中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

たにし不動の神明神社(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 28)

2014年03月19日 15時57分41秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(幸手市の看板)

(幸手宿)
幸手市の看板があるところから、
少しすると杉戸高野台駅は左の案内看板がある。
四号線は、両側にマクドナルドや日高屋のラーメン、
吉野家などの外食産業の看板が目に付く。

(杉戸高野台駅の案内)


しばらくすると、自動車買取業者の看板があって、
その手前を左に入る道がある。
これが旧日光街道で、ここで左折すると、
すぐホンダ幸手店があり、少し行くとジョイフル・ホンダのお店がある。
さらに進むと道路は左にカーブして、踏み切りにぶつかる。
東武日光線のこの踏切を渡ると一面に広がる畑がある。
関東平野広いと感心しながらひたすら進むと、T字路で信号にぶつかる。
信号の先は何屋であろう(Belc)の看板が見に入る。
この道を左折するのであるが、後で調べたら、この道は日光御成り道であった。

(自動車買取業者の看板のある国道から左へ入る所)

(ジョイフル・ホンダの大きな店)

(東武線の踏み切り)

(踏み切り先の一面の畑)

(突き当たりに見えるBelcの看板)


江戸時代、日光へ通う道は、の三通りあった。
一つは、誰もが通った五街道の一つ、日光道中。
二つ目に、家康の命日に、
京都から日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使が通った、日光例弊使街道。
三つ目に、将軍が江戸城から東照宮へ通った、日光御成り道、である。

このT字路で日光御成り道に旧日光街道は合流していたのだ。
将軍になったつもりで、先に進むと左手に神宮寺があるはずであるが、
見回したところ見当たらない。
歩いてきた老人に尋ねたが、ご存じない。
あまり人通りが無いので止む無く前に進む。

(合流した日光御成り道)


かなり先の左手のやや奥まった所に、その神宮寺はあった。
(鷹尾山誓願院神宮寺は、浄土宗の寺で、本尊は薬師如来です。
源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩をし、
戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、
この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたといわれています。
薬師如来像と十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作と言われています。
中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、
一村が寺領であったこともありました。)(幸手市教育委員会)とある。

立派な本堂が見えたが、入り口に鍵のかかった鉄柵があったので、
中に入って、薬師様と十二神将を拝む事は叶わなかったが、
門前の新しく造られた六地蔵で我慢した。

(神宮寺と六地蔵尊)


少し進むと東武線の踏切を越え、信号があって左から来た道路と合流する。
ここから先に倉松川に架かる志手橋を渡ると、
すぐ右手に石の鳥居があり、その鳥居の右側に
「螺不動」と自然石で出来た石碑がある。
神明神社である。

(左から来た道路と合流)

(神明神社の鳥居と螺不動の石碑、左手に二つの社が見える)


鳥居の奥には、四つ神社があり、
左側に手前から、菅谷山、次が成田山、の扁額を持つ神社、
正面が、今宮大杉神社の扁額を持つ神社、
手前右手に、稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮の扁額を持つ神社がある。
入り口鳥居横の「螺不動」は「たにし不動」と読むらしい。

(正面の今宮大杉神社と
右手前の稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮の扁額を持つ神社)


説明板には、神明神社とたにし不動尊として次のように説明がある。
(神明神社は、宝暦五年(1755)伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社です。
境内には、成田・菅谷不動尊があり、
菅谷不動尊は「たにし不動」とも言われています。
眼病の人が、「たにし」を描いた絵馬を奉納して祈願すれば、
ご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。
江戸時代には、ここに高札場がありました。幸手市教育委員会)とある。

ここに高札場があったと言う事は、
ここから先が日光街道の幸手宿ということになる。
また、他では聞いた事のない、
たにしの絵馬を奉納すると眼病に効くと言うのも珍しい神社で、
絵馬を見てみたいと思ったが、見渡した所絵馬は見当たらない。
そこで菅谷山の扁額がある神社を覗いて見たら、
ご神体に「たにし」が置かれている様であった。

(菅谷山の社)

(菅谷山の扁額)

(ご神体は「たにし」でしょうか)


神明神社を出て進むと、(幸手駅左)の案内看板、そして信号があり、
左手に「明治天皇幸手行在所」の石碑がある。
ここを幸手市は公園と言っておりますが、
公園にはしてはあまりにも小さな一画です。

(幸手駅左)の案内看板)

(「明治天皇幸手行在所」の石碑)


