を一晩で換える場面が思い出される。
高貴な人が来ると畳どころか壁まで塗り替えなければならないとは・・・

これが宿泊する宿場の本陣全てに当てはまることなるのだから、
その費用の額は窺い知る事が出来ないほどであろう。
自分より前に宿泊した大名と同じ畳に寝させるわけには行かないと
家臣が考え畳を取り替えさせるのであろうか?
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(明治天皇が休憩したお茶室)
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(そのお茶室の前の庭)

もっとも、現代でもすぐに替わる総理大臣の車も総理が代わるたびに、
新しい車と替えなければならないのに良く似ている。
ガラスはもちろんの事、周りの鉄板をも銃弾が通り抜けないように、
加工してあるから、優に数千万円は掛かると言う。

前の総理が短命内閣だったからとか、
主義主張が違う総理だったからとか、
理由はいくらでもあるらしいが、同じ車には乗りたくないらしい。

自動車を納入するお店はホクホクモノだし、
総理の気持ちは解らないではないが、なんか無駄で、
もったいないと思うのはボクだけだろうか?
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(小田井宿の本陣)



下諏訪宿本陣・岩波家(旧中山道を歩く146)

2008年08月18日 08時10分13秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)

(下諏訪宿2)
スタートとなる本陣家を訪ねる。
道路にはみ出た下諏訪宿本陣の看板が目に付く。
その看板の下に立つと、古い門構えと「明治天皇御小休所」の石碑が、
そして門内のよく手入れされた庭がまぶしく光って見えた。
門をくぐり飛び石伝いに中に入ると玄関があり、奥の壁に
その昔宿泊された大名の名が書かれた看板が並んでいるのが目に付く。
入館料金四百円也の見せ場といおうか。

(母屋に続く飛び石、庭が綺麗に手入れされている)

本陣に宿泊されると必ず大名や公家様の名を書きだしたとは、
島崎藤村の「夜明け前」で読んだが、その実物を見るのは初めての体験である。
墨こん鮮やかとはこのことだ。


(玄関に置かれた宿泊者の名札?)

看板には右から、
米沢中将泊
加賀宰相旅宿
彦根少将宿
仙台中将寓
越前前中将室休(越前前藩主:松平春獄の奥様のことか?)
尾張大納言殿宿
松平加賀守旅宿 
××××××
ボクのつたない知識では、最後の一枚は読むことができない。
現代でも旅館の前に黒地で白く大きく書いた
「○○様ご一行」と本人が見ると恥ずかしくなる看板の元祖なのであろう。
ひょっとすると旅館側では、お迎えするお客様を大名か公家として扱い、
お客様に優越感を味わわせる積りなのかもしれない。
この玄関の左手に古ぼけた小机が置いてあり、
ここで入館料を徴収するのであろうが、誰も居ない。
開館9時とあったので問題は無いはずである。

時代劇の見過ぎで、
「たのもう」と大声を出したら、消え入りそうな声で
「少しお待ちください」と聞こえる。
お手洗いにでも入っていたのだろうか、
しばらくして、頼り無さそうな白髪のばあちゃんが出てきて、
「いらっしゃいませ」という。
「四百円ですね!上がってよろしいのですか?」とボク。
「どうぞ」というが、なんか頼りない返事で、
少し躊躇したが、靴を脱いで、
いつもはしないのに靴脱ぎのうえに脱いだ靴を
帰りに履きやすいように向きを変えて揃えたら、
数人のお客さんが来た。

「こちらです。入場料は」とボクが案内すると、ばあちゃんが
「座敷に進んでください。後で説明しますから」という。
このばあちゃんが説明を?するのかとやや頼りなく思ったが、
いざ説明に取り掛かると、立て板に水を流したごとくに話し出す。
この本陣の庭は「中山道随一の名園と言われるので、立ち寄って見よう」と案内書にある。


(通された座敷:茶室)

玄関から奥に通ると、縁側の角の柱を取り払った座敷があり、
これが茶室で、その前には滝から流れる池があり、
滝の奥には社があって池の手前には平らな石があり、
そこに座してお祈りをすると言う。


(美しい庭園、左の柱は庇で支えているので座敷には角の柱が無い)

