中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

文豪、剣豪、とげぬき地蔵(旧中山道を歩く 17)

2005年02月24日 13時18分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(染井霊園界隈、文豪、剣豪、とげぬき地蔵)

霊園事務所の前の道をたどると、慈眼寺に出る。
そこには、「羅生門」「鼻」などの作者芥川龍之介、
その子の音楽家 也寸志、演劇家 比呂志のお墓。
(こいさん、頼むわ。・・・)で始まる小説「細雪」を
書いた谷崎潤一郎のお墓もある。

(芥川龍之介一家のお墓、ここに也寸志、比呂志も眠る)


(谷崎潤一郎のお墓)

さらにその隣のお寺 本妙寺には、
下世話に通じた江戸の名町奉行として、
肌に彫った桜吹雪と遠山の金さんの名で、
数々の伝説を残したことで知られる南町奉行所の
遠山金四郎、
北辰一刀流の祖 千葉周作、
碁聖 歴代本因坊
のお墓がある。
また、明暦の大火で亡くなった方の供養塔も見ることが出来る。
(東京都教育委員会)

(遠山の金さんのお墓)


(剣聖 千葉周作のお墓)

ここからすぐ左側には、駒込の青果市場から移転してきた
巣鴨青果市場があり、その先で国道17号に出る。
横断して旧中山道を右方向に向かうと、
「とげぬき地蔵」で有名な高岩寺にでる。
折角だからお参りして行こう。

(とげぬき地蔵の高岩寺)

さらに進むと、中山道庚申塚がある。
猿田彦大神庚申堂の由来記によれば、

(庚申塚)

「巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、
江戸時代近郷近在に聞こえた名所でした。
江戸と板橋宿の間にあり、行きかう旅人たちで
賑わっていたと伝えられています。
その様子は(江戸名所絵図)でも描かれています。
現在では、特に庚申の日ともなると、近くの
「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月4日)と
同様に多くの参拝者があります。庚申塚では
町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに
趣向をこらした食事を作ってもてなしています。」
(平成4年3月豊島区教育委員会)
とある。

だから毎月4日には「とげぬき地蔵」のある
おばあちゃんの原宿は込み合うんだ、と納得。

あいにく訪れた日が31日であったので、
食事のもてなしが今も続いているのかどうか確認できなかった。


染井吉野 (旧中山道を歩く 16)

2005年02月21日 21時00分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(染井吉野の石碑)


巣鴨駅を右に見て、JRの線路をまたぐ巣鴨橋があるが、
その橋を渡りきった左側歩道上に「染井吉野」の石碑がある。
その石碑の横の桜の木は「ソメイヨシノ」で、
「ソメイヨシノ」のいわれが書いた木札がついている。
(「ソメイヨシノ」はエドヒガンとオオシマサクラから
出来た品種といわれ、成長が早いので、
明治末期には全国に広がりました。
名は江戸染井の植木屋の名から出来たもの{バラ科})とある。

つまり染井村の植木屋の吉野さんが作ったので、
「ソメイヨシノ」と呼ばれる。
「ソメイヨシノ」は案内通り、成長が早いが
虫が着きやすいのが欠点といわれる。

昔から、サクラは山桜であった。
ワシントンのポトマック河畔に贈られた桜も山桜なら、
本居宣長が大和心を詠んだ歌も山桜。

「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜かな」

また有名な吉野の千本桜も山桜である。

「ソメイヨシノ」は桜の名前で残っても、
染井村の名前は、今は残っていない。


(医王山 真生寺)


(地蔵尊)

巣鴨橋を渡りさらに中山道を進むと、
左側に「江戸六地蔵尊」医王山 真生寺がある。
巣鴨の地蔵尊は、本来ここの地蔵さんが元祖であるが、
今は、(おばあちゃんの原宿)でにぎあう高岩寺の
「とげぬき地蔵」さんのほうが有名になってしまった。


(おばあちゃんの原宿 巣鴨商店街入り口)

話は戻して、この(おばあちゃんの原宿)の
地蔵通りの入口手前右側に歩道橋があるので渡り、
17号の右側に出よう。出たところの信用金庫の
ショウウインドウに「すがも史跡散歩」なる地図がある。
この地図は、現在の旧染井村近辺の図である。