説明では、
(明治天皇は、明治九年(1877)奥羽巡幸の際、
明治十四年七月、と十月山形・秋田・北海道巡幸の際、
また明治29年十月近衛師団の演習天覧の際、
幸手を通られ、明治九年には元本郷の知久家に、
あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しております。
この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、
指定説明をした説明板(台、屋根部分は復元)、現在は効力を失っていますが、
当時の史蹟名勝天然記念保存法による指定標識の三点が移設保存されことになりました。幸手市教育委員会)とある。

(「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑)

(手前の屋根つき説明板)


この信号を左折して幸手駅から帰宅した。

時刻:16:16発北千住行き、帰宅したのは18時であった。
歩行数3・5万歩、約22kmであった。



杉戸山 宝性院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 27)

2014年03月15日 17時26分39秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(東武動物公園駅)


(杉戸宿)
旧日光街道の杉戸宿には、取り立てて紹介するようなものはない。
東武日光動物公園駅を下車して、
東口を旧日光街道の(杉戸宿本陣跡)に向って進む。
動物公園駅を降りたところは宮代町であるが、
電柱には「百間」と書いてある。
「百間」とは妙な地名であるが、どんな読み方をするのかと、
商店の方に聞いてみた。
(百間の電柱)


「ここの地名は(百間)と書いて何とお読みするのですか」
「(もんま)と読みます」と答が返って来た。
聞き間違いかと、訊きなおすとやはり地名は{もんま}と読むそうだ。
「ももま」が転じて「もんま」になったと勝手に想像して先を急ぐ。

(杉戸宿本陣跡)の信号をさせつする、これが旧日光道中である。
杉戸宿には旧家が点々として残っている。
(杉戸宿本陣跡前の信号)

(大きな木のある古い家の門)

(旧街道にふさわしい家1)

(旧街道にふさわしい家2)

(旧街道にふさわしい家3)

(旧街道にふさわしい家4)

(久喜方面と幸手方面の道標)

(宝性院の看板)


しばらくすると街道の途中に宝性院の看板がある。
看板の前に立つと、左手に立派な山門が見える。
真新しい宝性院の石柱が印象的であった。
その石柱の左手に、
「第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場」の石柱が建っている。
石柱の背後には、
「芭蕉紀行三百年記念建之」と刻んである。
芭蕉の「おくの細道」紀行の300年を記念して建てたものと思われる。
(真新しい宝性院の石柱と山門)

(第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場の石柱)

(石柱の背面)


山門に近づくと、杉戸町教育委員会の説明板が文字もかすれて立っている。
説明では、
(太政官より明治五年(1872)近代的法規である「学制」が出されると、
ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉林村の児童を教育するために、
杉戸学校が設立された。児童数は男子117人、女子35人、
教員は五人であった。以下省略)とある。

以後紆余曲折があって、現在の小学校になった模様が、
書き記されていたが、
明治の初めには、
この地区の児童全員が学校に行ったようには記されていなかった。
「男子117名に対し女子35名」は、
女子は勉強する必要なしの時代を表している。
男女の差別は戦後まで歴然として続いていた。

亭主である父が白いものを黒と言うと、
妻の母はそれに抵抗する事が出来なかったのを、
ボクは覚えている。
終戦後、男女も職業も人種も、法律により平等である事が示されると、
父、母の立場が逆転したのを鮮烈に記憶している。
また人種の差別も次第に無くなっていった。

話は戻って、
門前には、三体の石柱があり、
一番左に、「庚申塔」の文字が、
中央には、庚申塔の「青面金剛像と足元には三猿」があり、
右側には、笠つきの庚申塔「青面金剛と三猿」が立っており、
旅の安全を願った証拠だ。
(宝性院門前の庚申塔)


山門をくぐって右側にある不動堂について
(真言宗智山派の杉戸山 宝性院は、杉戸宿の中央に位置して、
不動堂は弘化三年(1846)に再建されたもの。
由来は、幸手城主 一色宮内大輔義直が、永禄三年(1561)
亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、
「安産不動明王」を安置し、不動寺と号した。
その後、安政四年(1858)春、
成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
元和二年(1616)教職大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、
次号を宝性院と改めた。
当時の伽藍は関東大震災で大破したため、弘法太子1100年記念事業として、
昭和九年現在の本堂は再建された。)(杉戸町教育委員会)の説明がある。
(宝性院の不動堂)