ばあちゃんの説明によれば、
「この庭は、日本各地の名石を集め自然の地形の利用して
作庭された本格的築庭式石庭園で、東西の山や諏訪大社秋宮の森を借景にして、
間に何も見せないよう、深山幽谷の趣に作庭されていますが、
今は向こう側に家が建ちその借景も見えません。
滝の水は諏訪神社秋宮の南方を流れる承知川上流より取り入れ、
本陣用水として石垣で囲まれた屋敷の周囲を流れていたが、
その水の一部を屋敷中央に通し池の水に用いている。
春のつつじ、新緑、初夏のアヤメ、さつき、秋の紅葉、
雪景色と四季折々に見所を変えます。
池は心字池をかたどっており、滝の隣にある低潅木のサツキは2m余あり、
成長の年月の長さを物語るとともに庭の歴史の長さを物語っている。」
この茶室で皇女和宮様や明治天皇がお茶を召し上がり、
ご休息になった場所であるという。部屋は11畳と奇数の畳部屋が二部屋続き、
一方の部屋の隅には和宮様がお使いになった茶道具が陳列されている。


(和宮ご使用の道具)

東京大学の建築史教授によれば、
「本陣岩波家の客室と庭ほど洗練された京風数寄屋造りは、
京都の大工によるもので、他に類を見ない大胆な構成美の創造は、
並みの工匠の成すところではない。
細部の洗練さは桂離宮を思わせる」
と絶賛している。


(古い土蔵)

座敷の奥の間に入ると納戸のように感じるが、
窓ガラス越しに見える土蔵は江戸時代から続くものだそうで、
古風な年月を忍ばせる扉が二箇所、口を開けていた。

敷地面積千八百坪、主屋建坪二百八十坪あったといわれる。
その大きさは通常の宿場町の本陣の二倍に近い。






下諏訪宿(旧中山道を歩く 145)

2008年08月18日 08時07分34秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1



(下諏訪宿本陣の門から見た庭の飛び石)


(下諏訪宿)

下諏訪宿をスタートするに当たっては、最初に下諏訪宿本陣を訪れることにした。
それは4年前の夏、諏訪大社の下社(秋宮)に立ち寄ったとき、
目の前に下諏訪町歴史民族資料館があったので、そこに顔を出し、
「いつか分からないが、ひとりで旧中山道を日本橋から歩いてきます。
そのときは必ずもう一度お目にかかりましょう。」と約束をした。
その折、この資料館の前の道が旧中山道で、北に突き当たったところが、
甲州街道との合流点であること、その突き当たりにあるのが、
下諏訪宿本陣の岩波家であることを教わったからだ。


(下諏訪駅前の広場、左側に見えるのが「おんばしら」)

2008年5月26日(月)快晴。気温27度の予想。
朝9:13分、下諏訪駅に降り立つと、駅前広場からまっすぐ道が伸びている。
その道に入る駅前広場の出口には、左右に有名な「御柱」が立っており、
一方の柱の横に置かれた立派な「綱」が見る者を圧倒している。

説明書きによれば、
「下諏訪町は、江戸時代中山道と甲州道中が交わるところ、
豊富な湯量を誇る宿場町として栄え、
その名を馳せた歴史と文化の面影を今に残している。
諏訪神社総本社の門前町としても賑わい、「おんばしら祭り」が寅、申の年に行われ、
その勇壮、豪快な祭りは天下の大祭として全国に知れ渡っている。
また毎年行われる「お舟祭り」も有名である。
このモニュメントの「綱」はおんばしら、お舟の引き綱を表している。
一本の綱に力が込められ、太く力強い「綱」が出来上がる。
人々の団結、協力、絆を意味する。」とある。

御柱祭りのために、切り出した大木を急坂に落とす、「木落し」の行事は、
テレビニュースで死者が出ると伝えるほどの荒っぽいお祭りでよく全国に知れ渡っているが、
「お舟祭り」はあまり聞かない。
そこで土地の方に聞いた話を要約すると、
「お舟祭(おふねまつり)というのは、祭神の春宮から秋宮への夏の遷座祭のことを言う。
なお、冬の遷座祭は遷座の儀式と神主だけで
静かに裏街道を通って執り行われる行列のみが行われる。」のだそうです。


(おんばしらグランドパークのオブジェ)

さっそく駅前にまっすぐ伸びる道に沿って下社(秋宮)の方向に歩く。
突き当りを右折し信号を渡り少し歩くと左側に、
「甲州街道中山道合流地点こちら」の案内看板が目に付く。
その看板のある一角に
「おんばしらグランドパーク」さっき駅前で見たのと同じような、柱と綱のオブジェが置いてある小公園がある。
その小公園を左折するとそれこそ旧中山道で、直進する突き当たりに、

下諏訪宿本陣・岩波家がある。


(本陣・岩波家の看板)




万治の石仏(旧中山道を歩く 144)