(史跡散歩の地図)

この地図に従って歩いてみよう。
沢山の史跡散歩が出来る。

まず、この信用金庫の裏手に行くと染井通りがあるので、
左の方へ歩く。すぐに「染井霊園」に到着する。
ここがソメイヨシノ発祥の地で、今は霊園しか残っていない。
園内には時期が来れば、ソメイヨシノが満開になる
「ソメイヨシノ通り」があり、すこし休憩が出来る小公園がある。
ボクが訪ねた時は、まさにソメイヨシノが満開であった。


(染井霊園の桜)


(2004年3月31日)

小さなこの墓地の霊園事務所に向かう。
そこで霊園の地図を手に入れよう。霊園の墓地の案内と
近辺がよくわかる。

この霊園には、智恵子抄で有名な「高村光太郎・知恵子」、
小説家で(くたばってしまえ)をもじったペンネームの「二葉亭四迷」、
明治の元勲「若槻礼次郎」、日本美術院、後の芸術大学の
創始者「岡倉天心」のお墓がある。


(高村光太郎の墓)


(二葉亭四迷の墓)


(若槻礼次郎の墓)


(岡倉天心の墓)

いずれも明治の偉人たちである。心より御冥福を祈ります。




♪箱根八里♪と江岸寺(ごうがんじ)(旧中山道番外記2」

2005年02月18日 10時10分07秒 | 中山道番外記
(「箱根八里」と江岸寺(ごうがんじ))


hakone

♪箱根八里♪

(一)
箱根の山は 天下の険 函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)滑(なめら)か
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
斯(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)

(ニ)
箱根の山は 天下の阻(そ) 蜀(しょく)の桟道(さんどう)数ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)滑(なめら)か
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
山野に狩りする剛毅の壮士(ますらお)
猟銃(りょうじゅう)肩に草鞋(わらじ)がけ 八里の岩ね踏み破る
斯(か)くこそありけれ近時の壮士(ますらお)

「箱根八里」の歌も、これだけ仮名を振らなければ、
読んでもらえない文字が沢山ある。
歌っている人たちの中で、詩の内容をどれだけの人に、
理解されているのか、首をかしげる。

何時だったか箱根に旅したとき、
バスガイドさんが「箱根八里」を歌った後、乗客に質問をした。

この詩の作者は誰か御存知の方いらっしゃいますか?
と訊かれた。

残念ながら、乗客の中に答えられる人はいなかった。
その作詞者の墓が、本郷通りにある。
作詞者の名を 鳥居 忱(とりいまこと)という。

駒込の冨士神社を出て、六義園に向かう途中の左側に、
江岸寺(ごうがんじ)という名のお寺がある。
このお寺は曹洞宗 江岸寺(ごうがんじ)といい、
開基は鳥居忠政であり、鳥居家の菩提寺である、と案内にある。

鳥居忠政は徳川家康の忠臣で、三方が原の戦いや
長篠の合戦で功を挙げた武将である。
その子孫に鳥居 忱(とりいまこと)がいる。
鳥居 忱(とりいまこと)は藩の奨学生として、
大学南校(後の東大に当たる)に学んだ。
卒業後、音楽伝習生としてアメリカの教師メーソンに
洋楽を学ぶ。東京音楽学校の教授のかたわら、
多くの作詞を手がけた。中でも鳥居 忱作詞「箱根八里」は
滝廉太郎が作曲して、多くの人に愛唱された。
その鳥居 忱はここ江岸寺に眠る。(文京区教育委員会)

墓地に入ってお墓を探したが、見当たらなかった。

   残念!!