(宝性院の本堂)


その後旧日光街道は旧家らしい家を右手に見たりして、
国道四号線に合流する。
ここには左手に、交通安全のお地蔵様が見え、
国道の安全を願って建っている。
しばらく歩くと右側に、赤い鳥居と神社が見えてくる。
赤いのでお稲荷様かと思ったが、
厳島神社の分社であった。
(国道四号線への合流点)

(交通安全のお地蔵様)

(厳島神社の分社)


ややあって(幸手市)の看板があり、ここから幸手市に入る。
(幸手市の看板)




小淵山観音院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 25)

2014年03月02日 17時26分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(小渕山観音院の楼門)

(春日部宿 3)
国道四号線に合流してしばらく進むと、
左側に年代ものの古い木造の、
いかにも古色蒼然とした山門が見える。
小渕山観音院と言う。

古びた門の左右には、阿吽(あうん)の仁王像がこれまた古いものらしく、
今にも崩れ落ちそうな木造であるが、
仁王様らしく鋭い目つきは、きっと名のある彫刻家が刻んだものであろう。
通り過ぎようとする参拝客を睨みつけている。
(左側の吽形の仁王像)

(右側の阿形の仁王像)


楼門は、先の3・11の東北大震災の影響で、
今にも崩れそうなため危険で、周りを縄で囲み、
「仁王門の中を通り抜けないでください」と注意書きがあった。
門の横を恐る恐る通り抜けて本堂に向うと、
「仁王門改修のお知らせ」があって、
(この仁王門は、元禄二年(1689)建立で,三間一戸楼門形式と言い、
向って右側に「阿形(あぎょう)」左に「吽形(うんぎょう)」の金剛力士像が安置されており、
春日部市唯一の仁王門として文化財に指定されています。
2014年1月から改修工事を実施します。
歴史ある文化財の復興事業故に当院のみで行える規模ではありません。
被災文化財の救援と修理・保存に向けて、
多くの方々からご厚志を賜りたく存じます。)とあった。
つまり災害復興事業の寄付金・義捐金のお願いであったが、
確かに、早く復興するように願って賽銭をいつもより多く収めてきた。

今この道を通って、いずれ震災の福島、仙台、石巻を通過するであろうに、
これから被害でまだ復興がままならない場所を目にすることであろう。
(本堂)


小淵山観音院については、埼玉県、春日部市の両著で案内があるので、
紹介しておきたい。
(小淵山観音院は、新編武蔵風土記稿の小渕村、観音院の項に
「本山派修験、京都聖護院末、安永二年(1773)正年行事職を許される。
小渕山正賢寺と号す。本尊正観音、応安二年(1369)住持玄通が書きし
縁起有に拠れば、古き像なるべし。
中興開山は尊慶と言い、年代を知らず。」と記されている由緒ある古刹である。

この寺は、この地方の観音信仰の霊場としても有名で、
家内安全、商売繁盛のほか、いぼ、こぶ、あざにご利益があると言われる。
毎年八月十日には、この日参拝すると四万六千日分のご利益が授けられる
と言われる四万六千日祭りがあり、県内の山伏が参集して護摩修行を行い、
近隣の善男善女が枝豆を奉納し参集する祭礼がある。
また三月には、かって馬寄席祭りがあり、
農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつけて安全を祈願する祭りがあった。
本堂内には、木造の白馬が安置されている。
本尊「正観音像」には、その昔、洪水でこの地に流れ着き、
一度は元の寺に返したが、その後洪水で再びこの寺に漂着したので、
お堂を建てて安置したものと言われる伝説がある。
本堂の格天井には、花鳥の彩色が施され、
格縁ごとに大勢の粕壁宿の商店主の名前が記されており、
外壁には、多数の絵馬のほか、
八丁目の和算士 原伝三郎が奉納した算額が掲げられている。
また寺には「毛もいへば 唇さむし 秋の風」と詠まれた芭蕉の句碑、
市内随一の楼門(仁王門)七体の円空仏がある。)とある。
(木造の白馬の像)

(残念ながら格天井は暗くて写っていない。正観世音の提灯)

(芭蕉句碑)


・ ものいえへば 唇さむし 秋の風 はせお
と刻まれているのが、やっと読める句碑であった。
なお、外壁の掲げられていると言う算額は、
風雨にさらされ文字や描かれた画は消えて板の木目のみになったいたので、
天井のみを写真に収めた。
(本道の天井部分)