2008年08月14日 10時12分42秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(石造群)

(下諏訪宿3)
木落とし坂を過ぎ、国道を下る。
左手に旧中山道左方向の案内がある。
これは京都側から歩いてきた人のための案内で、
推測では木落とし坂の上のほうに行く道であろう。
その入り口を入った左側にはには、数個の馬頭観音の石造群があり、

右側には、
「雪散るや 穂屋のすすき 刈り残し」の芭蕉の俳句碑がある。


(芭蕉の句碑)


(道路案内)

さらに国道を下ると、左諏訪下社(秋宮)3.1kmの案内があり、
左折し国道と分かれる。しかし程なくまた国道に戻り、
南へ下ると、左側に寺院の建物の裏側が見えるところにでる。
右側には諏訪下社(春宮)の黒々とした森が見えてくるので、
右脇の道に入る。(*)

ここは非常に解りにくい。
道なりに歩くと、春宮の正門前に出るあたりで、逆Y字路にでる。
Y字路の股に「右中山道、左諏訪宮」の石碑がある。


(逆Y字路の間にある石碑)

(*)右脇の道をもし通り過ぎてしまったら、
慈雲寺の正門前まで行き、正門前にあるバス停の手前を右折すると旧中山道に突き当たる。
左右を見渡すと道路は、逆Y字路になっているのが判る。
Y字路の股に「右中山道、左諏訪宮」の石碑がある同じ場所に出る。


(右わき道へ入りそこなった場合、この慈雲寺正門前で右折)

その石碑を見て左へ行くと諏訪大社下社(春宮)の入り口に出る。
入り口に出る手前に、万治の石仏の道案内があるのでそれに従えば難なく
「万治の石仏」にたどり着く。


(諏訪大社春宮の鳥居)

念のため万治の石仏へ行くには、
諏訪大社(春宮)の入り口鳥居前を左方に抜けると、
砥川があるので橋を渡り、
川沿いに右折すると岡本太郎の「万治の石仏」の石碑があり、
その先に「万治の石仏」田んぼの中にある。


(川べりにある、岡本太郎作万治の石仏の碑)

岡本太郎画伯が絶賛した造形物だという。
なにやら「太陽の塔」(岡本太郎作、
大阪万博の会場跡に残る芸術作品)を連想させる「石仏」である。

いろんな角度からの石仏をご覧ください。
この石仏だけを研究した一冊の本があるくらい、
見方によっては、大変面白いと思います。


(入り口から見た石仏)


(正面から見た石仏)


(左横から見た石仏)

中山道に戻って、すこし進むとしだれ桜の下に、龍の口から水が流れている場所がある。
庚申塚の碑などが並ぶが、「龍の口」は寛政ころの作といわれる。
左側に長い階段があるが、上ると慈雲寺の正門前に出る。
この寺は鎌倉時代に春宮の鬼門よけに作られた禅宗寺院といわれる。


(龍の口)


(庚申塔群、右下に龍の口が見える)

「龍の口」の前を秋宮方面に進むと、だんだん人家が増えてくる。
黒板壁の下に一里塚の碑があり、上には55番目の一里塚とある。
下の原の一里塚で、日本橋から220kmの地点になる。

町中を進むと番屋跡の碑があり、
ここから下諏訪宿の本来の宿場町の町並みが始まったと思われる。

さらに進むと下諏訪宿本陣・岩波家の看板が目に付く。


(一里塚の碑)


(一里塚2)


(番屋跡の碑)


(下諏訪宿本陣)




水戸藩の尊皇派「天狗党」(旧中山道番外記 10)

2008年08月11日 09時48分39秒 | 中山道番外記

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(群馬県:東光院山門の扉の裏側にある天狗の面)



(水戸天狗党)

和田峠を越えて、
下諏訪宿に入る手前に「浪人塚」なるものがある。
水戸浪士のお墓である。
(旧中山道を歩く 143)で述べた。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/08/post_df14.html参照)

水戸徳川家の侍は、二つに分かれた。
一つは王室尊崇の尊皇攘夷派を誠党、
他方の徳川将軍家擁立派を奸党と呼んだ。
誠党を天狗連と呼ぶ。

水戸浪士天狗連は、軍馬150頭、兵糧方、賄い方、雑兵、歩人等
千人越えの人数であった。

これが幕府へ意見すべしと、
京都方面に向かって中山道を進軍し始めたことが
幕府方を狼狽せしめた(慌てさせた)。

和田宿から下諏訪宿の間の木曽街道の一部を戦闘区域と定め、
峠にある東餅屋と西餅屋に住む住民を退去させた。
ここ和田峠で水戸浪人千有余人と諏訪藩と松本藩が迎え撃つ段取りを取る。

