中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

二荒山神社(芭蕉の道を歩く 20)

2012年10月26日 11時04分48秒 | 芭蕉の道を歩く
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(二荒山神社の参道)

(二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)
二荒山神社の参道には、何基あるか分からないほど沢山の、
石灯籠が並んでいる。

奥には二荒山神社の山門が見え、
その扁額には「正一位勲一等日光大権現」とある。
さらに奥に二荒山神社の石の鳥居があり、
奥に荘厳な本殿が見える。
(参道に並ぶ石灯篭の数々)
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(山門の正一位の扁額が見える)
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(石の鳥居と本殿)
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本殿の左端に、「二荒霊泉」の案内看板がある。
要約すると、
「霊峰二荒山(男体山)はじめ日光山八峰に起因する霊水が、
古くから二つの霊水が湧き出している。
一つは本社背後の洞窟から出る「薬師の霊水」で眼疾に効能があり、
もう一つは別宮滝尾社の清流「酒の泉」で、この二つの清水を、
この地に導き「二荒霊水」と名づけた泉を築いて、
拝戴することとした。
老杉の聖域で御霊水をいただき、
二荒山大神の広大深重なるご神徳をお受けください。」とある。(二荒山神社)
(二荒冷泉の案内)
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この案内の隣に石の鳥居があって、奥に泉がある。
泉の中に「若水」「酒の泉」「智恵の水」の立て札があり、
霊験あらたかな感じがする。
左方向に泉を出ると、酒屋があって悪縁消滅札もあったようであるが、
そこは通り越し、霊水の流れに沿って歩くと、
「良縁の杖」と表示した案内がある。

(石の鳥居と泉)
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(泉の中の立て札)
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(良縁の杖)
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案内に沿って眺めると、霊水の流れの中に竹の輪があり、
悪縁を輪のなかで水に流すよう書いてある。
面白い企画で、カミサンと二人どんな悪縁があったのか知らないが、
二人で面白がって、輪の中に杖をさしてかき回し、とにかく悪縁を流す事にした。
(悪縁を流す輪)
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二荒山神社の本殿前で、今度は人が輪をくぐり悪縁を断ち切る願いをする。
さすがにボクは遠慮しておいた。切る悪縁が無いから・・・

帰り際にお化け灯篭と言うものに出会ったが、
無信心のボクはさっさと通り過ぎた。
(悪病退治の輪くぐりをする観光客)
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(お化け灯籠ー銅製の灯籠)
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隣に世界遺産の大黒殿があった、中に入ると大黒様が飾られており、
打ち出の小槌が何個か奉納されていたが、
この小槌にそれなりのご利益があったのか、
賽銭を投げればご利益に有りつけるのかもしれないと、
欲張った事をカミサンに話したら、
財布を取り出して、賽銭を投げていた。

冗談から駒が出るかもしれない。

(大黒殿)
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(招き大黒さま)
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 (*)二荒山神社は早くから下野国-しもつけのくに-一の宮としてうやまわれ、
鎌倉時代以後は、関東の守り神として幕府、豪族の信仰をあつめた。
二荒は、別読みをすると「にこう」は日光につながる。

・霊泉や 冷たさしみる 二荒山    hide-san

(自分でも気に入った句はなかなかできないものだ。)



世界遺産 日光山輪王寺(芭蕉の道を歩く 19)

2012年10月23日 10時37分24秒 | 芭蕉の道を歩く
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(輪王寺の石柱と山門)

(日光山輪王寺)
日光山輪王寺の黒門を入ると、
観光バスがずらりと並んだ駐車場で、
その隣に輪王寺の本堂 三仏堂があるが、
現在修復中で本堂の前に、垂れ幕が掛かっており、
本堂の養生シートの役割をしている。
東日本大震災には関係なく、
柱や梁の表面に痕跡を残さず、
部材の中心部を食い荒らす害虫による被害の修復を、
余儀なくされたとしている。

その垂れ幕には、在りし日の三仏堂の写真が載せられていて、
その前で、修学旅行で訪ねてきた中学生らしき人たちが、
階段に並び垂れ幕を背景に、写真を撮っていた。

写真を撮るに当って大勢の人たち全員が、
目をつぶらないよう、余所見をしないよう、
写真やさんが懸命に掛け声をかけている。

「それでは撮りますよ!!
1+1(いちたすいち)はいくつですか?」と声を掛けている。
「2(にー)」と中学生が全員で答えると、シャッターを切る。
「そこの上の段の人、下向かないで~、
全員カメラを見てください。それではハイ!チーズ!」
と掛け声をかけて、もう一度シャッターを切る。
上手く撮れたのかどうか分からないが、
「ハイ!!もう一度!!」と三回目のシャッターを切っている。
写真も大勢いるとなかなか大変。