一富士 二鷹 三茄子(旧中山道を歩く 15)

2005年02月07日 20時56分20秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(一富士 二鷹 三茄子)
本郷通りをさらに進むと、
右側に吉祥寺が見えてくる。

武蔵野にある吉祥寺市には、
同名のお寺があるか(?)どうか知らない。

吉祥寺。

山門脇に案内板があり、次のように記されている。

「曹洞宗 諏訪山 吉祥寺
長禄2年(1458)太田道灌が江戸築城の際、
井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、
城内に(現在の和田倉門内)に一宇を設け、
「吉祥寺」と称したのが始まり。
大正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。
明暦3年の大火で焼失し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、
大寺院となった。
僧侶の養成期間として栴檀林(駒沢大学の前身)を持ち、
一千余名の学僧が学び、
当時の昌平坂学問所と並び称された。


古い塔堂、山門、
 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を残す。
経蔵、
 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。
          (文京区指定文化財)

墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家)
鳥居耀蔵(江戸南町奉行)
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治の政治家)
川上眉山(小説家)
(文京区教育委員会)

他に八百屋お七と吉三の比翼塚もここにある。
由緒ありそうな大きなお寺である。

(八百屋 お七と吉三郎の比翼塚)


(二宮尊徳の墓)


(榎本武揚の墓)

小田原の二宮町の二宮尊徳がここに骨を埋め、
函館の五稜郭で戦い、後に逓信相、農商務相、文部相、外相を歴任した、
榎本武揚のお墓が、ここにあるのは意外であった。

(吉祥寺の山門)


(古い経蔵)

山門、経蔵は見るからに年季の入った建物であった。

本郷通りへ出て、しばらく行くと、同じ右側に天祖神社がある。
この裏手に駒込病院があるが、この辺りには昔は鷹匠屋敷があった。

(天祖神社)

さらに進むと、やはり右側に富士神社がある。
この時代、江戸市民の間に冨士信仰が広く発生した。
旧五月になると、多くの富士講の人たちが、
冨士登拝の祈祷をするために、祭りを行った。
富士山山開きにあわせ、代参人を送り、
他の人は江戸の冨士にもうでた。
江戸には、模型の「お冨士さん」が出来た。

(冨士神社内の模型の冨士)


(駒込の冨士神社}

文京区内には「駒込のお富士さん」、護国寺の
「音羽のお富士さん」、白山の「白山の冨士」があった。

この頃、江戸の人口が膨らみ、主食の米は全国から
取り寄せたものの、野菜に不足して、
またこの「駒込の冨士神社」近くでは、野菜の栽培が奨励され、
各種の野菜が栽培された。特にナスは優れており、
「駒込ナス」として江戸市民に好かれた。

吉夢は「一富士 二鷹 三茄子」という川柳があるが、
鷹匠屋敷が近くの天祖神社の裏にあり、駒込ナスは名産で、
冨士神社があり、吉夢の要素が揃っていることから、

「駒込の冨士は二三も一と所」
という川柳もあった。

(駒込の冨士神社には、二番の鷹も三番の茄子も
一箇所にあると胸を張った庶民の心意気が感じられる。)

さらに北に進むと、六義園がある。
この庭園は、元禄15年(1702年)川越藩主
柳沢吉保が自ら設計指揮して完成した、
回遊式築山泉水庭園である。園は吉保の
文学的教養により作庭され、園名は古今和歌集の
序文に見える六義に因み命名され、園内88箇所の
名勝と共に元禄時代を代表する大名庭園である。


入場料600円(65歳以上は150円証明物が必要)であるが、
是非見ておきたい名勝である。


(六義園1)


(六義園2)


(六義園3)

道を左に折れて、旧中山道へ戻るがここでは国道17号と
同じ道路である。

JR巣鴨駅に近づく歩道上の左側の車道側に、
「徳川慶喜すがも屋敷跡」の石碑がある。
この一帯は、徳川慶喜が明治30年から四年間住んだ
場所であるが、JRの騒音を嫌って退去したという。

(屋敷跡の石碑)

そこから、少し行くとJRの線路をまたぐ巣鴨橋がある。
その橋を渡りきった左側に「ソメイヨシノ」の石碑がある。




目赤不動尊と一葉の恋人 (旧中山道を歩く 14)

2005年02月07日 20時54分22秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(目赤不動尊と一葉の恋人 半井 桃水(なからい とうすい))

 本郷通りを進むと、左側に南谷寺(なんこくじ)という名のお寺が見える。
門柱の石塔には、目赤不動尊と書いてある。

案内によれば、
「南谷寺(なんこくじ)の目赤不動は、もと動坂にあったが、
寛永のころ(1624~44)三代将軍徳川家光が
鷹狩の途中立ち寄り、目黒、目白に対して、
目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。」
(文京区教育委員会)