幕府から援軍を要請された上田藩、松代藩、小諸藩は、
要請に応じたが間に合うように発進しなかった。
また、水戸よりの追討軍は発信していたが接触を避け、
一定の距離を置いて追尾したので援軍とはならなかった。
それほど幕府の権威は地に落ちていた。

水戸浪士組と接触した諏訪藩と松本藩は、
水戸浪士の奇襲に遭って退却、
この戦で水戸浪士隊戦死者17名、
諏訪・松本藩戦死者十名という。

浪士隊が西下すると言うので、
住民は、女子供はもちろん、
家財は戸障子まで土蔵にしまいこんだ。
浪士隊の面々は、幕府のいう賊徒・不忠者で、
脱走者・浮浪の徒と噂されたが、
下諏訪宿で一夜を過ごした時、
宿場で定められた旅籠銭一人当たり 弁当用ともに250文ずつ支払い、
規律正しく通行した。

時に元治元年(1864)11月19日であった。

下諏訪からは斡旋するものがあり、伊那へ抜ける間道を通り、
在来の各藩、高遠藩・飯田藩その他の藩との無用な接触を避けた。
最後は徳川将軍に意見を申し入れること叶わず、
金沢藩に囚われの身となり、
その殆どは水戸に送られ、処分される憂き目に遭った。

後に高島藩(*)はここに塚を造り浪士軍の戦死者を祀った。

それが浪人塚である。

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(史跡 浪人塚)

(*)高島藩とは、近江高島藩のことで、諏訪に飛び地として領地を持っていた。

以上水戸天狗党について「夜明け前」第一部第八章を読んでの要約です。




藤村の「夜明け前」(旧中山道番外記 9)

2008年08月08日 09時52分13秒 | 中山道番外記

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(12輪花をつけた胡蝶蘭:蘭を育てるのは難しいことを知った)

(夜明け前)
三人の姉たちが藤村の詩集に熱を上げて、
しきりに暗唱をしていたのを思い出す、
ボクが高校生のころのことであるから、もう55年も前のことである。

その詩が載っている全集は島崎藤村とあって、
赤い厚紙の表紙でずいぶん分厚い本であった。
一部詩集になっており、ほかに「夜明け前」「破戒」、
今は記憶がないが、そのほかに数編の小説が掲載されていたように思う。

姉たちが暗唱して口ずさみ、ボクの記憶に残った詩は、
「まだあげ染めし前髪の・・・」であり、また別の詩は
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」であった。
ページをぱらぱらめくっていくと詩集があり、
ボクが聞き覚えた詩は、
「初恋」であり「千曲川旅情の歌」であることを知った。

さらにページを繰ると「夜明け前」と言う名の小説があり、
そうとうな長編であったという記憶が残っている。
姉たちが口ずさんだ詩の内容から、
高校生のボクには「夜明け前」は、かなり難しそうな小説に思えたので、
いつかは読もうと思っていたが、
長いこと忘れていて読む機会を逸していた。

中山道を一人で歩いて長久保宿まで来て、
いよいよこの先は木曾街道と思うと、
有名な一節「木曾はすべて山の中である」が思い起こされて、
藤村の「夜明け前」を避けては進むことができなくなった。
図書館で本を借りて読んでみると、
高校生時代に勝手に難解と思い込んでいた「夜明け前」は、
実は非常に解りやすいやさしい文章で書かれている。

こんなことなら
高校生時代の暇がたくさんある時に読破していれば、
中山道を歩くのにいろんな参考になることが書かれていて、
当時を理解するうえで参考になったのにと悔やまれる。
なぜなら、今は残された時間を思うと、
一刻も無駄にしたく無いと思うからである。
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(今年も咲いた月下美人)

さて「夜明け前」であるが、何を意味しているかというと、
「文明開化の夜明け前」をさしている。
ペリーの黒船来航から始まる日本の動揺、安政の大獄、
寺田屋事件、尊皇攘夷、薩摩と長州、会津と水戸、桜田門外の変、
水戸浪士組、新撰組など。

徳川幕府の崩壊から江戸城無血開城、天障院篤姫、
皇女和宮の話など、激動の時代について、
木曾から美濃までは「夜明け前」を読めば
歩くこともなさそう思えるようになってきた。

昔から、ベストセラーになる小説は時代を背景にしたものが多い。
群雄割拠時代の「太閤記」、古くは「太平記」「平家物語」など。
「夜明け前」が幕末から明治の開化までの歴史小説として、
民間人を主題にしてベストセラーになった小説であることは十分うなずける。

太平洋戦争の時代を背景にした長編小説の傑作はどれであろうか?
どなたか手を挙げて創作されてはいかがであろうか?