(三仏堂(本堂)前で記念写真を撮る中学生たち)
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輪王寺の本堂(三仏堂)は日光山随一、東日本では最大の木造建築で、
正保二年(1645)に、三大将軍家光公によって建て替えられ、
今日までおよそ370年経っていると言う。

修復中の三仏堂の中を、沢山の中学生たちと一緒に見学して回る。
金色の三尊(千手観音、阿弥陀如来、釈迦如来)を見て、
外に出ようとしたら、
外国人の若い三人が「おみくじ」200円の前に立って、
財布からお金を出している。

おみくじを買って字を読めるのかしらと思い、
「日本語読めます?」と訊いたら、不思議そうな顔をしているので、
日本語が分からないのかと思い、英語で聞いたら、
「少し読めます」と日本語で返ってきた。
それではボクが心配する事もないと、その場を離れた。

(内陣の毘沙門天)
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もし「読めません」と返事がきたら、
どうするつもりだったのか、自分でも分からない。
おみくじを見て、どう英語で話したらよいか、
後で考えてみると、なかなか良い英語が見つからない。
大吉、小吉、凶、などと出てきたら、
どのように話しただろうと、
散歩中に思い出しては、一人で笑ってしまった。
周りの人は不審に思ったに違いない。

三仏堂を表から入り、裏へ抜けると相輪とうと護摩堂があり、
修学旅行の中学生が満員電車と同じ鮨詰め状態で集合していた。
人を掻き分け出ると、二荒山神社の参道であった。
(護摩堂)
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・日光の 修学旅行 もみじ狩り   hide-san






東照大権現(家康)のお墓(芭蕉の道を歩く 18)

2012年10月18日 16時01分48秒 | 芭蕉の道を歩く
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(徳川家康のお墓)
以前一度入った事のある東照大権現(徳川家康)のお墓に入る。
修学旅行生の男女が沢山、石の階段を昇っていく。
階段の一段一段の段差が高く大股でないと昇れない。
修学旅行の生徒たちは、鼻歌まじりで昇っていくが、
ボク達年配者には、かなりきつい。

その階段が何段もあり、
歩幅が違うためであろう、相当体力を失う。
途中で何度も休みながら、上って行く。
途中帰る人であろう下る人たちに出会う。

「おじさん、おじさん、階段は、まだこれから倍以上あるから、
無理をしないで諦めた方が良いよ」なんてひやかして行く。
ボクよりは若いが結構な大人が、年寄りを小ばかにして、
階段を降りていく。
本当は「じいさん、じいさん」と言いたかったに違いない。
「ふざけるな この餓鬼め!今にお前もこうなるんだ!」と
言い返してやりたかった。
ボクは、もうなのか、まだなのか、喜寿になった。

その昔、この階段を登ったとき、
上のほうに家康の石のお墓が、
石垣に囲まれてあった事しか思い出せない。
何の特徴も無い石のお墓であったような気がする。

やっとの思いで来たので、家康のお墓に手を合わせ、
今度は階段を降りる。
昇る時に使ったためか、降りる時にはふくらはぎが痛くて、
脚がなかなか言う事を聴いてくれない。
ひざが笑うと言うが、ボクはまいにち8km程歩くからか、
膝が、がくっと折れるような事は無い。

それでも階段を降りて、出口に来た。
先ほど520円の入場料を払った所だ。
振り返ってみると、頭の上に見たことのある彫刻がある。
左甚五郎作といわれる、有名な「ねむり猫」であった。
入場料の520円はこの「ねむり猫」の彫刻の観覧料と思えば安いもの。
(眠り猫)
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先ほど馬鹿にされた年寄りの体力を、
見事に克服して晴れ晴れとした気持ちであった。

・秋の陽に 階段のぼる 東照宮    hide-san



日光の陽明門(芭蕉の道を歩く 17)

2012年10月15日 10時23分41秒 | 芭蕉の道を歩く
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(陽明門)
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(陽明門)
仁王門をくぐると、目当ては有名な陽明門である。
きらびやかな彫刻がすみずみに施され完成した。
しかしその手前には、三神庫、神厩舎があり、
特に神厩舎の長押(なげし)には、猿の見事な彫刻が見られる。