(目赤不動尊)

寺に立ち寄って見ると、
なるほど目の赤い不動明王が睨んでいる。

江戸には五色不動尊があることを始めて知った。
目黒区の目黒不動は有名で、よく知っていたが、
目白は山手線の駅があり、学習院大学があり、
よく知っていたが目白不動があるとは、
また、目赤があり、さらに目青、目黄にいたっては
不動尊があるとは夢にも思わなかった。

この目赤不動尊の由来は、比叡山南谷に名僧がおり、
不動明王を尊信すること昼夜不退に、精進を重ねたところ、
夢枕に、伊賀の国、赤目山に来るように告げられ、
訪ねると、“汝身命を惜しまず、信心深きゆえに、
この霊像あたうべし“と手のひらに、投げ入れ給うものあり、
それが不動明王の尊像であった。
赤目山を降り、比叡山南谷に安置した。
(目赤不動尊縁起 大聖山 東朝院 南谷寺)

ということらしいが、事実の程は不明。
キリスト教にも良くある奇跡みたいなものである。

さて、江戸五色不動は、
目赤は、かくいう文京区の 南谷寺、
目黒は、目黒区の 竜泉寺、
目青は、世田谷区 教学院、
目黄は、台東区の 永久寺、
または、江戸川区 最勝寺、
目白は、豊島区の 金乗院、(鬼子母神近く)
にそれぞれあるとのこと。
(ボクは目黒と今回の目赤しか訪ねたことがない)

この目赤不動尊のすぐ先に、
曹洞宗 繁栄山 養昌寺がある。

ここに、
半井(なからい) 桃水(とうすい)の墓がある。
「半井(なからい) 桃水(とうすい)は
万延元年~昭和元年(1860~1926)
対馬に生まれ、名は冽。 
桃(とう)水(すい)は号。別号に菊阿見あり。
共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、
新聞小説家として活躍した。
「天狗回状」など時代小説を著した。

 桃水(とうすい)は、樋口 一葉の師として、
また一葉の思慕した人として知られている。
墓は、墓地を突き当たったところにある。」
(文京区教育委員会)

ここで興味を引くのが、
樋口一葉の彼氏であったというところ。
教育委員会であるから、恋人だとか彼氏という表現を避けたのか?
あるいは、プラトニック・ラブであったことを表現したかったのか?
単に、片想いだけであったといいたかったのか?
(思慕した人)と表現せざるを得なかったか?

「たけくらべ」など名作を残した一葉は、
人間をよく知っていたはずであるから、
片想いでは終わっていなかったのではないだろうか?
八百屋お七のように、身悶えしてまでの
恋をしなかったのであろうか?
興味のあるところではある。

(半井 桃水の墓)

なお、お墓は、突き当たったところに無く、
墓地に入ったすぐの正面にある。
案内と違うので注意が必要である。




やっちゃ場跡 (旧中山道を歩く 13)

2005年02月07日 20時04分48秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
中山道を歩いて二日目。
 2004年3月31日(都営地下鉄「白山」から)

(やっちゃ場跡)
 「ほうろく地蔵」から白山上の五叉路の信号に出たら、
中山道は直進するが、信号を渡って先にある細い道を、
斜め右に入る。
この道は土物棚新道と呼ばれた道で、神田、千住に並ぶ
江戸の三大青果市場の一つで、幕府の御用市場であった。

道の先の本郷通りに出ると、右側が交番、左側に天栄寺があり、
門前に「駒込土物店跡」と「江戸三大青物市場遺跡」の石碑がある。

(駒込土物店の石碑)


(江戸三大青物市場跡の石碑)

案内によれば、
「初めは近郊の農家が、野菜を担いで江戸に出る途中、
天栄寺境内の“サイカチの木”の下で毎朝休むことを例とした。
すると、付近の人が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりという。
土地の人は“駒込辻のやっちゃ場”と呼んで親しんだ。
また、富士神社一帯は、駒込ナスの生産地として有名であり、
ナス以外に、大根、人参、ごぼうなど、土の付いたままの
野菜である“土物”が取引されたので土物店といわれた。
正式名は“駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは
“駒込青果市場”と改称した。街道筋にあった問屋は、
道路の拡張などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、
巣鴨の青果市場として現在も残っている。」(文京区教育委員会)