ベストセラーになるのを請合います。
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(月下美人に似ているがこれは孔雀サボテン(黄色)





浪人塚と木落とし坂(旧中山道を歩く 143)

2008年08月03日 08時02分15秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(浪人塚のある公園)

(下諏訪宿2)

国道142号線の左わき道を300m歩いた所で
国道142号線をくぐると浪人塚のある公園に出る。
公園は奥に長い緑多い場所であるが、
入り口に史跡「浪人塚」の案内がある。


(「元治元年水戸浪士 殉難の場所の碑)

公園入り口左手に、「元治元年水戸浪士 殉難の處」の石碑がある。
公園を奥にはいると、
右手に「南無阿弥陀仏」と「観世音」の二基の石碑があり、
その先に「和田嶺合戦百年祭乃碑」が、
そしてさらに先に一段高いところに史跡「浪人塚」がある。


(「南無阿弥陀仏」と「観世音」の二基の石碑)


(百年祭の碑)

説明によれば、
「ここは浪人塚と言い、今から120年前
元治元年(1864)11月20日に、この一帯で水戸の浪士
武田耕雲斎たち千人余と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場でもある。
主要武器はきわめて初歩の大砲十門位づつと猟銃少しだけで、
あとは弓、槍、刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍に
10余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、
浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。
碑には当時水戸に照会して得た六柱だけ名前が刻まれている。
明治維新を前にして尊い人柱であった。」(下諏訪町教育委員会)


(正面奥の石碑に水戸浪士六名の名が刻まれている。其の後ろに塚がある)

道路はもう一度国道142号線をくぐり、
化学工場の中のようなところを通り抜け、
廃棄物処理場を右に見て、さらにペットのお墓を見ながら、
道路は迂回して国道に合流する。

すこし進むと
「樋橋(とよはし)茶屋本陣跡の碑」が左手にある。

下諏訪・和田両宿間、五里十八丁の間の峠路に作られた立場茶屋で
東餅屋、西餅屋、と並ぶ茶屋本陣である。

本陣には、御殿と呼ぶ小建築があって
文久元年十一月には皇女和宮が小休止された。
(下諏訪町教育委員会)


(樋橋茶屋本陣跡の碑)

国道142号線はここからやっと歩道にありつく。
何も無い国道142号線を延々約三キロほど歩くと、
ごみ焼却場のもうもうと煙を吐きだす煙突に出会う。
さらに進むと、国道142号線は二股に別れ、
右方は塩尻方面へ左方は下諏訪方面に進むので、
下諏訪方面に道をとる。

途中で左脇に入るのぼり坂があり、木落とし坂はその方向であるが、
疲れたので下り坂の国道に沿って歩く。


(道路右側の木落とし橋)


(木落とし坂の下)

間もなく右に「木落し橋」があり、
その左手に「木落とし坂」の下に出る。
見上げると御柱が、坂の上のほうに注連縄(しめなわ)を着けておいてあるのが見える。

天下の奇祭「おんばしらまつり」は七年に一度行われる。
大きな丸太を坂の上から落とす荒業で、
御柱にへばりつく人間がなんと小さく見えることか。
神の荒業の前には、如何ともし難い。
成すすべなく、猛スピードでかけ落ちる「おんばしら」の下敷きになり、
死人が出てニュースになる。
不可能を可能にしたい人間の無力さをまざまざと見せ付ける祭りである。


(上の中央にしめ縄のある大木が見える)

東京でも三社祭の神輿に人が乗って、
それが粋だとか、格好よいとか言うが、
神輿は神聖なるもので、決して人が乗るものではないと、
昨年、もし人が乗った場合は、
翌年は神輿を出さないと予告したにもかかわらず、
神輿に乗った馬鹿がいて、
今年は祭りに神輿が出なかったそうである。

一生のうちに一度は見てみたいものの中に、この三社祭りと
「おんばしらまつり」がある。いずれも実現していないが、
一度見たら、「なーんだ、こんなものか」で終わるものかも知れない。

話は変わるが、一生に一度は見たいと思っていた高校野球の準々決勝戦を、
一昨年甲子園まで出かけてカミさんと観戦したが、ずいぶん見ごたえがあった。
何といっても、「マー君」と「ハンカチ王子」が話題になった年であったから。

幸運であった。