三神庫の外部は校倉造(はぜくらづくり)を模したもので、
内部には百物揃え千人行列と呼ばれる、
壮大な渡御祭りと呼ばれる装束が、1200人分が収められている。

(三神庫)
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(神厩舎は、神に仕える馬の厩舎のことで、
神馬は雄の白馬が条件で、現在も2頭飼われている。
百物揃え千人行列には、この神馬もお供する。
長押の上には「三猿」で有名な猿の彫刻が八面掲げられている。
昔から猿は馬を病気から守るとされ、
室町時代まで馬屋で猿を飼う習慣があった。)(日光観光協会)
(神厩舎)
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長押の三猿の一部を紹介したい。

(人生にまっすぐ立ち向かうが、崖っぷちに立つときも。
迷い悩む仲間を励ます友がいる。)
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(次が、口を「へ」の字に曲げ、
大きな志を抱いて天を仰ぐ。青い霞が「青春の志」を暗示。)
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(そして最後が、三猿。
子供のときは、悪いことを「見ザル、言わザル、聞かザル」)
(カッコ内は日光観光協会より)
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この神厩舎と三神庫の間を抜けると、
石段を登って陽明門である。

松尾芭蕉の時代には、武士は陽明門の石畳、
庶民は陽明門の前に土下座して東照宮を拝んだという。
徳川幕府の威徳に対し素直に敬意を表して、

「今この御光(みひかり)一天にかかやきて、
恩沢八荒にあふれ、
市民安堵の栖(すみか)穏やかなリ。
猶憚り(なおはばかり)多くて筆をさし置ぬ。

・ あらたう(ふ)と青葉若葉の日の光」


と有名な句を残し、奥の細道に書いている。

瑞々しい新緑に輝く陽光を(日の光)で詠み、
同時に東照宮への礼讃を(日の光=日光)と述べている。

(陽明門)
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今では、誰でも陽明門をくぐり中に入っていく。
震災で被害があったのか、至るところで修復工事がなされている。
養生シートが五月蝿く感じられる。

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日光東照宮の五重塔(芭蕉の道を歩く 16)

2012年10月10日 10時55分43秒 | 芭蕉の道を歩く
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(日光東照宮の五重塔)
2012年10月5日(金曜日)日光へ行く。
普段の日だというのに、沢山の人が訪ね来ているのに驚いた。
さすが世界遺産に登録されているだけのことはある。
又今回は、五重塔の内部が、特別内覧できると言うので、
人が多いのかもしれない。

松尾芭蕉は元禄二年、深川を発ち奥の細道へ向った。
千住・草加・室の八嶋の次、第四番目が日光であった。
日光を見ずして結構と言うなかれという諺がある。
同じ意味の諺がヨーロッパにもある。

イタリヤのナポリである。ナポリを見ずして死ぬな、
ナポリを見ずして結構と言うなかれ、ともいう。
カミサンにそう話しながら、道中は進む。
ナポリのどこがそんなに素晴らしいのか、
よく判らなかった、カミサンの率直な意見である。

現にナポリは世界遺産に登録されていないが、
日光は世界遺産に登録されているではないか。

日光東照宮の参道は、沢山の人が歩いている。
右手に金色の葵のご紋がついた石碑「東照宮」が、
うっそうとした杉林に囲まれて建っている。
(東照宮の石柱)
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(当然の事であるが葵のご紋が光っている)
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「東照宮」には、今回で四回目の訪問になる。
最初が高校生の修学旅行であった。
次が結婚して、長男が三歳ころだったと思う。
三回目は、長女が四歳、長男が八歳ころの夏休みに、
湯西川温泉に行った帰りに寄った。
最後に訪ねた時から、もう四十年も経っている。

(仁王門の見える広場)
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(右の仁王さま)
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(左の仁王さま)
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東照宮の仁王門が見える広場に来ると、
左手に五重塔が見える。
今回は五重塔の内部を特別公開されるとの事で、
沢山の人が訪ねきているのであろう。
この塔は、当初、小浜藩主 酒井忠勝の寄進であったが、
およそ150年後に焼失、さらに三年後の1818年に忠勝の子孫、
忠進によって再建された。
(五重塔)
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2011年3月11日の東北大地震による津波で、
福島第一原子力発電所の事故で、激減した日光の観光客を、
取り戻す企画の一つとして、この五重塔の内部公開をすることになった。
2013年3月末まで公開される。

本邦初公開である。
痛々しい努力の企画である。