この本郷通りは、中山道とほぼ平行しているので、左に出れば
いつでも中山道へ出られる。
「富士神社」や「六義園(りくぎえん)」が、
この本郷通りに面しているので、
しばらくこのまま進むことにする。





八百屋 お七 (旧中山道を歩く 12)

2005年02月05日 04時06分52秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(八百屋 お七)

本郷追分を左折してしばらく進むと、誠之小学校前の信号があるが、
ここから白山一丁目の信号に出るまでの左側に、
三つの坂道が並んでいる。
手前にある坂(丸山新町と駒込西片町との境)には、
「胸突き坂」次に中坂があり、一番北側に浄心寺坂
(お七坂とも言う)がある。「胸突き坂は」都内23区に
四つあるが、そのうち三つは文京区にある。
文京区には、如何に坂道が多くあるかが判る。(文京区)


(胸突き坂)

俗に「胸突き八丁」と言うが、辞書を引くと、

「胸突き八丁」=〔広義では、物事の成就する手前の一番苦しい時を指す〕
とあるが、発祥はここの坂からでたようだ。

坂が急で道路が胸を突くような急な坂のことを言うらしい。
転じて、物事の成功前の一番苦しい時を言う。

なお、「胸突坂のすぐ南に誠之小学校がある。旧福山藩主から
敷地400坪を50年無償、校舎などの寄付を受けた。
この辺りは、福山藩の中屋敷があり、誠之館と名づけられた
江戸の藩校があった。四書の「中庸」にある
(之を誠にするは人の道なり)の誠之館から名をとり
学校名にした由緒ある小学校がある。」(文京区教育委員会)

中山道に戻り進む。白山一丁目の信号を左折する。
急坂を降りきる途中の右側に、天台宗 円乗寺がある。
ここが八百屋お七の墓がある所だ。
やや奥まったところにそのお墓はある。


(円乗寺)

「お七については、井原西鶴の「好色五人女」など
古来いろいろ書かれて語られて異説が多い。
お七の生まれは駒込片町で、かなりな八百屋であった。
天和の大火、天和2年(1682年)12月、
近くの寺院から出火で、お七の家が焼けて、
菩提寺の円乗寺に避難中、寺の小姓 吉三郎と恋仲になった。
やがて家は再建されて自家に戻るが、
お七は吉三郎に逢いたい一心で付け火をした。
家が燃えればまた菩提寺で吉三郎に逢えると考えたのだ。
女心が良く出ている。
当時放火は大罪(今でも大罪に変わりないが)で、
火あぶりの刑に処せられた。16歳であった。
三基の墓石のうち、中央がお寺の住職が建て、右側が寛政年間に
お七を演じて好評だった岩井半四郎が建て、左側は近所の有志が
270回忌の供養で建立したものである。」(文京区教育委員会)


(お七の墓は三基ある)

お七坂を下って真っすぐ進むと、白山下の信号に出るが、
直進すると登り坂になり、坂の頂上付近から下る右側に
林が見えてくる。東京大学付属小石川植物園、

(小石川植物園への案内看板)

通称小石川植物園に出る。植物園の中はかなり広く、
訪れるには弁当持参で一日がかりとなるので、
別の日に訪れるのがよいと思われる。

春の桜の時期がとてもよい。
桜だけで150種類はあり、あまり知られていないが、
ニュートンが「万有引力の法則」を発見するきっかけとなった
リンゴの木もある。
入場料は確か330円。

「元々は、徳川綱吉候が館林藩主であった頃の屋敷跡で、
将軍になってからは、薬草園となり、享保七年(1722)
「赤ひげ」で有名な小石川養生所になり、
享保20年には、青木昆陽が甘藷を試作した。
明治になって東京大学の付属植物園となった。

植物園の松の花さへ咲くものを
     離れてひとり棲むもみやこに

           若山 牧水(1885~1928)」

         (文京区教育委員会)

中山道に戻って少し進むと、右側に「ほうろくじぞう」大円寺を
朱書した石柱がある。

(大円寺の石柱)

「ほうろく」とは、素焼きの土鍋のことで、
戦前までは、豆を炒ったりするときに使った。
熱した焙烙(ほうろく)をかぶったお地蔵様は
自ら焦熱の苦しみを受けることで、
火あぶりの刑を受けた八百屋お七を供養しているという。
その後このお地蔵様は、頭痛、目、鼻、耳などの首から上の
病気を治すことで、霊験あらたかな地蔵として信仰を集めた。


(ほうろく地蔵)


(願いが叶ったお礼のほうろくの数々)

同寺の墓地の奥の奥に、幕末の砲術家 高島秋帆のお墓があり、
国史跡になっている。
高島秋帆は東京都板橋区の大湿地帯の徳丸が原を、
大砲の演習場とした。


(高島秋帆の墓)

昭和48年(1973年)この地をならし宅地造成し、
東京のマンモス団地となったが、この高島秋帆の
名をとって高島平とし、現在は4km四方に6.4万世帯が住む、
東京の一大ベッドタウンになっている。

ここを出て進むと白山上に出るが、「旧中山道を歩く」の
第一日目はここで終えたい。そして都営地下鉄「白山」駅で
帰路の着くことにした。 歩いて20km以上になった。


東京大学とその周辺 (旧中山道を歩く 11)

2005年02月01日 10時46分07秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(東京大学と中山道最初の一里塚)


(有名な東大赤門)

街道に戻り、正面の東大赤門をくぐってみよう。
赤門は文政10年(1827年)加賀藩主 前田齋泰(なりやす)に
嫁いだ十一代将軍徳川 家斉の息女溶姫(ようひめ)のために
建てられた御守殿門である。 と案内看板がある。

赤門をくぐると守衛所があるが、気にしないで奥へ進もう。
突き当たりの建物の左横にうっそうとした林が見られる。
その林の方へ下りていくと、夏目漱石の小説「三四郎」で
有名な「三四郎池」にでる。
なかなか見晴らしの良いところで、四季折々に、
季節の風景を描く画家や、写真を撮ろうと、
三脚を立てて光線の加減を待っている人に出会うこともある。


(三四郎池1)

(三四郎池2)

ここで一服したら、また街道へ戻り、歩を進める。東大正門前で
道路は二手に分かれる。いわゆる本郷追分である。
追分とは、街道と街道の分かれ道である。

直進すれば、将軍が日光東照宮に参拝する日光御成道
いわゆる(岩槻街道)で、左折すれば旧中山道に分かれる本郷追分。

本郷追分の二股の間には、江戸時代から続く老舗の高崎屋酒店がある。
高崎屋酒店は、両替商を兼ね「現金安売り」で繁盛していた。
                  (文京区教育委員会)
言ってみれば、昔のコンビニエンス・ストアだったのであろう。


(高崎屋酒店)

日曜・祝日でなければ、酒店は営業しているので中に入ってみよう。
江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵や昔の酒屋の立派な看板、
往時に使った徳利などを見ることが出来るし、
写真も撮らせてもらえる。
帰りにジュースか缶ビールなど求めれば良い。


(昔の高崎屋の看板)


(江戸時代に使用したと思われる徳利)


(江戸時代の高崎屋を描いた浮世絵)

その高崎屋の前に、昔は中山道最初の一里塚があったという。
「一里塚は、江戸時代街道筋に一里(約4K)ごとに
造られた塚である。荷駄の運賃の目安、道程の目印、
休息場所として、旅人に多くの便宜を与えた。
榎が植えられていたが、度々の災害と道路拡張によって、
昔の面影をとどめるものは無い。
分かれ道に在るので、追分一里塚とも呼ばれていた。
信長時代から一里塚はあったが、全国的に一里塚を設定したのは、
家康である。」(文京区教育委員会)

また、この辺りは、昭和40年頃までは森川町といった。
「江戸時代は森川宿と称し、明治5年には高崎藩主
本多氏の屋敷地と、先手組屋敷と併せて森川宿から
森川町と名づけた。当時は馬建場で人馬の休息場所であった。
先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備に当たったという。
町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。」(文京区)


(森川町の案内)